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天正元年九月七日の条

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「殿下、今日はどのようなお話をお聞かせ願えますか?」
「そうじゃな。今日はまた、毛利家とのやり取りについて話そうかの。」
「ということは、まだ毛利家と交戦する前のことでございますな?」
「そうじゃ。天正元年九月七日、足利将軍家が毛利家に庇護を求めてきたことについて、余が返書を下したのじゃ。この頃の毛利家は、領国の安定を図っており、足利将軍家を推戴して、織田家にとって代わろうという野心は微塵もなかったのじゃ。むしろ、足利将軍家に頼られて困惑しておったのじゃ。よって、足利将軍家の処遇について織田家に相談してきたのじゃ。」
「なるほど。確か、足利将軍家は、天正元年七月十九日に京を追放されましたな。足利将軍家としては、何としても失地を回復したい。当然、誰に庇護を求めるかということになりましょうが、生憎その頃は、武田家も信玄入道が没し、頼りになりませぬ。よって、中国地方の覇者である毛利家を頼ったのでございますな。」
「そのとおりじゃ。もう一つ理由を挙げれば、将軍家は、織田家と毛利家はいずれ戦になると見込んでおったろうな。実際、毛利家に敵対する大名が織田家に誼を通じてきておったからの。毛利家が織田家と戦になれば、毛利家としても大義名分がいる。そのとき、足利将軍家が毛利家にあれば、織田家を朝敵とみなすこともできるからの。足利将軍家は、己の価値をそこに見出したのであろうな。」
「かねてから腑に落ちなかったのですが、右府様は足利将軍家を成敗することは考えなかったのでしょうか?」
「なかなか鋭いのう。正直、余も当時は、お主と同じように考えた。足利将軍家を名実ともに葬ってしまえば、禍根は残るまいに、とな。じゃが、今になってみると、追放という手段しかなかったのであろうなと思うようになったわ。では、聞くが、仮に右府様が足利将軍家を成敗してたらどうなったかの?」
「恐れながら、右府様が足利将軍家を成敗されたとしても、大勢に影響はないと思われます。織田家と並ぶ勢力の大名は、もはやその時点でおりませぬからな。事実、毛利家や本願寺も織田家に膝を屈したではありませぬか?なにより、足利将軍家は、右府様のご尽力で上洛を果たされにもかかわらず、大恩ある右府様を除こうとされたではありませぬか?その事実をもってしても、足利将軍家は成敗されて然るべきかと存じます。」
「確かに、“今”から振り返れば、そのように見えるわな。お主の申すとおり、足利将軍家が右府様を除こうとしたのも事実じゃ。じゃが、それでも右府様は足利将軍家を葬るつもりは、なかったであろうな。まあ、正しくは、葬りたくとも葬れなかった、というべきじゃろうな。」
「葬りたくとも葬れなかった、とはいかなることでございましょう?」
「もちろん、右府様とて、足利将軍家を生かしておけば、誰かが足利将軍家を旗印とすることは考えられたはずじゃ。右府様御自らが足利将軍家を推戴したのだからの。じゃから、葬れるものなら葬りたかったはずじゃ。じゃが、もし足利将軍家を葬ってしまえば、“逆賊”という誹りは免れん。右府様は、その点を最も気になされたはずじゃ。」
「“逆賊”ですか?拙者には、足利将軍家こそ“逆賊”に見えますが。」
「ははは、織田家の立場で足利将軍家の行い“だけ”を見ていれば、そのように思うのも無理はない。じゃがな、下剋上といわれるこの世も、あくまで足利将軍家を筆頭とした武家社会であることに変わりはない。たとえ実力はなくとも、将軍であるという事実において、足利将軍家は別格なのじゃ。確かに、右府様は足利将軍家の後見じゃ。じゃが、後見は、織田家でなければならない道理はない。たまたまあの時は、織田家の他に足利将軍家の後見を果たせるだけの力をもった大名がいなかったに過ぎぬ。そして、織田家が足利将軍家の後見という立場をとる以上、足利将軍家のご意向を一番に考えねばならないということじゃ。別の言い方をすれば、足利将軍家の“見方”がまかり通るということじゃ。足利将軍家と織田家の意向が一致している限り、齟齬は起きぬ。じゃが、足利将軍家と織田家の意向が食い違うと、足利将軍家からすれば後見であるはずの織田家が足利将軍家を蔑ろにしたという理屈が成り立つ。足利将軍家が曲がりなりにも将軍という権威を維持できているのは、織田家の働きがあってこそじゃ。じゃが、足利将軍家はそのようには考えぬ。足利将軍家からすれば、織田家は足利将軍家に謀叛を起こしたという形になる。となれば、足利将軍家は織田家を朝敵とみなし、正義は足利家にあると主張できる。事実、足利将軍家はこのような理屈で、毛利家や武田家、本願寺に対して右府様を討伐するよう要請された。このような状態で、足利将軍家を葬ったらどうなるであろう?織田家は、足利将軍家を葬っただけにとどまらず、足利将軍家を筆頭とする世の中全てを敵に回すことになる。いかに織田家の勢力が他を圧倒しているとはいえ、さすがに全ての大名と戦を交えるほどの力はない。その上、足利将軍家を失ってしまえば、織田家も将軍の権威に頼ることはできなくなる。つまり、織田家が足利将軍家を後見するという形で、天下静謐を担うといったことができなくなる。だからこそ、右府様は足利将軍家を葬らなかったのじゃ。」
「ううむ…。どうも今一つ得心が行きませぬ。確かに、足利将軍家を右府様が葬ってしまえば、将軍を弑逆したとして、朝廷を初めとして、全ての大名の標的になってしまうことでしょう。さりながら、足利将軍家を京から追放しても、毛利家や他の大名が足利将軍家を推戴して織田家に敵対すれば、結果として織田家は朝敵となり、他の大名からも狙われることになりましょう。拙者などは、同じ結果になるなら、いっそ足利将軍家を葬ってしまえと思うのですが…。」
「その点は、非常に微妙ではある。じゃが、やはり余は足利将軍家を追放するのと弑逆するのでは、天と地ほどの違いがあると信じておる。そもそも、右府様は足利将軍家を追放さえしたくはなかったと思うておる。足利将軍家は単に将軍としてありさえすれば、織田家にとっては利益こそあれ、不都合はないからの。じゃが、足利将軍家は織田家の意向を無視し、あまつさえ織田家を除こうとした。右府様は、足利将軍家の行いに対して、何度もご忠告申し上げた。右府様の思いも空しく、足利将軍家は右府様のご忠告を無視し続けた。 そして、 右府様は是非なく足利将軍家を追放したのじゃ。右府様は、一貫して足利将軍家を補佐する態度をとり続けた。この態度をとり続けたからこそ、そしてその態度を朝廷も認められたからこそ、足利将軍家を追放するにあたり、朝廷も口出ししなかったのじゃ。そして、朝廷は、暗黙の了解として、天下静謐を右府様に任せたのじゃ。よって、
織田家が朝廷を蔑ろにせぬかぎり、どこかの大名が追放された足利将軍家を推戴しても、その大名に対して朝廷が討伐令を出すことはない。だからこそ、足利将軍家に頼られた毛利家は苦慮しているというわけじゃ。」
「足利将軍家の追放に、そこまでの含みがあったとは…。お恥ずかしい限りですが、拙者、そのように考えたこと、露ほどもありませなんだ。誠に、恐れ入りましてございます。」
「まあ、政治と言われるものは、一筋縄ではいかぬて。この下剋上の世、槍働きが優れておれば、どこぞの大名のもとで侍大将にはなれるやもしれぬ。じゃが、一国一城の主となるには槍働きだけでは、不十分じゃ。朝廷や諸大名との駆け引きができるかにかかってくる。余が、こうして今の地位にいるのも、偏にこの駆け引きが他の武将たちよりも上手かったからであろうな。」
「仰せのとおりかと存じまする。次のお話も楽しみでなりませぬ。」
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