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2章「暁の鏡とさ迷える魂」

5.君の譲れないもの

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「母さん、姉ちゃんは?」
「まだ帰ってきてないで」
「そっ、か」
 あの日から、誉の姉は家に帰ってきていない。誉たちが火の塊を逃してしまったから、取り返すために動いているのだろう。そのことは、いわれずとも誉にも把握できた。
「俺、ジョギングしてくる!」
「雨降りそうやでー?」
「降りそうなだけやから!」
 タオルとペットボトルに入れた水を持って、家から出る。鬱々としそうな気持ちを、走ることで振り切ろうとした。
 急な坂を登り切り、堤防の上へ出る。高校に行く時とは違い、階段を下りる。川の側を誉は黙々と走り続けた。 

 鼻から吸い、口から吐き出す。一定のスピードを保ったまま走る。少し先の赤土の地面を見つめて走っていたが、顔を上げる。すると、コンクリートで覆われた凹型の堤防に、見慣れた姿を見つけた。
「あれっ、岸辺くん」
「日諸祇くん。ジョギング?」
「うん。岸辺くんは読書?」
 片手を上げて走り寄って行くと、岸辺は読んでいた分厚い本を閉じた。これまた、おどろおどろしい表紙の本だった。こんな時間帯に、こんな表紙の本をここで読んでいて、不審がられないのだろうか。
「水の傍って、時間が穏やかに感じるんだ」
 首にかけているタオルをとり、額の汗を拭う。
「なんか分かるかも。落ち着くやんな」
 隣いい? と訊くと、岸辺はうん、と頷いた。凹んだ部分に尻をのせ、誉は背伸びをする。肩に乗って寝ていた鬼神さまは、誉の胸の辺りを滑り落ちて膝の上に場所を映した。
「二人はいつも一緒なんだね」
「うん。俺、今世さまがいいひんと幽霊も視えん、ダメな浄霊師やから」
 日向ぼっこを満喫する鬼神さまの背を撫でながら言う。それを見た岸辺は、膝に置いた手を握り締める。
「す、凄いよね、日諸祇くんは。俺と一緒で、普通の家の出なのに……ちゃんと試験合格して」
「ちゃうちゃう、俺はただ、鬼神さま馬鹿なだけやねん」
 手を振りながら言うと、岸辺は眉を上げ、目を丸くさせた。
「鬼神さま馬鹿?」
「うん、俺、今世さまと一緒におるためだけに浄霊師になりたかったんや。試験合格したんも今世さまのおかげ。凄いのは俺やのおて、今世さまなんや」
 寝てる鬼神さまを両手で包んで持ち上げて見せる。だが、岸辺はまた自分の膝に目線を戻してしまう。
「そっか…凄いね。俺にはそういうのって、ないよ」
「や、岸辺くんにもきっとあるて。まだ分からへんだけで、近くにあるんちゃうかなあ」
「そうかな?」
「そやで! せやから、探してみいひん? 岸辺くんの、誰にも負けへん気持ちを!」
「う、うん」
 拳を作り、なっ! と強く言ってみると、やっと岸辺は強張った顔の筋肉を緩めた。
「それに、岸辺くんがこの前、色々教えてくれへんかったら、きっと今世さまとこうしていられなかったと思うんや。岸辺くん、ありがとうな」
「ううん、役に立てたなら良かったよ」
 はにかむ岸辺を、誉は微笑ましげに見ていたが、ふいに思いついてあっと叫んだ。
「な、なに?」
「岸辺くん、こういう妖怪って知らへん!? あんな――」
 腕を掴んで詰め寄ると、この間の三和の時と同じく、岸辺はのけ反った。
「それは、二魂坊の火じゃないかな」
「二魂坊?」
 首を傾げると、岸辺は本当に鬼神さま以外に興味がないんだね……と苦笑する。
「昔、二階堂の辺りに二人のお坊さんがいたんだって。一人は日光坊っていって、朝の読経が上手だった。もう一人は月光坊っていって、夕方のお勤めが上手だった。二人は自分の苦手な分野を補ってくれる相方を、好ましく思っていたんだけど、周りはそれが鬱陶しかったみたい」
「ああ、嫉妬しいひんくてええ人に嫉妬する人っておるよな」
 うんうんと腕を組んで頷くと、岸辺は、
「僕はちょっと、この人たちの気持ちも分かるけどね……やっぱり、自分に才能がないと羨ましくなるよ」
 と口の中でもごもごと弁明するように呟いた。
「僕はしないけど、その人たちは、二人にお互いの悪口を言って、嫌わせようとしたんだって」
「ネガティブキャンペーンってやつやな!」
「ちょ、ちょっと意味が違うかな」
 誉がこれは知っているぞと自信満々に言い切った言葉に、岸辺は首を捻らせる。
「日光坊は気にしなかったんだけど、月光坊は気にしちゃって、日光坊を恐れ始めたんだ。ある夜、二人で話をしないとどうにもならないと思った日光坊が月光坊の所に行ったんだけど、月光坊は自分を殺しに来たんだと思って、錫杖で日光坊を突き刺して殺してしまったんだ」
「えー、錫杖で人って殺せるんー? あれってそんなに殺傷力あったっけ?」
「さ、さあどうだろう……。ご、ごめん。ちょっと静かにしててくれないかな」
 話が進まないよと言われた誉は、ごめんと言って口を閉じる。
「それで、月光坊は殺人罪で、この川の畔で処刑されてしまったんだ」
 岸辺が目の前の川に向かって指を差す。家から五分程で着く川で、そんなことがあったということを、誉は知らなかった。
「死んでも自分たちを嵌めた人たちへの恨みが消えなかった月光坊は、火の塊になって人を遠くから見つめている。そういう経緯で伝わっている妖怪だよ」
 いつの時代の話かは分からないが、長い間恨んできているのだろう。妖怪とは、なにかしらの想いを胸の内に秘めさせて生まれてくる生き物なのだろうか。
「やっぱり、月光坊を成仏させてあげんといかんのかな」
 両端を長い草で囲まれた川を見つめながら呟くと、岸辺はそうかな? と返してきた。
「僕は、人を恨んでいるのは日光坊の方もだと思うけど」
「え、なんで?」
 岸辺の方を見る。岸辺は、近くに落ちていた細い木の枝を拾い、地面に文字を書いていた。自分のまるっこい字とは違い、大人っぽい、ほどよく簡略化された字を誉は横から眺める。
「二つの魂の坊主、と書いて二魂坊なんだ。もし日光坊が人を恨んでいないとしたら、一魂坊になるんじゃないかな」
 あー、と頭を縦に動かす。
「二人とも、自分の傍に会いたい人がいることに気づいていないだけなんじゃないか、って僕は思うんだよ」
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