【完結】暁のひかり

ななしま

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噂と嘘

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「先生は素敵な人と結婚して、子どもが3人くらいいて、出世していつか校長先生になって……先生はそういう風になる人です」
「そんな押しつけがましいこと、今どき親だって言わないよ」
「でも、本当のことです」

 わざとからかうように答えても、ニコの態度は変わらない。差し迫った声と眼差しにぞわぞわと胸騒ぎがしてくる。

「僕は普通の家庭で育つことも、結婚して子どもをもつことも、もうとっくの昔に諦めてます。でも笹原先生ならできる。僕が憧れていた幸せを、先生は手を伸ばせばすぐに掴めます」

 そんなものいらないニコが欲しい、と叫びたくなる気持ちをどうにか抑えた。少しでも彼を傷つけたら、今まで築いてきた関係が粉々に砕けてしまいそうだったから。

「ニコが僕と離れて幸せになれるなら、それでもいいよ。僕だってニコの将来の邪魔したくない。僕よりも、もっとふさわしい人がいるんじゃないかって思ったこともある」
「だったら先生……」
「でも僕をずっと好きだったって言ってくれた言葉は嘘じゃないよね? そばにいてくれるって約束してくれたのに?」

ニコを見てると切なくなる、そばにいると触れたくなる。ただそれだけのにどうして一緒にいられないのか。考えるだけで頭の芯が酔ったように揺れる。

「だって、千秋先生と噂になっただけもこんな騒ぎなんですよ。万が一僕との関係が知られて、先生が学校にいられなくなったらどうするんですか。僕は……先生が先生でいて欲しいんです。先生は、先生じゃなきゃ駄目なんです!」
「そんなのただの考えすぎだって」

 身体を震わせ興奮するニコに、何を言っても届いていないみたいだった。

「僕は先生にふさわしくない……だから前に戻してください。僕が告白したことは忘れてください。ただ片想いしていただけの頃の先生に、戻って……そうしたら先生は千秋先生と付き合うでしょ?  そうすれば誰も傷つかないから」

「もういいって、 もう無理なんだよ」
「先生の未来を僕が汚したら駄目なんです」
「僕はとっくに覚悟してるよ。君のために全部失ってもいい、全部捨ててもかまわないって、それぐらい覚悟してる!」

 怒声に驚き後ずさりする彼の肩を掴んで、背中を壁へと押し付けた。鈍い衝撃音と共に、棚が微かに揺れて埃が舞う。

「僕は本気だよ?  これだけその気にさせておいて。これ以上僕を傷つけてどうするの?」
「先生っ、まっ……て、誰か来たらどうするんですか……」

 ほとんど泣いているニコの声が、耳元を通り過ぎていく。

「そんなに僕から離れたいなら、嫌いにさせてあげる」
「やだ、やめてください……や、ぁっ」

 言葉を遮るように唇を塞いだ。
 そのまま貪るように差し入れた舌先で、逃げ惑うニコの細い舌を捕らえる。そのまま彼の柔らかな口内を蹂躙した。

「やっ……!」

 ニコは歯を食いしばりイヤイヤするみたいに首を振る。離された唇を、再度強引に奪った。もう彼は一切の抵抗をやめた。

 それは冷たいキスだった。
 抵抗もしない、震えてもいない、なんの反応もなかった。身体の力は抜けきってまるで人形かマネキンにでもキスしてるよう。

 何もかもどうでもよくなるくらい魅力的な彼との口づけも、今となってはなにもかもが虚しい。

――なんて馬鹿なことを。
 自分の欲だけで彼を犯していたことしていたことに気づき、恐ろしくなって身体を離した。

 ニコは息を吹き返したように、肩で荒く息を吸った。垂れている唾液を拭おうともしない。ただじっと目を閉じて嵐が去るのを耐えているみたいだった。

 笹原は掴んでいた両手をようやく離した。

「……謝らないよ」

「謝る必要なんて、ありません」

「ほんとにいいんだね」

「こんなこと先生らしくない。先生とは……付き合えないんです」

 付き合えない――その一言で、すべてが決まった。

「もう何もしないよ。でも僕はニコのこと本気だった。それだけは信じて欲しい」 

「先生はなんにも悪くない。先生は……先生の幸せを見つけて」

 ニコの唇の端が小刻みに震えている。

「悪かったね、仕事の邪魔して。もう……来ないから」

 笹原は振り返らずに部屋を出た。

 校庭にはもう誰もいなかった。氷の塊のような冷え切った校舎にチャイムの鐘が冴え渡る。

 何千回も聞いているはずなのに、こんなに哀しげに聞こえる鐘の音は生まれて初めてだった。

  職員室に戻らないとという意識だけはあったのに、どうやって歩いて帰ったのかどうしても思い出せない。

 あとからあとから湧いてくる後悔に、自分のことながら反吐が出る。泣きすがってでもニコのそばにいたいと、あの時そう伝えればよかったんだ。

 今さら後悔してももう遅い――。
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