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3【発情期】
3-1 変化
しおりを挟む1泊2日の慰安旅行が明けると会社は次第に繁忙期へと突入する。
昼食もまともにとれないほど会議がたてこみ、その準備で秘書課チームも忙しない日々を過ごしていると、あっという間に週末を迎えていた。
旅行帰りの車内で言われた楓珠さんの言いつけ通り、次の日も特別に休みをいただいた僕は楓真くんと共に長年通い慣れたΩ専門の精神科へ定期検診へ行っていた。そこでおこなった数々の精密検査の結果が、明日土曜に出る。
「つかささん、結果明日ですよね。朝迎えに行きますね」
なんとか仕事の合間を縫ってデスクで軽くとった昼休憩。コーヒーくらいは、と給湯室へ向かった廊下で社長室の方からやって来る楓真くんとばったり出会い、2人並んでコーヒーをいれていた。
「でも、楓真くんの休みに申し訳ないし……」
「約束したでしょ?どんな検査でも絶対一緒に行くって。それにつかささんだけの事じゃなくて俺の事でもあるし」
「……うん」
楓真くんはかわらず優しい。なのに、
「楓真くん」
「ん?」
そっと握った手を、やっぱり、握り返してくれない。
この一週間で変わったことがある。
まず、元々得意ではなかった人混みが劇的に無理になってしまった。いろんなフェロモンが混ざり合う密閉密集密接は気持ち悪さと目眩がダイレクトで襲ってくる。相変わらずフェロモンを察知し感じる事はできないのに、身体でそう反応を起こしていればある意味フェロモンを感じているのではないかと自嘲してしまう。
そして、それに伴う食欲低減。常に気持ち悪い状態が腹の底をぐるぐるし、固形物を受け付けられなくなりつつあった。
最後は僕ではなく、楓真くんの変化。
楓真くんが触れてこなくなった。
いつもはそこが定位置と言わんばかりに肩や腰に回されていた腕が、今はずっと楓真くんの身体の横にいる。
僕から触れれば避けられることはなくても、決して触れ返してはくれない。
今も、コーヒーを持つのとは逆の空いた手にそっと指を絡ませ反応を見ても、一切力が入らずされるがまま。いままでならニコニコ嬉しそうにぎゅっと握り返してくれていたのに……。
「つかささん?どうかしました?」
「んん。なんでもない」
滲みそうになる視界をさっと下げ、俯いたまま手を離せば御手洗行ってくるねと楓真くんの静止を受ける前に早足でその場をあとにする。
秘書課と同じフロア内にあっても人があまり使用しない場所に位置するトイレの一番奥の個室。そこが最近の僕の逃げ場所となっていた。
「げほっ、ゴホッゴホッ――、」
吐きたくても吐き出すものがないカラッポな胃を刺激するため無理やり指を突っ込み刺激する。
手の甲には着々と吐きダコができつつあった。
「ぅ、うぅ……」
ボロボロ溢れる涙は気持ち悪さからくるものなのか、それとも変わってしまった楓真くんの態度への哀しみなのか――
スーツが汚れることなど気にもとめず狭い空間の壁へもたれかかりズルズルと座り込んでしまう。
どれくらいそうしていたのか、飛ばしかけた意識をはっと戻し、時間を確認する。
「……はぁ、戻らなきゃ」
よろける脚に力を入れ立ち上がれば、くらっと強い立ちくらみ。過去最高に日々刻々と弱っていくことを実感している。
それでも仕事はたっぷりある。僕の事情で甘えるわけにはいかない。
幸いにも明日は検査結果を聞きに病院へ行く日だった。そこで栄養剤でも出してもらおう、そう自分に言い聞かせ、残りの業務を頭に浮かべながら仕事へと戻っていく。
「……せんぱぁい…顔色最悪ですよ」
「……え?」
勤務時間はとうに過ぎ去り短針が9を指そうとしている頃、秘書課チーム全員が週末に向け残りの業務をこなしていた。
それもあと少しで終わりが見え始めた頃、花野井くんの言葉がみんなの視線を集中させた。正確に言うと僕の顔へ。
「おい橘、体調悪いなら言え無理すんな」
「週明けの会議資料ならもう大丈夫ですよ目処つきました」
続けて水嶋さん、瀧川くんまで気にかけてくれる。優しいチームに感謝を感じながら、あと少しなのでと仕事を続けようとすると横から伸びてきた花野井くんの手にマウスが勝手にスリープボタンへ移動していく。
「花野井くん?」
「もう楓真くんにお迎え頼んじゃったので先輩は強制帰宅です」
「えっ」
「旅行で滑って転んで病院行ってから先輩のコンディション最悪すぎです!今日はもう帰って週末ゆっくり休んでください」
はい!鞄!と僕の通勤鞄を手渡される。
実は花野井くん達には本当の事を知らせていなかった。慰安旅行で別行動となりさらに次の日の欠勤理由を水嶋さんは僕が露天風呂で滑って転んだ、と2人に説明してくれていた。
だから楓真くんとの微妙な距離の事も知らない。
きっと来てくれるはずがない……そう思っていると、コンコンとノックされる扉。
「つかささん?帰れますか?」
ひょこっと顔を出す楓真くんと目が合うとふわっと優しい微笑みを向けられた。
信じられないものを見た気持ちで目を見開いてしまう。
……迎えに、来てくれた。
「楓真、さっさと橘連れてけ」
「うん。行こっか、つかささん」
すぐ目の前まできた楓真くんに持っていた鞄をすっとぬかれ、その代わり空いた手をぎゅっと握り引っ張られる。
「――っ、」
「先輩お疲れ様です~」
「お疲れ様です」
「おつかれさん~」
「っ、みなさんすみません、あの、お先に失礼します」
引っ張られながら後ろを振り返り、閉まりかけるドアにギリギリで挨拶を送る。
パタンと閉じる扉。
暗い廊下に手を繋いだ楓真くんと僕の2人きり。
久しぶりに楓真くんから触れてきてくれた――この手を離したくない。
もう片方の手で繋がる腕をぎゅっと抱きしめスーツの肩に額をとんっと寄せる。
じんわり滲む涙をぎゅっと噛み締めた。
「つかささん?どうしたのなんかコアラみたい」
「んん……なんでもない、なんでもないよ」
帰ろっか、そう呟くこの時がここ最近で一番穏やかな瞬間。
ずっと居座り続ける気持ち悪さも身体の不調も何もかも忘れ、2人並んで暗い廊下を歩んで行った。
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