潮騒心中

駒留紺子

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潮騒に抱かれて

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 ただでさえ体も心もボロボロなのに、ある日私はひどい仕打ちを受ける。
 姐さんは、元吉原遊女ということだけあって、読み書きができたので、客にいつも手紙を書いていた。その日もいつもと変わらず、姐さんは筆を執り、来た手紙に目を通す。ある手紙を手に取った姐さんは、わなわな震え、私に向かってとびかかってきた。
 一瞬何が起こったのかわからなかったが、頬に熱を覚え、気が付いたら天井が見えた。どうやら、張り手を食らい私は吹き飛んだようで、ぶたれた頬と打ち付けた頭が痛かった。
 倒れた私に馬乗りになった姐さんは鬼の形相で叫びながら私を殴る。
「いつたぶらかささんした。この醜女!お前なんぞが、顔を突き合わせていいお人じゃなさんす。」
 何を言われているのかさっぱりわからなかった。
 殴られながら私は姐さんの美しい輪郭を目でなぞる。和三盆の様に、触れたらほろほろと崩れ落ちてしまうのではないかと見紛うほど繊細な作りで姐さんは出来ている。
 もし抵抗し、姐さんの美し顔に傷でもつけたらたまらないので、私はじっと耐えていた。何より剣な顔で私を殴ってくる姐さんの顔を見ていると、私は殴られていることがうれしくなってきた。姐さんが、私に不満を持って殴ってくれている。不思議な幸福感にただ、ただ殴られた。
 やがて朋輩や店の者が止めに入って、私の甘美な時間は終わった。
 仲の良い朋輩が濡らした手ぬぐいを持ってきてくれて、心底心配そうな顔で見つめている。もしかしたら私は笑っていたのかもしれない。心配する表情の中に若干奇妙なものを見る冷たいまなざしが混ざっていたからだ。
 その朋輩は、落ちていた姐さんあての手紙を見たそうで、内容を教えてくれた。手紙の送り主は徳水で、『お前の妹女郎おひらは美しい。昨日色っぽい視線で俺を見てそそられた。』と書いてあったと。
 私がそんな視線を送ったつもりは毛頭ないというと朋輩は、「あの生臭坊主、姐さんに嫉妬されたかったんじゃごぜぇすか?」と言い残し、私のもとを離れた。
 嫉妬?むしろ私のほうが、徳水に嫉妬したいくらいだ。あのわがままな姐さんを猫みたいに手なずけて、体も心ももてあそんでいる。私は姐さんにぶたれるばかりで、笑顔の一つも向けてもらえたことがない。私は…私はそんな徳水がうらやましい…?
 自分でも一体何を考えているのかわからず首を捻ると、切れた口の端が痛んだ。
 姐さんの恨みのこもったこぶしは、私の顔をぱんぱんに腫れ上げさせ、おかげで数日客が付かず難儀した。

 徳水は頻繁に店を訪れ、来る度に、私に妙な視線を送り、姐さんの気持ちを逆なでした。
 決して払いのいいわけでない坊主の情男いろなんて店から歓迎されるものではない。支払いが滞ることもあったようで、店と小さな小競り合いをしているのを何度か見た。
 ただ、徳水を出禁にしてしまうと、姐さんがどんなに怒るか分からないので店はなすすべがなく、徳水の出入りを禁止することはできなかった。

 ある日、私は姐さんの部屋から自分の名前が聞こえた気がして耳をそばだてた。
「主様、あの醜女の話をするのはやめておくんなんし。」
「醜女とは、ずいぶんな言いようだな。そんなに君はおひらが嫌いか。」
「嫌でありんす。主様はそうやってすぐ、あの醜女の話ばかり…。」
 この生臭坊主、また私を出しにして、姐さんと盛り上がろうとしているのか。私は小さく舌打ちをして、襖の隙間から二人のやり取りを垣間見て、息を飲んだ。
 徳水が姐さんのまたぐらに顔を突っ込んで、恍惚とした顔で舐めている。舌が姐さんのスジを通る度に姐さんは身を捩り、声を上げ、体を小刻みに震わせた。
「…ぁぁ、主様、こんな有様、やめておくんなんし。こんな風にしてわっちをどうささんすか…。」
 姐さんは一層荒く息を吐き、身をよじる。
「お前さんがあまりにも疑り深く、俺をなじるから、真を示しているんだ。」
 徳水は嬉しそうに笑う。
「もう俺にもお前にも後がない…。だから、こうやってお前さんに誓いを立てているのさ。」
 音を立てて、核頭さねしんをすすると姐さんの腰がひと一際大きく跳ねて、足の指がぴんと伸びる。
 あまりにも奇妙な行為に驚いて、私は部屋を離れた。

 その日から姐さんは、私をいじめることをやめた。ぼーっと海を見て何かを考えている時間が多くなった。徳水もぱたりと来なくなったので、姐さんは振られたのだと朋輩たちは噂した。
 しかし、私にはどうも二人の関係が終わったようには見えなかった。あの日の姐さんの声、よがった際に見せた苦悶の表情、息遣い。どれも生々しく思い返すことができる。
 私は客と床に入って天井を見上げると、あの日のことを思い出し、下半身に火照りを覚える。それと同時に、姐さんの心はすべて徳水のモノであると感じてしまい、ひどく悔しい気持ちがした。
 あの姐さんの蕩けて熟れた表情、やはり、終わってなどはいない。これからというような…そんな風にしか思えないのだ。

 徳水が再び店を訪れたのは、三月ほどたったころであろうか。朋輩たちの中には姐さんが振られたかどうかかけているものがいたようで、徳水の姿を見るなり、チクショウと、叫ぶ者がいた。
 徳水は居続ける旨を告げ、さっさと姐さんの部屋に上がた。そのあと、何の注文もなく、風呂に行く様子もない。徳水が部屋に上がってから、ずっと姐さんのいい声ばかりが聞こえてくる。久しぶりだからって、そんなに盛るもんかね。と朋輩たちは眉をひそめてその声を聴いていた。
 
 居続けなんて本当に金を持っているのかと、店の者たちは訝しんだ。もともと、徳水は支払いが滞りがちで姐さんが立替えることが多かったからだ。
 そして、お前はどうせいつも蹴られているんだから様子を見て来い、と促され、私はしぶしぶ姐さんの部屋を訪ねた。
 昨日は一日中荒々しい息づかいでまぐわっていた二人も、さすがに眠ったのか静かになっている。
 「おちよ姐さん。おちよ姐さん。ちょいとお話がごぜぇす。」
 呼びかけても気が付く気配がないので、私は開けぇす、と声をかけすっと襖を細く開けた。覗き込むと、目に赤い色彩が飛び込む。丸まった懐紙と布団が散らかた部屋は、椿の花弁をを散らしたように深紅で染まっている。
 その深紅の中心には姐さんと徳水がいた。
 喉を付いたのか、二人とも苦悶の表情をたたえ、動く様子はない。二人は右手首を赤い腰ひもで固く結び、死んでも離れないと言っているようだった。
 その様子はあまりにも穏やかで、二人の間に入り込む隙はない。
「そうか…心中。あれは心中立て…。」
 私は無意識にポツリとこぼした。前に見た徳水の奇妙な行動は心中立てのようなもだったのかもしれない。徳水は誠を示すと言っていた。
 年季明けの近い姐さんは、店に残ることも、さらに位の低い店に鞍替えすることも嫌がっていた。だからと言って見受けしてくれるような大店の相手はいない。さらに、情男の徳水にはそんな財力はない。行くところも、自身の気位を打ち捨てる気のない姐さんは、もしかして、もしかして死ぬことを選んでしまったのではないか…。

 私はふらふらとした足取りで、店の者に部屋の惨状を伝えると、店は大騒ぎになった。面白半分に部屋を覗いて卒倒する朋輩、姐さんが死んだことを清々したと喜ぶ朋輩、奉行所に連絡するか検討する店の者。店の中は祭りのような騒ぎだ。
 誰も、姐さんの死を悲しむものは居なかった。
 しかし、なぜ死んでしまったのか。よりにもよって徳水なんかと…。私は私の姐さんを奪った徳水が憎くて憎くて仕方がなかったが、もうどうやっても取り戻すことができない虚しさに、涙をこぼし、もう一度姐さんの亡骸の顔を見つめた。涙に霞んで映る姐さんは、血に染まって青白い。けれども一際美しかった。

 騒動は落ち着き、店は何事もなかったように私たちに客を取らせた。どの朋輩たちも、この日は浮ついていて、行為に身が入っていないようで、客のヤジが至る所から聞こえる。
 私も身が入らないでいたが、付いた客から線香の匂いがした。よくよく客を見ると坊主頭で、私は経の一つでも上げてもらおうかと思ったが、ますます辛気臭くなると思い口をつぐんだ。
 坊主に組み敷かれたまま深く息を吸うと、心中現場の匂いを思い出した。私の鼻には血の匂いではなく、線香と、姐さんの甘い匂いしみ込んでいた。潮騒と自分の喘ぎ声を聞きながら、客が果てるまで、私は姐さんのことを思う。
 目を瞑ると私には浄土で笑う姐さんが見えるような気がした。
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