白い夏に雪が降る【完結済】

安条序那

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第30話 波束

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『ああ、逃げだす手段があれば! なにか手段があれば! 脱走したい! そうしなければならない! 今すぐに! 扉からでも、窓からでも、屋根組みからでも! 梁の間を通り抜けた後に、自分の肉体の一部を残すことになっても! おお、なんという怒り! 悪魔! 呪われろ! いい道具があってもこの壁を突き破るには数か月必要だろう。それなのに私には釘一本ないし、一時間と残されていないのだ!』――ヴィクトル・ユゴー『死刑囚最後の日』

「核兵器、ですか」
「おう、我が子。核兵器だ」

 老人は緩やかにティーカップを傾けた。
 目の前の20過ぎたかそこいらの青年は目を丸くしながら老人の言葉を反芻すると、丁重に噛み分けてから言葉を返した。

「あなたがそれに頼ったなんて信じられない……何か理由があったのですか」
「いいや。それが本当に星の邪悪から皆を救うと考えていた。奴らの遺跡を爆破解体し、米軍と協力して目覚め始めたクトゥルーに核を打ち込んだ。当時人類最新鋭、まだ開発段階の技術であった水素爆弾のプロトタイプだ。水爆の小型化は冷戦期にソヴィエトが成功したというのが定説だが、その仕組み自体はもう既に俺がやり合ってた頃からあった。だが戦術としては実用に耐えうる程ではなかったわけだ。とりわけ小型化すると不安定になり、威力の制御が効かなかった――そうさな、このカップに入った紅茶一杯に、テンガロンハット満杯に盛った砂糖を傾けて、ちょうどよく甘い紅茶が作れる程度に入れる……それくらいには制御が効かなかった」

 この武力嫌いの老人がそれに頼るとは。やはり信じられなさそうに青年は高い天井を仰いだ。

「何か代替手段はなかったんですか。それじゃ今の話と博士に教わっていることの発言の一貫性がありません」

 青年は博士に耳痛く火力及び兵器に頼らないように指導されていた。それはあくまでも『人間が正常に知覚してきたもの』に対してしか効果を持たないものである為、特に大きな対象ほどそれで対処してはならないと。

「ああ。だがまあ聞け。海面が干上がる程の熱量だった。すごいことだったよ。暫くは酷い上昇気流で、その海域に雨が降り続いた。隕石が落ちたのかと見まごうほどにね。だがね、俺には見えたのさ。その激しい爆風の後、海底をうねりながら移動する小さな魚団じみた生き物の群れ。まるで足に巣の穴中から吹き出してくる蟻が這い上がってくるみたいに、俺の乗っていたヘリのすぐ下を通って――こちらを覗いていやがった。気味の悪い光景だったよ。俺以外には見えなかったようだが――それで俺は確信した。クトゥルーをやり損ねたとね。あの頃は、セラエノの叡智に赴き抱かれ、この地球の外にある宇宙の闇黒について知り得たと思った。闇黒の中にあって、クトゥルーよりも、或いは同等に恐ろしい邪神が星中に犇めいていることを理解したことでクトゥルーを過小に評価した。やつらが現れた宇宙の空間は無酸素で無重力、大量の放射線と絶対零度――。例え核熱兵器が一秒で中心温度が4億度になるとはいえ、それだけでは足りなかったのだ。そして何よりも、巨大な兵器を使用したことによって、その場にいた者全員が、現状を冷静に分析することができなくなった。我々は勝利したと勘違いしたのだ。あの想像を絶する爆風に、熱線に、人智の結晶である破壊兵器に。その場の誰もが――そう、俺もきっと影を見なければ勝ったと勘違いしていたに違いない」

 老人はほとんど息も継がずに滔々と語った。青年は、老人にとってはこれは昨日のことなのだろうと思いを馳せていた。

「その後、俺は失意のままに弟子達に解散を命じた。きっとクトゥルーの教団の魔の手はみなに伸びる。もっとも、俺と弟子達にもうこれ以上戦う手立てはなかった、俺の両の眼はもう既に光が失われていたし、弟子の中にはクトゥルーの恐怖にあてられ人の心を保つことができなくなったものもいた。邪神と戦うのと人と戦うのとは違う。散り散りになっていったみなは次第に連絡が取れなくなり、変死したもの、一族諸共皆殺しにあったものもいた。俺はあくまでも弟子達が俺といる方が危険だと思い解散を命じたのだ。しかし現実にはただ死期を早めるだけのことだったかもしれん。そして、ある日俺の元に優秀な記者が来た。随分よく調べた男だった。クトゥルーについても、そして教団についても、そして西海岸を南下したルルイェについても。けれどその男はまた来ると言って二度と俺に会いに来なかった。予定していた時刻になっても、淹れた紅茶が冷めた後にも」
「殺された、のでしょうか」
「ああ、きっとな……」
「ラヴァン博士、ではあなたが悔悟しているのは――」
「ああ、俺は確かにクトゥルーを一度は眠らせることができた。しかし俺は、負けた。大きなものを失いすぎた。そして、俺は試算した。あの日、核を打ち込んだ日のこと。核を打ち込むのをやめていたら――正規の手順を取り、クトゥルーを退散することができていたら、とな。クトゥルーが目覚めた時、奴は陸を求めるように西海岸に向かって歩みを始めていた。奴が到達するまで約五時間と考えた時、それまでの米軍との打ち合わせやこちらから出向いて行く時の時間も考えると、エンセナダ、サンディエゴ辺りの南側はもう手遅れだったかもしれないが、ロサンゼルスに到達する前には準備は完成しただろう。たった、たった100万人単位程度の犠牲でクトゥルーの復活は恒久に阻止できたかもしれなかったのだ。永遠に、クトゥルーの復活は阻止できたかも知れなかった――」
「……」

 青年は黙っていた。老人の言っていることが全て正しいとはとても思えない。
 しかし同時に、それほどの存在がこの世界の地下のどこかに今も眠っており、それが例え一つでも目覚めれば容易に人間の社会など吹き飛んでしまうことは理解していた。
――表の世界では誰もが知らない平穏を脅かすもの、それがこの人智を越えたものとなってしまったラヴァン博士にさえ100万人単位という大変な数の命を100と言わせてしまう。その事実の薄ら寒さに背筋は凍っていた。
 何を相手にすれば100万人という数をここまで陳腐にできるだろう……それはもう言葉としては思い当たるに一つしかなかった。
 人間は計測不能なもの、数値には表せない窮極の存在を“神”と呼ぶ。そうとしか形容することを許されていないからだ。ちっぽけな人間にとってそれ以上の表現はなく、それに比肩するものはない。

「だから我が子。お前達には必ず言うのだ。正攻法でやれ、とな。現在の人間の得てきた力の体系では、正に神話の存在である奴らには及ばない。圧倒的な熱核でさえ、長めの二度寝の時間を与えたに過ぎなかった。もう一度目覚める時もそう遠くないだろう。星辰は整いつつある。ここ数十年の内にもう一度必ず奴は目覚める」

 青年は聞いたことのない単語に首を捻った。

「星辰が整いつつある、ですか」
「ああ、星辰だ。世界の運命が流れゆく道筋は、宇宙に連なる星々の配置で決まっている。引力、重力、揺らぎ、或いは温度、力場、対称性の破れ、暗黒物質の相互作用――。現在の人類では無造作にしか見えないものも確実に意味を持ち、俺たちの生きているこの空間と時間、ひいては知覚できない次元で密接に関わり合っている。だからこそ星辰は大きな運命を見るに当たって使われてきた。
 ホロスコープという占いを知っているだろう? それも日月星辰の流れによって未来を予測する。もっとも、今にテンプレートとして使われる大衆向けのそれは決して本来意図された能力を持つものではないだろうがね」
「それは魔術として使い道のあるものなんでしょうか」
「ああ。この世界の流れを決める大きな“渦”を感じることができるようになるだろう。俯瞰した視点からの世界視、つまり鳥の目を得るに等しい」
「――星辰についてもっと教えてくださいませんか。博士」
「構わんよ。だが、これは学ぶに当たってかなり勉強して貰う必要がある。根がいるぞ。とてもお前にできるとは思えんが」
「いえ、やります。やらせてください――」

 夕暮れと夜を裂く空の袂に一人、白衣の男性が立っていた。
 その男は一つ煙を口に含むと深甚に嚥下して、小さく紫煙をくゆらせた。

「なるほど、博士――これがあの頃に言っていた“目覚めの星辰”ですか」

 夜空の紺青が塗り込めていく風の最中、不穏にも西の空の星々が銀河のように渦を巻いて見える。
 そして水平線の夜闇の上を、囂々と燃え盛る大きな火球の束が駆けて飛ぶ。それは傍目には美しく見えた。

「あれがあなたの対峙する一柱そのものなのですね。博士……」

 一木は振り返ると、次の目的地に向かうためにエンジンをかけた。

「たった100万単位の命、か」

 博士の言葉は、今も耳にずっと残っている。
 100万単位の命でこの件に片が付くとしよう。そうすれば、ぼくは選ぶだろうか――。

「……」

 ああ。選ぶだろう。
 選びたいさ。
 選びたいに決まっているじゃないか。
 増え続けていく人間の中の100万が一体なんだって言うのだろう。
 切り捨てられる100万の気持ちなんて、後に残った何十億という人間からしてみれば些事に過ぎないだろう。
 それでも人間が中心の愚かな世界は回りたいと願っている。その気持ちの総量の方が多いだろう。
 でも、わかっている。
 そんなのは全て建前だ。
 ぼくには失いたくない人たちがいる。
 その子達の未来がある。
 秤になんてかける必要もない。
 ぼくは、選ぶだろう。
 失望するだろう。この醜い望みを見られた日には。
 それでも構わない。
 ぼくは、正義の味方にはなれなくていい。
 それでも構わないから、ぼくはあの子達が笑っていられる未来だけが欲しい。
 ぼくはまだ、この世界を――。

「博士、今ならあなたの言っていたことがわかる」

 夜闇に満ちた世界の中で永遠にも感じる一時を過ごしながら一木は動き続けた。
 100万の命よりも大切な人を選べるならどんなに楽だろう。けれど一木の人生には都合のいい選択はなかった。
 今までも、今回も。
 全てを得るか、全てを失うか――。

「ぼくは、今度こそ――どちらかを得ることができる」
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