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8巻
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しおりを挟む◇ ◇ ◇
アルマダ大陸の南には、幾つもの島々が浮かび、数多の小国家がひしめき合っている。
中には、歩いて一周するのに半日も必要ない小さな島ひとつが一国家という場合もあれば、幾つもの島々が連なる群島を更に複数束ねる国もある。
南洋諸島国家群とも呼ばれるその中に、特に〈アルトデステニア皇国〉と親しい関係を続けている国があった。
〈パルヴァティア王国〉――第一次文明時代の人工島を首都島とし、周囲に点在する天然の島々をあわせて国土としている小国だ。
その住民たちの祖先は、首都島を本拠として周辺の海を荒らし回っていた海賊である。
彼らが、皇国勃興の後、その庇護を受けることでこの地を開発したのが、この国の興りだった。
「ウィーダルぅ、まだ終らないのぉ?」
その首都島の端に位置する王宮の一室で、ばたばたと足を動かしているのは、まだ少女としての面影を色濃く残した女性だ。
人間種の基準に照らすなら、まだ二〇を超えるか超えないかといったところであろう。
「うるさいなぁ、そんなに暇なら誰か連れて海にでも行けばいいじゃないか」
答えたのは、先ほどの女性と良く似た面立ちの青年だ。
日焼けした肌は張りがあり、意志の強そうな眼差しで女性を見る。
「姉さんは暇だ暇だって言ってるだけだからいいけど、こっちは皇国との通商協定更新の調査で忙しいんだよ。手伝えなんて言わないから、せめてどこかに行って」
「ひどい!」
「ひどくない。どう思う〈リューク〉?」
青年――ウィーダルの問い掛けに、部屋の片隅で寝転がっていた獣が顔を上げる。
虎に似た体躯を持ち、しかしその背には飛竜のものに似た皮膜状の翼があった。
「知らんわ莫迦どもめ。貴様らいい加減に弟離れ姉離れしたらどうだ。なんのかんのと毎日毎日一緒にいて飽きないのか? あとロンディア。いくら弟の私室とはいえ、あまりはしたない格好をするんじゃない」
神獣〈リューク〉。
力ある幻獣の一頭で、以前はこの周辺海域を縄張りとしていたが、アルマダ大陸との交流が盛んになると、王国の守護獣として王宮に引っ込んだ。
本人は何も言わないが、どうやらアルマダ大陸で神獣同士の戦いに敗れた過去があり、勝者である何者かに遠慮しているらしい。
「飽きるならもっと早く飽きるよ。もう一八年も一緒にいるんだから」
ロンディアと呼ばれた女性が、どこか誇らしげに胸を張る。
薄手の衣裳を押し上げるふたつの丘陵は見事なものだが、その仕草には子どもらしさが残っていた。
〈リューク〉は深々と溜息を吐き、再び眠りにつくべく身体を丸める。何度か身動ぎすると、やがて静かに寝息を立て始めた。
「――何よ」
神獣にまで呆れられた姉を、これまた呆れたような顔で眺めるウィーダル。莫迦にするというよりも、感心している風さえある。
「脳みそ、母上の腹の中に置いてきたのか」
「あんたが持っていったんでしょ、その分。さあ、頭脳明晰に生まれたことを姉に感謝しろ」
再び胸を張るロンディア。
ウィーダルは神獣と同じく溜息を吐き、仕事に戻った。
その背に、姉が伸し掛かる。
「無視すんなよー、暇なんだよー」
「知ったことか! だから俺は協定の諸々を纏めるのに忙しいんだ!」
ウィーダルが、ばんと机を叩くと、そこにあった書類が数枚宙を舞った。
ひらりひらりと落ちてくる書類を一枚手に取り、ロンディアは首を傾げる。
「随分、増えたねぇ」
「増えもする。一番の顧客である皇国の皇王府が本気で動いてるからな」
書類を取り上げ、そこに書いてある数字と図を見較べる。
ウィーダルが纏めたそれらの書類は、このあと官僚たちの精査を受けることになっていた。いずれこの国を背負って立つウィーダルは、少なくとも官僚たちと同じだけの仕事をすることが求められている。
自分の下した命がどのような経路を通り、どのような結果になるのか、それを理解するためだ。
「見ろよ、先月だけで取引額が二〇倍だぞ。皇王府が動き出したお陰で、あの一帯の商会が雪崩を打って動き出したんだ。今、うちの港はすごいことになってる」
周辺海域でもっとも巨大な港を持つこの国は、南洋のみならず世界中へ向かう船の中継地となっている。
皇国にとっても重要な拠点のひとつだった。
近頃、皇国が国の方針として、世界各地への流通網拡大を打ち出したこともあり、皇国船籍を持ち、皇国を拠点としている貨物船の利用状況は、右肩上がりだ。
というのも、東西をゆく航路の場合、直接皇国本土の港へ向かうよりも、この国の港を経由した方が燃料の消費が少なくて済むのだ。
便の良さは昔からで、以前より皇国では、この地で皇国船籍の貨物船が貨物の積み替えなどをする場合、その費用や手続きを最小限に抑えられるよう〈パルヴァティア王国〉と協定を結んでいた。
皇国船籍でなくとも、皇国政府と王国政府双方の許可を得た船なら同じ待遇を受けられるため、この地は南洋の中心とまで呼ばれるようになった。
「皇国が浮揚すれば、この国も潤う。だからこの仕事は疎かにできないんだ」
逆に言えば、皇国が沈降すれば、この国も沈んでしまう。
先頃までの皇国内乱の際は、この国を行き交う船の数が三割以上減少した。皇国の船が減っただけではない。海上交易路の安全が不安視されたせいで、他国の船もまたこの海域への出航を見合わせた。このとき、この国の信用は皇国あってこそなのだとウィーダルは理解した。
属国と言ってもいいかもしれない。実際、国としての体面さえ考えなければ、皇国に従った方がうまくいく。同じ南洋海域には、皇国の属国として外交権と軍事権を預けている国があるくらいだ。
だが王国には、ウィーダルの母にして〈海賊女王〉の異名を取る、〈パルヴァティア十二世〉が統治者として存在している。一方、属国となった国々には有力な政府がないため、地域の安定を企図する皇国の提案を受け入れる形で従属していた。
もともと南洋海域には、国家という意識が希薄な民が多いのも、属国という統治形態がうまくいく理由のひとつである。海と共に生き、海と共に死んでいく。そんな素朴な考えが根差した地域なのだ。
属国となった国の住民は、自分たちの島が安全であれば、それ以上を求めない。漁業基地として皇国の漁船などが立ち寄りはするものの、それほど交流は深くない。また、彼らの国には観光客を相手にする施設もない。沖合に浮かぶ無人島が、皇国海軍の有力な基地になっていても、彼らは何も言わない。
生活の柱である海、漁業資源が荒らされない限り、彼らは温厚な島人たちであった。
皇国は彼らに対し最大限の配慮をし、多くを求めないようにしている。
南洋はそうして平穏を保っていた。その平穏こそが、彼らの糧であった。
「だから邪魔すんな。愚姉」
「――――」
気配こそあるが、いつの間にか静かになっていた姉。
ウィーダルは、何をしているのかと疑問に思いながら振り返り、神獣の身体を枕にして寝息をたてている姉を見付けた。
「ぐ、ぐぐうう」
腹を押さえられ、苦しげに呻く〈リューク〉。それでも眠ったままなのは、ある種の意地であろうか。
「――おい」
ウィーダルは低い低い声で姉を呼ぶ。
その額には青筋が浮かび、手に持ったままの鋭筆の先が震え、ぽたりと黒墨が落ちた。
「おい」
先程よりも大きな声。
しかし、それでも姉は起きない。
ただ、神獣は重さに耐えかねて起き出し、ウィーダルの表情を見て硬直した。
「退け」
幼少の頃から見つめ続けてきたウィーダルの言動の意図するところを、〈リューク〉はよく知っている。
天真爛漫な姉と違い、弟は物ごとを深く深く理詰めで考える。そのため、自分の考えを否定――今回は無視という形で――され、それを自分の中で昇華することができなくなった場合――
一分の躊躇いもなく、切れる。
「愚姉ぃ……」
慌てて〈リューク〉が逃げ出したため、ロンディアは床に転がり落ちることになった。それでも起きないのは、彼女の眠りの深さが原因か。
ウィーダルは眠ったままの姉の頬を抓ると、口の端を大きく上げて嘲笑った。
「ふふふふ……今日の愚姉の分のおやつは俺が食ってくれるわ……」
地獄の底から漏れ出したかのような低い声で言うと、ウィーダルは部屋を飛び出していく。
神獣はその背を見送りながら、なんと平和なことかと欠伸をした。
「――天気は晴朗。世は戦乱。然れども、当方は平和なり、と」
ごろりと横になり、再び欠伸。
この国よりも遥かに年上の神獣は、窓から入ってくる涼しい風を受けて、もう一度眠りに落ちていった。
「やはり摂政殿下は、頷いてはくださらぬようで……」
「分かりきっていたことです。それでも、我々の誠意の表し方としてはそう悪いものではありませんよ」
絹を数枚重ねた衣裳を纏い、褐色の肌を持つ女性は背後の男に答えた。
「然り、民たちの中にもすでにそういった噂が流れているようで、ほぼ好意的に受け止められていると聞きます」
「ほう」
別の男の報告に対して、女はしばしの黙考の末に答えを出した。
「――あまり度が過ぎないよう、きちんと手綱を握ってください」
「ははッ」
背後に外務大臣と内務大臣を置き、この国の主であるパルヴァティア十二世は自室の窓から自分の国を見渡していた。
灰色の人工島の上に、人々の生活の証である彩りが花開いている。
皇国からの航空便である大型飛竜が飛行場に降りていくのが見え、彼女は自分たちが完全に皇国の経済圏に組み込まれていることを再確認した。
皇国の航空保安法では、民間所属の航空便が運行できるのは、安全が確保できる地域のみとされている。つまり、皇国はこの国を、民間の航空便を護衛なしで送り込める地域、すなわち実質的には自国領と看做しているということだ。
パルヴァティア十二世にとってそれは、特別感想を抱くようなことではない。ただ、皇国が航空便を出せるようになるまでに自分たちが費やした、時間と労力に見合うだけの価値があるのかどうかを確かめていた。
――いまだその資金と時間と人々の苦労を贖えるほどの価値は見出せない。
しかし皇国からの定期便は、次の協商条約改定に合わせて、海空共に大幅に増加することが決まっている。価値はいずれ出てくるに違いない。
これから更にこの国は発展していくことだろう。もっとも、その発展が永劫のものであるとは彼女も考えていない。
「海も騒がしくなるでしょう。皇国から警備艦を購入するという話は纏まりましたか?」
問われた外務大臣が脳裏で報告文を組み上げ、口に出す。
「は。在皇国の大使より、無事契約締結の見込みとの報告がありました。購入する艦は、皇国海軍海防戦隊での現行主力艦である〈イミター〉級と、快速型の〈ルシター〉級となる予定です。整備などは総てこちらで可能となるよう、諸々の技術譲渡についても先方の了解を得ました。必要であれば、我国での建造も視野に入れるとのこと」
外務大臣の言葉に黙って頷き、パルヴァティア十二世はさもありなんと思った。
この地は皇国の内海でなければならない。それを維持するためなら、向こうも多少の無茶は受け入れるだろう。
いつまでも、私掠船ばかりに頼れないのだ。
皇国や王国の国体を維持するには、当然のことながら、現状のような官民の繋がりを維持することが必須となる。
王国は皇国との繋がりを様々な形――貿易や国防――に利用しているし、皇国はこの海域に古くから影響力を持つ王国を、自らの貿易路の維持に利用している。
先代皇王はそうして皇国を発展させてきた。徹底的に軍事力を排した影響力拡大を行い、武力によらない侵略を行ってきた。
女王はそれを目の当たりにしてきた。
確かに武力による影響力の拡大は、誰の目にも明らかで、それによる示威効果も期待できる。軍事力を背景とした形で経済圏の拡大を図る国が後を絶たないのは、そういった理由もあるのだろう。
ただ、軍事力は有限である。
どれだけ強大な軍事力を保有していようとも、この世界が許容できる『破壊力』というのは、存外小さなものだ。
そしてその許容限度は、概念兵器という超常兵器、そして遺跡戦艦や極大戦略魔法、あるいは次元天象兵器などといった、各国の保有する超大陸級戦略要素によって突破されて久しい。
彼女が知る限り、世界を滅ぼすにたる何らかの方法を保有している国は、片手の指を超えている。
今となっては、第一次文明の初期――この星の姿さえ知らなかった頃のように、一方的で高圧的な外交を進めることはできない。
世界を滅ぼされたら、勝者も敗者もないのだ。
「とはいえ、武力による争いがなくならないのも真理――」
パルヴァティア十二世の声は震えていた。
彼女自身、姉弟を戦いで失っている。
二九年前。治安維持の名目で鎮圧された周辺海域の海賊の残党が、王都での自爆攻撃を決行し、標的となった王族が何人も死亡したのだ。
それを受け、王国は皇国海軍との広域共同作戦を実行。周辺海域の主要な武装勢力を根刮ぎ殲滅した。
しかし、戦乱がどこかで続く限り、そういった集団が消え去ることはない。
最近、再び海賊による被害の数が増加し、今回、パルヴァティア十二世は父と同じく彼らの鎮圧を決めた。皇国海軍による直接の支援はない。パルヴァティア十二世側から断ったのだ。
これからの世界を考えるなら、彼女の国は自分で自分の身を守れなくてはならない。
相手がいずれかの国家の正規軍なら、相互防衛協定も利用しよう。それが協定国同士の利益に適うのだから。
だが、相手が非正規武装勢力であるなら、国家元首である彼女は、国家の責任として彼らを排除しなくてはならない。
武装勢力ごときに屈するようなことがあれば、彼女の信条など無関係に王国の価値は下がる。それによって交易路の安全が脅かされれば、皇国は王国に対してもっと強い姿勢で臨んでくるだろう。
今、皇国は王国を最大限尊重している。それが国益に適うから。
その前提が崩れたとき、当然彼らは遠慮なく介入してくるに違いない。それも、彼女以外の王国内勢力の支持を受けて、だ。
彼らは武力による侵略はしないが、経済的な併呑は行う。それが王国にとって発展の道であれば、王族以外の誰が反対するのか。皇国は、あらゆる宗教や文化を受け入れてくれるのだ。
「くれぐれも、彼らの好き勝手にはさせないように」
「はッ」
皇国は友人であるが、血の繋がりのある家族ではない。
国家同士の繋がりは、あくまでもその国家の国益の上に成り立つもので、情の上に成り立つものではない。
情を見せることで国益を得られるからこそ、彼らは友情を見せてくる。それだけのことなのだ。
しかし、皇国が約定を違えることは今までなかった。それが、国家の価値を高めると知っていたからだろう。王国もまた、そんな価値ある皇国と繋がりを保ちたいと思っていた。
この〈パルヴァティア王国〉は、一国では成り立たないようにできている。同時に流浪の海賊時代に戻るには、抱えている責任が大きく重くなり過ぎた。
「皇国は常にこちらを試している。我々も、皇国を常に試す。皇国の次代はすでに才覚を示した。次は、我々の番です」
パルヴァティア十二世は視線をずらし、我が子のいるであろう一角に目を向けた。
その表情に感情は一切見えなかった。
◇ ◇ ◇
〝朝〟とは、〈皇剣〉と合一したせいで寝る必要がなくなったレクティファールにとって、単なる日照の始まりに過ぎない。今となっては夜明けも、昼行性の生き物には一日の始まりである、という認識でしかない。
それでも周囲の生活に合わせるため、彼は眠るという行為を義務として行っている。勿論、緊急を要する仕事があるなら、その義務が履行されることはない。だが、特に後宮や離宮では相手に合わせて眠るようにしていた。そうでもしないと、相手は自分を気遣っていつまでも寝ようとしないのだ。概念兵器である自分と、生き物である相手。どちらに合わせるのが妥当か、考えるまでもなかった。
ただ、〈皇剣〉はレクティファールの自意識が眠っている間も働き続けている。その働きはふたつある。
第一に、睡眠によって身体機能の大部分が低負荷稼働状態に入っていることを利用し、体内組織の摩耗を修復、或いは強化を行うこと。さらに体内の循環機関を全力稼働させて各部位に溜まった老廃物を除去、分解。そうすることで、身体機能の維持を図っていた。
それらとは別に、〈皇剣〉の存在意義のひとつである情報の蓄積を担う部位でも、睡眠による低負荷状態は利用されている。それが第二の働きで、最適化と呼ばれる、重要情報の選定と新規情報の整理、利用頻度の低い情報の圧縮と収納が行われているのだ。
その最適化においては、レクティファールの自意識の一部が使用されていた。自意識は記憶・記録に深く干渉しているため、情報の最適化にも必要なのだ。但し、情報の最適化そのものは眠っていなくても行える。眠っていた方が少々効率は上がるが、問題になるほどの差異ではない。
ちなみに、眠っているときに行う情報の最適化の最中のみ、レクティファールは『夢』に似た幻想の投影を見る。
ひょっとしたらあるかもしれない未来、あり得たかもしれない過去。〈皇剣〉の演算の結果、可能性のひとつとして処理されたそのどちらもが、忽然と現れる。
夢を見る必要のない兵器が夢を見る理由は、ひどく現実的だった。
通常であれば情報の最適化は〈皇剣〉所有者の思考系統とは別の領域で行われるので、所有者の思考が認識することはない。ただ、最適化の途中で断片という形に変換された情報だけは、所有者の意識でも認識可能になる。
それが、概念兵器の見る夢の正体だ。
完全に〈皇剣〉と合一してしまえば、その処理速度に対応することもできるので、夢を見ることもない。処理能力も最大限使用できる。しかし、所有者が夢を見るということは、〈皇剣〉を継承してもなお、人としての意識を残している証とも言える。完全なる兵器と、人としての側面を持った兵器。どちらが〈皇剣〉という兵器に相応しいかと問われれば、歴代の皇王は揃って後者と答えるだろう。
〈皇剣〉は概念兵器という兵器であると同時に、概念兵器という人である。
人であるが故に夢を見る。それが、人々の見る夢とは意味合いが違っていたとしても。
そしてこの日、当代の概念兵器たる青年はひとつの可能性を見た。
それは、母となり、自らが産んだ子を抱く義姉の姿。
夢の中の彼女は幸せそうに微笑んでおり、近くに立っていた彼を呼んで子どもを抱かせてくれた。
剣を置き、侍女服を脱いだ彼女は、何処から見ても〝母〟であり、誰かの〝妻〟であった。
彼はそんな義姉の姿を眩しそうに見つめ――――いとも容易く現実へと引き戻された。
身体機能の正常化と情報最適化が終了し、〈皇剣〉としてはもう眠る必要がなくなったのだろう。彼は余韻に浸ることなく目を開き、ハルベルン邸に用意された自室の天井を見上げた。
身体機能の異常は少なく、あったとしても軽度なものが殆どで、処理すべき情報も僅かだったこともあって、彼の睡眠時間はほんの二時間程度だった。傍らに誰かがいるなら、ここからさらに何時間か義務としての睡眠を取るのだが、時計を見た彼はこのまま起きることにした。壁に掛けられた時計は午前四時三〇分を指している。
「――珍しい」
起き上がりながら、夢の感想を述べるレクティファール。
珍しい、というよりはあまりにも非現実的に思えた。
〈皇剣〉の見せた『夢』は、『夢』という名の可能性である以上、それは現実に起こり得る。
ウィリィアが誰かと共に歩むことを決め、母になる可能性をレクティファールは否定しない。ただ同時に、ウィリィア・ハルベルンという女性が、自分の未来を最優先に考えることはひどく考え難い。
おそらく彼女は、主君たるメリエラを第一に考え、これからも生きていくだろう。
メリエラの幸せこそ自らの幸福。メリエラの喜びこそ自らの歓喜。メリエラの願いこそ自らの願望。
あの日、レクティファールの知らぬあの過去の日に、彼女は逝く人に誓ったのだ。
その女性が護りたかったものを、代わりに護り抜いてみせると。
けれど、レクティファールから見てそれはただの逃避にも思えた。意図せず口から言葉が漏れる。
「果たして、それは贖罪なのか……」
本人の前で、同じことを口にするつもりはない。そんな勇気も、意思もない。
他人の過去に口を出すことに、果たしてどれだけの意味があるのだろうか。
変えようもない過去に対し、本当の意味で過去を知らぬ者が何をほざく。自己満足にも充たない、ただの我が儘ではないか。
「もしも口を出すのなら、それなりの覚悟が要るでしょうね」
それこそ、相手の今を総て否定するに等しい所業。その代価は、己の総てが妥当だろう。
殺されたとしても、文句は言えない。
「だけど、まあ、私にはそんな覚悟はありませんがね……」
ごろり、と寝返りを打つ。
寝台横の窓から、白み始めた空が見えた。
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