白い夏に雪が降る【完結済】

安条序那

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第20話 游泳

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「――かはっ」




 背中を鈍器で殴りつけられたような衝撃で目が覚めた。明滅する視界で仰向けに見上げる宙にはモノクロに描画された星々があった。
 辺りには湿った草の匂いがして、教会も、月明かりも、辺りの木々も線画のようになって全部があたしの『いつも通りの世界』に戻っていった。

「生きてる……?」

 もう聞き慣れた自分の声が聞こえた。

「うん……ギリギリだけど……」

 膝をついて立ち上がろうとするけれど、全然力が入らない。腹筋も膝も笑ったままで、膝をついたまま蹌踉よろめいて、なんとか立ち上がる。

「夢を見ていたみたいね」
「――っ、うん。いつも見る夢で、いつか見た夢だった。でも、あれは夢なんかじゃない」

 あの先にあったのは、無だ。
 無限の落下――結論に達し得ない過程の連続存在……それはアタシの知る限りの言葉に置き換えれば、無、それしかなかった。

「――正しい、認識をするようになったわね。その夢はあたしとあなたを結びつけている夢。鍵の記憶となるもの。この世界の、果ての記憶――」
「果て……っていうかその顔どうしたの!? どこかで怪我したの!? 痛くない?」

 目の前のあたしの顔には、右側頭部から左顎にかけて亀裂が入っていた。亀裂の内側には、吸い込まれるような影がかかっている。
 驚くアタシを後目に、あたしは言葉を続けていく。

「間一髪でもう一度ここに戻ってくることができた――あなたが、欠けた記憶の欠片を修復することができたから。おじさんの繋がりが、みんなとの繋がりが、やっぱりあたしを守ってくれたから」
「……でも、あたしのその傷は――」
「これは傷ではないの」
「ほんと?」

 手を伸ばして、その影を触れようとするけれど、手がすり抜ける。まるで感触がない。何度か確かめてみるけれど、やっぱり変わらない。

「な、なんで? あなた幽霊になっちゃったの?」
「……そうじゃない」
「じゃ、じゃあなんで?」
「あなたも自分を見てみればわかる」

 アタシは近くにあった水溜まりを覗き込んだ。

「ひっ……」

 水面に映っていたのは、体中にボール状の空胴が空いたアタシの姿だった。
 目、首元、左脇腹、太もも、右踵が線で繋がるように貫通して、向こう側にある空が見えた。

「いやあっ」

 体がバランスを失って、地面に吸い込まれていく。
 立ち上がろうとしても、空胴の場所が悪くて立ち上がることすらできない。

「……わかった?」
「な、なんでぇっ――どうしてこんなことになってるの!? アタシの体、なんで、なんでぇ」

 こんなのおかしい、おかしいよ。だって悠里ちゃん怪我なんてしなかったはずなのに。アタシ、なんにもしてないのに。
 やっと、やっと帰ってくることができたのに。なんで、なんで。失敗だったの? さっきのは。
 嘘だ。嘘、絶対にそんなのあり得ない。

「怖いのね。自らの体が失われている事実が」

 冷徹な瞳だった。それが淡々と、アタシに向かって何か言いたげに訴えかけている。

「こ、怖いよ。悠里ちゃん、悪いことしてない。してないよお、なんでこんな風になってるの。ねえ、ねえ、なんでぇ」
「――ごめんなさい。でも、それがあなたの望んだことだったから。あたしは、ただそうしただけ」
「アタシが望んだ? 何を。何を望んだの? こんな怖いこと望んでないよ。悠里ちゃんこんなのやだ、やだぁ。戻して。戻してよお。しーちゃんにもおじさんに会えなくなっちゃうよ、そんなの、やだ。やだよぉ」

 伝えなきゃいけないのに――やっと掴んだんだ。アタシができること。何もできないアタシが、やっと。
 やっと、やっとみんなの役に立てること、見つけたのに。

「いいえ、あなたが望んだからこそ、ここまで、そう、本当によくぞここまで、やってくることができた」
「ダメ、だよ。こんなとこで、消えられない。ここで消えたら、アタシの意味、なくなっちゃう。やだ、そんなのやだぁ」

 涙が溢れていた。無力だ。アタシはどこまでも、何もできないんだ。
 こんなに、こんなに――こんなに頑張ったのに。

「……聞いて。あなたは、病院の記憶で『病院で消えそうになった時、アタシの手を握ってくれたのはあたしか』と聞いたわね」
「そんなの、も、う、関係……」

 横隔膜が引き攣ってうまく話せない。嗚咽ばっかりが漏れる。

「あるのっ!」

 あたしは喝破として言い切る。ビリビリと空気が震えるほどの叫びだった。

「今までこの場所で起こったことを、説明するわ」

 目の前で、あたしの体はボロボロとひびが入り始めていた。石膏像が壊れるように膝が剥がれて、ごろりと地面に横たわる。それでも気にせず、静かに話し出す。
 死を覚悟した者の瞳だった。それは、残酷なほどに美しかった。絶望的な程までに、そこには希望の灯がまだ煌めいていたから。

「月守悠里は現実世界の三咲病院で、白い波に誘われて消えそうになった。これの理由はわからない。けれど、月守悠里はずっと長い間、不調を煩い続けていた。知ってるよね。色も、香りも、音も、さわり心地も、味も。この世界から遠ざかっていくようなあの不調。それがここ数日、あの天体観測の雪を浴びてから急激に悪くなった。そして、遂に消えてしまいそうになった」
「う、うん。覚えてる、よ」

 だって、それがきっとアタシの不調の答えだから。そして、それが伝えなければならない絶対のこと。でももう、伝えることなんて。

「そして、月守悠里が消えてしまいそうになった時、あの時、あたしたちはこちら側にやってきた。手を引いて貰って。あなたは旧駅舎で目覚め、彷徨っていた。空っぽになった思い出の中で、あなたという存在が消えるまでの余生を楽しんでいた。あたしだけは、目的があってあなたを連れて帰らなければならなかった」
「目的って、なに?」
「現実に、帰ること」
「――嘘、だよ」

 心臓の動悸が乱れ始めた。荒い呼吸の内側に、考えたくない予想が過ぎった。

『……帰りたい?』
『帰るよ。悠里ちゃんの居場所、ここにはない気がするもん』
『……本当に帰るの? もし二度と、あなたの見える世界が広がることがないってわかっていて。こちらの世界の方が明るくて色彩溢れた世界だったとして』

 アタシに向かって、黒い瞳が覗き込んだ。それは悲しそうな瞳だった。初めて見る表情にアタシは驚いたけれど、その意味はわからないでもなかった――。

「は、は。は。嘘。嘘嘘嘘嘘嘘だ嘘だよォッ……」

 嫌な想像が止まらない。冷や汗と涙が瞳の中でぐちゃぐちゃになって前が見えなくなる。

「そんなの、嘘だ。じゃあ、じゃあ、アタシ、アタシは――」
「嘘じゃない。あなたは、現実に戻ることなんてできない」

 あたしは言い切り、あたしは言葉が喉元で潰れて動けなくなった。
 呼吸さえもうまくできない酸欠の脳は、バラバラになった理想をつなぎ止めることも許さない。

「はーーッ……嘘、嘘ぉ、嘘だよ。だって、しーちゃんもおじさんも、覚えてるのに、アタシがっ」
「それは、あなたが覚えているだけ。あなたはその思い出の中に浮かんでいる自分自身の記憶の像でしかない。だから、あたしはあなたに思い出して貰うしかなかった。現実世界に繋がる記憶の欠片。失えば覚醒することができない記憶の鍵――」
「――っ」

 世界が水面に浸された。瞬いても瞬いても涙で何も見えない。

「やだぁ、やだよぉ……消えたくない。消えたくない……帰りたいよお。おじさんに会いたいよお、しーちゃんに会いたい、会いたいよ……ママ、ママ。あああ、あううあああああ」

 アタシは、逃げたくなって自分の体をなんとか持ち上げようとしたけれど、どこもかしこも穴だらけになっていて、力を入れようとしてもびくりとも動けなくなっていた。

「ず、るっずるい、よ、ぉ、あなただけ戻るなんて、そんなのずるい……うううあう」
「戻れない」

 静かに、死刑の瞬間のように、断罪をしたのあたしの声だった。
 瞬間だけ映ったあたしは、泣いていた。静かに、ただただ地面を濡らすだけに泣いていた。
 ぱき、ぱきと、若い芽が踏み潰されていくような音が聞こえた。それは、目の前のあたしの肌から蔦のような光が生えていく音だと、どこかが理解していた。

「え――」
「戻れないの。どちらも、戻れない。消えるの。ここで」

 蔦はどんどん育っていく。天空に聳える世界樹の幹のように、あらゆる波を吸収し、光を吸収し、この空間を浄化していく。

「あたしは、月守悠里の意識であり、動機でしかない。そしてあなたは、月守悠里の記憶であり、自分自身の像でしかない。どちらも、現実の肉体に宿るには不完全すぎる。そして、病院で消えそうになったのは――あたしだった」

『こっちに来て』

 体の中に、冷水が巡ったように意識が覚醒し始める。
 渺々と揺蕩っていた記憶の歯車が嵌り、軋んだ現実が空と共に拓けていく。

「あの時、あたしの手を握ってくれたのは、あなただった。消えかかった意識と動機であるあたしを、消滅から庇ってくれたのはあなただった。月守悠里の記憶であり像である、あなただった」
「だから、それを庇ったあなたの記憶には穴ができて、現実に浮上できなくなった」
「あたしはなんとしても。あなたの記憶を取り戻さなければならなかった。だから、その為に現れた」
「あたしの姿が黒かったのは、あなたの記憶の像が揺れていたから」
「あなたは、病院であたしが消えていれば記憶と像だけの不完全な状態でも現実に表出することができたかも知れない。でも、それを選ばなかった。あなたは、言った。『こっちに来て』と」
「消えかかっていたあたしを助けて、自分の存在を犠牲にしても守ってくれた。それは、紛れもない『月守悠里』が『月守悠里』を愛することができていたという事実。『月守悠里』という存在を取り巻く光と闇が、あの波に打ち勝っていたという事実」
「あたしは、だから。絶対に『月守悠里'』という存在を認めなかった。あなたが、そう願ってくれていたから。その願いという動機を、捨てることはできなかった」
 
「アタシ――思い、出したよ――」

「でも、でも――思い出したくなんか、なかったよ」

 記憶、追想。

「しーちゃん」

 目の前の月守悠里は、焦点を失った瞳で呟いていた。
 無謀なことだった。既に世界は壊れていた。
 肉体の感覚器は現実を計測する術をほとんど失っていたし、精神エスプリの反応もなかった。
 月守悠里は、眠りに落ちる瞬間だった。
 目覚めることのない眠り、それは死と区別がつかない。
 つまり、目の前の月守悠里は死んだのと変わらなかった。
 けれどなんていうことはない。この世界は不思議なのだ。
 ずっと内側からあなたを見てきたアタシがいる。
 これまでずっと、ガラス球の中で外に出ることも叶わず、あなたとして生きてきた月守悠里アタシがいる。
 あなたは気にせずに眠ればいい。その輝かしい記憶の体験者として、アタシはあなたとして生きることができるのだから。

「しーちゃん」

 繰り言だった。夢の間際にある幻想の中で、彼が現れたのだろう。そして、憐れにも月守悠里はまだ彼がヒーローだと思いこんでいる。自分のことを助けに来てくれるヒーローだと。けれどヒーローは来ない。この世界には、もう既に他者の情報を受け取れるだけの可動領域キャパシティが存在しない。どれだけ不可能を可能にしたって、それを知らなければ実際に起こっていたとしても変わらない。あなたはもう、ヒーローが何をしたって、それを受け取ることはない。

「しーちゃん」

 切れかけの電球は、明滅を繰り返す。死に至る人間は、一度だけ健在の頃の面影を垣間見せる。これはきっとその一種だろう。譫妄、と言ったっけな。

「しーちゃん……ごめんね――」

 世界の中には、濁流が流れ込んだ。
 金属質に光る、ヌラヌラとした粘土の高い白い波。
 龍が狂っているような滂沱である。
 アタシは場所を移す準備を始める。
 鍵のかかった記憶の中なら、この滂沱の中でも情報圧潰を起こさずに済むだろう。それでも一部は欠けてしまうかもしれない、しかしそれはもう問題ではない。どうせ気にならなくなることだ。

「……だれ?」
「――……っ!」

 目の前の、明かりの消えたはずの瞳が煌めいた。
 波長チューンが、合っているのだ。こちらを見ている。

「逃げ――て……ここ、危ない……」

 おぼつかない呂律のまま、目の前のあたしはアタシに言った。
 破壊を伴う波の進撃が始まった。この場所はもう、波打ち際の砂上にも心許ない。
 ゆら、とあたしは立ち上がった。

「動けないの……ね。でもだい、じょうぶだ、よ……おねーちゃんがね。守ってあげるから――ぜったい、まもってあげる、から」

 膝を付きながら、それでもあたしは止まらない。なにがあたしをここまで動かしているのだろう。ずっと見てきたのに、どうしてわからないのだろう――。

『悠里、もう、怖くないよ。大丈夫――。怖かったね。もう、こんなことを思い出さなくていいようにしてあげるから』

「――誰の、言葉だ」

 あたしの内側から聞こえてきた、知らない言葉。ずっと見てきたのに、聞いてきたのに。知らない。

「誰の、それ」
『――』

 糸が切れた人形のように、あたしは静止していた。呼吸の振動さえも感じない。
 肌を焼くような激しい焦燥にアタシは知らないうちに手を伸ばしていた。

「こっちに来て」

 手を握った次の瞬間には、白い波の中にアタシたちは揺られた。
 恐ろしい程の水圧と、曲がりくねる大蛇のような回転。上下も左右もなくなり、三半規管がブッ壊れるくらいに掻き回される。
 死ぬんじゃないか、そんなことも考える暇も無い。息もできない、何も聞こえない。でも、この手は握っていた。
 アタシの知らないこの子を知らなければならない。アタシは、あたしになりたかったんだ。そのことを、初めて自覚した。
 激しい圧力と渦の中で、アタシの持っているモノがばらけていくのもわかった。そしてそれがアタシであり、あたしだった。
 アタシは、誰よりも、あたしを知りたかった。たったそれだけ、だったんだ。

「う、は。はは……はあ、はあ。は――」

 涙、止めなきゃ。だって。

「う、あ。アタシって、ほんと、バカ。なんでこんなこと、忘れた、んだろ……はっははっはあはあ」

 呼吸がしづらい。それは、この体が、もうほとんど形を残していないからだ。

「あなたを助けようなんて、思ってなかった……。アタシね、知らない自分が居たのにびっくりしただけなんだよ。ほんとうに、だから、そんなに、かっこいい理由じゃないんだよ」
「そう……でも助けられた」
「あなたの言う通り、願いも、叶った――のかな」

 体の内側が、何かで満ちていくのに、アタシがアタシと感じ取れる部分は消えていくのがわかる。
 消える――違うな。

「還るんだ。アタシと、あたしが――」
「うん。これがあなたであり、あたしが望んだことだったから。ありがとう――」
「そうだね。そうだった。でも、でも。ずるいよ。月守悠里ってヤツはさ――」
「アタシも、しーちゃんとおじさんと、『夏休み』ってやつ、やってみたかったんだけど、な……はは」

 やがて、変わり映えしない『月守悠里』の部屋が、緩やかに知覚できるような感じがした。

『あなたじゃないとダメなんだよ。悠里。行ってらっしゃい』

 アタシは、そっとあたしに寄り添った。どこか笑っている気がした――。

『アタシが知ってること、全部あなたに、還すね。これが、消えたあたしと、今ここにあるアタシの願いで、想いだから』

 さよなら。愛おしきあなたの記憶より。

「ん……う」

 瞼を開けると、真っ白い世界に、線が引いてあった。誰もが色彩を失って、有象無象が薄く引かれた線画の存在。『ただそこにあるだけ』の事実の総体だ。
 けれど、あたしには今、やることがある。
 ポケットで、電話が鳴っている。

「――聞こえるかい、悠里」
「おじさん……夢を見てたの。悲しい夢」
「そうか。それはよく帰って来たね。おかえりなさい、悠里」
「おじさんに、あたしの知ってることと考えたこと、お話ししたいの」

 言葉が勝手に口を突いた。

「うん。教えて悠里。君の思いや考えたことを」
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