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第29話 牢記
しおりを挟む夕焼け空は煙草の巻紙が緩やかに焦げるように、青空を焼きつけて傾いていた。
今この広いラボには一人しかいない。それが暁月もどる、彼女であった。
篠沢一木――彼が少年の時から共に育ってきたもどるは、これまでの殆どの時間を一緒に過ごしてきていた。
もどるの人生は一木の半生であり、そしてこれは逆もまた同様であった。
『死刑囚最後の日』は、少年の頃の彼の愛読書だった。彼はいつも部屋の窓際に立ち、夕方の燃える空を声も立てずに涙を流しながら眺め、腕の中に妹が遺した『遺骸』の欠片を抱いていた。
彼は常に死を思っていた。メメント・モリではなく、希死念慮である。一木がただの少年として家を離れて生きていた頃、彼の妹は拷問よりも重い苦痛を伴う禁忌の供物として身を供されていた。実に、三年間。長い間だった。一木がそれを知ったのは、家に戻ったその日であった。
燃える家に、狂乱し自殺した両親の遺体。その隣でもぞもぞと蠢く大人ほどの楕円球の肉塊。
一木は恐怖の余り動くことさえもできなかった。そしてその肉塊と共にあって、それが妹であったことを理解したのだった。鱗張った芋虫のような膨らんだ肉塊が、変質しきった妹の胴部であったことも。叫ぶことすらできない妹に無力な少年は何もできず、無残な姿の妹を抱いてそこに入ってくる人間達をただ眺めていた。そして、それが暁月家と篠沢一木の邂逅であった。
『オイ、退けよガキ。それはもう人間じゃねェ』
『嫌だ。扇ちゃんはぼくの妹だ。ぼくは扇ちゃんの家族だ。扇ちゃんをこれ以上一人にしない。ぼくは、ぼくは……お兄ちゃんだから。だから、殺すなら、殺すならぼくも殺してくれ――』
少年の願いは聞き届けられなかった。少年は一撃の下に倒れ、少女の残骸は持ち込まれたあらゆる手段によって破壊された。けれど幸運にも……不幸にも、少女は死ななかった。いや、もう既に死ねなかった。
――異端狩り。それは暁月家に課せられた使命であり、篠沢家はその対象だった。生け捕りにされた一木と、破壊できなかった妹は篠沢家の禁忌の情報を調べるために暁月家に引き取られた。だが一木は禁忌について何も知らなかった。その為、一木は暁月家当主によって生存の条件に篠沢家の禁忌の研究を命じられた。つまり、自分の妹と向かい合う役目を強制されたのであった。彼の役目は妹の体を検体にその禁忌の謎を解くことだった。
もどるはその少年が時折部屋から出て戻っていく様を眺めていた。一冊の本を友に眠りもしない少年。最初は黒かった少年の髪はみるみる内に灰混じりの薄い色に変わっていった。瞳は淀んで、常に涙が溜まっていた。それでも、決して誰にも泣いている姿は見せなかった。数年間、誰とも喋ろうとせず、小さな一室で彼は妹と居続けた。焼け残った書物、研究のための資料、小さな木の板と紙。それだけが彼と妹の部屋には溜まり、一度も電灯が消えることは無かった。
少年の髪がすっかり灰被り、瞳の光が消えた頃のことだ。もどるは部屋の中で少年の話す声が聞こえた。初めてだった。少女は呼ばれるように部屋に立ち入った。
部屋の中は、神聖な光景があった。倒れる妹の体を抱き締める少年。切れかかった電灯が、少年と少女を薄暗く照らしていた。少年は、初めて笑顔で妹に向かって話しかけていた。
妹の膨らんで芋虫のようになっていた体は小さくなり、指先は確かに別れ、髪は短くだが、確かに生えていた。体中は大きな赤いガノイド鱗に覆われていたが、それはゆっくりと時間をかけて卵の殻が剥がれるように落ちていき、ようやく人間の少女らしい形を取り戻していった。
見ていた少女は気が付いた。妹は死んでいた。
安らかで、傷一つない美しい死に顔だった。少年は血走った眼で、それでも笑顔を無理に作って泣いていた。
『いつか、お空で会えたら、一緒にあったかいお布団で眠ろう。お兄ちゃんが、いっぱいごはんも作ってやるから。おにいちゃんが――なんでも。なんでもしてやるから……。そうだ、公園にも行こう。何で遊ぶのが好きだったっけ。でもぼくのいない間にもう小学生にもなったし、違う遊びの方が好きかな。お兄ちゃんに教えてくれよ。扇ちゃん、聞こえてるかな。そうだ、お兄ちゃんな……扇ちゃんにあげたくって、誕生日プレゼント、毎年、一個ずつ貯めてたんだ。でも、もっといっぱい貯めないとな……何がいいかな。来年は中学生だもんな――わかんないよ。お兄ちゃん、なにをあげればいいかな。そうだ。入学式をしようよ。ぼくと、君で一緒に行こう。約束したもんな。約束――。綺麗な制服着て、手を繋いで。いやかな、もう、中学生だもんな――は、はは』
少年は何度も、何度も、電灯が消えて真っ暗闇包まれても妹に向かって語りかけた。
帰ってくるはずもない思いの丈を吐き出したくて、この何年にも渡る無言を破るかのようにあふれ出した言葉を全て。
そうして、少女は理解した。
少年は長い時間をかけて解読したのだろう、この禁忌が不死の呪いであったことを。
呪いを解けば、本来耐えられるはずもない苦痛を受け続けた肉体は確実に死ぬことを理解していたに違いない。
それでも少年は妹を殺したのだ。
自らの罪を受け容れ、妹を殺したのだ。
血脈の呪いを打ち破り、愛する妹の安らぎの為に。
『これで、よかったんだ――。これで、やっと扇ちゃんは痛くないんだ。もう苦しまなくて済むんだ。これで、やっと、やっと――』
少年はうめきながら叫んだ。
『いやだああああああああああああああああああああああああああ――――!!!!!!! 死なないでくれえええええええええええええ一人は嫌だ。いやだ。いやだ。いやだいやだ。ああああああああああああああああああああああああああああああ――!!!!!!!!!!!!!! 嫌だ。嫌だ。扇ちゃんと一緒に殺してくれえええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!!!! どうして、どうしてぼくだけが生き残った!!!!!!!! 殺してくれ!!!!! ぼくは殺したんだ――!!!!!!!!!!! ぼくは殺したんだ、なぜぼくは殺されない!!!!!!!!!!!!!! 殺せ! 殺せ! 殺せよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお』
気が狂ったように少年は叫んだ。涙を堪えずに叫んだ。
『どうしてだああああああああああああ!!!!!!!! ぼくは、ぼくは扇ちゃんを救いたかっただけなのに!!!!!!!!! ぼくはただ扇ちゃんを助けたかっただけなのに!!!!!!!!!!!!! どうしてころしたぼくがいきのこって、おうぎちゃんは、なにもわるくないのに……おうぎちゃんはただ、生きていただけなのに!!!!!!!!!!! どうしてだよおおおおお』
それを見ていた少女は抑えきれずに当主の言いつけを破って、彼を抱き締めた。
『君は悪くない。だから、死なないんだよ。きみは、なにもわるくないんだよ』
『違う、悪いのはぼくだ――! ぼくがころしたんだ――』
少年は少女を力任せに振り払った。
少女は立ち上がって上着を脱ぐと、扇と呼ばれた少女の遺体の下に敷いて寝かせてやった。
『だめだよ。妹ちゃんが眠れるように、ちゃんと綺麗にしてあげないと』
少女も泣いていた。こんなに悲しいことが、世界にいくつあるだろうか。
まだ十年近くしか生きていない少年が何年も費やし妹を救う方法を探し、それは死しかないなどと。
『ほら、お風呂、入れてあげようよ。手伝うから』
『う――うう』
少年と少女は綺麗になった石けんと甘い香りのする小さな体を、小さな棺で焼いた。
辺りは暗かった。火の明かりだけがあった。
少年は全てが終わると、少年の手には余るほど大きな鱗一枚を手に部屋へ戻って泣き続けた。今までのことを全て洗い流すように、泣き続けた。
その隣には、赤い髪の少女がいた。
「――あの頃に戻っているのね。イチくんは」
それも無理からぬことだ、そうもどるは得心していた。もどるはどれだけ彼が何を経験しているか知らない。
正しくは。
彼の言葉から予測できうる経験の梗概に思考を回してはいる。その上で彼が何を見たのか殆どは理解できている自負はあった。しかし彼の五感に支えられた語り得ることのできない無意識の部分、ここまではもどるでも確定できないことだった。彼女がいかに優秀であったとしても記録に残らない記憶を言葉で伝える上では、人間の情報収集可能範囲は狭すぎる。ほんの小さな過程のズレだとしても、極限大まで引き延ばした結論の世界ではその小さなズレが深刻なエラー――即ち予測される現実を大きく変えてしまうことになり得る。
今回の計画は、一にも二にも綿密なシミュレーションが求められる方向に舵取りが行われた。その為の準備は全て間に合わせた。もどるが唯一懸念していたのは、不確定要素である子供達のことだった。子供達がどこまでやれるか――災害級の化け物に対して実働可能なのがたった四人、おまけに子供達二人は何も知らない戦闘訓練もしたことがない素人だ。
「正気なのかしら……とは言えまいね。イチ君は綱渡りをする時は一人で行く人だもの、こうして子供達を巻き込んでいる時点で勝算はあるのだわ。ただ、私には見えないだけで……」
けれど本当に勝算はあるのだろうか、一木の計画は既に何度も何度も脳内でシミュレーションし直している。けれど三桁を越える試行回数を繰り返してもうまくいくパターンは見えなかった。どのルートも致命的な欠陥で道が塞がってしまう――。それとも、私の知らないだけで彼の目には、その先が見えているのだろうか。それは知る由もないことで、今まではありえなかったことだった。
突然ブザーが鳴った。
この音は守衛室からの呼び出し音だ、誰かが許可証なしで敷地に侵入したことになる。
「あら、悠里ちゃんかしら」
もどるは一木の残していった“お荷物”を抱えて正門に向かった。
正門にいたのはやはり悠里だった。随分疲弊している上に大きな布袋を抱えている――。
「悠里ちゃん、おかえり」
もどるはできるだけ優しく話しかけた。
「もどるさん……おじさんは?」
「イチくん、今は出てる。それより無事にたどり着けて良かったわ。ほら、お茶入れてあげるから早く入りなさい」
もどるは持っていた“お荷物”をぽいっと放り投げると、悠里の手を引いて構内へ連れた。
恐ろしげに地面を確かめるように足を一歩踏み出した悠里を見て、もどるはほとんど視覚が失われていることを理解した。瞳孔は光を探るように開き気味になっている。
ソファベッドまで着くと、悠里は周りに目もくれずに大事そうに抱えた布袋を下ろしてもどるへ手渡した。
「これ、絶対汚れないような場所に置いてくれないかな。中は絵だから……あとまだ開けないで欲しいの。おじさんに誰よりも先に見せるの……ちょっと、今、限界でね――」
悠里は言い終わるまもなくソファベッドに倒れ込んだ。
「はい、承っておくね。ちょっとそこで休んでなさい」
「――ほんと動けなくて……ありがとう、もどるさん……ぐええ」
「ふふっ、そんな汚い声ださないの。イチくんが悲しむわよ。じゃ、緑茶淹れるけどお茶菓子は何がいい?」
「奢荘堂のバターサンドスコッチ……」
「なに、結構重いのいけるじゃない……じゃあ待っててね」
「ぐ~」
「寝ちゃってもいいわよ。また淹れてあげるから」
「……」
「ここまでが寝言だったわけね……」
もどるは寝入った悠里にブランケットをかけると、計器類の定時観測に理科室へ向かった。
「まったく、イチくんは羨ましいわね――」
だからこそ、失うのが怖いのだろう。妹を失ったあの瞬間と同じ苦しみを、痛みを、二度と味わいたくないのだろう。
「……私はできることをするだけ。大丈夫」
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