鏡境のことほぎ

いつはる

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タンギー伯爵領

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タンギー伯爵領はフォルタン国の王都より南西に馬車で二日、領主である伯爵の本邸は王都寄りの街道そばにある。

街道を下に見る丘を利用した伯爵邸は、伯爵一家と直属の家臣をはじめ領民らの生活を守る二重の壁に囲まれていた。

壁を出れば広がる平地や耕地と小さな集落、その先には濃い緑と隣国とを隔てる山々。山からは大地を潤す大河が平地から王都、その先の大海へと身を横たえている。

武人を数多輩出するタンギー伯爵家の家長であるクレマンは現在四十二歳。二つ年下の夫人との間に四人の子を儲け、王都にいる次男以外の子供らと領地を切り盛りしている。
隣国との小競り合いが長引き、近々兵を連れて問題の場所に赴くよう王命が下った。

◇◇◇

ある朝、朝餉の席で
「近々、第二王子の婚約者であるジスカル侯爵家の令嬢が我が領に来る事になった。皆で対応するのでそのつもりで。ヤニックは後で部屋に来るように」
と食堂内にいる皆と三男であるヤニックに指示を出した。

比較的裕福なタンギー伯爵領は、家臣や領民らに学ぶ機会を与えようと領地内に学舎まなびやを作り、読み書きをはじめ簡単な算術、更に学びたい者にはより深い知識を得られるように識者を招いてその欲を満たせている。
ヤニックは十六歳。昼間は学舎まなびやで学ぶ。学友には家臣の子供らと、昨年から第二王子ジョエルが参加している。
ジョエルをはじめとする学友らの調整役として何か言われることは予想できた。

◇◇◇

ヤニックは学舎まなびやへ向かうジョエルを見つけ、彼の周囲を歩く護衛に目で挨拶する。
「おはようございます、ジョエル殿下」
ジョエルの視界の端、驚かさない距離で頭を下げる。
「やぁ、おはよう。今朝は早いなヤニック」
気安げに声を駆けられつつ並びながら歩く。
「父から伝言が。ジスカル侯爵令嬢に関してです」
近々ここにくる婚約者の名前に眉をピクリとさせると
「わかっている、エステルとの」
「おはようございます、ジョエル殿下。そしてヤニック様も」
後ろからひときわ高い声音こわねが追いかけて来た。
「何ですか?私の名前が聞こえた気がするんですけど」
エステルの問い掛けに、この話題は終了だと告げるようにジョエルが細めた目でヤニックを睨む。
「おはよう、エステル」
柔らかい笑みを向けるジョエルに、更に距離を縮めたエステルは、ヤニックをチラと見ると並んだ肩の間に滑り込んだ。
取り留めのない話に笑い声を混ぜつつ歩く二人の後ろを、ヤニックは興味なさげについて歩いた。

◇◇◇

幼き頃療養にとタンギー伯爵領で三年過ごした第二王子であるジョエルは、王都で成長し十七歳になると識者を求め再び伯爵領で過ごしたいと王を説得し受け入れられた。
かれこれ一年、幼馴染みのヤニックや伯爵家家臣の子供ら共に机を並べ、しばしの間の解放感を堪能していた。

その中に、日々朗らかな笑顔を向ける男爵家の末子三女のエステルがいる。彼女の母がヤニックの乳母だった事もあり伯爵邸でヤニックと共に成長し、療養時も話し相手として側に侍っていた。

療養の折、少し年下の少女に淡い想いを抱きつつ、立場の違いからその想いも掠れた備忘と化していたつもりだったジョエル。久々に会う彼女の微笑みに、掠れた想いが上書きされるのにそう時間はかからなかった。

王都にいる婚約者の侯爵令嬢。ここに来るまでは婚約者とごく普通のやり取りをしていたのだが……
兄の婚姻が済めば次は自分だと理解しつつも、エステルへの想いは増すばかり。最初こそ話し相手としての距離を保っていたが、その内思いを隠すことなく伯爵領内で過ごすようになった。エステルもまたそんなジョエルを受け入れるように振舞う。
一度エステルを学舎まなびやから外そうと言う話が出たが
「エステルには皆が助けられているから」
とジョエルが言うので、二人が態度を改める事を条件に継続する事となった。
いつ王都に戻るかも分からないのだ、少しでも彼女との思い出を増やしたい……ジョエルの思惑をわかっているのか、その条件は随分とゆるいものであった。

そんな時、侯爵令嬢がご機嫌伺いにと伯爵領まで来るとは……ジョエルは想像だにしていなかった。
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