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本編ー総受けエディションー
11:ゆゆ島よぞらは大学へ行く
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タバコの匂いにふと立ち止まる――と、同時にくしゃみを1つ。
「っうー……うう、何処かで噂話でもされてんかな」
小さく独り言を呟きながら、俺は大学の屋外に設置されている喫煙所の前ですん、と鼻を啜った。
――ゆゆ島よぞらは大学生ではない。
それよりも、どちらかというとプー太郎みたいな存在に、近い。自分で言っておいて非常に残念だが、……事実なのでしょうがないね。はい。
で、そんな俺が何故無関係の場所に居るのかというと、これも特に理由は無い。本当にただなんとなく、しいて言えば友人と約束していたから。そして見知った先生の講義とバイトの休みが重なったから。そんなところだ。
生きとし生きる全ての人が、せわしなく頑張れている訳ではない。凌辱系が好きな人もいれば、純愛ハーレムが好きな人もいるみたいに、こんなちゃらんぽらんも探せば腐るほどいるだろう。人を殺したり、物を盗ったりするよりも生産性の無い方がマシなのかどうかは倫理的な意味を含めず単純価値としては……果たして分からないが、無気力健康児よろしく、俺は晴朗たちの通う大学に来て、そしてトイレへと向かった友人を待っていた。
目的の講義まであと少し。
構内の時計で確認しながら『向かいの喫煙所前で待機』――友人からのいいつけ通り、非喫煙者の俺は紫煙の匂いがする壁に寄りかかってぼけっと時間を潰していた。決してどの教室に行けばいいのか分からない訳ではないことは主張しておきたい。
姿勢を戻して濡れていた地面から空の方へと、顔を上げる。動きに合わせて頬に髪がはらりとかかり、視界に色の存在が入ってきた。ああ、そういえばと髪を一房、指にくるくると絡ませる。今日は髪をセットせず下ろしたままにしていたんだったな。
自分としては幼く見えるのが不満だが、学生に紛れ込むなら素のままが1番怪しまれず都合良い。楽チンだし、エロゲ屋とは逆パターンで若く見えた方が良い場合はいつもこの髪型だ。まあ……そのせいで高校生に間違われることもあるんだけど。
なんとなくきまりが悪くなり、起きたままのボサボサした髪をぐしゃぐしゃかき混ぜ、ふあと欠伸をし居眠りするかのように背中を丸めた。
今日も朝から相変わらずの天気だ。眼鏡をかけていたら曇りそうなくらい降る雨の雨粒が大きく、湿度が高い。降ったりやんだり、スコールみたいだ。でもそういう日は夕方前に虹が見えるっていうよなあ、と波打つ水紋にぼんやり思い起こす。
この辺り一帯の大学とか、教育関係の建物は、雨対策で敷地内のアプローチや歩道にも屋根が多く設置されている。もちろん屋外の喫煙所も例外なく屋根が覆い雨風を凌げるようになっていた。
「虹、にじ……」
架かる7色を想像しながらルーフを流れ落ちる雫にプリズムを通してみた。その一点から眼を逸らすとピントがボヤけて1人の世界を作れた気になる。眼鏡を外した時みたいに認識できない視界の中、俺は暇つぶしにどうでもいいことを考え始めた。例えば……そう、先程のくしゃみの出所とか。噂している人物だと――ふむ、こないだのストーカーくんだったりするかもしれない。
「結局名前、聞きそびれたなあ……」
先日もスパイ真っ青な身のこなしで去っていったし。結局あれから姿は見せずいつも通り連絡でやり取り……いや、見守りが続いていた。連絡不精な俺を知っているのか、送らずとも定期的にメッセージが飛んでくる。たまにどこかが綺麗になっていたり、食べ物が届いていたりするのは俺とは次元が違っているのか、はたまた妖精さんなのか。
接触無くよく続いているなあ、とそのまま流しそうになったがそうだ前に寝顔をばっちり撮られていたっけ。いかん超近づいてたわ。
純粋な好意と、うらはらな行動。話た感じは好青年だったんだけど、どうにもあべこべで距離感が掴めない。
脳がふにゃふにゃになってこのままだと熱暴走しそうだ。考えるには足りないパーツが多すぎて、俺はどうしたもんかなあと閉塞した答えに瞼を伏せた。
◇ ◇
ここの大学は潜りに甘い。出欠を取らないし、どの講義もそこそこ人が集まる。教育の場として形は成り立っているが、何処か締まりの緩いフィクションみたいな所だった。つまりは体の良い遊び場である。
「よぞらくーん」
「ふあ~~あ」
あ、やべ。欠伸とごっちゃになった。
軽く手をあげると、晴朗が足音と共にこちらへと向かってきた。
「ごめんね待たせて」
そう言って、嬉し気に頬を緩ませた友人に俺は眩しいものを見るような眼差しを向ける。相変わらずキラキラ具合が半端ない。それに……と俺は辺りを見回す。何処から湧いたか分からないが友人の周囲に人だかりができているではないか。可愛い女の子たちがいっぱいだ。
またしても相変わらずの光景に、これまた相変わらずのせーくん。そして彼は彼女たちの視線を気に留めることなく慣れきって対応したりスルーしたり。場所は変われど王子の存在感は健在だった。
大学でも一人モテやがって。ぐぬぬ……。
「ねね、せーくんあのかわいい子たち、もしかして俺に紹介してくれるの?」
「残念ながら」
肩を透かしながら晴朗が言う。
……知ってたけどね。わざと言った冗談を至極普通に返され、俺はばつが悪く拗ねたようにそっぽを向く。すると近くに寄った晴朗が徐に手を差し出したかと思うと、そのままスッと耳へと触れてきた。
「わっ」
突然敏感な箇所を触られ、思わず声を上げる。そんな俺に髪の乱れを直すだけだからと晴朗は目尻を下げた。
戸惑いながらも大人しくすると、ふわりとした手つきで大事な物を包み込むみたいに整える。ちらりと横目で動きを追うと、彼の笑う気配がし、俺は気まずさに一瞥しただけに留めて目を伏せた。
優しく、そうっと指が頭部から耳の裏をなぞり、首筋へ。離れがたいのか指の腹が肌を滑る。
擽ったくて肩をすくめると、
「――ん、よし」
そう言って晴朗はすべるように頬を撫でた。それが気持ち良くて、そのまま手のひらに懐こうと顔を寄せようと――、
「オイこら……公共の場で何やってんっ、だ」
「あだっ!」
「あ」
俺だけがパコーンといい音で叩かれた。
痛い、油断していた分が加算されているからか、めちゃくちゃ痛い。頭をさすりながら涙目で犯人を見据えると、そこには鬼の形相の日野出が丸められたテキストを手に持ち立っていた。
晴朗と共通の友人である日野出の登場に俺は暴力反対を訴える。
「……暴力はんたーい」
「んだとコラ」
「うわああ!」
容赦ない暴力に呆気なく屈した。
「かわいいからって虐めるのはやめな、日野出」
「ア? …………やめろ、わかったからその笑顔やめろ。……あーはいはい……。殴ったのは悪かった!」
晴朗は俺を庇うように前に立ち、日野出を窘める。噛み合わない内容に首を傾げるが、さっきまで憤怒していた鬼は何故か急に声を窄めると、勢いを無くして人に戻った。
「どったの? 日野出っち」
「ふふ」
疑問符を浮かべる俺に、目の前の友人は爽やかに笑うだけだ。
「……兎に角、お前らこんなとこで変な空気を出すなさっさと教室に行け」
口の端が引き攣った日野出は荷物を持ち直すと、「ほらお前も」と背中を軽く叩いた。
「はあい」
「何が、はあい、だ。この馬鹿」
「日野出くーん……キミ、口悪過ぎない?」
「あいつはね、よぞらくんに、会えたのが嬉しくて照れ隠ししてるんだよ」
「…………へぇ…………」
晴朗が耳打つ暴露話に、俺は感無量になり日野出の方へ振り向いた。
「おい!」
「今日だってね、僕がよぞらくんが来るって話しをしたらさ、わざわざ受ける予定の無いコマをとってね」
「へええ」
「喫煙所前で待ち合わせって行ったら、そわそわタバコふかして……あーおかしい」
上品に噴き出したせーくんに釣られて俺も意地の悪い笑いを浮かべる。
「…………お前ら」
口では悪く言っても本当は割と気にしてくれる友人が面白くて仕方がない。不器用な愛にまた1つ笑い声が漏れた。
時間は気にしなければあっという間に過ぎていくもので。
2人でひとしきり日野出を揶揄った後、もう置いていくからな! と逆ギレよろしく声を荒げた友人により、俺たちは教室へと移動するのであった。
「よぞらくんは吸わないでね」
「んあ? なんの話?」
構内の景色を流しながら歩いていると、晴朗が脈絡もなく話しかけてきた。
「待ち合わせ場所。実は日野出が待ちやすいかと思ってあそこにしたから」
「喫煙所?」
「そう、僕とよぞらくん家に一緒に来れば良かったのにね。あいつ駄々をこねてね」
あ、そう言うこと。
「僕としては……煙草はあまりオススメしないからね」
「大丈夫、俺タバコ浣腸の存在を知ってから吸いたいなぁっていう気持ちが消滅したから」
言葉にしただけでもひゅんってなる。そう返すと、晴朗は何故か微妙な顔をして、
「……よぞらくんは、……ああううんなんでもないや」
言葉を濁し、貼り付けたような笑みで俺を見た。
「え、なになに、なんでせーくんそこで濁した」
「なんでもないよ。――ああそれと、今日は何もなかったけど、誰かに何かあげるって言われてもついていっちゃあダメだよ」
「せーくん……俺のこと何歳だと思ってるの…………」
タバコの話から逸れた話題に何故か念を押す晴朗。冗談の通じない奴が五月蝿いんだからそう聞こえるように何度も言わないで欲し……ああ、そらみてみろ日野出の顔が怖くなってるし。
「睨むなよ……あ、もしかして日野出もタバコ浣腸の話聞きたい?」
ギンっと隣で睨みつける彼にも同じ話を振ると、
「~~~~っ! ぬあー!」
「アホなこといっとらんでさっさとあ、る、け!」
こちらにわざわざ戻ってきて俺の頬を伸ばせるだけ伸ばし、そのまま引っ張って連れて行かれた。
ヒリヒリした頬を擦り、晴朗に慰められながらも、懲りずに俺は「ねえねえ日野出」と話しかける。
「――……なんだよ」
「そーいやあさ、日野出は俺の前だと吸わないよな……てか普通に吸ってんの初めて見た」
意外……とまではいかないが、独特の匂いを漂わせたことのなかったから少し驚いた。すると、日野出はこちらを見やりバツの悪そうな顔をしながら「当たり前だろう」と頭を掻いた。
「…………ほら副流煙とかあるし………………――ってなんだよその顔は…………」
「イヤー日野出っちの愛を感じてねえ、……つい」
「はぁ!? べ、別にお前の心配なんかしてねーよ!」
きっと俺の瞳はキラリと輝いているだろう。
「……ねぇ、せーくん。俺、ここまで見事なツンデレ……現実で見れるとは思わなかった、感動してる」
「良かったね、よぞらくん」
「よくねーよ!!」
◇ ◇
教室の扉を開けると、開始ギリギリだからか席は穴あきチーズのようにまばらに埋まっており、3人が座れそうな場所を探すのは難しかった。
「日野出」
中を見渡していた晴朗は、俺の隣にいる日野出を呼ぶとこっちこっちと小声で手招きで呼び寄せた。
「――どうした?」
怪訝そうな顔で近寄った日野出はぼそりと訊ねる。
「…………あそこ、ちょうど良い位置であまり目立たないしさ、今日はよぞらくんと座って」
「………………、良崎はどうするんだ」
「……僕も、近くの……うん、そこ、そこで受けるよ」
晴朗はやや離れた席を指さす。いいのか、という目線で問う日野出にニコリと柔和な笑みを浮かべ首肯した。
「…………お前のそういう所、心底わからん」
「ふふ」
晴朗の微笑みで話がついたのか、俺の方へ、ととと、と戻ってきて肩をくっつける様にかがみ込んだ。手を口に添え耳元でひそひそ話し出す。
「…………ベストポジションの席が空いてるから、あそこに日野出と座ってね」
「……へ? せーくんは?」
囁く声に目を瞬かせ晴朗の方を見ると、ぶつかりそうなくらい近い距離で目が丸くなる。友人はかまわず鼻先がつきそうなまま続けた。
「久々だし、積もる話もあるかもしれないしね」
「ふうん?」
よくわからないままに気の抜けた返事をしたが、特に何もいうこともなく晴朗は俺の髪を一撫ですると、そのまま1人空席へと向かっていった。
きょとり、と空気が抜けかけた風船のようにその背中を見つめていると、パシッと何かが頭に当たった。
「――おら、お前の分」
じりじりと確認するように手を体に這わせ頭までたどり着くと、そこには講義に必要な物一式が。
「流石に手ぶらで講義聞くバカ、いないだろ」
「そんなバカがこちらに……ごめんなさい嬉しくて泣きそうです」
「……」
沈黙の抗議の後に深いため息。
「お前、何しにきて」
「――君たち、何を突っ立て――…………」
日野出が俺に文句を垂れようとした瞬間、入り口を塞いでいたのか注意する声がかかった。
「っ、すみません」
窘める低い声に、すぐ日野出の謝る声が聞こえそのまま横に避けるように動いた。俺も退くために振り返るとちょうど目線上に相手のネクタイの結び目が見え、
「あ」
「…………早く、席に着く様に」
几帳面なのか、時間前に教室へとやってきたスーツ姿の男性。彼も俺の姿を見ると、僅かに目を見開き驚いたかのように顔を強ばらせた。
だが、それも一瞬。すぐに視線をそらし、冷静に着席するよう促される。
「――おい、ゆゆ島」
突然の接触と驚きに、目の前を知らぬまま見つめていた俺は日野出の声でハッと我にかえる。そして、そのまま友人に腕を掴まれ、隙間を縫うように席へと引っ張られた。
程なくして授業が始まり、淡々とした声が教室に響いた。低く、聞き取りやすい声で内容は淀みなく進み、参加者の殆どは講義に集中していた。
「なあ、」
日野出の持っていたシャーペンで腕を突かれる。
「……お前虹緒と面識あったのか」
極々小さな声で俺にそう訊いてきた。
俺は短く、そ、と頷く。
「もぐりバレて仲良くなった」
隣の友人は教壇に立っている虹緒との関係が気になるようだったが、今は話せることがこれくらいしかないのだ。1人で遊びに来てた時に出会って、手伝ったりしてたら本当いつの間にか――……。
「何だそれ……」
全然説明になっていない俺に苛立ったのか、日野出はカチカチとシャーペンの音を鳴らし始めた。
古の三大電波ゲームなんてもう耳タコだろうけど、あまりカチカチしてたら耳の穴を貫通する気がして痛いのでやめてほしい。
俺はテキストを1ページめくる。
あたかも内容を分かっているような所作だが、実際は1ミリも頭に入っていない。なんだか数字がいっぱい羅列されているなあ、くらいだ。ふんふんと頷く俺に隣の友人は呆れ顔を晒す。
「顔に阿保って書いてるぞ」
「考えるな、感じろだよ日野出くん」
=眠いちょー眠い。授業って眠くなるよね、と図式を説明する。
「一日の区切りがない奴が何言ってんだ……いつもだろうが、眠いのは」
「上手いこというね」
貶されてるが思わず感心してしまった。それを見て、日野出はまた呆れた顔をするのかと思ったが、
「――なぁ、ゆゆ島」
顔を逸らし、前を向いたまま日野出が名前を呼んだ。手に持っているシャーペンを器用にくるくると回す。
「お前さ、」
「うん」
「――……死んだ、なんて嘘でもいうなよ」
「……?」
言葉の意図が分からず、俺はぽかんとまぬけな顔で彼を見つめたままになる。そんな俺をチラとみやり、また正面へと視線を戻すとボソリと呟いた。
「……こないだの良崎の電話」
「でんわ? 電話………………あ、」
口の中で探るように呟くと、ふ、と先日の事が頭によぎった。そうだ、あの時。
俺にとっては世間話で、冗談みたいなものだった寝ぼけて伝えたセリフは日野出にとってはそうではなかったらしい。忘れられない程の強い言葉――悲しそうな溜息がそう伝えるように吐かれた。
「止めろよ、そんな冗談」
彼はいつも言う。俺がふわふわして飛んでいってしまうんじゃないかと。
日野出はそれきり何も言わなくなった。
「ごめんね」
俺は寄りかかるように日野出の肩に頭を預け小さく頷いた。
俺としては、最初からないものなんだから、死んでるも生きてるも無い。
そう思うんだけど、その考えは彼には理解されないことに分かったと頷いた。
「ねえ聞いて」
「……何」
「俺……座学向かないみたい」
「…………」
寄りかかったまま、俺は思い悩んだ末に告げるとめちゃくちゃ嫌な顔をされたのが気配で伝わった。
いやいや、でもだって。ニュースキャスターも真っ青の抑揚無いスムーズな話し方と難解な文章をひとコマじっと座って学ぶ。……こんなの、眠くならない方がおかしい。
「でもじゃねぇ。しゃんとしろ、しゃんと」
ぐっと肩に懐いた頭を持ち上げられてしまった。
うぅ……と呻きながらも、俺はなけなしの力で姿勢を正し授業を受けようとする。が。
……かくり、と力が抜ける。
「……ゆゆ島?」
「うん……」
寝そう、なんて生優しい。俺は寝る。いやダメだ。
ゆらゆらと揺れる頭で自問自答を繰り返す。
「ねえ、日野出……」
「ん……?」
「せーくんと、さっき……」
ああこの、シーソーみたいな揺らぎって何だかとっても心地よくて――うとうとと船を漕いで体が向こうの誰かの方へ傾いた。
「――、」
そっと頭を支えるように触れて、そのまま引き寄せられたような気がしたがその時には俺はもう眠りについていた。
◇ ◇
「――ゆゆ島」
呼ばれて、ふぁ、と反射的に声が出る。
自分の声にパチと目を覚ますと、近くには見慣れた服とタバコの匂いがして、ああ日野出の肩を借りていたのかと気づく。友人に呼ばれたのかと思って顔を見やると嫌そうな顔で「アッチ」とシャーペンで指差した。
はて、あっちとは――とつられて見ると、
「――ゆゆ島は、この後研究室に来るように」
教壇に立つ虹緒が咎めるように、こと短くそう告げた。
あ、やべこれ怒られる奴だ。
これだけ大勢の前で言われてしまうとこっそり逃げることもできない。あはは、と愛想笑いで返事をすると先生は一瞥してそのまま教室を出ていった。彼が居なくなると冷えた空気が霧散し、1人、また1人と他の学生たちも動き出した。
「よぞらくん怒られちゃったね」
苦笑しながら晴朗がこちらにやってきた。俺は、にはは……と金髪美少女よろしく力ない笑みを見せる。
「怒られちゃった」
「この後行くのか?」
自業自得と呆れているものの、心配が半分混ざったような声で日野出が訊く。
「そだねえ、虹緒せんせのとこ行って……怒られて多分片付けでも手伝うかなあ」
「そういえば、一度虹緒先生の研究室に入ったことがあるけど、意外に汚かった気がする」
「そそ、せんせ。あんなツーンな真面目顔してさ、片付け下手なんだよな。大学(ここ)で初めて会った時もさ――」
――丁度その日は、せーくんも日野出も居なくて。俺は適当にもぐって講義を受けていた。その中に虹緒せんせも勿論入っていて。
何でもぐり込んでるかって? そんなの特に理由なんていうのはない。家から近いし、散歩のついでに歩いたり、顔見知りのサークルに顔出したり。金の無い暇人なんて案外そんなもんだ。なら働けって? ……俺に死ねと申すか。
で、その後ブラついてて、そうだ図書館に行こうって本を読みに行ったら虹緒せんせとバッタリ会って。
俺は、うっかり声をかけられた。というか脅された?
それでもぐり黙っている代わりに部屋の片付けやら雑用やらするようになって……――
「――まあ、そんな感じ」
ざっくりと虹緒との出会いを話す。
「…………」
「…………よぞらくんらしいや」
2人は呆れたような……なんとも言えない顔をして、最後に俺らしいね、と晴朗が言葉を選んで感想を述べた。
「最初はこえー先生だなって思ったけど、案外面白いというか、さ。…………ここだけの話、」
そうして、俺は口許に手をあてる。
「――先生はエロゲするの、知ってた?」
そう、虹緒は俺と同じ趣味なのだ。
「……まじ?」
「ははーん、信じてないなあ? 日野出くん…………虹緒せんせはサブカル研究会の顧問だよ」
疑う日野出に人差し指をチッチッチと揺らす。
「あの先輩のところかな?」
「そそ、せーくん正解。サブカルとは名ばかりのエロゲやるサークル。名前だけ貸してるらしいから会ったことはないけど……まあそういうこと」
「……意外すぎる」
通りで講義中話せない訳だ……そう日野出は独りごちる。小声でもエロゲなんて単語を出すのはいくら俺でも自重する。多分。
「そもそもウチの常連さんだしなあ……教師やってるとかむしろ俺のがびっくりしたわ」
人は見かけによらないとは、こういうことなんだろう。男性向けのアダルトPCゲームをやってるなんてあの顔で誰が思うだろうか。
言いふらさないだろうが、俺は一応ここだけの秘密な? と2人に念を押した。
「っうー……うう、何処かで噂話でもされてんかな」
小さく独り言を呟きながら、俺は大学の屋外に設置されている喫煙所の前ですん、と鼻を啜った。
――ゆゆ島よぞらは大学生ではない。
それよりも、どちらかというとプー太郎みたいな存在に、近い。自分で言っておいて非常に残念だが、……事実なのでしょうがないね。はい。
で、そんな俺が何故無関係の場所に居るのかというと、これも特に理由は無い。本当にただなんとなく、しいて言えば友人と約束していたから。そして見知った先生の講義とバイトの休みが重なったから。そんなところだ。
生きとし生きる全ての人が、せわしなく頑張れている訳ではない。凌辱系が好きな人もいれば、純愛ハーレムが好きな人もいるみたいに、こんなちゃらんぽらんも探せば腐るほどいるだろう。人を殺したり、物を盗ったりするよりも生産性の無い方がマシなのかどうかは倫理的な意味を含めず単純価値としては……果たして分からないが、無気力健康児よろしく、俺は晴朗たちの通う大学に来て、そしてトイレへと向かった友人を待っていた。
目的の講義まであと少し。
構内の時計で確認しながら『向かいの喫煙所前で待機』――友人からのいいつけ通り、非喫煙者の俺は紫煙の匂いがする壁に寄りかかってぼけっと時間を潰していた。決してどの教室に行けばいいのか分からない訳ではないことは主張しておきたい。
姿勢を戻して濡れていた地面から空の方へと、顔を上げる。動きに合わせて頬に髪がはらりとかかり、視界に色の存在が入ってきた。ああ、そういえばと髪を一房、指にくるくると絡ませる。今日は髪をセットせず下ろしたままにしていたんだったな。
自分としては幼く見えるのが不満だが、学生に紛れ込むなら素のままが1番怪しまれず都合良い。楽チンだし、エロゲ屋とは逆パターンで若く見えた方が良い場合はいつもこの髪型だ。まあ……そのせいで高校生に間違われることもあるんだけど。
なんとなくきまりが悪くなり、起きたままのボサボサした髪をぐしゃぐしゃかき混ぜ、ふあと欠伸をし居眠りするかのように背中を丸めた。
今日も朝から相変わらずの天気だ。眼鏡をかけていたら曇りそうなくらい降る雨の雨粒が大きく、湿度が高い。降ったりやんだり、スコールみたいだ。でもそういう日は夕方前に虹が見えるっていうよなあ、と波打つ水紋にぼんやり思い起こす。
この辺り一帯の大学とか、教育関係の建物は、雨対策で敷地内のアプローチや歩道にも屋根が多く設置されている。もちろん屋外の喫煙所も例外なく屋根が覆い雨風を凌げるようになっていた。
「虹、にじ……」
架かる7色を想像しながらルーフを流れ落ちる雫にプリズムを通してみた。その一点から眼を逸らすとピントがボヤけて1人の世界を作れた気になる。眼鏡を外した時みたいに認識できない視界の中、俺は暇つぶしにどうでもいいことを考え始めた。例えば……そう、先程のくしゃみの出所とか。噂している人物だと――ふむ、こないだのストーカーくんだったりするかもしれない。
「結局名前、聞きそびれたなあ……」
先日もスパイ真っ青な身のこなしで去っていったし。結局あれから姿は見せずいつも通り連絡でやり取り……いや、見守りが続いていた。連絡不精な俺を知っているのか、送らずとも定期的にメッセージが飛んでくる。たまにどこかが綺麗になっていたり、食べ物が届いていたりするのは俺とは次元が違っているのか、はたまた妖精さんなのか。
接触無くよく続いているなあ、とそのまま流しそうになったがそうだ前に寝顔をばっちり撮られていたっけ。いかん超近づいてたわ。
純粋な好意と、うらはらな行動。話た感じは好青年だったんだけど、どうにもあべこべで距離感が掴めない。
脳がふにゃふにゃになってこのままだと熱暴走しそうだ。考えるには足りないパーツが多すぎて、俺はどうしたもんかなあと閉塞した答えに瞼を伏せた。
◇ ◇
ここの大学は潜りに甘い。出欠を取らないし、どの講義もそこそこ人が集まる。教育の場として形は成り立っているが、何処か締まりの緩いフィクションみたいな所だった。つまりは体の良い遊び場である。
「よぞらくーん」
「ふあ~~あ」
あ、やべ。欠伸とごっちゃになった。
軽く手をあげると、晴朗が足音と共にこちらへと向かってきた。
「ごめんね待たせて」
そう言って、嬉し気に頬を緩ませた友人に俺は眩しいものを見るような眼差しを向ける。相変わらずキラキラ具合が半端ない。それに……と俺は辺りを見回す。何処から湧いたか分からないが友人の周囲に人だかりができているではないか。可愛い女の子たちがいっぱいだ。
またしても相変わらずの光景に、これまた相変わらずのせーくん。そして彼は彼女たちの視線を気に留めることなく慣れきって対応したりスルーしたり。場所は変われど王子の存在感は健在だった。
大学でも一人モテやがって。ぐぬぬ……。
「ねね、せーくんあのかわいい子たち、もしかして俺に紹介してくれるの?」
「残念ながら」
肩を透かしながら晴朗が言う。
……知ってたけどね。わざと言った冗談を至極普通に返され、俺はばつが悪く拗ねたようにそっぽを向く。すると近くに寄った晴朗が徐に手を差し出したかと思うと、そのままスッと耳へと触れてきた。
「わっ」
突然敏感な箇所を触られ、思わず声を上げる。そんな俺に髪の乱れを直すだけだからと晴朗は目尻を下げた。
戸惑いながらも大人しくすると、ふわりとした手つきで大事な物を包み込むみたいに整える。ちらりと横目で動きを追うと、彼の笑う気配がし、俺は気まずさに一瞥しただけに留めて目を伏せた。
優しく、そうっと指が頭部から耳の裏をなぞり、首筋へ。離れがたいのか指の腹が肌を滑る。
擽ったくて肩をすくめると、
「――ん、よし」
そう言って晴朗はすべるように頬を撫でた。それが気持ち良くて、そのまま手のひらに懐こうと顔を寄せようと――、
「オイこら……公共の場で何やってんっ、だ」
「あだっ!」
「あ」
俺だけがパコーンといい音で叩かれた。
痛い、油断していた分が加算されているからか、めちゃくちゃ痛い。頭をさすりながら涙目で犯人を見据えると、そこには鬼の形相の日野出が丸められたテキストを手に持ち立っていた。
晴朗と共通の友人である日野出の登場に俺は暴力反対を訴える。
「……暴力はんたーい」
「んだとコラ」
「うわああ!」
容赦ない暴力に呆気なく屈した。
「かわいいからって虐めるのはやめな、日野出」
「ア? …………やめろ、わかったからその笑顔やめろ。……あーはいはい……。殴ったのは悪かった!」
晴朗は俺を庇うように前に立ち、日野出を窘める。噛み合わない内容に首を傾げるが、さっきまで憤怒していた鬼は何故か急に声を窄めると、勢いを無くして人に戻った。
「どったの? 日野出っち」
「ふふ」
疑問符を浮かべる俺に、目の前の友人は爽やかに笑うだけだ。
「……兎に角、お前らこんなとこで変な空気を出すなさっさと教室に行け」
口の端が引き攣った日野出は荷物を持ち直すと、「ほらお前も」と背中を軽く叩いた。
「はあい」
「何が、はあい、だ。この馬鹿」
「日野出くーん……キミ、口悪過ぎない?」
「あいつはね、よぞらくんに、会えたのが嬉しくて照れ隠ししてるんだよ」
「…………へぇ…………」
晴朗が耳打つ暴露話に、俺は感無量になり日野出の方へ振り向いた。
「おい!」
「今日だってね、僕がよぞらくんが来るって話しをしたらさ、わざわざ受ける予定の無いコマをとってね」
「へええ」
「喫煙所前で待ち合わせって行ったら、そわそわタバコふかして……あーおかしい」
上品に噴き出したせーくんに釣られて俺も意地の悪い笑いを浮かべる。
「…………お前ら」
口では悪く言っても本当は割と気にしてくれる友人が面白くて仕方がない。不器用な愛にまた1つ笑い声が漏れた。
時間は気にしなければあっという間に過ぎていくもので。
2人でひとしきり日野出を揶揄った後、もう置いていくからな! と逆ギレよろしく声を荒げた友人により、俺たちは教室へと移動するのであった。
「よぞらくんは吸わないでね」
「んあ? なんの話?」
構内の景色を流しながら歩いていると、晴朗が脈絡もなく話しかけてきた。
「待ち合わせ場所。実は日野出が待ちやすいかと思ってあそこにしたから」
「喫煙所?」
「そう、僕とよぞらくん家に一緒に来れば良かったのにね。あいつ駄々をこねてね」
あ、そう言うこと。
「僕としては……煙草はあまりオススメしないからね」
「大丈夫、俺タバコ浣腸の存在を知ってから吸いたいなぁっていう気持ちが消滅したから」
言葉にしただけでもひゅんってなる。そう返すと、晴朗は何故か微妙な顔をして、
「……よぞらくんは、……ああううんなんでもないや」
言葉を濁し、貼り付けたような笑みで俺を見た。
「え、なになに、なんでせーくんそこで濁した」
「なんでもないよ。――ああそれと、今日は何もなかったけど、誰かに何かあげるって言われてもついていっちゃあダメだよ」
「せーくん……俺のこと何歳だと思ってるの…………」
タバコの話から逸れた話題に何故か念を押す晴朗。冗談の通じない奴が五月蝿いんだからそう聞こえるように何度も言わないで欲し……ああ、そらみてみろ日野出の顔が怖くなってるし。
「睨むなよ……あ、もしかして日野出もタバコ浣腸の話聞きたい?」
ギンっと隣で睨みつける彼にも同じ話を振ると、
「~~~~っ! ぬあー!」
「アホなこといっとらんでさっさとあ、る、け!」
こちらにわざわざ戻ってきて俺の頬を伸ばせるだけ伸ばし、そのまま引っ張って連れて行かれた。
ヒリヒリした頬を擦り、晴朗に慰められながらも、懲りずに俺は「ねえねえ日野出」と話しかける。
「――……なんだよ」
「そーいやあさ、日野出は俺の前だと吸わないよな……てか普通に吸ってんの初めて見た」
意外……とまではいかないが、独特の匂いを漂わせたことのなかったから少し驚いた。すると、日野出はこちらを見やりバツの悪そうな顔をしながら「当たり前だろう」と頭を掻いた。
「…………ほら副流煙とかあるし………………――ってなんだよその顔は…………」
「イヤー日野出っちの愛を感じてねえ、……つい」
「はぁ!? べ、別にお前の心配なんかしてねーよ!」
きっと俺の瞳はキラリと輝いているだろう。
「……ねぇ、せーくん。俺、ここまで見事なツンデレ……現実で見れるとは思わなかった、感動してる」
「良かったね、よぞらくん」
「よくねーよ!!」
◇ ◇
教室の扉を開けると、開始ギリギリだからか席は穴あきチーズのようにまばらに埋まっており、3人が座れそうな場所を探すのは難しかった。
「日野出」
中を見渡していた晴朗は、俺の隣にいる日野出を呼ぶとこっちこっちと小声で手招きで呼び寄せた。
「――どうした?」
怪訝そうな顔で近寄った日野出はぼそりと訊ねる。
「…………あそこ、ちょうど良い位置であまり目立たないしさ、今日はよぞらくんと座って」
「………………、良崎はどうするんだ」
「……僕も、近くの……うん、そこ、そこで受けるよ」
晴朗はやや離れた席を指さす。いいのか、という目線で問う日野出にニコリと柔和な笑みを浮かべ首肯した。
「…………お前のそういう所、心底わからん」
「ふふ」
晴朗の微笑みで話がついたのか、俺の方へ、ととと、と戻ってきて肩をくっつける様にかがみ込んだ。手を口に添え耳元でひそひそ話し出す。
「…………ベストポジションの席が空いてるから、あそこに日野出と座ってね」
「……へ? せーくんは?」
囁く声に目を瞬かせ晴朗の方を見ると、ぶつかりそうなくらい近い距離で目が丸くなる。友人はかまわず鼻先がつきそうなまま続けた。
「久々だし、積もる話もあるかもしれないしね」
「ふうん?」
よくわからないままに気の抜けた返事をしたが、特に何もいうこともなく晴朗は俺の髪を一撫ですると、そのまま1人空席へと向かっていった。
きょとり、と空気が抜けかけた風船のようにその背中を見つめていると、パシッと何かが頭に当たった。
「――おら、お前の分」
じりじりと確認するように手を体に這わせ頭までたどり着くと、そこには講義に必要な物一式が。
「流石に手ぶらで講義聞くバカ、いないだろ」
「そんなバカがこちらに……ごめんなさい嬉しくて泣きそうです」
「……」
沈黙の抗議の後に深いため息。
「お前、何しにきて」
「――君たち、何を突っ立て――…………」
日野出が俺に文句を垂れようとした瞬間、入り口を塞いでいたのか注意する声がかかった。
「っ、すみません」
窘める低い声に、すぐ日野出の謝る声が聞こえそのまま横に避けるように動いた。俺も退くために振り返るとちょうど目線上に相手のネクタイの結び目が見え、
「あ」
「…………早く、席に着く様に」
几帳面なのか、時間前に教室へとやってきたスーツ姿の男性。彼も俺の姿を見ると、僅かに目を見開き驚いたかのように顔を強ばらせた。
だが、それも一瞬。すぐに視線をそらし、冷静に着席するよう促される。
「――おい、ゆゆ島」
突然の接触と驚きに、目の前を知らぬまま見つめていた俺は日野出の声でハッと我にかえる。そして、そのまま友人に腕を掴まれ、隙間を縫うように席へと引っ張られた。
程なくして授業が始まり、淡々とした声が教室に響いた。低く、聞き取りやすい声で内容は淀みなく進み、参加者の殆どは講義に集中していた。
「なあ、」
日野出の持っていたシャーペンで腕を突かれる。
「……お前虹緒と面識あったのか」
極々小さな声で俺にそう訊いてきた。
俺は短く、そ、と頷く。
「もぐりバレて仲良くなった」
隣の友人は教壇に立っている虹緒との関係が気になるようだったが、今は話せることがこれくらいしかないのだ。1人で遊びに来てた時に出会って、手伝ったりしてたら本当いつの間にか――……。
「何だそれ……」
全然説明になっていない俺に苛立ったのか、日野出はカチカチとシャーペンの音を鳴らし始めた。
古の三大電波ゲームなんてもう耳タコだろうけど、あまりカチカチしてたら耳の穴を貫通する気がして痛いのでやめてほしい。
俺はテキストを1ページめくる。
あたかも内容を分かっているような所作だが、実際は1ミリも頭に入っていない。なんだか数字がいっぱい羅列されているなあ、くらいだ。ふんふんと頷く俺に隣の友人は呆れ顔を晒す。
「顔に阿保って書いてるぞ」
「考えるな、感じろだよ日野出くん」
=眠いちょー眠い。授業って眠くなるよね、と図式を説明する。
「一日の区切りがない奴が何言ってんだ……いつもだろうが、眠いのは」
「上手いこというね」
貶されてるが思わず感心してしまった。それを見て、日野出はまた呆れた顔をするのかと思ったが、
「――なぁ、ゆゆ島」
顔を逸らし、前を向いたまま日野出が名前を呼んだ。手に持っているシャーペンを器用にくるくると回す。
「お前さ、」
「うん」
「――……死んだ、なんて嘘でもいうなよ」
「……?」
言葉の意図が分からず、俺はぽかんとまぬけな顔で彼を見つめたままになる。そんな俺をチラとみやり、また正面へと視線を戻すとボソリと呟いた。
「……こないだの良崎の電話」
「でんわ? 電話………………あ、」
口の中で探るように呟くと、ふ、と先日の事が頭によぎった。そうだ、あの時。
俺にとっては世間話で、冗談みたいなものだった寝ぼけて伝えたセリフは日野出にとってはそうではなかったらしい。忘れられない程の強い言葉――悲しそうな溜息がそう伝えるように吐かれた。
「止めろよ、そんな冗談」
彼はいつも言う。俺がふわふわして飛んでいってしまうんじゃないかと。
日野出はそれきり何も言わなくなった。
「ごめんね」
俺は寄りかかるように日野出の肩に頭を預け小さく頷いた。
俺としては、最初からないものなんだから、死んでるも生きてるも無い。
そう思うんだけど、その考えは彼には理解されないことに分かったと頷いた。
「ねえ聞いて」
「……何」
「俺……座学向かないみたい」
「…………」
寄りかかったまま、俺は思い悩んだ末に告げるとめちゃくちゃ嫌な顔をされたのが気配で伝わった。
いやいや、でもだって。ニュースキャスターも真っ青の抑揚無いスムーズな話し方と難解な文章をひとコマじっと座って学ぶ。……こんなの、眠くならない方がおかしい。
「でもじゃねぇ。しゃんとしろ、しゃんと」
ぐっと肩に懐いた頭を持ち上げられてしまった。
うぅ……と呻きながらも、俺はなけなしの力で姿勢を正し授業を受けようとする。が。
……かくり、と力が抜ける。
「……ゆゆ島?」
「うん……」
寝そう、なんて生優しい。俺は寝る。いやダメだ。
ゆらゆらと揺れる頭で自問自答を繰り返す。
「ねえ、日野出……」
「ん……?」
「せーくんと、さっき……」
ああこの、シーソーみたいな揺らぎって何だかとっても心地よくて――うとうとと船を漕いで体が向こうの誰かの方へ傾いた。
「――、」
そっと頭を支えるように触れて、そのまま引き寄せられたような気がしたがその時には俺はもう眠りについていた。
◇ ◇
「――ゆゆ島」
呼ばれて、ふぁ、と反射的に声が出る。
自分の声にパチと目を覚ますと、近くには見慣れた服とタバコの匂いがして、ああ日野出の肩を借りていたのかと気づく。友人に呼ばれたのかと思って顔を見やると嫌そうな顔で「アッチ」とシャーペンで指差した。
はて、あっちとは――とつられて見ると、
「――ゆゆ島は、この後研究室に来るように」
教壇に立つ虹緒が咎めるように、こと短くそう告げた。
あ、やべこれ怒られる奴だ。
これだけ大勢の前で言われてしまうとこっそり逃げることもできない。あはは、と愛想笑いで返事をすると先生は一瞥してそのまま教室を出ていった。彼が居なくなると冷えた空気が霧散し、1人、また1人と他の学生たちも動き出した。
「よぞらくん怒られちゃったね」
苦笑しながら晴朗がこちらにやってきた。俺は、にはは……と金髪美少女よろしく力ない笑みを見せる。
「怒られちゃった」
「この後行くのか?」
自業自得と呆れているものの、心配が半分混ざったような声で日野出が訊く。
「そだねえ、虹緒せんせのとこ行って……怒られて多分片付けでも手伝うかなあ」
「そういえば、一度虹緒先生の研究室に入ったことがあるけど、意外に汚かった気がする」
「そそ、せんせ。あんなツーンな真面目顔してさ、片付け下手なんだよな。大学(ここ)で初めて会った時もさ――」
――丁度その日は、せーくんも日野出も居なくて。俺は適当にもぐって講義を受けていた。その中に虹緒せんせも勿論入っていて。
何でもぐり込んでるかって? そんなの特に理由なんていうのはない。家から近いし、散歩のついでに歩いたり、顔見知りのサークルに顔出したり。金の無い暇人なんて案外そんなもんだ。なら働けって? ……俺に死ねと申すか。
で、その後ブラついてて、そうだ図書館に行こうって本を読みに行ったら虹緒せんせとバッタリ会って。
俺は、うっかり声をかけられた。というか脅された?
それでもぐり黙っている代わりに部屋の片付けやら雑用やらするようになって……――
「――まあ、そんな感じ」
ざっくりと虹緒との出会いを話す。
「…………」
「…………よぞらくんらしいや」
2人は呆れたような……なんとも言えない顔をして、最後に俺らしいね、と晴朗が言葉を選んで感想を述べた。
「最初はこえー先生だなって思ったけど、案外面白いというか、さ。…………ここだけの話、」
そうして、俺は口許に手をあてる。
「――先生はエロゲするの、知ってた?」
そう、虹緒は俺と同じ趣味なのだ。
「……まじ?」
「ははーん、信じてないなあ? 日野出くん…………虹緒せんせはサブカル研究会の顧問だよ」
疑う日野出に人差し指をチッチッチと揺らす。
「あの先輩のところかな?」
「そそ、せーくん正解。サブカルとは名ばかりのエロゲやるサークル。名前だけ貸してるらしいから会ったことはないけど……まあそういうこと」
「……意外すぎる」
通りで講義中話せない訳だ……そう日野出は独りごちる。小声でもエロゲなんて単語を出すのはいくら俺でも自重する。多分。
「そもそもウチの常連さんだしなあ……教師やってるとかむしろ俺のがびっくりしたわ」
人は見かけによらないとは、こういうことなんだろう。男性向けのアダルトPCゲームをやってるなんてあの顔で誰が思うだろうか。
言いふらさないだろうが、俺は一応ここだけの秘密な? と2人に念を押した。
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