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7巻
7-2
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レクティファールは静かに頭を下げるハイデルを横目で見ながら、自分はこれから何度〝人生の墓場〟に突撃しなくてはならないのだろうかと考える。
このような地位に就いている以上、結婚は義務の要素が大半を占める。それは相手も同じで、そんな相手にどう思われるかだけが、レクティファールの自由になるところ――何とも気疲れのする話だ。
それに、一時の安寧を手にするために百年の苦労を背負い込む可能性もまた、否定できるものではない。できれば、適度に苦労し、適度に安寧を得たいというのが、彼の気持ちだった。
「はぁ……園遊会の時間まで仕事でもするか」
自分の置かれた立場を悩むことなど、時間の浪費に過ぎない。
彼はさっさと諦めると、持ち込まれた書類の決裁を始めた。
そんな青年の姿を、老練な宰相が小さく細めた目で、じっと見守っていた。
摂政の執務室を辞し、自らの仕事場に戻る間、ハイデルはずっと考えを巡らせていた。
レクティファールを知る者は、おそらく彼を内政巧者とは見ていない。
確かに優れた武才を示したが、それは彼の内政への適性を示すものではないのだ。
ハイデルを始めとした官僚たちは内政を補うために存在するが、そのせいでレクティファールを軽視する者があとを絶たなかった。
宰相として頭の痛い問題だが、こればかりは戦争のように一戦一勝でどうにかなるものではない。時間を掛け、ゆっくりと実績を積み重ねていくしかないのだ。
幸いなことに、レクティファールはそれを自覚しているらしく、無闇矢鱈と前へ出ようとはしない。
ハイデルはそれだけでも随分と助かっている。
彼はレクティファールの代わりに多くの泥を被っている。
不平不満を持ち、積極的にレクティファールに反抗しようとする高級官僚を処断したのも彼である。
それは、ハイデルにしかできないことだっただろう。
彼は叛逆者として人々に認識されている。その悪名を利用し、レクティファールへの不満を逸らしているのだ。
たとえハイデルが誰を処断しようとも、その判断が妥当であれば政府は納得する。政府が納得するのなら、あとは官僚たちの不満だけが問題となってくる。
その不満を自分に向けることに、ハイデルは自分の悪名を積極的に利用した。
摂政に生命を救われた宰相は、自身の部下を処断することで自らの有用性を摂政に示している――人々にそう思わせられればハイデルの勝ちだ。
尻尾を振っていると思われようが、自分の生命が尽きるまで職務を全うできればいい。老い先短い身である。ここで多少の悪評が増えようとも気にならなかった。
唯一の心残りは、家族へ向けられる悪意だ。
レクティファールはハイデルの家族を人質に取っていると言われているが、これは彼の家族を守るための策のひとつである。摂政の掌の上にあるハイデルの家族に手を出せばどうなるか、少し知恵の回る者ならすぐに理解できる。
また、彼の息子はレクティファールの命で皇王府に奉職している。
これも人質に見えるが、実際はルキーティの名によって息子と息子の家族を保護しているのだ。
同じように、ハイデルの家族はその大半がレクティファールに忠誠を誓う貴族や商会へと預けられている。
例外はハイデルの妻であるが、これは本人の希望だった。息子と暮らせという夫の説得にも耳を貸さず、彼女は今も皇都の屋敷で彼の帰りを待っているはずだ。
「まったくもって、それがしには勿体ない」
独り言ち、ハイデルは今日こそ家に帰ろうと決意した。
幸い、レクティファールの命令は彼の予想を超えなかった。とすると、事前に用意していた命令書を各院に送れば、それで今日の仕事は済む。
「あとは余計な口出しをしてくる莫迦どもを黙らせて終いとするか」
廊下をすれ違う職員たちから様々な種類の視線を向けられながら、ハイデルは静かに己の仕事場へと向かう。
後の世では彼の評価は二分され、忠臣とも佞臣とも言われるが、総じて彼の能力は高く評価されている。
◇ ◇ ◇
〈星天宮〉内の庭園のひとつ、小さな湖の畔に広がる『エメレットの庭園』で、各国の代表とその連れ合いを招いた園遊会が華々しく開催された。
エメレットとは、庭を設計した建築家の名である。そして、この庭が彼の生涯最後の作品だった。彼の熱心な愛好者であった先代皇王は、直々にその名を庭園の名称として遺したのだ。
元々この場所に存在した湖には、少しも手を加えていない。ただその畔の一部を〝画布〟と見立てて造られていた。
この庭は、さして建築や庭園芸術に興味を持たない者でさえ、ふとした瞬間に感嘆の溜息を漏らしてしまうという。人々の心に入り込み、涼やかな感動を与える庭がそこにあった。
「いや、実に見事な庭だ。大国アルトデステニアの主が住まうに相応しい」
湖を眺めながら、ふたりの男が言葉を交わしている。
〈アルトデステニア皇国〉の国主代行として参加しているレクティファールと、西方の強国〈シェルミア共和国〉の国王だ。
お互いの手には飲み物、顔には愛想笑い。
複製して貼り付けたような、華麗なる外交の場に相応しい光景だった。
「ありがたいお言葉ですが、私のような若輩が主では、この庭の設計者も冥界で嘆いていることでしょう」
「そんなまさか、今の貴国にレクティファール殿よりもこの庭に相応しい者はいないだろう」
「武人として名高いシェルミアの国王陛下にそう言って頂けるとは、欣快に存じます」
レクティファールが軽く頭を下げると、相手は照れ臭そうに苦笑した。その表情だけは、これまでのような仮面じみたものとは違うように見えた。
朽葉色の髪をざっくりと短く切った第一四代〈シェルミア共和国〉国王は、笑うと未だ青年と言って良い容貌をしている。肉体的にも衰えを感じさせず、国王としての経験もそれなりに積んでおり、まさに脂の乗り切った時期なのだろう。
機族として人間種の平均より長い寿命を持っている彼は、今年四十五になっているはずだ。一国の主としては、世襲制の国家を除くと若い部類に入る。
当然、レクティファールも同じ部類なのだが。
レクティファールは、機人としては異常なほど表情が豊かなこの男が、いざ戦いとなれば大陸有数の力を持っていることを知っていた。
超兵器〈装甲機兵〉。対龍族、対神族を目的として開発されたその力は、一撃で力ある神族をも滅ぼすとされている。
「正直、俺――いや、私も此度の一件で自分の未熟さを痛感した。君のような若人が国を守ろうと戦場に赴いたのに、私といえば首都の王宮で貴国を切り分ける算段をしていた家臣の動きにも気付けなかった。本当に、我国の行動によって命を散らした人々には申し訳ないことをした」
そう言って小さく頭を下げるシェルミア王。
今ふたりの周囲に他の客はいないが、それでも一国の王が容易くしていいことではなかった。
議会が国家の全権を持ち、国王が象徴でしかない〈シェルミア共和国〉とて、君主を戴く国家には違いない。その君主は、国民によって選ばれた国家の一機関であるという点が、皇国とは大きく異なるが。
「陛下……」
「これは私個人の気持ちだ。シェルミアとしては、また別の言葉を示すことになるだろう」
シェルミア王は硝子杯の中に浮かぶ自分の顔を見て呟いた。
嘗て〈アルマダ帝国〉の研究都市があった〈シェルミア共和国〉では、今も当時の施設が遺跡として出土する。
それ以前の第一次文明の遺跡も多く、そこの探索を生業とする冒険者や傭兵たちが集う国家として有名だ。しかも、それらの荒くれ者を支援、管理する各職業の同業者組合がいつしか合議によって政治を行うようになったのが、〈シェルミア共和国〉という国家の始まりとされる。
元々シェルミアは、各遺跡の近郊に、探索者を相手に商売をする人々が住み着いて生まれた、小さな街の集まりで、少なくとも国家としては纏まりに欠けていた。
そんな国家が大国と渡り合うために生み出した象徴が、現在の〈シェルミア共和国〉の首都でもある第一次文明遺跡『ヘリオス宮』から発掘された古代の超兵器〈装甲機兵〉を駆る国王。つまり今、レクティファールの目の前にいる男だった。
機人族以外に〈装甲機兵〉を操れるものが存在しないため、基本的に国王の婚姻は国家によって取り決められている。機人族としての能力を失うような交配は、避けなければならないからだ。
そういう意味では、単なる象徴であるはずのシェルミア王の方が、余程世間で言われる『国王』としての婚姻を全うしているのかもしれない。
「――さて、湿っぽい話はここまでにしよう」
シェルミア王が、その顔に笑みを戻してレクティファールに言う。
それに頷くレクティファール。謝罪の言葉は重ねるものではない。
「しかし、返す返すも残念だ。この集まりで、君の婚約者を見ることができると期待していたのだが……」
「我が連れ合いのひとりが未だ戦傷で臥せったままなのです。彼女を置いては表に立てぬと第一妃が申しまして」
「それは……君としても心配だろう。いや、私も見世物を強請るような物言いは不躾だったな、すまない」
シェルミア王はその後、幾らかの言葉を交換すると、「婚約者の傷が早く癒えることを願っている」との言葉を残して、自らの王妃のもとへと戻っていった。
王妃は標準的な機人族らしく感情の起伏に乏しいので、積極的に他国の重要人物と言葉を交わしている様子はなかった。夫が戻ってきたときも、ちらりとレクティファールを一瞥し、軽く会釈するに止まった。
しかし、今日のレクティファールの連れ合いも、感情の波が見えないという点ではシェルミア王妃と大差がない。
ただ――
「おお……! 黒龍公が三十四杯目の大皿を片付けたぞ……!」
「あの小さな身体の何処に入るのかしら……」
「今度はイズモの炊き込み飯を櫃ごとだと……ッ!?」
「まさか会場の食べ物を食べ尽くすつもりとでも言うのか! なんと剛毅な!」
招待客から浴びせられる視線と言葉は、彼の今回限りの相方の方が圧倒的に多い。
会場の中心近く、円卓に並べられた料理を無言で食らい尽くしている小さな龍公に、レクティファールは歩み寄った。見事に自分への注目を逸らしてくれた相手だ。
「味は?」
「良い」
「土産は?」
「いる」
「如何程」
「――全部」
「承った」
何とも気の抜ける言葉の応酬。
黒龍公アナスターシャはレクティファールを見ようともせず、ただ目の前の料理を摂取しながら答えた。
婚約者がひとりも参加できないレクティファールだが、流石に招待主が連れ合いを伴わないわけにもいかない。一度は、総大主教ミレイディアが参加してはどうかという意見も出たのだが、ミレイディア自身がそれを辞退した。本人は、これ以上政治に関われないと言っていたが、単に妹の機嫌を損ねることを避けたのだろうと、レクティファールは思っていた。
最近、リリシアは姉がレクティファールに近付くことを警戒している。
それでいて姉妹仲が悪化したという話は聞かないのだから、不思議なものだ。
「――話は、済んだ?」
アナスターシャが櫃のお代わりを所望し、給仕の女性がそれを取りに行っている間、ふたりはお互いの状況を確認する。
とは言っても、アナスターシャはこういった場所に馴染みが薄く、ひたすら食べているだけだ。
可憐と言ってもいい黒髪の女性がひたすら食物を口に放り込んでいる光景は、レクティファールならずともあまり見たくない。彼女の意図が理解できていても、限度がある。
彼はアナスターシャの興味を逸らすべく、会話を開始した。
「ええまあ。しかし、アナスターシャがこういう場所に出てきてくれるとは思わなかった」
「娘の代理。本当なら、もっと前に、紹介するつもりだった」
アナスターシャは温かい紅茶を啜り、少しだけ目を細めた。どうやら気に入ったらしい。蜂蜜入りだった。
「あなたが、北で足止め、されてたから……」
「それは悪いことをした」
「別に、娘も面倒臭がって、呼んでも、来なかったし」
「――――」
それはどういうことだろう。
つまり、北で足止めされていなくても結局会えなかったということではないだろうか。
「あの子、夢中になると、ご飯も寝ることも忘れるから」
「――難儀なことで」
「わたしも……本を読んでると、何故か、一週間とか経ってる」
「そうですか」
似たもの親子ということだ。
レクティファールはまだ見ぬ黒龍公女の姿を想像し、なるほど個性的な女性なのだろうと自分を納得させる。
「わたし、適当に、楽しんでるから……仕事してきていいよ」
「食べてるだけだろう……君の場合」
「こんな場所じゃ、食べる、以外の楽しみ、ないよ。それに、これが一番楽」
庭も、招待客との歓談も、彼女にとっては食事以下ということらしい。
連れ合いが見つからなくて困っていたレクティファールに、目くらましを兼ねて彼女を伴ってはどうかと提案したのは、彼から任された仕事と格闘していた蒼龍公マリアだった。彼女は一体どのような意図でアナスターシャを推挙したのか。
独身で、それでも摂政の相手として不足ない大身というだけなのだろうか。
単なる、自分に大量の仕事を回すレクティファールに対する意趣返しという可能性も否定できない。だが、レクティファールはそれについて深く考えないことにした。
「――腹痛など起こさないように」
「大丈夫、まだ三分目」
「そうですか」
最強種たる龍種に襲われ、城の厨房が戦場になっていることは間違いないだろう。
レクティファールは厨房の料理人たちにあとで慰労金を渡すことを決め、すごすごとその場を立ち去った。
大きく肩を落とした彼の横を、台車に載せられた大量の料理が通り過ぎていった。
◇ ◇ ◇
レクティファールはそのあとも、各国の国主や重要人物との会談を繰り返し行った。
外交の場に初めて放り込まれ、連れ合いは食べることに夢中という四面楚歌の中、彼は各国の思惑が予想以上に皇国を縛り、そして自分の身も束縛していると気付く。
会談中には、何度も他国の姫や名家の令嬢との縁談をそれとなく要請された。そして、実際にこの場にそういった若い娘たちが幾人か姿を見せてもいた。
彼女たちはレクティファールととりとめのない会話をし、これまでレクティファールが見てきた姫君たちとは違う〝箱入り〟ぶりを見せ付けた。彼女たちの大半は、勉強に使う本より重いものを持ったことがなかった。例外は、彼の婚約者たちの職業からその趣味を推し量った者によって送り込まれた、何人かの軍人や騎士としての籍を持った娘たちくらいである。
レクティファールは、彼女やその親の誘いを持ち前の――時折想い人たちを怒らせる――優柔不断さで躱し、あっちにふらふら、こっちにふらふらと園遊会の会場を徘徊した。
しかし、園遊会の本当の目的を知るレクティファールは、それでも十分に役割を果たしたことが分かっている。
今頃は華々しい宴の裏側で、血で血を洗う陰惨な外交戦が繰り広げられているはずだった。
レクティファールは、各国大使館や会員制の酒場など、皇都各地に散った外務院や皇王府の渉外担当官の健闘を祈る。
彼らは賞賛されることもなく、それでも国家のため、皇王のために結果を出してくる。
ある担当官は賠償金を、ある担当官は利権を、ある担当官は血筋を。
外交とは、舞台の上、照明の中で行われるものだけではない。
酒の席、閨の中などの、表舞台の光が生むあらゆる影の内側でも行われているのだ。
レクティファールはそれを知りながら、知らない振りをし続ける。
国主とは、知ってはならないことも多かった。
「――ただまあ、心の中で賞賛するくらいはいいでしょう」
陰においてですら忠義を示す渉外担当官たちに、彼は密かに感謝する。
彼らのような陰で働く者たちを忘れたら、きっと国主として失格だろう。
自分を生涯の伴侶として笑顔を向けてくれる婚約者たちを裏切る行いである。
レクティファールは、それを恐れる。
「笑顔が泣き顔になるって、すごい嫌だもんなぁ」
レクティファールに泣き顔を見て喜ぶ趣味はない。
嬉し泣きならともかく、悲しくて、許せなくて涙を浮かべた女性は趣味ではない。
「――うん、この世界に来てから女性の評価基準が高騰しっぱなしですね」
嫌な大人になったなぁ、と呟きながら、彼は笑顔で話し掛けてきた何処かの国の大使のもとへと意識を向ける。
〈皇剣〉の情報を意識内に広げ、戦闘準備を整えながら――
◇ ◇ ◇
敗軍の将となったグロリエにとって、敗戦の責を問われ、結果自分の育てた第三軍集団を取り上げられることは予想の範囲内だった。
無論、それが納得できるかは別だが、このような状況になった理由も己の立場も理解することはできる。
彼女は負けたのだ。それも、不倶戴天の敵である皇国の国主に、完膚なきまでに。
「グロリエ皇女の不敗神話は潰えた」
そういった市井の声も彼女には届いていた。
彼女自身、不敗神話などといって持ち上げられるのは好まない。だが、その神話が兵士たちの心の安定に繋がるというのなら、それもいいと思っていた。
しかし、それももうない。
グロリエを現人神のように見ていた兵士たちは困惑し、彼女に向ける視線を失望や悲嘆へと変化させた。
もう彼らを勝利に導く女神はいない。
作られた偶像であった『戦狂姫』グロリエは死に、敗将グロリエが誕生したのである。
彼女の帝国陸軍第三軍集団は、皇国と国境を接する封冊国のひとつ、〈アクィタニア王国〉の王都近郊にある、西方の攻撃により各所が寸断された帝国国境防衛線の補修材にされた。そして、その実戦力の大半を喪失する。
優秀な将兵ほど前線に送られ、グロリエの手元にはこれから育てようと思っていた若く未熟な将兵だけが残された。
皇国の追撃は、非積極的ではあっても消極的ではない、良将の名に相応しく実に理性的で効率的なものだった。グロリエとその軍団は、その追撃を振り切り、都市奪還を強く求める〈ウィルマグス〉の旧支配層を宥めながら、やっとの思いで自国の勢力圏に帰還した。しかし、命を捧げてきたはずの祖国に裏切られる形となったのである。
大半の兵士はその処遇に渋々ながら納得した。
しかし、一部のグロリエ恩顧の将兵は、帝国政府ひいてはグロリエの父でもある〈新生アルマダ帝国〉帝王に対して、憎しみに近い感情さえ抱いた。
彼らにとってグロリエとは、自ら望んで兵士たちと泥の河を渡り、新兵と鍋を囲んで雑草を食し、一兵士の結婚式にさえ祝いの品を贈るほど、自分たちを愛してくれる指揮官なのだ。雲の上の帝王などより余程絶対的な君主と言ってもいい。
彼女の兵士たちへの態度が、一介の兵士から軍歴を歩み始めた祖母の教育の産物だったとしても関係ない。帝都や自分の領地に引っ込んで享楽に耽り、ときに子どもが新しい玩具を欲しがるように人を攫い、自分たちが贅沢するための税ばかり課してくる有象無象の帝族とは違う。少なくとも将兵たちはそう思っていた。
だからこそ、第三軍集団は大陸有数の軍事大国、〈新生アルマダ帝国〉の中でも最強の軍団と恐れられるようになったのだ。
将兵が将の将たるグロリエを信じ、グロリエもまた自分の愛する軍団を信じて用いた。その信頼関係こそが彼らの強さだった。
こと将兵と君主との間に形成される信頼関係に限って言えば、グロリエは勝軍の将である〈アルトデステニア皇国〉摂政レクティファールに何ら劣るものではない。むしろ、その信頼関係の醸成に多くの時間を費やしてきた分、勝っていると言える。
今回のグロリエの敗北は、彼女と彼女の軍団の責任ではなく、もっと大きな――皇国と帝国の、戦いに向ける意識の違いから導かれた結果に過ぎない。
意識の違い、それは大戦略と言い換えることもできる。
皇国は、内乱を僅かな時間で治めた摂政レクティファールの下で勢いに乗り、皆が祖国を護り抜くという気持ちで戦いに臨んだ。
これまでの内乱では抑え込まれていた軍部の鬱憤を、帝国軍へと向けたレクティファールの采配が当たったというべきだろう。
それに相応しい兵力、兵站、情報を揃え、機を逃さず一気に帝国軍を駆逐。そして北方辺境領を確保し、それが場当たり的な侵略ではないことを証明するように、優れた手腕で併合地を治めている。
対して帝国は、皇国の内乱に乗じて攻め入り、本来の指揮系統を変更してまで、西方の諸国を相手に戦っていたグロリエを東方戦線に送った。
当たり前のことだが、大陸を横断するに等しい距離を長駆した第三軍集団に、疲れがなかったはずがない。
また、装備なども完全に揃えることができなかった。輸送態勢が整っておらず、自動人形部隊は足止めを食らい、本来届くはずの物資も遅れがちであった。
グロリエ個人の努力だけではどうにもならないものが、そこにあった。
帝国が戦力で上回り、皇国が地の利を得、将の厚みに大きな差がない両国の勝敗は、実はそういった直接的な武力衝突以外の面で決定付けられたのだ。
「――君の敗北を聞いて驚きはしたが、それを恨むようなことはしない、グロリエ」
「お言葉、痛み入ります。ディトリア兄上」
アクィタニア王城の庭園は、植えられた木々が様々に色付き、雪に閉ざされる前の最後のときを楽しむことができた。そこに建てられた四阿は、おそらく一〇名程度であれば雨風を気にすることなく過ごせる広さを持っている。
その中央辺りで、駒を配した赤黒の遊技盤が載った円卓を挟んで向き合う二つの影。先程の言葉を発したのはその二つの影だった。
〈アクィタニア王国〉国王と、帝国第一三姫。
グロリエという女性を知る者なら、その謙虚な言葉遣いに驚いたことだろう。しかし彼女とて、自分のせいで他者に迷惑を掛ければ、それを『悪』であると判断して、それ相応の態度を取る。特に自身が尊敬する相手がその対象であれば、態度はより分かり易いものになる。
〈アクィタニア王国〉を統べる国王ディトリアは、帝国の封冊国であるが故に『陛下』とは呼ばれない。だが、その身体に纏う覇気と威厳はグロリエの父――現〈新生アルマダ帝国〉帝王、クセルクセス一〇世と較べてもそう劣るものではない。しかも、ディトリアは単に覇気と威厳があるだけではない。
このような地位に就いている以上、結婚は義務の要素が大半を占める。それは相手も同じで、そんな相手にどう思われるかだけが、レクティファールの自由になるところ――何とも気疲れのする話だ。
それに、一時の安寧を手にするために百年の苦労を背負い込む可能性もまた、否定できるものではない。できれば、適度に苦労し、適度に安寧を得たいというのが、彼の気持ちだった。
「はぁ……園遊会の時間まで仕事でもするか」
自分の置かれた立場を悩むことなど、時間の浪費に過ぎない。
彼はさっさと諦めると、持ち込まれた書類の決裁を始めた。
そんな青年の姿を、老練な宰相が小さく細めた目で、じっと見守っていた。
摂政の執務室を辞し、自らの仕事場に戻る間、ハイデルはずっと考えを巡らせていた。
レクティファールを知る者は、おそらく彼を内政巧者とは見ていない。
確かに優れた武才を示したが、それは彼の内政への適性を示すものではないのだ。
ハイデルを始めとした官僚たちは内政を補うために存在するが、そのせいでレクティファールを軽視する者があとを絶たなかった。
宰相として頭の痛い問題だが、こればかりは戦争のように一戦一勝でどうにかなるものではない。時間を掛け、ゆっくりと実績を積み重ねていくしかないのだ。
幸いなことに、レクティファールはそれを自覚しているらしく、無闇矢鱈と前へ出ようとはしない。
ハイデルはそれだけでも随分と助かっている。
彼はレクティファールの代わりに多くの泥を被っている。
不平不満を持ち、積極的にレクティファールに反抗しようとする高級官僚を処断したのも彼である。
それは、ハイデルにしかできないことだっただろう。
彼は叛逆者として人々に認識されている。その悪名を利用し、レクティファールへの不満を逸らしているのだ。
たとえハイデルが誰を処断しようとも、その判断が妥当であれば政府は納得する。政府が納得するのなら、あとは官僚たちの不満だけが問題となってくる。
その不満を自分に向けることに、ハイデルは自分の悪名を積極的に利用した。
摂政に生命を救われた宰相は、自身の部下を処断することで自らの有用性を摂政に示している――人々にそう思わせられればハイデルの勝ちだ。
尻尾を振っていると思われようが、自分の生命が尽きるまで職務を全うできればいい。老い先短い身である。ここで多少の悪評が増えようとも気にならなかった。
唯一の心残りは、家族へ向けられる悪意だ。
レクティファールはハイデルの家族を人質に取っていると言われているが、これは彼の家族を守るための策のひとつである。摂政の掌の上にあるハイデルの家族に手を出せばどうなるか、少し知恵の回る者ならすぐに理解できる。
また、彼の息子はレクティファールの命で皇王府に奉職している。
これも人質に見えるが、実際はルキーティの名によって息子と息子の家族を保護しているのだ。
同じように、ハイデルの家族はその大半がレクティファールに忠誠を誓う貴族や商会へと預けられている。
例外はハイデルの妻であるが、これは本人の希望だった。息子と暮らせという夫の説得にも耳を貸さず、彼女は今も皇都の屋敷で彼の帰りを待っているはずだ。
「まったくもって、それがしには勿体ない」
独り言ち、ハイデルは今日こそ家に帰ろうと決意した。
幸い、レクティファールの命令は彼の予想を超えなかった。とすると、事前に用意していた命令書を各院に送れば、それで今日の仕事は済む。
「あとは余計な口出しをしてくる莫迦どもを黙らせて終いとするか」
廊下をすれ違う職員たちから様々な種類の視線を向けられながら、ハイデルは静かに己の仕事場へと向かう。
後の世では彼の評価は二分され、忠臣とも佞臣とも言われるが、総じて彼の能力は高く評価されている。
◇ ◇ ◇
〈星天宮〉内の庭園のひとつ、小さな湖の畔に広がる『エメレットの庭園』で、各国の代表とその連れ合いを招いた園遊会が華々しく開催された。
エメレットとは、庭を設計した建築家の名である。そして、この庭が彼の生涯最後の作品だった。彼の熱心な愛好者であった先代皇王は、直々にその名を庭園の名称として遺したのだ。
元々この場所に存在した湖には、少しも手を加えていない。ただその畔の一部を〝画布〟と見立てて造られていた。
この庭は、さして建築や庭園芸術に興味を持たない者でさえ、ふとした瞬間に感嘆の溜息を漏らしてしまうという。人々の心に入り込み、涼やかな感動を与える庭がそこにあった。
「いや、実に見事な庭だ。大国アルトデステニアの主が住まうに相応しい」
湖を眺めながら、ふたりの男が言葉を交わしている。
〈アルトデステニア皇国〉の国主代行として参加しているレクティファールと、西方の強国〈シェルミア共和国〉の国王だ。
お互いの手には飲み物、顔には愛想笑い。
複製して貼り付けたような、華麗なる外交の場に相応しい光景だった。
「ありがたいお言葉ですが、私のような若輩が主では、この庭の設計者も冥界で嘆いていることでしょう」
「そんなまさか、今の貴国にレクティファール殿よりもこの庭に相応しい者はいないだろう」
「武人として名高いシェルミアの国王陛下にそう言って頂けるとは、欣快に存じます」
レクティファールが軽く頭を下げると、相手は照れ臭そうに苦笑した。その表情だけは、これまでのような仮面じみたものとは違うように見えた。
朽葉色の髪をざっくりと短く切った第一四代〈シェルミア共和国〉国王は、笑うと未だ青年と言って良い容貌をしている。肉体的にも衰えを感じさせず、国王としての経験もそれなりに積んでおり、まさに脂の乗り切った時期なのだろう。
機族として人間種の平均より長い寿命を持っている彼は、今年四十五になっているはずだ。一国の主としては、世襲制の国家を除くと若い部類に入る。
当然、レクティファールも同じ部類なのだが。
レクティファールは、機人としては異常なほど表情が豊かなこの男が、いざ戦いとなれば大陸有数の力を持っていることを知っていた。
超兵器〈装甲機兵〉。対龍族、対神族を目的として開発されたその力は、一撃で力ある神族をも滅ぼすとされている。
「正直、俺――いや、私も此度の一件で自分の未熟さを痛感した。君のような若人が国を守ろうと戦場に赴いたのに、私といえば首都の王宮で貴国を切り分ける算段をしていた家臣の動きにも気付けなかった。本当に、我国の行動によって命を散らした人々には申し訳ないことをした」
そう言って小さく頭を下げるシェルミア王。
今ふたりの周囲に他の客はいないが、それでも一国の王が容易くしていいことではなかった。
議会が国家の全権を持ち、国王が象徴でしかない〈シェルミア共和国〉とて、君主を戴く国家には違いない。その君主は、国民によって選ばれた国家の一機関であるという点が、皇国とは大きく異なるが。
「陛下……」
「これは私個人の気持ちだ。シェルミアとしては、また別の言葉を示すことになるだろう」
シェルミア王は硝子杯の中に浮かぶ自分の顔を見て呟いた。
嘗て〈アルマダ帝国〉の研究都市があった〈シェルミア共和国〉では、今も当時の施設が遺跡として出土する。
それ以前の第一次文明の遺跡も多く、そこの探索を生業とする冒険者や傭兵たちが集う国家として有名だ。しかも、それらの荒くれ者を支援、管理する各職業の同業者組合がいつしか合議によって政治を行うようになったのが、〈シェルミア共和国〉という国家の始まりとされる。
元々シェルミアは、各遺跡の近郊に、探索者を相手に商売をする人々が住み着いて生まれた、小さな街の集まりで、少なくとも国家としては纏まりに欠けていた。
そんな国家が大国と渡り合うために生み出した象徴が、現在の〈シェルミア共和国〉の首都でもある第一次文明遺跡『ヘリオス宮』から発掘された古代の超兵器〈装甲機兵〉を駆る国王。つまり今、レクティファールの目の前にいる男だった。
機人族以外に〈装甲機兵〉を操れるものが存在しないため、基本的に国王の婚姻は国家によって取り決められている。機人族としての能力を失うような交配は、避けなければならないからだ。
そういう意味では、単なる象徴であるはずのシェルミア王の方が、余程世間で言われる『国王』としての婚姻を全うしているのかもしれない。
「――さて、湿っぽい話はここまでにしよう」
シェルミア王が、その顔に笑みを戻してレクティファールに言う。
それに頷くレクティファール。謝罪の言葉は重ねるものではない。
「しかし、返す返すも残念だ。この集まりで、君の婚約者を見ることができると期待していたのだが……」
「我が連れ合いのひとりが未だ戦傷で臥せったままなのです。彼女を置いては表に立てぬと第一妃が申しまして」
「それは……君としても心配だろう。いや、私も見世物を強請るような物言いは不躾だったな、すまない」
シェルミア王はその後、幾らかの言葉を交換すると、「婚約者の傷が早く癒えることを願っている」との言葉を残して、自らの王妃のもとへと戻っていった。
王妃は標準的な機人族らしく感情の起伏に乏しいので、積極的に他国の重要人物と言葉を交わしている様子はなかった。夫が戻ってきたときも、ちらりとレクティファールを一瞥し、軽く会釈するに止まった。
しかし、今日のレクティファールの連れ合いも、感情の波が見えないという点ではシェルミア王妃と大差がない。
ただ――
「おお……! 黒龍公が三十四杯目の大皿を片付けたぞ……!」
「あの小さな身体の何処に入るのかしら……」
「今度はイズモの炊き込み飯を櫃ごとだと……ッ!?」
「まさか会場の食べ物を食べ尽くすつもりとでも言うのか! なんと剛毅な!」
招待客から浴びせられる視線と言葉は、彼の今回限りの相方の方が圧倒的に多い。
会場の中心近く、円卓に並べられた料理を無言で食らい尽くしている小さな龍公に、レクティファールは歩み寄った。見事に自分への注目を逸らしてくれた相手だ。
「味は?」
「良い」
「土産は?」
「いる」
「如何程」
「――全部」
「承った」
何とも気の抜ける言葉の応酬。
黒龍公アナスターシャはレクティファールを見ようともせず、ただ目の前の料理を摂取しながら答えた。
婚約者がひとりも参加できないレクティファールだが、流石に招待主が連れ合いを伴わないわけにもいかない。一度は、総大主教ミレイディアが参加してはどうかという意見も出たのだが、ミレイディア自身がそれを辞退した。本人は、これ以上政治に関われないと言っていたが、単に妹の機嫌を損ねることを避けたのだろうと、レクティファールは思っていた。
最近、リリシアは姉がレクティファールに近付くことを警戒している。
それでいて姉妹仲が悪化したという話は聞かないのだから、不思議なものだ。
「――話は、済んだ?」
アナスターシャが櫃のお代わりを所望し、給仕の女性がそれを取りに行っている間、ふたりはお互いの状況を確認する。
とは言っても、アナスターシャはこういった場所に馴染みが薄く、ひたすら食べているだけだ。
可憐と言ってもいい黒髪の女性がひたすら食物を口に放り込んでいる光景は、レクティファールならずともあまり見たくない。彼女の意図が理解できていても、限度がある。
彼はアナスターシャの興味を逸らすべく、会話を開始した。
「ええまあ。しかし、アナスターシャがこういう場所に出てきてくれるとは思わなかった」
「娘の代理。本当なら、もっと前に、紹介するつもりだった」
アナスターシャは温かい紅茶を啜り、少しだけ目を細めた。どうやら気に入ったらしい。蜂蜜入りだった。
「あなたが、北で足止め、されてたから……」
「それは悪いことをした」
「別に、娘も面倒臭がって、呼んでも、来なかったし」
「――――」
それはどういうことだろう。
つまり、北で足止めされていなくても結局会えなかったということではないだろうか。
「あの子、夢中になると、ご飯も寝ることも忘れるから」
「――難儀なことで」
「わたしも……本を読んでると、何故か、一週間とか経ってる」
「そうですか」
似たもの親子ということだ。
レクティファールはまだ見ぬ黒龍公女の姿を想像し、なるほど個性的な女性なのだろうと自分を納得させる。
「わたし、適当に、楽しんでるから……仕事してきていいよ」
「食べてるだけだろう……君の場合」
「こんな場所じゃ、食べる、以外の楽しみ、ないよ。それに、これが一番楽」
庭も、招待客との歓談も、彼女にとっては食事以下ということらしい。
連れ合いが見つからなくて困っていたレクティファールに、目くらましを兼ねて彼女を伴ってはどうかと提案したのは、彼から任された仕事と格闘していた蒼龍公マリアだった。彼女は一体どのような意図でアナスターシャを推挙したのか。
独身で、それでも摂政の相手として不足ない大身というだけなのだろうか。
単なる、自分に大量の仕事を回すレクティファールに対する意趣返しという可能性も否定できない。だが、レクティファールはそれについて深く考えないことにした。
「――腹痛など起こさないように」
「大丈夫、まだ三分目」
「そうですか」
最強種たる龍種に襲われ、城の厨房が戦場になっていることは間違いないだろう。
レクティファールは厨房の料理人たちにあとで慰労金を渡すことを決め、すごすごとその場を立ち去った。
大きく肩を落とした彼の横を、台車に載せられた大量の料理が通り過ぎていった。
◇ ◇ ◇
レクティファールはそのあとも、各国の国主や重要人物との会談を繰り返し行った。
外交の場に初めて放り込まれ、連れ合いは食べることに夢中という四面楚歌の中、彼は各国の思惑が予想以上に皇国を縛り、そして自分の身も束縛していると気付く。
会談中には、何度も他国の姫や名家の令嬢との縁談をそれとなく要請された。そして、実際にこの場にそういった若い娘たちが幾人か姿を見せてもいた。
彼女たちはレクティファールととりとめのない会話をし、これまでレクティファールが見てきた姫君たちとは違う〝箱入り〟ぶりを見せ付けた。彼女たちの大半は、勉強に使う本より重いものを持ったことがなかった。例外は、彼の婚約者たちの職業からその趣味を推し量った者によって送り込まれた、何人かの軍人や騎士としての籍を持った娘たちくらいである。
レクティファールは、彼女やその親の誘いを持ち前の――時折想い人たちを怒らせる――優柔不断さで躱し、あっちにふらふら、こっちにふらふらと園遊会の会場を徘徊した。
しかし、園遊会の本当の目的を知るレクティファールは、それでも十分に役割を果たしたことが分かっている。
今頃は華々しい宴の裏側で、血で血を洗う陰惨な外交戦が繰り広げられているはずだった。
レクティファールは、各国大使館や会員制の酒場など、皇都各地に散った外務院や皇王府の渉外担当官の健闘を祈る。
彼らは賞賛されることもなく、それでも国家のため、皇王のために結果を出してくる。
ある担当官は賠償金を、ある担当官は利権を、ある担当官は血筋を。
外交とは、舞台の上、照明の中で行われるものだけではない。
酒の席、閨の中などの、表舞台の光が生むあらゆる影の内側でも行われているのだ。
レクティファールはそれを知りながら、知らない振りをし続ける。
国主とは、知ってはならないことも多かった。
「――ただまあ、心の中で賞賛するくらいはいいでしょう」
陰においてですら忠義を示す渉外担当官たちに、彼は密かに感謝する。
彼らのような陰で働く者たちを忘れたら、きっと国主として失格だろう。
自分を生涯の伴侶として笑顔を向けてくれる婚約者たちを裏切る行いである。
レクティファールは、それを恐れる。
「笑顔が泣き顔になるって、すごい嫌だもんなぁ」
レクティファールに泣き顔を見て喜ぶ趣味はない。
嬉し泣きならともかく、悲しくて、許せなくて涙を浮かべた女性は趣味ではない。
「――うん、この世界に来てから女性の評価基準が高騰しっぱなしですね」
嫌な大人になったなぁ、と呟きながら、彼は笑顔で話し掛けてきた何処かの国の大使のもとへと意識を向ける。
〈皇剣〉の情報を意識内に広げ、戦闘準備を整えながら――
◇ ◇ ◇
敗軍の将となったグロリエにとって、敗戦の責を問われ、結果自分の育てた第三軍集団を取り上げられることは予想の範囲内だった。
無論、それが納得できるかは別だが、このような状況になった理由も己の立場も理解することはできる。
彼女は負けたのだ。それも、不倶戴天の敵である皇国の国主に、完膚なきまでに。
「グロリエ皇女の不敗神話は潰えた」
そういった市井の声も彼女には届いていた。
彼女自身、不敗神話などといって持ち上げられるのは好まない。だが、その神話が兵士たちの心の安定に繋がるというのなら、それもいいと思っていた。
しかし、それももうない。
グロリエを現人神のように見ていた兵士たちは困惑し、彼女に向ける視線を失望や悲嘆へと変化させた。
もう彼らを勝利に導く女神はいない。
作られた偶像であった『戦狂姫』グロリエは死に、敗将グロリエが誕生したのである。
彼女の帝国陸軍第三軍集団は、皇国と国境を接する封冊国のひとつ、〈アクィタニア王国〉の王都近郊にある、西方の攻撃により各所が寸断された帝国国境防衛線の補修材にされた。そして、その実戦力の大半を喪失する。
優秀な将兵ほど前線に送られ、グロリエの手元にはこれから育てようと思っていた若く未熟な将兵だけが残された。
皇国の追撃は、非積極的ではあっても消極的ではない、良将の名に相応しく実に理性的で効率的なものだった。グロリエとその軍団は、その追撃を振り切り、都市奪還を強く求める〈ウィルマグス〉の旧支配層を宥めながら、やっとの思いで自国の勢力圏に帰還した。しかし、命を捧げてきたはずの祖国に裏切られる形となったのである。
大半の兵士はその処遇に渋々ながら納得した。
しかし、一部のグロリエ恩顧の将兵は、帝国政府ひいてはグロリエの父でもある〈新生アルマダ帝国〉帝王に対して、憎しみに近い感情さえ抱いた。
彼らにとってグロリエとは、自ら望んで兵士たちと泥の河を渡り、新兵と鍋を囲んで雑草を食し、一兵士の結婚式にさえ祝いの品を贈るほど、自分たちを愛してくれる指揮官なのだ。雲の上の帝王などより余程絶対的な君主と言ってもいい。
彼女の兵士たちへの態度が、一介の兵士から軍歴を歩み始めた祖母の教育の産物だったとしても関係ない。帝都や自分の領地に引っ込んで享楽に耽り、ときに子どもが新しい玩具を欲しがるように人を攫い、自分たちが贅沢するための税ばかり課してくる有象無象の帝族とは違う。少なくとも将兵たちはそう思っていた。
だからこそ、第三軍集団は大陸有数の軍事大国、〈新生アルマダ帝国〉の中でも最強の軍団と恐れられるようになったのだ。
将兵が将の将たるグロリエを信じ、グロリエもまた自分の愛する軍団を信じて用いた。その信頼関係こそが彼らの強さだった。
こと将兵と君主との間に形成される信頼関係に限って言えば、グロリエは勝軍の将である〈アルトデステニア皇国〉摂政レクティファールに何ら劣るものではない。むしろ、その信頼関係の醸成に多くの時間を費やしてきた分、勝っていると言える。
今回のグロリエの敗北は、彼女と彼女の軍団の責任ではなく、もっと大きな――皇国と帝国の、戦いに向ける意識の違いから導かれた結果に過ぎない。
意識の違い、それは大戦略と言い換えることもできる。
皇国は、内乱を僅かな時間で治めた摂政レクティファールの下で勢いに乗り、皆が祖国を護り抜くという気持ちで戦いに臨んだ。
これまでの内乱では抑え込まれていた軍部の鬱憤を、帝国軍へと向けたレクティファールの采配が当たったというべきだろう。
それに相応しい兵力、兵站、情報を揃え、機を逃さず一気に帝国軍を駆逐。そして北方辺境領を確保し、それが場当たり的な侵略ではないことを証明するように、優れた手腕で併合地を治めている。
対して帝国は、皇国の内乱に乗じて攻め入り、本来の指揮系統を変更してまで、西方の諸国を相手に戦っていたグロリエを東方戦線に送った。
当たり前のことだが、大陸を横断するに等しい距離を長駆した第三軍集団に、疲れがなかったはずがない。
また、装備なども完全に揃えることができなかった。輸送態勢が整っておらず、自動人形部隊は足止めを食らい、本来届くはずの物資も遅れがちであった。
グロリエ個人の努力だけではどうにもならないものが、そこにあった。
帝国が戦力で上回り、皇国が地の利を得、将の厚みに大きな差がない両国の勝敗は、実はそういった直接的な武力衝突以外の面で決定付けられたのだ。
「――君の敗北を聞いて驚きはしたが、それを恨むようなことはしない、グロリエ」
「お言葉、痛み入ります。ディトリア兄上」
アクィタニア王城の庭園は、植えられた木々が様々に色付き、雪に閉ざされる前の最後のときを楽しむことができた。そこに建てられた四阿は、おそらく一〇名程度であれば雨風を気にすることなく過ごせる広さを持っている。
その中央辺りで、駒を配した赤黒の遊技盤が載った円卓を挟んで向き合う二つの影。先程の言葉を発したのはその二つの影だった。
〈アクィタニア王国〉国王と、帝国第一三姫。
グロリエという女性を知る者なら、その謙虚な言葉遣いに驚いたことだろう。しかし彼女とて、自分のせいで他者に迷惑を掛ければ、それを『悪』であると判断して、それ相応の態度を取る。特に自身が尊敬する相手がその対象であれば、態度はより分かり易いものになる。
〈アクィタニア王国〉を統べる国王ディトリアは、帝国の封冊国であるが故に『陛下』とは呼ばれない。だが、その身体に纏う覇気と威厳はグロリエの父――現〈新生アルマダ帝国〉帝王、クセルクセス一〇世と較べてもそう劣るものではない。しかも、ディトリアは単に覇気と威厳があるだけではない。
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