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噂と嘘
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次の日の下校後、笹原は溜まっていたテストの丸つけと日記のコメント書きに追われながら、ふと窓の外を見上げた。
2階の職員室の窓からのぞくケヤキ並木が、空っ風に吹かれて揺れている。生い茂っていた枝が払われ、ずいぶんと風通しがよくなっていた。いつの間に剪定したのだろう。
まだ裸の枝はぎゅっと固く縮まって寒さに耐えていた。待望の春が来れば一斉に芽吹き、若葉で華やかに彩られるだろう。
結局、昨日ニコからの返事はなかった。電話もしてみたが出ない。そもそも仕事では、教員と校務員は用事がなければ接点がほとんどないということに気づかされる。約束をさっそく破ることになるけど、あとでニコを探しに行こう。そんなことをぼんやりと考えながら頬杖をついていた。
「さっぱりしたでしょ。やっぱりプロの庭師はいい仕事するよねえ」
驚いて振り返ると、教頭がいつの間にか笹原の後ろに立っていた。満足気な表情を頬に浮かべて。
庭木の剪定と洋ランの育成が趣味だという教頭は、ニコの庭師としての腕を認めている人のひとりだ。趣味が高じて、入学式や卒業式には壇上に飾るために、豪華に咲いたランの鉢植えや切り花を持ってくるほどの力の入れようだ。
「仁科君、春までにこの学校の植木、全部手入れするって意気込んでたから」
学校の敷地内には桜やケヤキを始め、様々な樹木が植えられている。どれも木が古く、山の緑とほぼ同化して荒れているものも多い。
ニコは学校に来た初日から、山桜の病気の枝を見つけ出すほど植木に目が利いた。彼のおかげで今年も見られるだろうか、散りこぼれる桜の花を。
「これで今年の剪定は安泰だけど、来年度はどうなるか。また良い人が来てくれるといいが……」
一瞬、教頭の言葉に耳を疑った。
「え、彼、辞めるんですか?」
「来年度の更新はしないってさ。ずいぶん引き止めたんだけどねえ」
「どうして辞めるんです」
「さぁね、はっきりとは聞かなかったけど。なんせまだ若いから、やりたいこと色々あるんじゃない?」
ニコが学校を辞める――その事実だけで彼に会いに行く理由には十分で。笹原は慌てて職員室を出ようとしたが、すぐさま教頭に呼び止められた。
「それより笹原先生、折り入って話があるんだけどちょっといい?」
教頭がいつになく真剣な顔を向けてきた。だが走り出したい気持ちを抑えることは……できなかった。
「用事を済ませたら、すぐに戻ります!」
教頭の返事も聞かずに、職員室を出て廊下を足早に抜ける。ちらりと腕時計に目をやると、4時を過ぎていた。
職員室のすぐ下にある倉庫には人影がなかった。児童玄関の前を通って体育館へと回ってみたが、子ども達がドッジボールをしているだけでニコの姿はない。校庭を横切って校舎へと戻る途中、外の体育倉庫の扉が開いているのに気づいた。
「……ニコ?」
それほど広くもない部屋にはさまざまな運動器具がひしめきあっている。手前に子ども用の一輪車が4台横並びに収納する器具が置かれ、ニコはその前で一輪車を抱えて座っていた。
「先生……どうしたんです? 急用ですか」
ただならぬ笹原の気配に、ニコは顔を上げ作業の手を止めた。いくらか緊張しているかのようにおびえた目つきをしている。
「教頭先生から聞いた。3月で辞めるって本当なのか?」
「あの……」
校庭で遊ぶ子どもたちの歓声がここまで届いてくる。陽が差し込むドアを、笹原は後ろ手で閉めた。薄暗くなった部屋の中は不気味なほど静かで、むせるような砂埃の匂いがたちこめている。
「教頭先生にはもう一年やる気はないかって勧めてもらいましたけど……断りました」
「どうして相談してくれなかったの、そんな大事なこと」
「ごめんなさい、少しは自分の将来のこと真剣に考えなきゃいけないと思って。先生のそばにいると何もかも甘えてしまうから。だから次の仕事が見つかるまで、しばらく……先生と会うのはやめます」
まるで答えを前から準備していたみたいに淡々と話す。その整然とした態度に、笹原は自分でも驚くぐらい激しく動揺していた。
「会わないって……どういう意味?」
「あの」
「もしかして千秋先生との噂、聞いたの?」
「こんなに狭いコミュニティですから」
「ただの噂だよ? しかも全部嘘だ」
ニコは言葉を選ぶように口をつぐんだ。立ち上がって一輪車を元の位置に戻すと、思いもよらないことを言い出した。
「誰がどう見たって、笹原先生と千秋先生はお似合いですよ」
「は? 今さらなんの冗談?」
「りのちゃん達も言ってました。ふたりが結婚したらいいのになって、すごく嬉しそうに」
「みんなの期待通り結婚しろって? そんな馬鹿な話、あると思う?」
笹原はほとんど怒っているような口調になっていた。
千秋と飲みに行くことは、ニコに知らせてあった。その時に、彼女とは付き合えないと断るということも。ニコは納得してたはずだ。
「先生と千秋先生が飲みに行った日の夜、先生の家で帰りをずっと待ってたんです。その間、色々考えました。昔のことも、これからのことも。12時まで待ったけど……先生は帰ってこなかった」
「連絡してくれればよかったのに」
「そんな邪魔できませんよ。どんな話してるかも何してるかも分からないのに」
「ニコは考えすぎだよ、少しは僕のこと信用してくれない?」
「じゃあ、あの噂は? なにもないのに勝手にたてられたんですか」
「そうだって、さっきから言ってるだろ!」
心のどこかで自惚れていた。ニコが噂を信じることなどないと、自分以外に目を向けることなどないと。
「先生……ずっと考えていたことがあるんです」
ニコの黒目がちな瞳が、笹原の目を訴えるように捕らえた。
2階の職員室の窓からのぞくケヤキ並木が、空っ風に吹かれて揺れている。生い茂っていた枝が払われ、ずいぶんと風通しがよくなっていた。いつの間に剪定したのだろう。
まだ裸の枝はぎゅっと固く縮まって寒さに耐えていた。待望の春が来れば一斉に芽吹き、若葉で華やかに彩られるだろう。
結局、昨日ニコからの返事はなかった。電話もしてみたが出ない。そもそも仕事では、教員と校務員は用事がなければ接点がほとんどないということに気づかされる。約束をさっそく破ることになるけど、あとでニコを探しに行こう。そんなことをぼんやりと考えながら頬杖をついていた。
「さっぱりしたでしょ。やっぱりプロの庭師はいい仕事するよねえ」
驚いて振り返ると、教頭がいつの間にか笹原の後ろに立っていた。満足気な表情を頬に浮かべて。
庭木の剪定と洋ランの育成が趣味だという教頭は、ニコの庭師としての腕を認めている人のひとりだ。趣味が高じて、入学式や卒業式には壇上に飾るために、豪華に咲いたランの鉢植えや切り花を持ってくるほどの力の入れようだ。
「仁科君、春までにこの学校の植木、全部手入れするって意気込んでたから」
学校の敷地内には桜やケヤキを始め、様々な樹木が植えられている。どれも木が古く、山の緑とほぼ同化して荒れているものも多い。
ニコは学校に来た初日から、山桜の病気の枝を見つけ出すほど植木に目が利いた。彼のおかげで今年も見られるだろうか、散りこぼれる桜の花を。
「これで今年の剪定は安泰だけど、来年度はどうなるか。また良い人が来てくれるといいが……」
一瞬、教頭の言葉に耳を疑った。
「え、彼、辞めるんですか?」
「来年度の更新はしないってさ。ずいぶん引き止めたんだけどねえ」
「どうして辞めるんです」
「さぁね、はっきりとは聞かなかったけど。なんせまだ若いから、やりたいこと色々あるんじゃない?」
ニコが学校を辞める――その事実だけで彼に会いに行く理由には十分で。笹原は慌てて職員室を出ようとしたが、すぐさま教頭に呼び止められた。
「それより笹原先生、折り入って話があるんだけどちょっといい?」
教頭がいつになく真剣な顔を向けてきた。だが走り出したい気持ちを抑えることは……できなかった。
「用事を済ませたら、すぐに戻ります!」
教頭の返事も聞かずに、職員室を出て廊下を足早に抜ける。ちらりと腕時計に目をやると、4時を過ぎていた。
職員室のすぐ下にある倉庫には人影がなかった。児童玄関の前を通って体育館へと回ってみたが、子ども達がドッジボールをしているだけでニコの姿はない。校庭を横切って校舎へと戻る途中、外の体育倉庫の扉が開いているのに気づいた。
「……ニコ?」
それほど広くもない部屋にはさまざまな運動器具がひしめきあっている。手前に子ども用の一輪車が4台横並びに収納する器具が置かれ、ニコはその前で一輪車を抱えて座っていた。
「先生……どうしたんです? 急用ですか」
ただならぬ笹原の気配に、ニコは顔を上げ作業の手を止めた。いくらか緊張しているかのようにおびえた目つきをしている。
「教頭先生から聞いた。3月で辞めるって本当なのか?」
「あの……」
校庭で遊ぶ子どもたちの歓声がここまで届いてくる。陽が差し込むドアを、笹原は後ろ手で閉めた。薄暗くなった部屋の中は不気味なほど静かで、むせるような砂埃の匂いがたちこめている。
「教頭先生にはもう一年やる気はないかって勧めてもらいましたけど……断りました」
「どうして相談してくれなかったの、そんな大事なこと」
「ごめんなさい、少しは自分の将来のこと真剣に考えなきゃいけないと思って。先生のそばにいると何もかも甘えてしまうから。だから次の仕事が見つかるまで、しばらく……先生と会うのはやめます」
まるで答えを前から準備していたみたいに淡々と話す。その整然とした態度に、笹原は自分でも驚くぐらい激しく動揺していた。
「会わないって……どういう意味?」
「あの」
「もしかして千秋先生との噂、聞いたの?」
「こんなに狭いコミュニティですから」
「ただの噂だよ? しかも全部嘘だ」
ニコは言葉を選ぶように口をつぐんだ。立ち上がって一輪車を元の位置に戻すと、思いもよらないことを言い出した。
「誰がどう見たって、笹原先生と千秋先生はお似合いですよ」
「は? 今さらなんの冗談?」
「りのちゃん達も言ってました。ふたりが結婚したらいいのになって、すごく嬉しそうに」
「みんなの期待通り結婚しろって? そんな馬鹿な話、あると思う?」
笹原はほとんど怒っているような口調になっていた。
千秋と飲みに行くことは、ニコに知らせてあった。その時に、彼女とは付き合えないと断るということも。ニコは納得してたはずだ。
「先生と千秋先生が飲みに行った日の夜、先生の家で帰りをずっと待ってたんです。その間、色々考えました。昔のことも、これからのことも。12時まで待ったけど……先生は帰ってこなかった」
「連絡してくれればよかったのに」
「そんな邪魔できませんよ。どんな話してるかも何してるかも分からないのに」
「ニコは考えすぎだよ、少しは僕のこと信用してくれない?」
「じゃあ、あの噂は? なにもないのに勝手にたてられたんですか」
「そうだって、さっきから言ってるだろ!」
心のどこかで自惚れていた。ニコが噂を信じることなどないと、自分以外に目を向けることなどないと。
「先生……ずっと考えていたことがあるんです」
ニコの黒目がちな瞳が、笹原の目を訴えるように捕らえた。
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