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4章「臆病だね、君は」
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しおりを挟むそれは何度も何度も繰り返し目に焼き付けた、私にとって特別な絵。
けれど、その絵を描いた本人は、きっと私が今どんな思いでユイ先輩の言葉を聞いているのか考えもしないのだろうな、と思う。
「だから、正直、今の俺の立場って複雑で。死んだ母からの贈り物だと思うべきか、一種の呪いだと思うべきか、当時はわりと悩んでたはずなんだけどね。答えが見つからないうちに、なんかどうでもよくなっちゃった」
「……両極端、ですね。贈り物と呪いなんて」
ユイ先輩にとっては、他人から評価されることも、さして重要ではないのだろう。
それは私がこの一年半の間、時間が許す限り、先輩の隣で絵を描き続けて感じたことだった。先輩は、第三者の目なんて意にも介していないのだ。
コンクールで金賞を受賞することにこだわってきた私とは、根本的に違う。
「……でも、やっぱり、ユイ先輩はすごいです。本当に、いつだって絵に対して真摯で。だからこそ、先輩の絵はあんなにも綺麗で確立されているんでしょうね」
おそらくユイ先輩は、金賞自体になんの価値も見出していない。先生から促されて出していただけで、そこで結果を残そうとは、はなから望んでいなかった。
それゆえに、私は、いつまでもユイ先輩に追いつけない。
そしてきっと一生、同じ世界を見ることは叶わない。
どれだけ恋焦がれようとも、欲にまみれた私は、彼の隣には並べない。
「君も絵を描く人だから、わかると思うけど。俺たちは結局、どんな境地に立たされても、そのとき見えているものしか描けないでしょ」
「……視覚的なことじゃなくて、内的なことですよね?」
「そう。心で見えているものの話」
視覚で捉えたものを写実的に描き起こす画家も、もちろん少なくない。同じ色、同じ形を辿り、それを写真のように残す。無論それも幾多ある描き方のひとつだ。
けれど、たとえ同じ対象を描いていても、まったく表現が異なる場合がある。水彩画や鉛筆画、という区分の問題ではなく、そもそも描かれているものが違う場合だ。
それは決して、捏造や妄想という言葉で片付けられるものではない。
本当にそう見えているのだ。心の目で写し取ったものを描いているだけの話。そこに差異が生まれるのは当然で、むしろだからこそ『画家』という。
「だから俺は、鉛筆画を描いてる。見えてるものを、ただ描いてるだけなんだ」
「っ……もしかして本当は、色彩画を描きたいんですか?」
「どうだろう。わからない。でも、見えているものは描きたいと思うよ」
後半は少し意味深につぶやいてから、ユイ先輩はこちらを振り返った。
いつの間にか深海魚エリアが終わり、次のエリアへ移っていた。わずかに明るさを取り戻した館内は、しっとりとした閑散さを孕んで、静かに私たちを包みこむ。
「まあこの水族館と一緒で、鑑賞側には正直こっちの心情なんて関係ないからさ。人の目に触れるコンクールとかに限っては、たんに学生の鉛筆画が珍しいっていうのもあるんだよ。技術的な面の評価はあるかもしれないけどね」
「そんなこと……っ、そんなことないです!」
思わず私は声を張り上げていた。
拒絶するようにユイ先輩の手を離して、胸の前でぎゅうっと強く握る。爪が手のひらを裂きそうなくらい食い込むけれど、痛みは感じない。
痛いのは、心だ。
痛覚が完全になくなりかけていることを忘れてしまいそうなくらい、痛い。
「色があろうがなかろうが、関係ありません。ユイ先輩の絵はそれ以上の……なんというか、上手く言えないけどっ、先輩にしか表せない世界があるんですよ」
写真でもなく、自らの手で描き残すことにこだわるのは、その世界を自分しか描き出すことができないから。世界中、他の誰にも真似ができないものだからだ。
「……俺にしか、表せない?」
「そうです。先輩の世界は──あの、泡沫みたいな。この世のなによりも澄んでいて、まるで浄化されるような美しさを孕んでいるのに、なぜか消えてしまいそうで目が離せない。そんな世界なんです」
初めてユイ先輩の絵を見たときに受けたあの衝撃は、忘れられない。
この世のすべてを涙で飲み込んでしまいそうなくらい、それは悲しさで溢れていた。
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