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1章「桜の鬼と百合の約束」

10.十年の想い

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「この通りじゃ」
 チン、と刀を鞘におさめる音が聞こえる。草の上を歩く乾いた音が聞こえる。姿がこの目で見える。
 そしてなにより、鬼神さまに触れることができる。先程の、小さな手の感触は、夢でもまやかしでもない。現実のものだ。
「儂は守ってもらわんでも」
「鬼神さまあーっ!」
 両手を上げて、鬼神さまの元へ駆けていく。ぎゅうぎゅうと強く抱き締めると、鬼神さまは誉の腕の中で暴れた。
「鬼神さま、鬼神さまっ、会いたかったです! 俺っ、ずっと!」
 鬼神さまは頬ずりすると、ほんのりと甘い花の香がした。さらに激しく手足を動かし、逃げようとする。
「小さい頃から好きなんです!」
「ええい鬱陶しい! 離さんか!」
 顔を小さな手で押される。その手を優しく包むと、ぽっと誉の右手の甲が光った。
「えっ、う、うわ!?」
 慌てて鬼神さまを下し、左手で押さえてみても、光は消えない。それどころか、どんどん膨れ上がってくる。やがて光は収束していき、一つの光の塊になった。
「なんや……これ」
 触れても、感触はしない。勿論感電もしない。もう一度触ってみようと思い、手を伸ばす。だが、光の塊はふーっと誉から離れ、上空へ急上昇していく。そして高校のある山の方へ真っ直ぐに飛んでいってしまった。
「い、今のんが、先生の言ってたサイン?」
 光が向かって行った方を見ながら、誉は呟いた。鬼神さまは、目を丸くし、口元に袂を当てて見ていた。だが、すぐに我に返って誉から飛びずさった。
「あっ」
 猫のようにしなやかに離れた鬼神さまは、慌てて岩の中へ飛び込んでいこうとする。
「待って、鬼神さま!」
 誉は夢の中と同じように手を伸ばす。
「昨日の夜、僕の部屋に来てくれたのは、あなたですか?」
 夢の時とは違い、今度は手が握れる、触れ、止めることができた。
「教えてください、鬼神さま」
 夢でも幻でもなく、現実で鬼神さまと会うことができた。
「……そうじゃ」
 それだけでも、十分すぎる程に嬉しい。
「俺、あなたに憧れて、浄霊師になるために勉強してるんです」
「浄霊師になろうと思ったきっかけが鬼のう……おかしいないか?」
「おかしいないです。だって、俺っ、小さい時にあなたを見たんです! さっきみたいに、なんや白いふわふわしたものを切って、俺を守ってくれました!」
 鬼神さまの手を、両手で包みこむ。あの時、頭を撫でてくれた手だ。こんなに小さかったんだと、今になってから知った。
「鬼神さまのおる、この町が好きです」
 鬼神さまの指にそっと唇を寄せる。唇に当てた手は、冷たくなく、温かい。
「俺は、鬼が怖いとは思いません」
「そうか」
 風が吹き、木がざわめく。先程とは違い、白い花ではなく緑の葉が散る。春の柔らかい緑とは違い、夏の青々とした緑だ。鬼神さまの髪に落ちた葉を、指で摘まんで取る。
「俺のパートナーになってもらえませんか?」
 今まで、どんな女の子にもしたことがないような、優しい笑顔で話しかけた。すると、鬼神さまは驚いたように誉を見上げてきた。
「それは……できん」
「えっ、ど、どうしてですか!?」
 眉を寄せ、手をそっとはずさせられてしまう。
「儂は、この町を守らねばならんのじゃ。ここを離れるわけにはいかぬ」
「この町を、ですか」
「この町だけを、じゃ」
 首を振った鬼神さまは、誉の頭に手を置き、撫でた。
「どうしても、ダメですか?」
「大切な者と、約束をしたんじゃ。すまぬが、諦めてくれ」
 鬼神さまはそう言い切った後、黒い岩の中に入っていってしまった。そして、その日はそれっきり出てきても、話してもくれなくなってしまった。
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