紀ノ川さんの弟が何を考えているのか分からない

糸坂 有

文字の大きさ
7 / 29

しおりを挟む
 その日の放課後のことだ。
 席の近い加藤たち数人に元気に挨拶をし、三番手で教室を出た俺は、その天使のような声に足を止めた。
「泉井君!」
 この声を聞き違えるはずはない。期待して振り返ると、そこには想像通り、まばゆいほどの美少女が立っていた。直視できずに目を瞬かせていると、「大丈夫?」と近寄られる。よけいに大丈夫ではなかったが、「大丈夫」と笑顔で返答する。心に栄養がチャージされていくようだ。美少女は世界を救う。
「今日、また樹がお家にお邪魔するみたいで、いつもありがとうね。朝から嬉しそうに言ってたよ」
 俺の笑顔は、心なしか引きつった。
 俺にやたらと懐いている中学生、紀ノ川さんの弟、紀ノ川樹。そのきらきらとした視線を思い出し、俺はもう一度笑顔を浮かべる。
「あ、そう? いやあ、別に何するってわけでもないんだけどさあ!」
「泉井君のこと、家でもよく話するんだ。いつもありがとう」
「いやいや、とんでもない!」
 紀ノ川さんは、神が丁寧に心を込めて作ったような、整った顔を俺へ向けた。眩しい。あまりにも神々しい。
 本来なら、紀ノ川莉子とは、俺のような平凡高校生が親し気に会話出来る存在ではない。それが可能たらしめる理由は、まさしくあの弟である。
 弟と出会ったきっかけは、紀ノ川さんだった。俺がいつも通うあのスーパーで、偶然紀ノ川さんを見かけたのだ。そこで紀ノ川さんは、安売りだったというレモングラスジュースを箱買いしていた。さすが、紀ノ川さんともなると飲んでいるジュースが一味違う、と感動しているのも束の間、どうやって持ち帰るのだろうという疑問がふつふつと湧き出た。それまで挨拶程度しか交わしたことがなかったが、一生分の勇気を振り絞り下心ありきで訊けば、弟に連絡をしたので、一緒に持ち帰るとのことだった。残念半分、安心半分でいると、台車を持った例の弟が慌てたようにやって来た。それが、俺とあいつの初体面だった。
 数か月前の話が、やけに懐かしい。弟は俺の難題と成り果てているが、もしそこにポジティブな意味を見出そうとするのなら、紀ノ川莉子と接点を持てるようになったことだろう。あいつが紀ノ川さんの弟だからどうこう、というのは考えたことはないが、これはけっこう大きなことだ。普通の人間は、紀ノ川さんと会話することすら出来ないまま一生を終えるのである。
「樹があんな風に人のこと話すことってなかったから、ちょっと嬉しいんだ。これからも仲良くしてあげてね」
「こちらこそ」
 あいつは、いったい俺のことをどんな風に話しているのだろうか。
 笑顔で手を振ると、紀ノ川さんはきらきらと星を振りまきながら去って行った。周りの凡庸な人間たちは、その星を必死に拾い集めて生きる糧とするのだ。俺も拾いたいところだったが、直接会話をしたという出来事そのもので満たされていたので、落ちているそれは他の生徒に譲ることにした。あまり強欲なのはいただけない。それよりも、今考えるべきは弟のことである。
 紀ノ川さんの言葉を思い返しながら、廊下を歩く。
 そういえば、俺は弟のことをよく知らないな、と突然ふと思った。
 毎回質問攻めをされて、俺が答えるばかりなのだ。あいつがどういう人物で、普段何をして過ごしているのかなんて、今まで考えたこともなかった。一緒にいるくせに、俺は何も知らないのだ。
「……二人で何しよう」
 今日この後、弟が家にやって来たところで、俺は現在ノープランである。何も考えていない。いや、考えなかったわけではないが、決められなかったのだ。
 以前家に遊びに来たあいつとは、ボードゲームやトランプをやりながら時間を過ごした。家だと誰もやってくれないとのことで、弟が紀ノ川家からわざわざ持参してきたのである。今回もそうであれば良いなと内心で思いながら自転車にまたがった。一人っ子で、両親も早くに離婚をしたせいかは分からないが、あまり俺はそういう機会に恵まれなかったのである。
 家に着いて、電気を点ける。一日の内最も嫌な作業なのだが、この日は他に気を取られていたので、造作もなく出来た。たまにはこういう気分の時もある。
 手洗いうがいをして、着替えをしてから、少しだけ部屋を片付けておく。どうしたものかとぐるぐる部屋を回っていると、インターフォンが鳴った。
 来た。数秒硬直し、息を吸って気持ちを整える。出て見れば、そこには想像通りの人物がいた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

バイト先に元カレがいるんだが、どうすりゃいい?

cheeery
BL
サークルに一人暮らしと、完璧なキャンパスライフが始まった俺……広瀬 陽(ひろせ あき) ひとつ問題があるとすれば金欠であるということだけ。 「そうだ、バイトをしよう!」 一人暮らしをしている近くのカフェでバイトをすることが決まり、初めてのバイトの日。 教育係として現れたのは……なんと高二の冬に俺を振った元カレ、三上 隼人(みかみ はやと)だった! なんで元カレがここにいるんだよ! 俺の気持ちを弄んでフッた最低な元カレだったのに……。 「あんまり隙見せない方がいいよ。遠慮なくつけこむから」 「ねぇ、今どっちにドキドキしてる?」 なんか、俺……ずっと心臓が落ち着かねぇ! もう一度期待したら、また傷つく? あの時、俺たちが別れた本当の理由は──? 「そろそろ我慢の限界かも」

あなたと過ごせた日々は幸せでした

蒸しケーキ
BL
結婚から五年後、幸せな日々を過ごしていたシューン・トアは、突然義父に「息子と別れてやってくれ」と冷酷に告げられる。そんな言葉にシューンは、何一つ言い返せず、飲み込むしかなかった。そして、夫であるアインス・キールに離婚を切り出すが、アインスがそう簡単にシューンを手離す訳もなく......。

陰キャ系腐男子はキラキラ王子様とイケメン幼馴染に溺愛されています!

はやしかわともえ
BL
閲覧ありがとうございます。 まったり書いていきます。 2024.05.14 閲覧ありがとうございます。 午後4時に更新します。 よろしくお願いします。 栞、お気に入り嬉しいです。 いつもありがとうございます。 2024.05.29 閲覧ありがとうございます。 m(_ _)m 明日のおまけで完結します。 反応ありがとうございます。 とても嬉しいです。 明後日より新作が始まります。 良かったら覗いてみてください。 (^O^)

君に不幸あれ。

ぽぽ
BL
「全部、君のせいだから」 学校でも居場所がなく、家族に見捨てられた男子高校生の静。 生きる意味を失いかけた時に屋上で出会ったのは、太陽に眩しい青年、天輝玲だった。 静より一つ年上の玲の存在は、静の壊れかけていた心の唯一の救いだった。 静は玲のことを好きになり、静の告白をきっかけに二人は結ばれる。 しかしある日、玲の口から聞いた言葉が静の世界を一瞬で反転させる。 玲に対する感情は信頼から憎悪へと変わった。 それから十年。 かつて自分を救った玲に再会した静は玲に対して同じ苦しみを味合わせようとする。

推しのために自分磨きしていたら、いつの間にか婚約者!

木月月
BL
異世界転生したモブが、前世の推し(アプリゲームの攻略対象者)の幼馴染な側近候補に同担拒否されたので、ファンとして自分磨きしたら推しの婚約者にされる話。 この話は小説家になろうにも投稿しています。

聖女召喚の巻き添えで喚ばれた「オマケ」の男子高校生ですが、魔王様の「抱き枕」として重宝されています

八百屋 成美
BL
聖女召喚に巻き込まれて異世界に来た主人公。聖女は優遇されるが、魔力のない主人公は城から追い出され、魔の森へ捨てられる。 そこで出会ったのは、強大な魔力ゆえに不眠症に悩む魔王。なぜか主人公の「匂い」や「体温」だけが魔王を安眠させることができると判明し、魔王城で「生きた抱き枕」として飼われることになる。

虐げられた令息の第二の人生はスローライフ

りまり
BL
 僕の生まれたこの世界は魔法があり魔物が出没する。  僕は由緒正しい公爵家に生まれながらも魔法の才能はなく剣術も全くダメで頭も下から数えたほうがいい方だと思う。  だから僕は家族にも公爵家の使用人にも馬鹿にされ食事もまともにもらえない。  救いだったのは僕を不憫に思った王妃様が僕を殿下の従者に指名してくれたことで、少しはまともな食事ができるようになった事だ。  お家に帰る事なくお城にいていいと言うので僕は頑張ってみたいです。        

ノリで付き合っただけなのに、別れてくれなくて詰んでる

cheeery
BL
告白23連敗中の高校二年生・浅海凪。失恋のショックと友人たちの悪ノリから、クラス一のモテ男で親友、久遠碧斗に勢いで「付き合うか」と言ってしまう。冗談で済むと思いきや、碧斗は「いいよ」とあっさり承諾し本気で付き合うことになってしまった。 「付き合おうって言ったのは凪だよね」 あの流れで本気だとは思わないだろおおお。 凪はなんとか碧斗に愛想を尽かされようと、嫌われよう大作戦を実行するが……?

処理中です...