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「えー! 紀ノ川さんって、弟いるの?」
 ちくわの肉巻きを口に入れたところで、女子の甲高い声が聞こえた。
 五十分の昼休みを、生徒たちは各々好きな場所で過ごす。女子たちは、教室の隅に集まって、楽し気に弁当をつついていた。
「え、紀ノ川さんって、弟いるの?」
 隣の、近藤亜美の席の椅子を無断拝借し、俺の机にミルクティーを置いている佐野は、パンを貪り食いながら驚いたような顔をした。いつもは俺の弁当のおかずを欲しがってくるが、今日はミルクティーに合わないからか欲しがらず、女子からもらったというカップケーキを俺へ差し出した。「俺、甘いの苦手だから」とほざいているが、それはまるきり嘘であることを知っている。追及すれば、こういうの好きだろうからあげる、とのことだった。それならそうとはっきり言えばいいものを、佐野はこういうところがある奴なのだ。何やら想いの込められていそうなカップケーキを前に、俺は食べるべきか否か悩みつつ、にんじんのたらこ炒めを頬張った。
 パンやら弁当やら、日によって形を変える佐野の昼食とは異なり、俺は毎日弁当だ。作るのは俺だ。もちろん、母の分も作っている。しかし、早起きは苦手なので、週末におかずをまとめて作って、冷凍している。朝は、それらを半解凍して適当に詰めるのだ。炊き立てのご飯をさまし、真ん中に梅干しでも置いておけば、立派な弁当になる。
「なあ、知ってた?」
 佐野は、こそこそと俺に訊いてくる。
「何が」
「何がって、紀ノ川さんに弟がいること」
「…………」
「何だよ、その苦虫を嚙み潰したような顔は」
「今嚙み潰してるのはにんじんだけど」
「そんなことは聞いてねー」
 佐野は、教室の隅の女子たちに興味深々だった。それも無理はない。
 女子たちの会話の中心にいる紀ノ川莉子は、学年、いや、学校一の美少女だった。イケメン佐野どころの話ではなく、学校外にもファンがいて、ファンクラブまであるのだから、本物の中の本物だった。佐野は、紀ノ川さんには一目置いているようだった。何かと、紀ノ川さん情報を聞けば飛びつくし、一挙手一投足を観察しているような時もある。以前、紀ノ川さんのことが好きなのかと訊いてみれば、「紀ノ川さんを好きなのは泉井だろ」と返されてしまった。間違ってはいないので、否定はしなかった。しかし、この学校の生徒はみんな、紀ノ川さんが好きと言っても過言ではないはずだ。それくらい、紀ノ川さんは輝いていて眩しくて、みんなの憧れなのだ。
「うん。今、中二」
 可憐な声が、耳の奥へ爽やかな風となって届く。可愛い顔、可愛い声を持つ少女は、きっとこの地球上で、猫と並ぶ最強の生き物だ。これは個人的見解である。ほんわかとした気分になっていると、甲高い声がそれをかき消した。
「写真とかないの?」
「見せて見せて!」
 気付けば、紀ノ川さんのスマートフォンに女子たちが群がっていた。熱心に何を見ているのかと言えば、話の流れからして例の弟だ。
「めっちゃ美形家族か! これじゃあ両親もよっぽどでしょ!」
「芸能事務所とか、入った方が良いよ!」
「姉弟そろって芸能界デビューしなよ! 勿体ない!」
「いやいやいや。芸能界は闇だって聞くし、私も弟も、あんまり興味ないんだよ」
「ええー、そうなの?」
 佐野は、耳をダンボにしていた。食べる手も止まっている。
「佐野、静止画になってんぞ」
 つんつんと突いてやれば、我に返ったように瞬きをした。一度に二つのことは出来ないのだ。聖徳太子には、どうしたってなれそうもない。思い出したようにパンに噛り付くと、宙を見つめながら眉間に皺を寄せている。
「紀ノ川さんの弟って、どんなだろうな? イケメンらしいけど」
「あー、なー」
「なーって、泉井は興味ないわけ?」
「ないっていうか」
 知っている、とは言い出せなかった。言えば、いろいろと突っ込まれると思ったからだ。
 何を隠そう、ここ最近何かと俺に絡んでくる男子中学生、紀ノ川樹は、俺のクラスメイトである美少女紀ノ川莉子の弟なのである。
「ま、そうか。可愛い妹だったら興味湧くけど、男だもんな」
「あー、そーだな」
 適当に同意しながら、ちらと美少女紀ノ川さんを見つめる。
 いつ見ても可愛い。日々の癒しである。目元なんかは弟に似ている気はするが、全体的な雰囲気は全く違う。ふんわりとした和み系の姉と、何を考えているか分からない突撃系の弟。これがもし妹だったら、違っただろうか。ふいにそんな馬鹿げたことを考えてしまって、嫌気が差す。
「泉井? どうした? ひでー顔」
「お前と違ってどうせ俺はひどい顔だよ」
「お? 何だ? 鬱のターンが来たか? 良いぞ良いぞ、もっと自虐しろ」
「おい!」
「冗談だって」
 佐野は、けらけらと何も考えていないような顔で笑っている。顔が良いって得だな、としみじみ思う。しかしその分、背負う苦労もありそうだが。佐野は笑うのを止めると、両肘をつき、顔を両手に置いて俺をじっくりと見つめて来た。紀ノ川さんがやれば雑誌の表紙レベルのポーズだろうが、佐野がやったところで何の感慨も湧かない仕草である。
「泉井は自分のこと平凡って言うけど、俺はお前の顔そこそこだと思ってる」
「ああ、そう。そりゃどーも」
「何つー顔してんだよ。ほら、俺の前でも、こんな感じでにこーって笑ってみ?」
「笑って欲しいなら、俺を笑わせてみせろよ。一発ギャグくらいなら見てやる」
「何だよ泉井。悩みか? 思春期の悩みか?」
「うるせー」
 顔を背けるも、佐野はけらけらと笑うばかりだ。
「あんな小っちゃかった泉井君も、今はもう高校生だもんなあ。感慨深いよ」
「佐野は俺の親戚のおじさんか?」
「何言ってんだ。心の友だろ」
 おいおい、と佐野はおどけたように肘で俺をつついた。こんなことを恥ずかし気もなく言ってのけるのが、佐野が佐野たる所以である。昔から、こいつはこういう奴なのだ。
 思い返せば、佐野との付き合いは小学生時代まで遡る。記念すべき、嬉し恥ずかし一年生で同じクラスになり、偶然隣の席になったのだ。話しかけてきたのは、たぶん佐野だ。それ以来、今でも何となくこんな感じでやっているのは、佐野の功績だろう。当時から何かと俺に付きまとってきて、からかう風でありながらも常に俺の味方でいてくれた。一緒にいた時間が長い分、それだけ他の友人たちよりも扱いが雑になっている自覚はあるが、これでもそれなりには信頼している。気遣う必要もないし、一緒にいて楽と言えば楽だった。俺と佐野が心の友であるかはさておき、友人であることに間違いはない。
 そんなことを考えてぼうと黙っていると、佐野は「え」と声を上げた。
「何だよ泉井! 俺たちって心の友じゃなかったのかよ!」
「ああ、いや、心の友っていう言葉には、ジャイアニズム的なさあ」
「そんなことは聞いてねー」
「佐野君」
 俺が適当なことを言いかけた時、上方から声がした。
「あれ? 相川さんだ」
 顔を上げると、俺の前の席、相川絵美が立っている。返事をしたのは俺なのにも関わらず、その視線は佐野へと向けられていた。相変わらず情熱的である。佐野はそれを真正面から受け止め、うって変わってよそよそしい笑顔を浮かべていた。二人を交互に見つめてみれば、温度の差がはっきりと表れている。
 俺は知っていた。相川さんは、佐野陸が好きなのである。その好意はあからさまで、「私、佐野君が好きなの」と思い切り公言していることから、このクラスの全員が知っている。それに対して佐野は、公式的には何の反応も示していないことになっているが、俺にだけは「タイプじゃねーの」とこっそり打ち明けていた。
 相川さんは一見、普通に可愛い女の子である。ここまで愛を示されているのであれば、タイプじゃないと切り捨ててしまうのはいかがなものか、と俺も当初は思ったけれど、何と言うか、佐野の気持ちも全く分からないわけではない。何と言ったものか、少し、癖のある人なのだ。
 相川さんは「食事中にごめん」と断りを入れてから、机の上に置いてあるカップケーキを指差す。
「それ、この後食べてくれるの?」
 佐野は、はたと俺を見つめてから、薄く微笑んで相川さんを見上げた。これも、佐野の余所行き用の顔だ。
「ああ、まあ」
「そっか……ふふふふふ」
 相川さんは、そのまま俺たちに背を向け、行ってしまった。いったい何だったのだろう。佐野と顔を見合わせると、佐野は「な?」と俺に耳打ちした。
「なって何だよ。相川さんが作ったものを俺に食べさせようとしてたのかよ」
「今の聞いたか。食えないだろ、さすがに」
「だからって俺に食わせるなよ! このカップケーキ食べたら、俺刺されるだろうが!」
「大丈夫だって」
 こそこそと至近距離で会話をする。大きな声だと、聞こえる可能性があるからだ。佐野の端正な顔が、「泉井なら平気だろ」と謎の自信を持って勧めて来る。
「俺、市販のなら良いんだけど、他人の手作りは無理なんだよ。おまけに相川のあの感じだろ? 何が入ってるか分かんねーし、バレンタインデーとかまじ地獄」
「俺の弁当つまみ食いする口でよく言うな」
「いやいや、泉井君は特別なんです」
「何だよその敬語。何が入ってるか分からないものを他人にやるなよ」
「食べ物は粗末にするなって、親から言われてんだ」
「その心がけは大事だと思うけどさあ」
 俺は、カップケーキをじっくりと見つめる。外見だけではどうにも判断出来ない。普通に美味しそうなカップケーキに見えてしまう。しかしこれは、あの相川さんが佐野にあげるために作ったものだ。意識してしまえば、どことなく紫っぽい煙が出ているような気がする。いや、気のせいなのだが。
「泉井は俺の母親より料理上手だからな」
「女子力高いと思われたくないから、他言すんなよ」
「泉井が料理上手なこと? 別に、誰にも言ってねーよ。てかそれって、女子力なの?」
「さあ?」
「強いて言うなら生活力っぽくねえ? 料理出来る方がモテそうじゃん」
「え、そう?」
「どっちにしろ俺は言わねーけど」
 佐野は大きな一口でパンを食べ終えると、ミルクティーをごくごくと飲んだ。
「そうなの? むしろ俺がモテるためには、そういうところをアピールしていくべきか?」
「アピールすることで泉井のおかずが食えなくなるのは困る。泉井のおかずは俺のもの」
「だからそういうジャイアニズム的なさあ」
 そうこう言い合っている間に俺も弁当を食べ終えてしまって、残るはカップケーキ一つになる。ジャイアニズム的な話は終わらないままだが、すでにそんなことはどうでも良くなっていた。俺は口を閉ざし、手に取ろうとしてみて、やはり無理だと手を引っ込める。
「いや、これはさすがに」
「いけるいける! 泉井ならいけるって!」
「いやいやいやいや」
 相川さんの顔が浮かぶ。
 紫色の煙。これは幻覚だろう。甘い匂い。これは現実。嗅いでみれば、美味しそうな匂い。これも現実。
 どうしたものか。
 前方からは、「いけるいける」と鼓舞する声。「うるせー」と言ってみたところで止む気配はない。
 いけるのか? いけるのか俺は?
 ぐるぐると悩んだ果て、カップケーキは、相川さんの隙を見て俺が急いで食べた。味は普通に美味しかった。媚薬だとか毒だとか、得体の知れない何かが入っている様子はなかった。佐野が平然とした顔で、「俺は泉井が作ったカップケーキが食いたい」と言ったので、グーで軽く殴っておいた。結局、杞憂だったという話である。
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