白の皇国物語

白沢戌亥

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7巻

7-3

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 彼には、努力や教育では届かない次元の〝はな〟というものがあった。
 朽葉色くちばいろやわらかな髪と鼻筋の通った美しくも優しげな面立おもだちは、男としては異常とも言えるほど美しかった。それゆえに皇子や皇太子と呼ばれていた頃は、数多あまたの貴族令嬢れいじょうや有力商家の娘たちと浮名を流し、気に入って落籍させた娼妓しょうぎの数は三けたに届くという。
 しかし、彼が今の妻をめとって以来それらのうわさは完全に途絶とだえた。
 愛人の中には、彼の子を身篭みごもったという者もいた。しかし、彼は彼女たちも含めて、女性関係をすべて清算してしまった。愛人やその子どもらは、彼らの望んだ場所で、女は新たな伴侶はんりょを得て、子どもは本当の父の顔も名も知らずに過ごしているはずだ。
 当時から帝王家の次期総領としての才能を開花させつつあったディトリアが気に入っただけあって、愛人たちは自分の立場を良くわきまえていた。
 そんな、多くの女性と関係を持った彼をして『生涯しょうがい唯一の恋』と言わしめた現〈アクィタニア王国〉王妃リールとの大恋愛は、ひそかに幼いグロリエにも影響を与えた。
 皇太子という立場や輝かしい未来を捨ててまで自分の意志を貫くというその姿勢は、間違いなくグロリエの中で息衝いきづいている。それが彼女特有の、傲慢ごうまんさにも似た強烈な自信に繋がっているのだ。
 しかし、突然その自信を突き崩す存在が現れた。今のグロリエのしおらしさは、そんな事実もひとつの原因だろう。

「〈ウィルマグス〉から逃れた民たちは、私が責任を持って預かろう。元々あそこは我国の一部。二十五年前に〝帝室直轄ちょっかつ領〟になったからといって、彼らを他国の民とは思わない」
「はい」

〈ウィルマグス〉から脱出した都市の旧支配層は、ある程度状況が落ち着くと、グロリエや帝国に対して財産の補償を求めた。〈ウィルマグス〉失陥しっかんは帝国軍、ひいては帝国政府の失策であると声高に叫ぶ彼らに対し、グロリエは私産を削って当面の生活費を支給した。
 グロリエに続いて、帝国政府も彼らに対する損害の補償を決め、彼らの財産の内、現金や土地など政府に保管された資料に記載されているものは、七割が補填ほてんされることになった。
 さらに、奴隷どれいや家畜といった時間の経過と共に価値が変わるものについては、直近の政府評価額に基づいて補償されることが決まる。
 ただ、彼らが非公式に蓄財していた表に出せない資産――脱税した所得や賄賂わいろなどの、不正に手に入れた物や金――は当然補償の対象外となった。
 グロリエは、彼らに対し誠意をもって当たった。
 これまでの傲岸不遜ごうがんふそんな態度を軟化なんかさせ、自分にできる精一杯の補償を彼らに与えた。
 だが結論から言えば、旧支配層はグロリエや政府の与えた補償に満足することはなかった。
 彼らの資産の過半が、〈ウィルマグス〉という都市によって築かれたものだからだ。都市の支配層であるからこそ得られた物は、都市を失った彼らの手から次々とこぼれ落ちていってしまう。
 例えば、〈ウィルマグス〉で展開していたため、都市失陥しっかんと同時に倒産した企業の証券などに、政府は価値を見出さない。また、支配層という立場があったからこそ得られていたも、もう手に入らない。
 商人は店を失い、職人は工房を失い、教師は教え導く子と学びを失い、官僚は運営するべき都市を失った。
 彼らが〈ウィルマグス〉という都市で今まで築き上げてきたあらゆるものが、都市の喪失そうしつによって失われたのだ。
 単純な損害の補償で、それらは埋められない。明確な形を持たないがゆえに補償することは不可能だった。
 しかし、旧支配層からすれば、不可能という一言で納得できるものではない。
 彼らの考えにグロリエが気付けなかった。そして、それが帝国国内の新たな騒乱そうらんの火種となることを。彼女は帝族であり、無意識に他者の上に立つ種類の人間であった。
 価値観が違うのである。
 グロリエにとって価値のあるものが民たちにとっては無価値であり、グロリエにとって無価値でも民たちにとっては大きな価値のあるものが存在する。
 新たな土地をてがわれても、その土地の性質が合わなければ、畑にも牧場にもならないことをグロリエは知らない。
 畑であっても、それがどんな作物に適した畑か、グロリエには分からない。
 牧草の種類も、生える場所も、気温も湿度も、それらはすべ酪農家らくのうかが代々時間を掛けて築き上げてきた財産なのである。
 商人たちの持つ販路。職人たちの手に馴染なじんだ道具。子どもたちの持つ友人たち。これらも同じだ。
 どれひとつとして、補償できる者はいない。
 人々の間に不満が蓄積していくことを、グロリエは気付かないままであった。

「しかし、君をああも完全に負かすとはくだんの摂政もあなどれないな。とにかく、〈ウィルマグス〉とその周辺の帝室直轄ちょっかつ領が根刮ねこそぎ皇国に落ちた今、我が王国は皇国との争いの最前線になったということか……」

〈アクィタニア王国〉単独では、当然皇国に対抗することができない。それなのに、皇国はその勝利によって帝国国内を大いに聳動しょうどうさせ、国内の故国独立派を活発化させることで、戦力の再編成を困難なものにしてしまった。
 グロリエの第三軍集団が解体されて各戦線に送られたのも、独立派と対することを考慮した結果と言える。帝国への忠誠を期待することができ、その上である程度の練度を持った部隊が必要とされたからだ。
 兵力、号して一〇〇〇万。
 後備こうび、予備を含めた数ではあるが、世界中を見ても、それほどの陸軍力を持つ国は珍しい。
 しかしその大兵力も、大半が徴兵ちょうへいによって集められた平民に過ぎない。平民たちの間でひそかに広がる帝国政府への反発と、その政府からの分離独立を目指す動き、ディトリアはたった一度の敗北で動揺する祖国を見て、心の内で大いに嘆息した。
 帝国はいつの頃からか、国家としての老いが表面化するようになってきた。民衆の間では現政府に対する不満がまっており、特に執政側の横暴がおびただしいと言われる辺境地域では、武力による民衆ほうも珍しくない。
 これまで帝国は、民衆の不満という内側からの圧力を外に向けること――つまりは周辺国に対する外征がいせいで発散させてきた。これは一番手っ取り早く、結果が誰の目にも分かり易く、そして政府が比較的容易に制御できる不満の解消方法であった。
 武功を挙げれば上に行ける。楽な暮らしができる。誰かをしいたげることで、自分がしいたげられることがなくなる。そんなことを思う若者たちが帝国軍という巨大な軍事力を形成した。
 帝国の不満解消法は、諸外国への軍事的圧力だけではなく、国内の叛乱はんらん勢力に対する有力な圧力として機能することにもなった。そしてそれは、帝国政府が望んだことだった。
 しかし、その帝国政府の政策は建国から三百年経った今、破綻はたんしかけていた。
 国土が広がり、国力は増強された。だが、それは帝国の場合、国民生活の向上に直結しない。
 一部の有力者、富裕層は確かにその恩恵を受けて大いに財を増やしたが、大半の国民は度重たびかさなる外征とその外征を行う体制を維持するために必要な金や物資、人の消費にあえいでいる。
 そこへ、これまでにない大敗だ。
 レクティファールとグロリエの直接対決となった最終局面での被害は、一度の武力衝突でこうむった被害としては異例である。だが、戦役すべてで見た場合、軍の物的な損失は決して多くない。それでも常勝姫将軍たるグロリエが敗北し、封冊国ほうさくこくの一部とはいえ国土を失ったことは、帝国に衝撃を与えた。
 そして、静かに破綻はたんが始まっている。
 いつか訪れることが分かり切っていた『敗北』。
 どんな存在でも、勝利し続けることは不可能なのだ。それゆえ、君主や指揮官は、常に敗北の可能性を忘れてはならないのに――

(我国は、勝利に慣れ過ぎていた)

 勝利と敗北は常に背中合わせ。勝利の裏には必ず敗北があり、逆もまたしかり。
 だが帝国は、その強大な軍事力によってもたらされた勝利に慣れてしまった。多くの将兵が、いや帝国の国民さえもが、勝利が当たり前であると思い、勝利を前提に歯車を回すようになってしまっていた。
 だから、たった一度の敗北が大きく響く。
 相手が建国以来の仇敵きゅうてきであり、また敗軍の将がグロリエという帝国きっての勇将だったことを考慮しても、帝国政府、国民の動揺ぶりは、滑稽こっけいを通り越して哀れみさえ抱くほどのものだった。
 ただ、ディトリアのべる〈アクィタニア王国〉では、対皇国戦の最前線になったというのに、国民の動揺は驚くほど少ない。
 これは、王国の国民がディトリアという国王を信頼していることと、国民の三割近くが亜人で占められているからだった。
 皇国が、亜人を始めとした知恵ある者どものほとんどを国民として扱っていることは有名であった。かつての帝国でしいたげられる側にいた彼ら亜人たちにしてみれば、皇国という国家を憎む理由がない。
 そして、そんな亜人たちと暮らすことに慣れた〈アクィタニア王国〉の人間種にとっても、皇国が帝国政府の言う『屍肉しにくむさぼる獣』や『女子どもの区別なく蹂躙じゅうりんする悪鬼』の集まりでないことは明白だった。
 無論、〈アクィタニア王国〉のすべての国民がディトリアを信じ、皇国に敵意を持っていないわけではない。
 帝国本土からの移民者は皇国の侵攻を恐れていたし、〈ウィルマグス〉の旧支配層のように他種族をしいたげることが当たり前の人間たちは、皇国の民を獣同然の蛮族ばんぞく看做みなしていた。

「だが、負けたものは仕方がない。――帝都に戻るのだろう?」
「はい、第三軍集団がなくなった今、元帥げんすいとしての任を全うできません。父上の言葉に従い、帝都の陸軍本営に……」

 陸軍本営――大本営の内にあり、帝国陸軍を司る陸軍参謀本部のことだ。グロリエは父の言葉に従い、その参謀本部の特別軍令顧問として赴任ふにんすることが決まっている。
 大仰おおぎょうな役職名ではあるが、実際には元帥げんすいとしての実権を振るうことができない。グロリエを帝都にしばり付けるためだけに作られたただの名誉めいよ職だった。
 第三軍集団司令官という肩書きは残され、軍令顧問と兼任という形になっているが、指揮する部隊のいない彼女には何の意味もないことだった。

は近いうちに帝都へ向かうことになりましょう。陛下の召喚しょうかんを受けておりますので、ですがその前に、こうして兄上と話す時間が持てて良かった……」

 グロリエは心の底から安堵あんどしていた。
 彼女にとって兄は、間違いなく帝王の器を持つ傑物けつぶつだった。未だに継承権を放棄ほうきしたことが信じられないくらいである。
 そんな兄があの皇国の『龍』に負けるなど考えたくもないが、あの戦場を経験してもなお自分のうちの〝絶対〟を信じられるほど、彼女は純粋でも幼稚でもなかった。
 兄が万事物事を上手く進めても、兄の目と手の届かない場所で最悪の事態が起こることもある。そしてそのたったひとつの最悪が、兄の作り上げた〝必勝〟を一瞬で破壊してしまうのだ。
 グロリエ自身、もう一度皇国摂政レクティファールと相対そうたいして勝利を収められるとは断言できない。
 彼女の知る中で最も優れた将であるディトリアと、自分を敗軍の将という立場に追い遣ったレクティファール。どちらが勝ち、どちらが負けても、彼女は納得するだろう。
 グロリエにしてみれば両者とは、それほどに拮抗きっこうした存在だった。
 だが、グロリエ個人にとって両者の価値は等しくない。
 兄はあの好敵手よりも重んじるべき存在であった。

「兄上、あの男をあなどってはなりません。あれとやいばを交えるまで『所詮しょせん何処どこの生まれとも知れぬ成り上がり』と、の部下も毎日飽きもせずさえずっておりました。しかし、ここへ逃げ戻る道中でそれを口にする者はおりませんでした。彼らは同じ口で『皇国摂政は帝国の敵手として不足なし』とつぶやき、しかしに見えぬところで震えていたのです」

 彼女は二万の兵による都市奇襲という奇策を、最後まで読めなかった。
 あれほど絶望的な戦力差の中、こもっている要塞ようさいを破壊するに足る兵器をこちらが保有していると判断した瞬間、あの男は躊躇ためらいもせず自分の手の内にある最強の札――良将ガラハ――を切った。要塞ようさいの守りを薄くしてまで、その切り札に持たせられるだけの戦力を持たせたのだ。
 少数精鋭せいえいの奇襲ならばグロリエも予想していた。
 それに対処できるだけの兵力も指揮官も残した。
 だが、レクティファールはその一点において、確実にグロリエの上を行った。
 最大の戦力を相手の最も弱い所に叩き付ける――戦術にも戦略にも最上の手として存在するそれを、レクティファールはグロリエ相手にやってのけた。グロリエは、完全に「相手の手は読みきった」というおごりを突かれる形となった。
 レクティファールはその直後、自陣をグロリエに強襲されて同じことをやり返されたのだが、それで彼の成し遂げた戦術的戦略的勝利が揺らぐことはあり得ない。
 むしろ、重装近衛騎兵の精強さを頼りにして相手をおどかしただけのグロリエに比べれば、ひとつ高い場所の勝利にも見える。少なくとも、グロリエはそのような感想を抱いた。

「兄上は、あの男といずれやいばを交わすことになるでしょう。は兄上が敗北するなどと――信じたくはありません、ありませんが……」
「ああ、分かっている、我が妹」

 ディトリアは思う。
 皇国との戦いにおもむく前の妹姫ならば、兄の勝利を疑うことはなかっただろう。しかし、たった一度の戦いで愛しい妹はその価値観を一変させた。
 いいや、一変させることができたと言った方が良い。
 グロリエは敗北を、それこそ自身が認めるほどの敗北を経験すべきだったのだ。そしてそれは、隣国の次期元首の手によってなされた。
 ディトリアは会ったこともない隣国の摂政に無言の感謝を捧げた。
 これで妹はまたひとつ上らなければならない階段を見つけることができた。成長する余地を手に入れたのだ。

「だが、お前の心配はしばらくあとのことになりそうだ」
「は……?」

 グロリエは兄の言葉が理解できず、しばし呆然ぼうぜんとした。
 そして、彼女は自分の背後に迫る小さな影にも気付かなかった。
 影は少しの間、グロリエの背後でその様子をうかがっていたが、彼女が自分に気付いていないと察すると少しの躊躇ためらいもなく動き始めた。
 一息の準備。大きく息を吸い、身体を屈めて目標を定める。

「――ッ」

 だが、影が意を決して一歩を踏み出したとき、目標はその接近に気付いてしまった。
 帝国の戦姫せんきまさしく戦いに生きる姫君であり、影のような小さく弱き者が、出し抜こうと思って簡単に出し抜ける相手ではなかったのだ。
 グロリエは一挙動で振り返ると、自分に向かい背後から飛び掛ってきた影を認め、両手を広げてそれを迎えた。

「叔母上ッ!」
「おお、マイセル。叔母上だぞ!」

 影――〈アクィタニア王国〉第一王子にして王世子おうせいしたるマイセル・ファス・アルマダは、幼い頃の父親によく似た愛くるしい笑顔で、グロリエの胸に飛び込んだ。
 叔母の豊かな胸に顔を押し付け、ぐりぐりと動かす。マイセルの頭にある狼のそれに似た三角の耳をなかばまで隠す、やわらかな蜂蜜色の巻き毛が、グロリエのほおくすぐった。
 グロリエは先程まで浮かべていた暗い表情を一変させて満面の笑みになると、おいの頭をくしゃくしゃと少し乱暴にでる。

「マイセル、いい動きをするようになったな! 義姉上あねうえそっくりだ!」
「うん! もう父上と追いかけっこしても捕まらなくなったんだ!」
「そうか、そうか! じゃあもう少ししたら、が捕まえなくてはならなくなるな!」

〈龍殺し〉たるグロリエならば、野山を縦横に駆け巡る狼の獣人の血を引くマイセルの動きにも、付いて行けるだろう。
 人間種であるディトリアは、既に一年も前に逃げる息子に追い付くことができなくなっている。ましてや捕まえることなどできはしない。
 今ではディトリアの妻と、その妻の一族から召抱えた使用人が、マイセルの遊び相手だった。
 グロリエはマイセルを抱いたまま、ぐるぐると回り始める。マイセルが嬉しそうに笑い声を上げると、その回転は勢いを増した。
 人間種であればすぐに目を回してしまいそうな勢いで回るふたりは、傍目はためには少し歳の離れた姉弟のように見える。そしてグロリエは、事実このおいを弟のように見て、可愛かわいがっていた。
 そんなふたりに、四阿あずまやの外から声が飛んだ。

「マイセル、わたしの坊や、父上と叔母上のお話の邪魔をしてはいけません」

 良く通る女性の声。
「義姉上」と、その声を聞いたグロリエが回転をゆるめていく。やがて完全に回転は止まり、グロリエはマイセルを抱え直して、声の主である義姉に向き、一礼した。

「――お久し振りです、義姉上」
「ええ、本当に久し振りね。グロリエ、皇国との戦いのことは国王殿下から聞いているわ。良い負け戦だったわね」

 濃い銀毛を特徴とする月狼げつろうの獣人である王妃は、その特徴通りの三角耳と尻尾の毛並みを綺麗きれいに整えていた。
 彼女は笑顔でグロリエに応え、先の戦いをそう評する。彼女自身も元軍人であり、その経歴から感じたことなのだろう。彼女は別段兵士たちの命を軽んじているわけではないし、グロリエもそれを知っていた。
 グロリエは物事を真っ直ぐに見詰め、評価する義姉のそんなところが、非常に好みだった。彼女自身は気付いていないが、そんな義姉の美点は、彼女自身にも備わっている。
 ディトリアは、妹と妻がまるで血の繋がりを持つ姉妹のようにも見え、苦笑した。

「はい、良い教訓を得ました。次はもっと上手く戦えます」
「ならば犠牲ぎせいになった兵たちもむくわれましょう。彼らの命、あなたのかてになったのよ」
「はい」

 義姉の教え諭す言葉に、グロリエは神妙にうなずく。
 傲岸不遜ごうがんふそんという言葉が良く似合うこの帝国の第一三姫だが、こうして人から何かを教えられることに関しては従順だった。無論、教えを授ける相手とその内容によるが。
 リールはグロリエの真っ直ぐな眼差まなざしに満足すると、ほんの少しの躊躇ためらいの後、自らの背後に声を掛けた。頭の上に生えた銀色の三角耳が、困ったように震えた。

「マティリエ、叔母上にご挨拶あいさつなさい」

 小さい、息をむ音。
 四阿あずまやの柱の陰からのぞいているのは、リールと同じ濃銀の尻尾だ。
 その尻尾は持ち主の気持ちを示すように力なく揺れており、グロリエは思わず苦笑してしまった。
 どうやら愛しいめいは、相も変わらず人見知りが激しいようだ。彼女はひざを折り、その場に屈んだ。

「マティリエ、そこでは顔が見えない。可愛かわいい顔を見せてくれ」

 両腕を広げて敵意のないことを示す。まるで警戒心の強い動物でも誘うようなその姿に、リールとディトリアが笑いをこらえる。肩を震わせる両親を、マイセルが不思議そうな顔で見上げた。

「お、叔母上……その……」

 声と同じ拍子ひょうしで尻尾が揺れる。

「もう九つになったのだろう。誕生日に戻ってこれなくて済まなかった」
「いいえ……! 叔母上様は、その、戦いにおもむいておられると父上にお聞きしておりましたから……」

 言葉とは裏腹に、その尻尾は気落ちしたようにれ下がってしまった。
 尻尾で感情を示す獣人にとっては、言葉よりも尻尾のほうが余程よほど正直だ。グロリエは仕方なく自分から近付くことにした。

「――マティリエ、次の誕生日はきちんと祝いに来る。だから許してはくれないか?」
「叔母上様……」

 グロリエが回りこむと、柱の陰に隠れていた濃銀の狼姫おおかみひめがその灰色の瞳で彼女を見上げてきた。
 おびえとは違う瞳の揺れは、おそらく期待。
 人一倍臆病おくびょうな狼は、それゆえに人一倍寂しがり屋だった。
 それを母性とも言うべき本能で理解したグロリエは、マティリエをそっと抱き締める。飾り布の多い衣裳いしょうに包まれた小さな身体が、ビクリと震えた。

「大丈夫だ、はお前を嫌いになったりしない。お前の前から去った連中と一緒にするな」

 グロリエは優しく、それこそレクティファールが聞けば別人ではないかと思うような声で、めいをあやす。
 帝国の姫でありながら獣人という、帝国と獣人族のどちらにも受け入れられない存在であるマティリエ。彼女は数年前、友人たち――と彼女が思っていた――に一方的に排斥はいせきされるという経験をしていた。
 それまではマイセルと同じように明るく活発だったマティリエだが、獣人であるという本人には如何いかんともしがたい理由で拒絶されて以来、今のように人を、そして人との別れを怖がるようになった。

もお婆さまがいなければ、単なる戦奴隷いくさどれいにでもなっていただろう。単に力を振るうためだけの、動物だ」
「そんな、叔母上様は……」

 ――こんなにも人々に愛されている。マティリエの言葉は音にならなかった。

「良い、所詮しょせん仮定だ。今のにはマティリエがいて、マイセルがいて、兄上や義姉上がいる。を将と認めてくれる兵もいる。が戦うに十分な理由だろう」
「――――」

 グロリエの腕の中で、マティリエはうなずいた。

「お前にもいずれ分かる。は知らんが、母上いわく――女は妻となれば夫を守りたくなり、母となれば子を守らずにはいられないらしい」
「あの、わたくしには……」
「うむ、分かっている。婚約もまだのマティリエにはよく分からないだろうな。正直、にもさっぱりだ」

 グロリエはめいと顔を合わせると、小さく舌を出して笑う。
 マティリエが、それにられるように小さく笑った。

「グロリエ、マティリエ、お茶が入りましたよ」

 ふたりの背後でリールが呼ぶ。
 ふたりはもう一度笑い合うと、どちらともなく手を繋いで四阿あずまやの真ん中までのほんの少しの距離を歩いた。


     ◇ ◇ ◇


 五人でお茶を飲んだあと、ディトリアは再びグロリエとふたりだけで話す場をもうけた。
 彼らのいる四阿あずまやから見える庭には、グロリエの持ってきたお土産みやげの模型飛行機械を飛ばして遊んでいるマイセルと、それに引っ張り回されているマティリエ、そして我が子を微笑ほほえみと共に見守るリールの姿があった。
 ディトリアは自らの家族に視線を向けたまま、口を開いた。

「グロリエ、ひとつ聞きたいことがある」
「何でしょう、兄上」
「レクティファールという男は、どんな男だ」

 グロリエはその問いにかすかな戸惑いを見せた。
 あまりにも漠然ばくぜんとした問い掛け。答えにきゅうした。

「それは、どのような意味でしょう」

 だから、えて問い返した。
 しかし、しばらく待ってもディトリアはその質問に答えることはせず、ただ別の言葉を口にした。そのときのディトリアの表情は、付き合いの深いグロリエをもってしても、何も見て取ることはできなかった。

「――マティリエに、縁組の話が来ている。良縁と、まあ言えなくもない」
「なんと……!」

 純粋に、ただ驚くグロリエ。
 いずれはあのめいも誰かにとつぐのだろうと思っていたが、まさか自分よりも早くとつぐとは思わなかったのだ。
 しかも、帝国が大きく揺れているこの時期に出てくる話ともなれば、その輿入こしいれの目的は帝国内の連携の強化にあるはずだった。特にディトリアは、未だ帝国中央に隠然たる影響力を持っているので、その令嬢れいじょうの婚約は多分に政治的なものだろう。
 グロリアはそう考えた。


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