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第四章:万世流転編
第十四話「紅賛歌」 その二
しおりを挟む朝日が燦々と降り注ぐ浴室。より正確に言うなら東第十二号浴場では、フェリエルが目に隈を浮かべた徹夜明けの様相でふらふらと歩いていた。
裸身を隠すこともなく、背後でおろおろしている担当侍女の様子にも気付かない。適当に纏めた髪が歩くたびに解れてしまっても、それにさえ気付かない。
「くそう……『花』を甘く見ていた」
フェリエルはぼそりと呟き、身体の芯を焦がす衝動に忌々しげな表情を浮かべた。これまでの『花の季節』では感じたことのない膨大な熱量が身体の奥底から湧き上がってくる。
「ファリエルは大丈夫なのか?」
そう呟きながら、彼女は妹の姿を探す。いつもならほとんど同じ時間に起床し、同じ時間に、同じ大浴場を使う。それは示し合わせた訳ではなく、無意識に互いの目的を同期させているからだ。
そのせいか、寝起き――特に意識がぼやけている間は、彼女たちは別の部屋でほとんど同じ動きをするという。これは本人たちも知っていることだ。
これを便利だと思うかどうかは分からないが、レクティファールが好奇心から寝惚けたふたりと会話し、まったく同時に頷いたり答えたりすることを確認している。
何故レクティファールがその場に居たかについては、敢えて触れない。
フェリエルはのろのろと歩を進め、ようやく妹を見付けた。
「んあ? 姉さん?」
ファリエルが居たのは、少し奥まった場所にある水晶風呂だ。
特定周波数の振動を発する人工水晶で造られた浴槽は、その内部の液体にその振動を伝える。その振動によって中にいる者の血流などを活性化させ、身体の凝りを解す。
リリシアが呪詛の如き声で「持つ者専用の湯」と呼ぶ浴槽である。確かにリーデなども時折入りに来ているようだった。
「そっちはどうだ」
フェリエルは自らも水晶の浴槽に身を沈め、隣にいる妹に問う。敢えて訊く必要もないことだが、会話のきっかけとしては悪くない。
ファリエルは微弱な振動を受け、熱い吐息を漏らしながら答えた。
「一昨日より昨日、昨日より今日、もうそろそろ限界だわー」
「やはりか。甘く見ていた」
「甘くも何も、母さんたち何にも教えてくれなかったじゃん。昨日通信入れたら超ニヤニヤしてたし」
ふたりは、前日の夜半までレクティファールとフレデリックが激論を交わしていたことを知らない。その議論の結果、レクティファールがスヴァローグ公爵家当主やその配偶者に受け継がれる秘伝の書の一部を借り受けたことも当然知らなかった。
その書にはスヴァローグ系龍族の特徴や体質などが膨大な実測情報を元に記録されており、一族の存続に一役買っているのだ。
本来ならば男性当主か、女性当主の配偶者に受け継がれるべきものだが、今の公爵家には継承者がいない。
フレデリックは娘との夜の生活を婿に教授するという状況に耐えかね、レクティファールを暫定的な継承者として書の継承を行ったのである。
無論、それはふたりの公爵妃には筒抜けだ。ファリエルが見た母親たちの表情にはそういった理由があった。
「何考えてるんだろうねー。あー、きくぅううう……」
ファリエルの気の抜けた声を聞きながら、フェリエルは考え込む。
どうやら彼女が選んだ男は双子の現状についてある程度正しい認識をしているようだ。その点については安心したが、問題はまだある。
「仕事はどうする」
「どうもこうも、そろそろ出勤停止命令出るんじゃない?」
ファリエルの言葉は正しかった。
その張りのある双山をお湯の上に覗かせていたファリエルは、何か書類を携えた侍女が近付いてくるのに気付いた。
侍女はふたりのお付きの侍女――上官だった――に一礼すると、ふたりに最敬礼した。湯に浸ったまま最敬礼を受けるという経験はあまり慣れるものではない。ふたりは壁に預けていた身体を起こし、侍女に顔を向けた。
「ご報告します。先ほど皇国陸軍本営よりフェリエル様、ファリエル様に対する無期限の出勤停止命令が発令されました。これは皇王府総裁閣下よりの要請を受けての処置となります」
侍女はその旨が記載された命令書をふたりに示した。
皇王府から陸軍の軍人であるふたりに直接命令を下すことはできない。しかし、陸軍総司令部に要請を出し、陸軍総司令部から医官としてのふたりに命令を出すことはできるのだ。
龍族の女性に限らず、日常生活に影響が出るほど強い『花の季節』がある種族の男女にはこういった命令が下されることがあった。
フェリエルたちは医官であり、他人の命を預かる職務を負っている。通常の業務に耐えられないと判断されても不思議ではなかった。
「命令を受領した」
「同じく」
フェリエルとファリエルが答えると、侍女は再度一礼して立ち去った。ふたりが命令を受諾したという通知を陸軍総司令部に送らなくてはならない。
その背中を眺めていたファリエルは、やがて大きく吐息を漏らすとぐったりと身体を伸ばした。
「あー、前回まではこんな命令出なかったのにー」
今回の命令は、彼女にしてみれば責任ある仕事を極々個人的な理由で取り上げられたということになる。不満を抱いても仕方がない。
「仕方がない。これも伴侶を得た龍族の宿命だ」
フェリエルはそう言ってファリエルの頭を撫でた。
彼女が妹に向けた言葉には、自分自身に言い聞かせるという意味もあったのかもしれない。
「人が常に自分の望む役目を果たせる訳じゃない。我らの伴侶が、最初から望んで今の地位に居たわけではないようにな」
そんな事実が歴史に残されることはない。
しかし、彼女たちはそれを聞き、知ることになった。ふたりが新たに役目を負ったからだ。
皇妃としての役目を。
「せいぜいレクティファールをこき使おうじゃないか。こういうときでもなければ、皇王を従者にすることなんてできないんだから」
「姉さんはいつも似たようなことしてるでしょうに」
ファリエルは呆れたように言う。
彼女は姉が、夫に寝酒や酒肴の準備をさせていることを知っている。一度ならずともその場にいたことがあったのだ。
ただ、彼女自身がレクティファールを同じように扱ったというのも、事実だが。
「こういうときぐらい、甘えるのもいいということさ。我が皇殿は甘えられるのが好きらしいと聞くしな」
「――誰が言ってたのよ、それ」
「夜警総局の局長殿」
「ああ、なるほど……なるほど」
ファリエルは熱っぽい溜息を吐き、お湯に顔を着けた。
ぶくぶくと湯の中で泡を吐く彼女の顔は、笑っていた。
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