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第8章 さよならが言えなくて
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卒業式まであと一週間。
この学校の卒業生は21名と少ないけれど参列者は多い。当日は卒業生と在校生、保護者だけでなくお世話になった地域の方も参加するのが恒例となっていた。
今日は授業後も体育館に残って6年生が答辞の練習をしていた。この学校では全員がひとりづつ答辞を読むのが習わしらしい。子ども達の熱のこもった声に、ニコは足を止め聞き入っていた。なんだか切ない気持ちがこみ上げてくるのは、自分自身もこの学校を離れるからだろうか。
笹原先生と千秋先生の結婚の噂は最初がピークだったらしく、次第にたち消えてしまった。その代わりに保護者の話題に上がっているのは、千秋先生が他の小学校へ異動するという話と、笹原先生が教務主任になるという噂だった。
たしかに笹原先生は以前にも増してさらに忙しくなったようだ。どんなに自分が遅くまで残業して帰っても、先生の車は真っ暗な駐車場にぽつんと置かれたままだ。先生は自分の進むべき道へと邁進していて、どんどん遠い存在になっていく。
つながりってこんなに簡単に断ち切れるんだ。
先生から離れると決意したのは自分の方で、未練がましく想い続けるなんて間違いだって分かってる。
先生は自分なんていなくてもひとりで生きていける。でも、なんにも役に立たなくても、先生の人生の片隅で生きていたかった。そばにいたかった。でもそれはできないことなんだと、湧き起こる感情を何度も追い払った。
これで良かったんだと思える日が来るのを信じている。それに学校を辞めれば先生と会うこともない。新しい仕事に全力を注げば、きっと忘れられる。だからこれからは自分のことを考えなきゃ。
ニコは児童玄関前の広場を通り抜け、倉庫へと向かっていた。足元には野花や野草が生き生きと葉を伸ばしている。
ふきのとうはとっくに芽を出して花を咲かせていた。そろそろつくしが出てくる頃だろうか。春はあっという間に巡ってきて、どこもかしこも明るい陽が燦々と降り注いでいる。
去年の春、先生と一緒に耕した畑は収穫が終わってから使われていない。気温が上がるとともに、一面に草が生え揃ってしまっていた。4月からもまた畑として使えるように耕しておかないと。草も小さいうちに抜いておかなきゃと、ニコは地面にしゃがみこんだ。
「ニコ、また草取りしてるの?」
「……つい、癖で」
千秋先生が半分呆れたような顔でのぞきこんでいた。手には楽譜を抱えている。音大出身の彼女は、卒業式で子ども達が歌う曲のピアノ伴奏を担当している。音楽室で練習してたのだろうか、音楽室は3階にあるからここまで音は届いてはいなかったけれど。
千秋はちょっと休憩しようといいながら、倉庫へと向かうニコの後ろを付いてくる。最近、千秋は倉庫へ寄り道することが多くなっていた。最初は用事があって来ていたのだが、ここは人がいなくて気楽で居心地がいいと居座るようになってしまった。
「なんだか気が抜けちゃって。この学校を去る者同士、せいぜい仲良くしてよ」
ほんとは分かっていた、笹原先生と別れると決めた自分を心配してくれてるんだということに。彼の将来のために身を引いたことを彼女はすべて分かっていた。今の自分には、そのさりげない思いやりがありがたかった。黙々とひとりで仕事していると、すべてが崩れ去っていくような気持ちに沈むことがあるから。
笹原先生が教務主任になるという話も、絶対内緒だからね、と念を押しながらも最初に教えてくれたのは千秋だった。先生は偉くなるのかと尋ねると、別に出世するわけじゃないよ、と不意に真面目な表情になる。
「まあでも教頭の次のポジションってことは確かね。いずれ管理職になることを頭の隅に置いておくくらいのことは、しなきゃいけないけど」
「やっぱり偉くなったんだ」
冗談っぽくニコが笑うと、千秋は思い出したように声を高めた。
「あ、そうそう。私、彼氏できたから」
驚くニコに、千秋はちょっと誇らしげに胸を張る。
早川先生と参加した飲み会で知り合った人で、相手は高校の物理の先生だという。最初は教師なんてもうこりごりと拒否していた。けれど猛烈にアピールされてしかたなく会っているうちに、だんだんと仲良くなっていったのだという。
「わがまま言っても、文句言っても全部笑って許してくれる、変な人」
「めちゃくちゃ惚れられてるじゃないですか」
何言ってんの、と怒りながらまんざらでもない様子の千秋がなんとも微笑ましくて、こちらまであったかい気持ちになる。
「ニコはどうなの? もう平気?」
「平気です。落ち込むなんてそんな権利、僕にはありませんから」
ハハッっと千秋は乾いた笑いを浮かべた。
「ニコの嘘つき。馬鹿ね、ほんとに。ニコの大バカ。あんたのせいで笹原先生は……元気なかったわ」
先生の名前を聞くだけで、ずきんと心が痛む。でも自分で出した答えを覆す理由はなくて、いつかこれで良かったんだと思える日を願うしかないんだ。
「……先生はみんなから祝福されて幸せになって欲しい。そう願うのはいけないことですか。先生は僕といる限り幸せにはなれない。そうでしょ?」
「幸せかどうかなんて、どうしてニコが決めるの? そういうの、決めつけるって言わない? 本当に笹原先生に確かめたの?」
ニコは千秋の言葉の意味をひとつひとつ噛み締めていた。それは苦いけれど、自分のために言ってくれてると分かっていたから。
「あの人、私にはいつもやさしかった。本当の彼を知りたくても、一番触れたいところに触れさせてはくれなかった。ニコはどう? 笹原先生は内面までさらけ出してくれた?」
――君のために全部失ってもいい、全部捨ててもかまわないって、それぐらい覚悟してる!
先生は、先生の幸せを見つけて――。
あの人の柔らかなところに、真正面から切りつけたのは自分で。傷口からは血がほとばしり出ていたのに、何もせずに逃げたんだ。
「僕は先生をこれ以上ないくらい傷つけた。もう後戻りなんてできません――……」
唇の端を噛むと、じわりと鉄みたいな味が広がった。
この学校の卒業生は21名と少ないけれど参列者は多い。当日は卒業生と在校生、保護者だけでなくお世話になった地域の方も参加するのが恒例となっていた。
今日は授業後も体育館に残って6年生が答辞の練習をしていた。この学校では全員がひとりづつ答辞を読むのが習わしらしい。子ども達の熱のこもった声に、ニコは足を止め聞き入っていた。なんだか切ない気持ちがこみ上げてくるのは、自分自身もこの学校を離れるからだろうか。
笹原先生と千秋先生の結婚の噂は最初がピークだったらしく、次第にたち消えてしまった。その代わりに保護者の話題に上がっているのは、千秋先生が他の小学校へ異動するという話と、笹原先生が教務主任になるという噂だった。
たしかに笹原先生は以前にも増してさらに忙しくなったようだ。どんなに自分が遅くまで残業して帰っても、先生の車は真っ暗な駐車場にぽつんと置かれたままだ。先生は自分の進むべき道へと邁進していて、どんどん遠い存在になっていく。
つながりってこんなに簡単に断ち切れるんだ。
先生から離れると決意したのは自分の方で、未練がましく想い続けるなんて間違いだって分かってる。
先生は自分なんていなくてもひとりで生きていける。でも、なんにも役に立たなくても、先生の人生の片隅で生きていたかった。そばにいたかった。でもそれはできないことなんだと、湧き起こる感情を何度も追い払った。
これで良かったんだと思える日が来るのを信じている。それに学校を辞めれば先生と会うこともない。新しい仕事に全力を注げば、きっと忘れられる。だからこれからは自分のことを考えなきゃ。
ニコは児童玄関前の広場を通り抜け、倉庫へと向かっていた。足元には野花や野草が生き生きと葉を伸ばしている。
ふきのとうはとっくに芽を出して花を咲かせていた。そろそろつくしが出てくる頃だろうか。春はあっという間に巡ってきて、どこもかしこも明るい陽が燦々と降り注いでいる。
去年の春、先生と一緒に耕した畑は収穫が終わってから使われていない。気温が上がるとともに、一面に草が生え揃ってしまっていた。4月からもまた畑として使えるように耕しておかないと。草も小さいうちに抜いておかなきゃと、ニコは地面にしゃがみこんだ。
「ニコ、また草取りしてるの?」
「……つい、癖で」
千秋先生が半分呆れたような顔でのぞきこんでいた。手には楽譜を抱えている。音大出身の彼女は、卒業式で子ども達が歌う曲のピアノ伴奏を担当している。音楽室で練習してたのだろうか、音楽室は3階にあるからここまで音は届いてはいなかったけれど。
千秋はちょっと休憩しようといいながら、倉庫へと向かうニコの後ろを付いてくる。最近、千秋は倉庫へ寄り道することが多くなっていた。最初は用事があって来ていたのだが、ここは人がいなくて気楽で居心地がいいと居座るようになってしまった。
「なんだか気が抜けちゃって。この学校を去る者同士、せいぜい仲良くしてよ」
ほんとは分かっていた、笹原先生と別れると決めた自分を心配してくれてるんだということに。彼の将来のために身を引いたことを彼女はすべて分かっていた。今の自分には、そのさりげない思いやりがありがたかった。黙々とひとりで仕事していると、すべてが崩れ去っていくような気持ちに沈むことがあるから。
笹原先生が教務主任になるという話も、絶対内緒だからね、と念を押しながらも最初に教えてくれたのは千秋だった。先生は偉くなるのかと尋ねると、別に出世するわけじゃないよ、と不意に真面目な表情になる。
「まあでも教頭の次のポジションってことは確かね。いずれ管理職になることを頭の隅に置いておくくらいのことは、しなきゃいけないけど」
「やっぱり偉くなったんだ」
冗談っぽくニコが笑うと、千秋は思い出したように声を高めた。
「あ、そうそう。私、彼氏できたから」
驚くニコに、千秋はちょっと誇らしげに胸を張る。
早川先生と参加した飲み会で知り合った人で、相手は高校の物理の先生だという。最初は教師なんてもうこりごりと拒否していた。けれど猛烈にアピールされてしかたなく会っているうちに、だんだんと仲良くなっていったのだという。
「わがまま言っても、文句言っても全部笑って許してくれる、変な人」
「めちゃくちゃ惚れられてるじゃないですか」
何言ってんの、と怒りながらまんざらでもない様子の千秋がなんとも微笑ましくて、こちらまであったかい気持ちになる。
「ニコはどうなの? もう平気?」
「平気です。落ち込むなんてそんな権利、僕にはありませんから」
ハハッっと千秋は乾いた笑いを浮かべた。
「ニコの嘘つき。馬鹿ね、ほんとに。ニコの大バカ。あんたのせいで笹原先生は……元気なかったわ」
先生の名前を聞くだけで、ずきんと心が痛む。でも自分で出した答えを覆す理由はなくて、いつかこれで良かったんだと思える日を願うしかないんだ。
「……先生はみんなから祝福されて幸せになって欲しい。そう願うのはいけないことですか。先生は僕といる限り幸せにはなれない。そうでしょ?」
「幸せかどうかなんて、どうしてニコが決めるの? そういうの、決めつけるって言わない? 本当に笹原先生に確かめたの?」
ニコは千秋の言葉の意味をひとつひとつ噛み締めていた。それは苦いけれど、自分のために言ってくれてると分かっていたから。
「あの人、私にはいつもやさしかった。本当の彼を知りたくても、一番触れたいところに触れさせてはくれなかった。ニコはどう? 笹原先生は内面までさらけ出してくれた?」
――君のために全部失ってもいい、全部捨ててもかまわないって、それぐらい覚悟してる!
先生は、先生の幸せを見つけて――。
あの人の柔らかなところに、真正面から切りつけたのは自分で。傷口からは血がほとばしり出ていたのに、何もせずに逃げたんだ。
「僕は先生をこれ以上ないくらい傷つけた。もう後戻りなんてできません――……」
唇の端を噛むと、じわりと鉄みたいな味が広がった。
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