モノクロに君が咲く

琴織ゆき

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4章「臆病だね、君は」

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 つまり、夏休み中の課題ということだろうか。

「ち、ちなみに、どこへ?」

「水族館」

「水族館!?」

 またしても、思いもよらない返答だった。
 ポカンとする私に、隣の愁がどういうことだと言わんばかりの視線を向けてくる。
 知らない。私の方が聞きたい。本当に、どういうことなんだろう。
 立ち尽くす私の手を、まるで当然のように取ったユイ先輩は、細身の腕時計で時刻を確認する。それもやはり銀製のもので、改めて先輩のこだわりが窺い知れた。

「二駅だからそこまで遠くないし、駅と水族館も直通してる。館内をのんびり見て回るくらいなら、問題ないよね……?」

「……まあ……」

「よかった。ちゃんと手は繋いでおくから、安心して」

 いやいやいやいや、と内心大パニックになっている私を差し置いて、愁は苦々しい顔をしながらも首肯した。そこで納得するのはおかしいのではないだろうか。

「せ、せんぱ……手、手は、大丈夫ですから!」 

「なんで」

「なんで!?」

「嫌?」

 さすがに狼狽えて、金魚のように口をパクパクさせてしまう。
 そんなわけがない。嫌なわけがない。
 好きな人と手を繋げるなんて美味しい状況、いっそ土下座してでも続けたい。それほど夢にまで見たし、本心のところでは拝んででも甘えてしまいたいと思う。

「嫌じゃないなら、このまま繋がせて。俺はわりと……その、結構ぼーっとするときがあるでしょ。こうして手を繋いでいた方が、君を見失わなくて安心する」

 ああ……と、なんとも納得してしまう理由だった。
 たしかにユイ先輩は、とりわけ絵が関することになると、意識が四方八方に散在しがちになる。むしろ自覚があったという方が驚きだ。

「まあ、なんかいろいろ不服ではあるけど、そっちのが安心ならそうすれば」

「しゅ、愁」

「ほら早く行きなよ。おれは本屋寄って帰るからさ」

 じゃあね、とひらひら手を振って、自分の役目は終えたとばかりに元来た道を戻っていく愁。
 あんなに不機嫌そうだったくせに引き際は弁えているあたり、まったくもって中学生らしくない。行かないでと泣き喚いてくれた方が安心するくらいだ。

「優しい弟くんだね」

「え、あ、はい。本当、私の弟とは思えないほどいい子なんですよ」

「君の弟だから、いい子なんでしょ」

 え、と聞き返す間もなく、ユイ先輩が私と手を繋いだまま駅に向かって歩き出す。
 引かれて踏み出した足のまま、私はおずおずとその横顔を見上げた。
 シミひとつない陶器のように綺麗な肌。けれど、左の目元に小さく置かれた黒子がどこか色っぽさを醸し出している。影を落とすほどの長い睫毛も、薄い唇も、癖のない銀色の髪も、筆舌に尽くしがたいほど魅力に溢れていた。
 この人を描いたらどんなに楽しいだろう、と血が騒ぐ。
 いったいどう趣向を凝らしたら、私の世界に映る先輩を表現できるのか。
 正直、この見たままの姿を、一枚の写真のように描き起こすことは容易い。
 でも、それではだめなのだと本能が言っている。
 足りないのだ。なにかが、決定的に。私はずっと、そのなにかがわからない。

「具合が悪くなったりしたら、すぐに言って。我慢とかしないでいいから」

「は、はい」

 本当のところ、ユイ先輩はどこまで知っているのだろうと考える。
 あれほど派手に倒れて、病院まで付き添ってくれたのだ。先生から直接話を聞いていないにしても、なにかしらは耳にしてしまっている可能性の方が高い。
 それでもなおこうして一緒に出かけてくれているのなら、少なくとも今の時点で私と距離を置こうとは思っていないと考えてもいいだろうか。
 なら、と、私はひとり顔を綻ばせた。
 ──どうせなら、最後を満喫しよう、と。
 ユイ先輩と、好きな人とふたりきりで出掛けられるなんて、滅多にないチャンスなのだから。

「先輩、今日楽しみましょうね」

「ん」

 なぜか少し照れたようにうなずいたユイ先輩に、くすりと笑う。
 先輩の隣に並びながら、ふと、まるで夢のなかみたいだなと思いながら。
 だって、こうして手を繋いで歩いていると、まるで本当のカップルみたいだ。
 けれど、今日が終わってしまえば、きっと夢は覚めるのだろう。
 ならば覚める前に、この非現実的な一日を心ゆくまで謳歌しなくては。

「足元、気をつけて」
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