鏡境のことほぎ

いつはる

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来訪

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「お久しぶりでございます」
ジスカル侯爵令嬢ナディーヌは深くお辞儀をするとゆっくりと顔を上げる。ただその視線はジョエルの顔を確認するとすぐに傍らで王子の腕に手を添える娘へと移った。

「御学友の皆様とは仲良くされているご様子で……」
ナディーヌの口調は硬い。
「以前話しただろう、男爵家のエステル嬢だ。こちらはジスカル侯爵家のナディーヌ嬢」
三人は距離を詰ながら挨拶する。
「エステルと申します」
明るい声で挨拶すると
「お噂はジョエル殿下から伺っています、御婚約者であるナディーヌ様にお会い出来て嬉しいですわ」
と満面の笑みで話掛ける。
「ナディーヌ様、お疲れではありませんか?すぐにお茶の席を準備しますね」
エステルは一方的に語り終わると、ひとり別室へ移動しつつ使用人に指示を出しはじめた。

◇◇◇

ナディーヌはその様子に小さなため息を吐いた。
伯爵邸の外れにある古いはなれを改築した学舎まなびやは、講義を受ける部屋以外に休憩用に作り替えられた部屋が二階にあるのだと言う。

「いつもの世話焼きか。不躾に思うだろうがここでは普通だ」
小走りに二階に上がるエステルの姿を目で追っていたジョエルの瞳がこちらに向けられる。
「手紙に色々書かれていたが、王都の様子を教えてくれないか?」
そう促されたものの、周囲の耳を気にすれば語れる内容も限られる。
への家族からの当たり障りのない伝言、王都の流行りや話題の芝居、己の日頃の様子や婚約者として学んでいる事など……微笑みながら耳を傾けるジョエルの様子に少し安堵しつつ学舎まなびやを見て歩き、お茶の準備が進む休憩室へと踏み入れた。

直ぐにヤニックや学友達も集まる中、使用人達と共に茶の支度を済ませたエステルが手分しながら配膳し始めた。
「本日は殿下が好きなお茶にしてみました」
とジョエルとナディーヌへ
「ヤニック様は朝の鍛練で疲れたでしょう」
蜂蜜の瓶と共に茶を注ぐ。
ひとりひとりに声を掛けながら茶を入れ最後に
「どうぞ召し上がれ」
とひとつ手を叩いた。
「お袋かよ」
誰かが言うとどっと笑いが起きる。

ジョエルの屈託のない笑い声を聞いて、これもこの場の日常なのかと納得し様子をうかがうのだが……ナディーヌは静かに茶をすする事しか出来ない。

隣で曖昧な微笑みを浮かべるナディーヌに気付かないジョエルは、ナディーヌに背を向けると昨日の講義について皆に意見を求め、それに合わせて周囲も盛り上がった。話題は多岐に渡り途絶える様子がない。ナディーヌは茶器を起き顔を上げると、令息達に交じり語り合っていたエステルと視線が交わった。
「ナディーヌ様!申し訳ございません!」
「ほら皆も、お客様がいるのに!殿下も久々に会う婚約者をほったらかして何してるんですか!」
と慌てはじめた。
「すまん すまん」
ジョエルは笑いながら、ついぞ気にする気配もなかった婚約者へ向き直った。

ナディーヌは慣れない味の茶を流し込むとジョエルを見つめた視線を外しかぶりを振った。

◇◇◇

兄である第一王子に比べ小柄に産まれたジョエルは、食も細く季節変わりには数日部屋から出れない事も多かった。そんなジョエルにとって、大剣を佩き父の前で豪快に笑うクレマンは寝物語の英雄のよう。城で見掛ければ駆け寄り、その雄健さが我が身に乗り移らんかと纏わりついた。

王からその懐きように、タンギー伯爵領での療養を命じられたのはジョエルが六歳の時。この先、兄を支え不測の事態には兄に替わる使命を担う事になるのだと、ジョエルは自分の役割を意識した。

貴族としての体裁の中に粗野な行いが許される騎士達、領民と共に日々の支度に動き回る伯爵夫人や女性達、クレマンと共に馬上から望む広大な自然は力強い生命力に溢れ、ジョエルの心身に変革を与えた。
「飾らず有るがままの世界のなんと美しく逞しい事か」
刻む心象は深く、幼いからこそその想いに傾倒した。

男ばかりでは気が利かぬと近い年の男爵令嬢のエステルが話し相手に加わったのは伯爵領での生活も二年目。

日々外で駆け回るのであろう彼女は、健康的に肌は焼け幼子特有のふくよかさを持つ。煌めく瞳は深い緑、明るい茶の髪はくるくると顔の回りから肩にかかる。どうやらそのクセが気に入らないのか不貞腐れた顔をしながら髪を摘まんでは伸ばしていた。
その様子を見つめていればふと視線が交差し、下がった口角が瞬時に上がった。
飾り気のない仕草や表情は、ジョエルの嗜好に添うものだった。

それから更に一年、九歳になったジョエルは身長も伸び今迄にない厚みも蓄え王都へと戻った。
空と大地を堪能していたジョエルにとって、城の中での生活は窮屈そのもの。立場は理解しているので手を焼かすような行為はない分、内面は歳を重ねるごとに意固地になった。

同い年のナディーヌとの婚約は十五歳の時。二年間、交流しつつ共に将来に向けて学び語り合う日々。周囲の評判も良く似合いの二人だと言われる事も多いが、それが果たして口にした者の本心であるのか……王家の一員として表面を繕う立ち振舞いをしながらも、心の隅にはタンギー伯爵領での大らかな日々を懐かしむジョエルには、大人の言うがまま大人しく立ち振る舞うナディーヌに、不満はないが物足りなさを感じる事もあった。

◇◇◇

ナディーヌの滞在は四日間、ジョエルにとっては充実していた毎日に投下された異物……いや婚約者に対して何をとも思うが、己の神域に許しのない者が踏み入れたような警戒感を感じ、彼女に気を遣いつつも距離を置き防壁を作る。

つい比べてしまうのだ。
堅苦しい王城内の常識で作られたナディーヌと、大らかな伯爵領の気風で育ったエステルを。

ナディーヌとエステルが共に行動する様子を見掛けると、美しく整えられた花弁を誇らしげに揺らす花と、その影にありながら力強く日に向かって花弁を開く素朴な花を想起し、その素朴さを美しいと思える自分がいかに正しく世を理解しているのかと得心するのだった。
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