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第19話 幾何
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紺碧に澄み渡る闇黒の宙に覆い被さって、あたしの憧れた姿がそこにあった。
髪の黒い、瞳の色が黒い、あたしだ。
どこにいても、この世界に馴染んで当たり前の。
あたしだ。
どこにいても許される、守られる必要のない。
あたしだ。
「何が、始まるの」
あたしは空を指差した。
満天の星空を駆ける流れ星の大群が、明滅しながら地上に向かって何かを降らせている。それは一見してただの流れ星に見えたけれど、そうではない、そんな予感が脳裏を掠めていったのを見逃さなかった。
「淘汰だよ。あなたの存在が消えるかどうか選ぶ淘汰」
真っ黒の冷たい瞳は、見たこともない無表情なあたしの顔をしていた。
「淘汰……?」
「先に言えば、もう時間がない。あたしたちは追いやられてきた。ここまで逃げてきたけれど、これ以上に逃げられる場所はない。あなたは思い出さなければならない――そうしなければ、ここにあなたという記憶が残る理由はない」
ふと、肌に痺れるような感触が走った。本気の瞳が射すくめていた。
「そんな事言われたって! 何を思い出すの」
「この場所にある何かであり、あなたのこと。この場所に置いてきてしまったあなたのこと。おじさんが蓋をしたあなたの記憶のこと。この世界にあたし自身を招聘したのは、あなたなのだから」
「アタシがあなたを呼んだの? どうして?」
「自己防衛本能、使命感、無意識上に漂うアトランダムの演算、そのどれでもいい。それがあたしを呼び出している――万が一、あなたが世界から失われた時、あなたの変わりの『月守悠里’』としてあたしが表出し、月守悠里と同じ存在になるために。世界の因果線を収束させる一本の撚り紐となるために」
頬を汗が伝い、喉が鳴る。
「随分高尚な理由があるのね……」
とはいっても、あのあたしが言っていることはマジっぽいし、そして何より……それをどこかで信じているアタシがいることも確かだった。ただし問題があるってすれば――言っていることは殆ど理解できねえってことだ! クソッ悠里ちゃんなんでこういう時に限って全然今言われたことの論理関係(?)みたいなヤツが理解できないんだ。恥、ママの娘として恥ずかしいぜ……。くっでもなんか大事なとこはもう一回言ってくれって凄んだらもう一回言ってくれたりしねえかな……しない気がするな……。だってどう考えてもあの姿のあたしってアタシよりも真っ当だし、あたしみたいなちょっとアホな人間相手にしたことなさそうだし、どっちかってーとハイソな感じするし……そうだ最近なんかわかってなかったけどうまいこと行った試しがあった気がするな――いつだっけ。はっ!
「すぴー」
「……なにしてるの?」
「すぴー」
「二度は言わない」
「あっごめん寝てた。もっかい言ってくれる!?」
「そんな古典的なやり方に引っかかるわけ無いでしょ。そもそもあなたさっきまで目を開けていたのだし、そもそもここはあなたの記憶からなる場所なんだから眠いなんて身体感覚はないわ」
「ふっふっふ、ところがどっこい不可能を可能にしちゃうのが悠里ちゃんなんだぜ、知ってた? っていうかここ現実じゃないの!?」
「……はあ!? そこから? アタシアホすぎじゃない!?」
「はーーー!? なんでわかったのあたし!!! いやさっきの説明で全然理解してるし、してないけどなんとなくわかってるし」
「なんとなく、そんな気がするわ……」
「はっ」
口を押さえる。つい癖で話が散乱しちゃった。もう時間が無いってあのあたし言ってなかったっけ。
「……帰りたい?」
「帰るよ。悠里ちゃんの居場所、ここにはない気がするもん」
「……本当に帰るの? もし二度と、あなたの見える世界が広がることがないってわかっていて。こちらの世界の方が明るくて色彩溢れた世界だったとして」
アタシに向かって、黒い瞳が覗き込んだ。それは悲しそうな瞳だった。初めて見る表情にアタシは驚いたけれど、その意味はわからないでもなかった。
「心配してくれてるんだ」
「そうじゃない、ただ」
「知ってるよ。絵も描けなくなっちゃうかも、って思ってるんでしょう? アタシ、それくらいしかいいとこないのにさ」
無言であたしは俯いた。肯定と受け取る、それは正しい判断だろうから。
「言わなくていいよ。けど、今は時間がない。何かを思い出さないといけないんでしょ? 目覚めるにしろ、ここにいるにしろ、とりあえずできることはやっとかないとね」
「呆れた。アタシってば本当に明るいんだ」
「うん、そのとーーり。アタシの面引っかけてそんな不幸そうな顔しなくていいようにしたげる。旧駅舎にいた時みたいにさ、あたしってばやっぱり笑ってる方がいいよ。悠里ちゃんは、笑顔なんだよ」
そう言って頬に指を引っかけて笑ってみせる。
「この場所に何かあるから、だからあなたはここに連れてきた。なら、悠里ちゃん探してみる。きっとできるよ。悠里ちゃんは売れっ子天才画家だから!」
「……ふん」
アタシはそのまま走り出した。足の長い草の斜面を駆け上がる。奥には屋根のかかった大きな建物が見えた。石灰岩に塗れた車止めが煤がかって濡れたようになっている。
ここは、本当にどこなのだろう。見覚えはある、見覚えはあるけれどそれに実感が伴わない。
海風の香りが漂う空気の中に、香ばしいような煙たいような匂いが混じる。
「あ」
■■■■――。
耳元に異音が迸った感覚と共に、視界にノイズが走り世界が切り替わる。白昼夢に侵されたように皮膚の上を走る空気の感覚が曖昧になり、世界と自分の境界線にひびが入る。
その割れ目の隙間から濁った光の柱が見えた。それは建物に被るようにべちゃ、べちゃと音を立てて空に向かって立ち上る。粘着質な炎は、花火の穂先のように飛び散る。肉が焦げた匂いが後に続く、ガソリン、プラスチック、髪――
「う……うえっ」
様々な刺激臭の混じった空気が脳に満ちて、立っていられない。
「なに、今の――ぁぅっ」
地上と世界の狭間にあるあたしが見える。
天球儀には引っ掻いたような真っ白な爪痕。
アタシは、気が付けばその空を見ていた。
成層圏の狭間を飛び交う無数の透明な輝石たちが、鳳仙花が実を大地にばらまき根付かせるように雪となって注いでいる。
重力のない真空の海を越え、大地に根付かせようとする奇妙な星屑の欠片。
目まぐるしく回る世界の様相はやがて周波数が変わっていくように収まった。
「は――はぁ」
とにかく、進まなきゃ。
奥に奥に、左巻きの斜面を登っていく。
空に手を伸ばす虚ろな木々たちの間をふりさけてみれば、視界の端には煌びやかな十字架が星灯りを幽かにはじいて映っていた。
「あれ、教会だ、これ」
なぜ気が付かなかったのだろう。ということはここは廃教会の丘――いや、それならいくらアタシだって気が付くだろう。なぜ気が付かなかった? それは――。
「壊れてない、どこも」
そうだ、この教会はきれいすぎる。しーちゃんとアタシがいった場所であることに違いはないはずなのに、どうしてこんなにも様相が違うのだろう。そういえば、『そもそもここはあなたの記憶からなる場所なんだから眠いなんて身体感覚はないわ』とかあのアタシは言ってたな……。ってことは必然的に、この場所はアタシは知っている場所になるはず。っていうことはもしかして。
「本当に、昔に来たことあったのかなあ……」
そんなことを話したような気もしないでもない。と思いつつ広場に足を向ける。
右足を出し左足を引っ込め、目の前のあの場所に向って歩いていく。
右足を出し左足を引っ込め、あの場所に向って歩いていく。
右足を出してあの場所に向って歩いていく。
歩いていく。
■■■■。
「――あ」
あ、れ?
アタシ、なんでこんなところにいたんだっけ。
そうだ、あの広場に行かなきゃいけないんだった。
右足を出し左足を引っ込め、目の前のあの場所に向って歩いていく。
右足を出し左足を引っ込め、あの場所に向って歩いていく。
右足を出してあの場所に向って歩いていく。
歩いていく。
■■■■。
「――あ」
あ、れ?
アタシ、なんでこんなところにいたんだっけ。
そうだ、あの広場に行かなきゃいけないんだった。
「こっち」
「え?」
黒いあたしはどこからともなく表れて手を握った。
「あーあ、ループする記憶踏んじゃったね。すこし飛ぶよ」
一気に視界が引き伸ばされたように跳躍する。
黒い星間の闇をひとっ飛びして、どこかに。
「なにこれ――」
「あなたの記憶を手繰っている。けれどどこまで行けるかはわからない。少なくとも遠くへは行けない」
辺りは、急激に色を失って線だけになった。
学校の校舎を新しくしたような煤けた白色の壁が、精確なパース線で描かれている。
近くにはゴミ箱と、駐車場へ続くコンクリートの舗装が見えた。
「ここは……」
ずきりと頭痛が走った。額が濡れている感触がある。心臓もすごくドキドキするし――なんだろう。近い?
不思議な感触に襲われながら、アタシは簡単な押し扉に触れる。
「指紋だ……」
誰かがここを膝歩きで伝っていったような指紋。
煤けた壁面の上だから、どれだけ小さな汚れ模様でもくっきりと浮かんで見える。
その跡は壁を伝って、ゴミ箱の隣で途切れている。
「ここで倒れたんだ――なんでだろう」
「わからない。けれどここがあなたの最下層で、あなたが拾い上げられた中の一番近い記憶。あなたが知っているべきことの恐らく表層――。あなたは少なくとも、ここを通って旧駅舎に現れた」
この場所から――旧駅舎に?
「くっ――」
――――――。
急激に想起されたのは、白い波だ。確かな感覚が景色と記憶に結びついて実感に変わっている。
激しい頭痛と、何かの声、違う、音――。
あたしはここで何かを見た? 違う。見たならわかるはずだ。でも音でもそんなに目立つ音があるならきっとそれを指し示すものがないとおかしいでしょ? でもここにはそんな形跡はない。
そもそも、なんでアタシは病院に来てたの? そこが思い出せれば――。
激しい耳鳴り――違う、耳鳴りにしては遠い音。耳鳴りはもっと直接的な脳に響く音だ、違う!
「違う、違う……! 思い出せ悠里ちゃん! アタシは、なんでこんなところに来てるんだ……!」
「これは――」
黒いあたしは、遠い空を見た。
白日の下に聳える太陽の日差しが、波のように地面を打ち付けている。
「波?」
さっきから見えたり聞こえたりするものを思い出そうとしているけれど違う気がする。
これはもっと直感的な――世界で起こった事実の話だ。
あたしは、何を視ていたのだろう。ここにあって、ここに無い何か。
「はっ」
『――あ。
空の割れ目から、白く濁った大波が落ちてくる。
大瀑布《だいばくふ》だ、塗りつぶされていく。人も、線も……あたしも。
世界は――真っ白だ』
これは、あたしの声だ。でも、音がない世界の音だ。静寂と、停止にあるモノクロの切り抜き。
あたしは――
「アタシはそうだ――あの波。あの全部を押し流すようなあの波……」
いや、それも違う? あれは、滝だった。
光の滝、真っ白い大瀑布、あたしを飲み込んだのは、そう。
「もう、時間か。間に合わない。一旦あの丘に――」
手を引っ張られる。きっとここは危ないんだ。
でもダメだ。今思い出さないと、何かを永遠に知らないままでいてしまうような、そんな気がしてたまらない。
サンドノイズだらけの閉じかけた肉体感覚は、方舟のように真白の世界に包み込まれて神の雨に流される。
でも、その前に。
「引っ張らないで――今、なんか」
手を、引かれた。
『こっちに来て』
――――――――。
確かにあの時、アタシは聞いたんだ。あたしの声を。
全てが消えていく中に急激に現れた、楔のような確かな指先の感覚は。現実じゃない場所からの感覚の手。ここが現実世界じゃないなら。
「ねえ、あたし。ねえ、お願い。聞かせてほしいの」
この子は急いでいるけど、聞かなくちゃ。ここで聞かなくちゃ。
「そんな時間は」
「思い出したの。ほんの少しだけ。ねえ、あなたが、アタシの手を握ってくれたの? 病院で消えちゃいそうになった時」
目の前のあたしは目を見開いた。
そして、瞬間に空が砕けた。
ブロックの壁を赤ん坊が叩き割ったように世界の堤防が崩壊し、大量の水が流れ込む。
――虚想の海。あれは想う力を全て奪う略奪の大水。
爆発するような音。音よりも早い光の飛散と、それよりも迅い感覚と情報の滂沱。
ほんの少し悲しそうに、その瞳を閉じながら放った言葉は途切れ途切れにしか届かない。けれど、通じていた。
「――それは、違う」
『何が違うの?』
『何もかもが、違う』
『じゃあ、誰がアタシを助けてくれたの? あなたではないの?』
『――■■■』
アタシは気が付けば、ぼんやりと模糊な記憶の中に揺蕩って、その光景を追憶していた。
それは夏の夜のことだった。
冷房をかけるのを忘れてベッドに転がっていたせいか、妙に寝苦しくなって寝返りをうった。
清潔なベッドシーツに体を埋めて、寝ぼけ眼にぼんやりした現実と夢の世界の間に微睡《まどろ》んでいる。
あたしは夢を見ていた。
サテン地のさらさらした人形が目の前にあった。
あたしはそれが崖から落ちていくのを見ている。
空には極彩色に彩られた花火と、落ちてくる星の雨。
空にある花火の欠片が、その人形に火を付けたのだ。
人形は逃げようと踊り惑うが、その内足が燃え落ちて、そのまま崖下に向かって真っ逆さまに急降下する。
落ちていく間も、ずっと燃えては風に吹かれては燃えて、バラバラになりながら叫ぶこともできずに千切れて墜ちていく。
あたしは人形が崖底で五体が離ればなれになってから、いつもようやくそこでぼんやりとただ見つめることをやめる。
千切れてしまった人形の燃え残った手足を抱えて、崖底に向かって器用に降りて、そこで自らの体が幼くなっていることに気が付くのだ。
人形は無残な様子で横たわっていて、抉れた表面からはゆっくりと火が回り続けている。
かわいそうな人形に持ってきた断面をくっつけてやろうとするけれど、針も糸もないから、ただ断面をぐちゃぐちゃにかき回してしまうだけで助けてあげることができない。
余りにもかわいそうで哀れで、あたしは人形はこの世界から消えてしまうのだと悲しんで、人形を抱いて痛くないように辛くないようにと願いながら火が回っていくのを見ることしかできない。
けれどそうして人形を抱きしめたまま泣いていると、夜空を階段みたいに降りてくる魔法使いさんが現れる。
魔法使いさんは影と光の交わった混沌の色に包まれながら、あたしにこう言う。
『君の美しい髪をくれたら、その人形を治してあげよう。その代わり、君はこれからその人形と命を分け合うことになる。魂の引っ張り合いっこだ、どちらが弱くなってもいけない。弱った方が消えてしまう。そしてその時、失われた命が君に戻ることもない。それでもいいかい?』
あたしは迷うことなく頷く。こんなに苦しそうな姿で、この子はちゃんと眠れない。
魔法使いさんは、約束通り大きなはさみを取り出して、腰まである髪を真横に断ち、それを糸にして人形の断面を縫合し治していく。
人形はあれよという間にもとのさらさらの手触りと暖かさを取り戻す。
魔法使いさんは気が付けばいなくなってしまって、探そうと仰いだ夏の空には――
『雪――』
真っ白い雪が、淑やかに降っていた。
夏の雪が指先に触れた瞬間。
世界が圧壊れ始めた。路地裏に佇むネオンライトが空気の歪みで割れた瞬間のような、蛍光色の瞬きの中で明滅している。
「なっ――うァっ」
目の奥が明るくなりすぎて、目の前を見失う。
ようやく明滅が収まった視界は酸欠になったように色彩が薄れ、陰が夕刻の深みを追い越してしまう。
戻り始めているんだ――アタシの世界が現実のアタシにチューンされ始めている。
「やっぱり、何か意味があるんだ」
思い出さなければ消える、その言葉の意味をアタシは今にして理解していた。
あの病院で、アタシは消えてしまったんだ。
現実の世界から――。
「さっきの夢、どうして今頃思い出したんだろう」
今思い出したってことは、なにか意味があるんだ。
人形、魔法使い、雪……。
夢占いは人の必要としている何かを示唆するとしーちゃんに聞いたことがある。フロイト?心理学だっけ。そんな名前だった気がするけれど。
でも特に引っかかったのは、雪だ。
今まではぼんやりしていたけれど、明瞭になっていく記憶は明らかに29日の未明に焦点を当てていた。
あの日も雪が降った――。
「ひょっとして……こんな風になったのは、アタシだけじゃないのか――?」
だって、そうだよ。雪に当たった人はアタシだけじゃないんだもの。帝都でも降ったと聞いたし、おじさんが何度も雪が降ったって教えてくれたじゃない。
だとすると――
おぞましい想像が脳裏を駆け巡っていく。
雪の降った場所が、やもすれば世界中が。
「アタシと同じになっていっている……もしくは、病院でのアタシみたいに」
一部の人は本当に消えた、のかも知れない。
「礼香ちゃんの弟も、その可能性があるんだ」
けれど、消える人と消えない人の差異はなんなのだろう。それは――今のアタシじゃわからない。全然想像もつかない……。
「伝え、なきゃ――もしかしたら悠里ちゃんの早合点かもしれない……いつも通りのアタシの勘違いかも知れない。それでも、しーちゃんに伝えなきゃ、おじさんに伝えなきゃ……このままアタシが消えちゃったら、おじさんもしーちゃんも危ない――絶対に、絶対に伝えなきゃ。アタシが消えても、絶対に伝えなきゃ――死なねェ諦めねェ、悠里ちゃんは絶対にッ」
大事なしーちゃん。愛しいおじさん。かっこいいママ。礼香ちゃん――。
アタシが消えたら、みんな絶対、大事な時間をすり減らしてでも探してくれる。
もしかしたら、また雪が降ったら消えちゃうかも知れないのに。
そんなことは、させない。アタシが伝えるんだ――ゼッテー伝える。
目を見開いても、どこにも世界がない。
白と黒に汚染された清浄な世界。
アタシは落ち続けているんだ。
このまま落ち続ければ、消える。
世界はあの空に映る円環の先にある――確信した。
「は――ァァアアアアアッッッーーー! 消えねーーーーーーーーー! 悠里は帰る、帰るんだよアタシの知ってるアタシの世界――もう色も線も要らねェ!!! でもゼッテー伝えるッがァっ――!?」
落ちていく世界に抗う方法。手を伸ばそうとするたびに皮膚が灼ける痛みが走る。
超高速で落ちていく体の周りには、チカチカとプラズマのような光が浮き出る。摩擦、存在と世界の摩擦。
意思と世界の理が相対する摩擦だった。
「止まれよッ止まれよくっそ、落ち続けたら昇れないんだよっくううっっ――」
痛い、灼ける、灼ききれる意識が――でもダメだ。ゼッテー切れるな……ッ悠里ちゃん、耐えろォ――ッ!
「――ここで、『すべての関係は、内的なのか、外的なのか』という争点に片が付けられる」
「あたし! いるの!?」
内側から聞こえてくる声……あたしだ! あたしも、今ここにいるんだ! どうして?!
「もしも仮に世界に実体がないなら、『ある命題に意味があるかどうか』は、『別の命題が正しいかどうか』に左右されるだろう」
「今それどころじゃっ」
「今こそ、読み上げなければならない。それが消えないために必要なこと」
「どーーーいうッ――」
「いいから」
くそっ破れかぶれだがやるっきゃねえ――正直もうこれ以上は耐えられるかわかんねーーーッ!
肌は裂けそうだ、アタシは消えそうだ、潰れそうだ、でも何より、泣きそーだ――痛いし、さみしーし、怖いし。誰にも会えなくなっちゃうかもってそう思っただけで、震えちまいそうになる。
「――ここで、『すべての関係は、内的なのか、外的なのか』という争点に片が付けられる」
「もしもかりに――ッ世界に実体がないなら、『ある命題に意味があるかどうか』は、『別の命題が正しいかどうか』に左右されるだろう」
言葉を発する。刹那に言葉の先にある想像が脳裏に世界観を形作る。
イメージがあった。
無空に墜ちる自分を停止させるイメージ。
ただ想像でしかないそれは、確かに世界に働きかけ始めるのだ。
一本の光の線が分岐して別れていく。
やがてそれは樹木が枝を生やすようにあらゆる場所に向かって満たそうとする天秤の光だった。
『全部の現実が、世界である』
背中が熱い――けれど灼ききれる痛みとは違う。人間的な熱量、内側から沸き上がってくるような確かな力。
『像は、現実の模型である』
光の樹木が根を張り終わった。
ここにある世界は今、止まる。何の根拠もないその確信が、決定として見える果てまでの世界に形を与えていく――。
腕に権能を司るセフィラが浮き上がる。セフィロトを形成する権能の精確なる模写は、世界にさえ影響を与えるだろう。
あるいはそれが『そうなるべき』だとでもいうように、世界はそう仕組まれているのだから。
『やりなさい』
「うん――アタシ、やるよ。栄光、勝利、基盤、『命題には分析が一つだけある。完全な分析が一つだけある』――止まれ」
左腕から赤光のセフィラが遍く理を書き換える。
原理なんてわからない。これがなぜ必要なのかなんて、何が起こるのかなんて。
けれど、繋がりを信じている。
信じているったら、信じているんだ。
「アタシは、帰るんだーーーーッ!!!」
迸った力場は、対数螺旋の幾何学模様を辺りに散らしながら無空を漂っていたアタシの体を掴んでいた。
がくん、と落下速度が下がる。
けれどそれは、アタシが空中に留まったわけじゃなかった。
辺り一面に立ち込めていた構成物すべて、それらをひっくるめた理が止まっていたのだ。
光も、空気も、時間も、重力も全てが停止していた。
手を伸ばす。
これなら、遠いけれど、届く。
そこにあるのなら――絶対に届くんだ。
「待ってて、みんな」
空の円環の輪郭を捉えた。
もう離さない。
「そこだ。アタシの世界」
無空の向こう側、象限を超えた。
髪の黒い、瞳の色が黒い、あたしだ。
どこにいても、この世界に馴染んで当たり前の。
あたしだ。
どこにいても許される、守られる必要のない。
あたしだ。
「何が、始まるの」
あたしは空を指差した。
満天の星空を駆ける流れ星の大群が、明滅しながら地上に向かって何かを降らせている。それは一見してただの流れ星に見えたけれど、そうではない、そんな予感が脳裏を掠めていったのを見逃さなかった。
「淘汰だよ。あなたの存在が消えるかどうか選ぶ淘汰」
真っ黒の冷たい瞳は、見たこともない無表情なあたしの顔をしていた。
「淘汰……?」
「先に言えば、もう時間がない。あたしたちは追いやられてきた。ここまで逃げてきたけれど、これ以上に逃げられる場所はない。あなたは思い出さなければならない――そうしなければ、ここにあなたという記憶が残る理由はない」
ふと、肌に痺れるような感触が走った。本気の瞳が射すくめていた。
「そんな事言われたって! 何を思い出すの」
「この場所にある何かであり、あなたのこと。この場所に置いてきてしまったあなたのこと。おじさんが蓋をしたあなたの記憶のこと。この世界にあたし自身を招聘したのは、あなたなのだから」
「アタシがあなたを呼んだの? どうして?」
「自己防衛本能、使命感、無意識上に漂うアトランダムの演算、そのどれでもいい。それがあたしを呼び出している――万が一、あなたが世界から失われた時、あなたの変わりの『月守悠里’』としてあたしが表出し、月守悠里と同じ存在になるために。世界の因果線を収束させる一本の撚り紐となるために」
頬を汗が伝い、喉が鳴る。
「随分高尚な理由があるのね……」
とはいっても、あのあたしが言っていることはマジっぽいし、そして何より……それをどこかで信じているアタシがいることも確かだった。ただし問題があるってすれば――言っていることは殆ど理解できねえってことだ! クソッ悠里ちゃんなんでこういう時に限って全然今言われたことの論理関係(?)みたいなヤツが理解できないんだ。恥、ママの娘として恥ずかしいぜ……。くっでもなんか大事なとこはもう一回言ってくれって凄んだらもう一回言ってくれたりしねえかな……しない気がするな……。だってどう考えてもあの姿のあたしってアタシよりも真っ当だし、あたしみたいなちょっとアホな人間相手にしたことなさそうだし、どっちかってーとハイソな感じするし……そうだ最近なんかわかってなかったけどうまいこと行った試しがあった気がするな――いつだっけ。はっ!
「すぴー」
「……なにしてるの?」
「すぴー」
「二度は言わない」
「あっごめん寝てた。もっかい言ってくれる!?」
「そんな古典的なやり方に引っかかるわけ無いでしょ。そもそもあなたさっきまで目を開けていたのだし、そもそもここはあなたの記憶からなる場所なんだから眠いなんて身体感覚はないわ」
「ふっふっふ、ところがどっこい不可能を可能にしちゃうのが悠里ちゃんなんだぜ、知ってた? っていうかここ現実じゃないの!?」
「……はあ!? そこから? アタシアホすぎじゃない!?」
「はーーー!? なんでわかったのあたし!!! いやさっきの説明で全然理解してるし、してないけどなんとなくわかってるし」
「なんとなく、そんな気がするわ……」
「はっ」
口を押さえる。つい癖で話が散乱しちゃった。もう時間が無いってあのあたし言ってなかったっけ。
「……帰りたい?」
「帰るよ。悠里ちゃんの居場所、ここにはない気がするもん」
「……本当に帰るの? もし二度と、あなたの見える世界が広がることがないってわかっていて。こちらの世界の方が明るくて色彩溢れた世界だったとして」
アタシに向かって、黒い瞳が覗き込んだ。それは悲しそうな瞳だった。初めて見る表情にアタシは驚いたけれど、その意味はわからないでもなかった。
「心配してくれてるんだ」
「そうじゃない、ただ」
「知ってるよ。絵も描けなくなっちゃうかも、って思ってるんでしょう? アタシ、それくらいしかいいとこないのにさ」
無言であたしは俯いた。肯定と受け取る、それは正しい判断だろうから。
「言わなくていいよ。けど、今は時間がない。何かを思い出さないといけないんでしょ? 目覚めるにしろ、ここにいるにしろ、とりあえずできることはやっとかないとね」
「呆れた。アタシってば本当に明るいんだ」
「うん、そのとーーり。アタシの面引っかけてそんな不幸そうな顔しなくていいようにしたげる。旧駅舎にいた時みたいにさ、あたしってばやっぱり笑ってる方がいいよ。悠里ちゃんは、笑顔なんだよ」
そう言って頬に指を引っかけて笑ってみせる。
「この場所に何かあるから、だからあなたはここに連れてきた。なら、悠里ちゃん探してみる。きっとできるよ。悠里ちゃんは売れっ子天才画家だから!」
「……ふん」
アタシはそのまま走り出した。足の長い草の斜面を駆け上がる。奥には屋根のかかった大きな建物が見えた。石灰岩に塗れた車止めが煤がかって濡れたようになっている。
ここは、本当にどこなのだろう。見覚えはある、見覚えはあるけれどそれに実感が伴わない。
海風の香りが漂う空気の中に、香ばしいような煙たいような匂いが混じる。
「あ」
■■■■――。
耳元に異音が迸った感覚と共に、視界にノイズが走り世界が切り替わる。白昼夢に侵されたように皮膚の上を走る空気の感覚が曖昧になり、世界と自分の境界線にひびが入る。
その割れ目の隙間から濁った光の柱が見えた。それは建物に被るようにべちゃ、べちゃと音を立てて空に向かって立ち上る。粘着質な炎は、花火の穂先のように飛び散る。肉が焦げた匂いが後に続く、ガソリン、プラスチック、髪――
「う……うえっ」
様々な刺激臭の混じった空気が脳に満ちて、立っていられない。
「なに、今の――ぁぅっ」
地上と世界の狭間にあるあたしが見える。
天球儀には引っ掻いたような真っ白な爪痕。
アタシは、気が付けばその空を見ていた。
成層圏の狭間を飛び交う無数の透明な輝石たちが、鳳仙花が実を大地にばらまき根付かせるように雪となって注いでいる。
重力のない真空の海を越え、大地に根付かせようとする奇妙な星屑の欠片。
目まぐるしく回る世界の様相はやがて周波数が変わっていくように収まった。
「は――はぁ」
とにかく、進まなきゃ。
奥に奥に、左巻きの斜面を登っていく。
空に手を伸ばす虚ろな木々たちの間をふりさけてみれば、視界の端には煌びやかな十字架が星灯りを幽かにはじいて映っていた。
「あれ、教会だ、これ」
なぜ気が付かなかったのだろう。ということはここは廃教会の丘――いや、それならいくらアタシだって気が付くだろう。なぜ気が付かなかった? それは――。
「壊れてない、どこも」
そうだ、この教会はきれいすぎる。しーちゃんとアタシがいった場所であることに違いはないはずなのに、どうしてこんなにも様相が違うのだろう。そういえば、『そもそもここはあなたの記憶からなる場所なんだから眠いなんて身体感覚はないわ』とかあのアタシは言ってたな……。ってことは必然的に、この場所はアタシは知っている場所になるはず。っていうことはもしかして。
「本当に、昔に来たことあったのかなあ……」
そんなことを話したような気もしないでもない。と思いつつ広場に足を向ける。
右足を出し左足を引っ込め、目の前のあの場所に向って歩いていく。
右足を出し左足を引っ込め、あの場所に向って歩いていく。
右足を出してあの場所に向って歩いていく。
歩いていく。
■■■■。
「――あ」
あ、れ?
アタシ、なんでこんなところにいたんだっけ。
そうだ、あの広場に行かなきゃいけないんだった。
右足を出し左足を引っ込め、目の前のあの場所に向って歩いていく。
右足を出し左足を引っ込め、あの場所に向って歩いていく。
右足を出してあの場所に向って歩いていく。
歩いていく。
■■■■。
「――あ」
あ、れ?
アタシ、なんでこんなところにいたんだっけ。
そうだ、あの広場に行かなきゃいけないんだった。
「こっち」
「え?」
黒いあたしはどこからともなく表れて手を握った。
「あーあ、ループする記憶踏んじゃったね。すこし飛ぶよ」
一気に視界が引き伸ばされたように跳躍する。
黒い星間の闇をひとっ飛びして、どこかに。
「なにこれ――」
「あなたの記憶を手繰っている。けれどどこまで行けるかはわからない。少なくとも遠くへは行けない」
辺りは、急激に色を失って線だけになった。
学校の校舎を新しくしたような煤けた白色の壁が、精確なパース線で描かれている。
近くにはゴミ箱と、駐車場へ続くコンクリートの舗装が見えた。
「ここは……」
ずきりと頭痛が走った。額が濡れている感触がある。心臓もすごくドキドキするし――なんだろう。近い?
不思議な感触に襲われながら、アタシは簡単な押し扉に触れる。
「指紋だ……」
誰かがここを膝歩きで伝っていったような指紋。
煤けた壁面の上だから、どれだけ小さな汚れ模様でもくっきりと浮かんで見える。
その跡は壁を伝って、ゴミ箱の隣で途切れている。
「ここで倒れたんだ――なんでだろう」
「わからない。けれどここがあなたの最下層で、あなたが拾い上げられた中の一番近い記憶。あなたが知っているべきことの恐らく表層――。あなたは少なくとも、ここを通って旧駅舎に現れた」
この場所から――旧駅舎に?
「くっ――」
――――――。
急激に想起されたのは、白い波だ。確かな感覚が景色と記憶に結びついて実感に変わっている。
激しい頭痛と、何かの声、違う、音――。
あたしはここで何かを見た? 違う。見たならわかるはずだ。でも音でもそんなに目立つ音があるならきっとそれを指し示すものがないとおかしいでしょ? でもここにはそんな形跡はない。
そもそも、なんでアタシは病院に来てたの? そこが思い出せれば――。
激しい耳鳴り――違う、耳鳴りにしては遠い音。耳鳴りはもっと直接的な脳に響く音だ、違う!
「違う、違う……! 思い出せ悠里ちゃん! アタシは、なんでこんなところに来てるんだ……!」
「これは――」
黒いあたしは、遠い空を見た。
白日の下に聳える太陽の日差しが、波のように地面を打ち付けている。
「波?」
さっきから見えたり聞こえたりするものを思い出そうとしているけれど違う気がする。
これはもっと直感的な――世界で起こった事実の話だ。
あたしは、何を視ていたのだろう。ここにあって、ここに無い何か。
「はっ」
『――あ。
空の割れ目から、白く濁った大波が落ちてくる。
大瀑布《だいばくふ》だ、塗りつぶされていく。人も、線も……あたしも。
世界は――真っ白だ』
これは、あたしの声だ。でも、音がない世界の音だ。静寂と、停止にあるモノクロの切り抜き。
あたしは――
「アタシはそうだ――あの波。あの全部を押し流すようなあの波……」
いや、それも違う? あれは、滝だった。
光の滝、真っ白い大瀑布、あたしを飲み込んだのは、そう。
「もう、時間か。間に合わない。一旦あの丘に――」
手を引っ張られる。きっとここは危ないんだ。
でもダメだ。今思い出さないと、何かを永遠に知らないままでいてしまうような、そんな気がしてたまらない。
サンドノイズだらけの閉じかけた肉体感覚は、方舟のように真白の世界に包み込まれて神の雨に流される。
でも、その前に。
「引っ張らないで――今、なんか」
手を、引かれた。
『こっちに来て』
――――――――。
確かにあの時、アタシは聞いたんだ。あたしの声を。
全てが消えていく中に急激に現れた、楔のような確かな指先の感覚は。現実じゃない場所からの感覚の手。ここが現実世界じゃないなら。
「ねえ、あたし。ねえ、お願い。聞かせてほしいの」
この子は急いでいるけど、聞かなくちゃ。ここで聞かなくちゃ。
「そんな時間は」
「思い出したの。ほんの少しだけ。ねえ、あなたが、アタシの手を握ってくれたの? 病院で消えちゃいそうになった時」
目の前のあたしは目を見開いた。
そして、瞬間に空が砕けた。
ブロックの壁を赤ん坊が叩き割ったように世界の堤防が崩壊し、大量の水が流れ込む。
――虚想の海。あれは想う力を全て奪う略奪の大水。
爆発するような音。音よりも早い光の飛散と、それよりも迅い感覚と情報の滂沱。
ほんの少し悲しそうに、その瞳を閉じながら放った言葉は途切れ途切れにしか届かない。けれど、通じていた。
「――それは、違う」
『何が違うの?』
『何もかもが、違う』
『じゃあ、誰がアタシを助けてくれたの? あなたではないの?』
『――■■■』
アタシは気が付けば、ぼんやりと模糊な記憶の中に揺蕩って、その光景を追憶していた。
それは夏の夜のことだった。
冷房をかけるのを忘れてベッドに転がっていたせいか、妙に寝苦しくなって寝返りをうった。
清潔なベッドシーツに体を埋めて、寝ぼけ眼にぼんやりした現実と夢の世界の間に微睡《まどろ》んでいる。
あたしは夢を見ていた。
サテン地のさらさらした人形が目の前にあった。
あたしはそれが崖から落ちていくのを見ている。
空には極彩色に彩られた花火と、落ちてくる星の雨。
空にある花火の欠片が、その人形に火を付けたのだ。
人形は逃げようと踊り惑うが、その内足が燃え落ちて、そのまま崖下に向かって真っ逆さまに急降下する。
落ちていく間も、ずっと燃えては風に吹かれては燃えて、バラバラになりながら叫ぶこともできずに千切れて墜ちていく。
あたしは人形が崖底で五体が離ればなれになってから、いつもようやくそこでぼんやりとただ見つめることをやめる。
千切れてしまった人形の燃え残った手足を抱えて、崖底に向かって器用に降りて、そこで自らの体が幼くなっていることに気が付くのだ。
人形は無残な様子で横たわっていて、抉れた表面からはゆっくりと火が回り続けている。
かわいそうな人形に持ってきた断面をくっつけてやろうとするけれど、針も糸もないから、ただ断面をぐちゃぐちゃにかき回してしまうだけで助けてあげることができない。
余りにもかわいそうで哀れで、あたしは人形はこの世界から消えてしまうのだと悲しんで、人形を抱いて痛くないように辛くないようにと願いながら火が回っていくのを見ることしかできない。
けれどそうして人形を抱きしめたまま泣いていると、夜空を階段みたいに降りてくる魔法使いさんが現れる。
魔法使いさんは影と光の交わった混沌の色に包まれながら、あたしにこう言う。
『君の美しい髪をくれたら、その人形を治してあげよう。その代わり、君はこれからその人形と命を分け合うことになる。魂の引っ張り合いっこだ、どちらが弱くなってもいけない。弱った方が消えてしまう。そしてその時、失われた命が君に戻ることもない。それでもいいかい?』
あたしは迷うことなく頷く。こんなに苦しそうな姿で、この子はちゃんと眠れない。
魔法使いさんは、約束通り大きなはさみを取り出して、腰まである髪を真横に断ち、それを糸にして人形の断面を縫合し治していく。
人形はあれよという間にもとのさらさらの手触りと暖かさを取り戻す。
魔法使いさんは気が付けばいなくなってしまって、探そうと仰いだ夏の空には――
『雪――』
真っ白い雪が、淑やかに降っていた。
夏の雪が指先に触れた瞬間。
世界が圧壊れ始めた。路地裏に佇むネオンライトが空気の歪みで割れた瞬間のような、蛍光色の瞬きの中で明滅している。
「なっ――うァっ」
目の奥が明るくなりすぎて、目の前を見失う。
ようやく明滅が収まった視界は酸欠になったように色彩が薄れ、陰が夕刻の深みを追い越してしまう。
戻り始めているんだ――アタシの世界が現実のアタシにチューンされ始めている。
「やっぱり、何か意味があるんだ」
思い出さなければ消える、その言葉の意味をアタシは今にして理解していた。
あの病院で、アタシは消えてしまったんだ。
現実の世界から――。
「さっきの夢、どうして今頃思い出したんだろう」
今思い出したってことは、なにか意味があるんだ。
人形、魔法使い、雪……。
夢占いは人の必要としている何かを示唆するとしーちゃんに聞いたことがある。フロイト?心理学だっけ。そんな名前だった気がするけれど。
でも特に引っかかったのは、雪だ。
今まではぼんやりしていたけれど、明瞭になっていく記憶は明らかに29日の未明に焦点を当てていた。
あの日も雪が降った――。
「ひょっとして……こんな風になったのは、アタシだけじゃないのか――?」
だって、そうだよ。雪に当たった人はアタシだけじゃないんだもの。帝都でも降ったと聞いたし、おじさんが何度も雪が降ったって教えてくれたじゃない。
だとすると――
おぞましい想像が脳裏を駆け巡っていく。
雪の降った場所が、やもすれば世界中が。
「アタシと同じになっていっている……もしくは、病院でのアタシみたいに」
一部の人は本当に消えた、のかも知れない。
「礼香ちゃんの弟も、その可能性があるんだ」
けれど、消える人と消えない人の差異はなんなのだろう。それは――今のアタシじゃわからない。全然想像もつかない……。
「伝え、なきゃ――もしかしたら悠里ちゃんの早合点かもしれない……いつも通りのアタシの勘違いかも知れない。それでも、しーちゃんに伝えなきゃ、おじさんに伝えなきゃ……このままアタシが消えちゃったら、おじさんもしーちゃんも危ない――絶対に、絶対に伝えなきゃ。アタシが消えても、絶対に伝えなきゃ――死なねェ諦めねェ、悠里ちゃんは絶対にッ」
大事なしーちゃん。愛しいおじさん。かっこいいママ。礼香ちゃん――。
アタシが消えたら、みんな絶対、大事な時間をすり減らしてでも探してくれる。
もしかしたら、また雪が降ったら消えちゃうかも知れないのに。
そんなことは、させない。アタシが伝えるんだ――ゼッテー伝える。
目を見開いても、どこにも世界がない。
白と黒に汚染された清浄な世界。
アタシは落ち続けているんだ。
このまま落ち続ければ、消える。
世界はあの空に映る円環の先にある――確信した。
「は――ァァアアアアアッッッーーー! 消えねーーーーーーーーー! 悠里は帰る、帰るんだよアタシの知ってるアタシの世界――もう色も線も要らねェ!!! でもゼッテー伝えるッがァっ――!?」
落ちていく世界に抗う方法。手を伸ばそうとするたびに皮膚が灼ける痛みが走る。
超高速で落ちていく体の周りには、チカチカとプラズマのような光が浮き出る。摩擦、存在と世界の摩擦。
意思と世界の理が相対する摩擦だった。
「止まれよッ止まれよくっそ、落ち続けたら昇れないんだよっくううっっ――」
痛い、灼ける、灼ききれる意識が――でもダメだ。ゼッテー切れるな……ッ悠里ちゃん、耐えろォ――ッ!
「――ここで、『すべての関係は、内的なのか、外的なのか』という争点に片が付けられる」
「あたし! いるの!?」
内側から聞こえてくる声……あたしだ! あたしも、今ここにいるんだ! どうして?!
「もしも仮に世界に実体がないなら、『ある命題に意味があるかどうか』は、『別の命題が正しいかどうか』に左右されるだろう」
「今それどころじゃっ」
「今こそ、読み上げなければならない。それが消えないために必要なこと」
「どーーーいうッ――」
「いいから」
くそっ破れかぶれだがやるっきゃねえ――正直もうこれ以上は耐えられるかわかんねーーーッ!
肌は裂けそうだ、アタシは消えそうだ、潰れそうだ、でも何より、泣きそーだ――痛いし、さみしーし、怖いし。誰にも会えなくなっちゃうかもってそう思っただけで、震えちまいそうになる。
「――ここで、『すべての関係は、内的なのか、外的なのか』という争点に片が付けられる」
「もしもかりに――ッ世界に実体がないなら、『ある命題に意味があるかどうか』は、『別の命題が正しいかどうか』に左右されるだろう」
言葉を発する。刹那に言葉の先にある想像が脳裏に世界観を形作る。
イメージがあった。
無空に墜ちる自分を停止させるイメージ。
ただ想像でしかないそれは、確かに世界に働きかけ始めるのだ。
一本の光の線が分岐して別れていく。
やがてそれは樹木が枝を生やすようにあらゆる場所に向かって満たそうとする天秤の光だった。
『全部の現実が、世界である』
背中が熱い――けれど灼ききれる痛みとは違う。人間的な熱量、内側から沸き上がってくるような確かな力。
『像は、現実の模型である』
光の樹木が根を張り終わった。
ここにある世界は今、止まる。何の根拠もないその確信が、決定として見える果てまでの世界に形を与えていく――。
腕に権能を司るセフィラが浮き上がる。セフィロトを形成する権能の精確なる模写は、世界にさえ影響を与えるだろう。
あるいはそれが『そうなるべき』だとでもいうように、世界はそう仕組まれているのだから。
『やりなさい』
「うん――アタシ、やるよ。栄光、勝利、基盤、『命題には分析が一つだけある。完全な分析が一つだけある』――止まれ」
左腕から赤光のセフィラが遍く理を書き換える。
原理なんてわからない。これがなぜ必要なのかなんて、何が起こるのかなんて。
けれど、繋がりを信じている。
信じているったら、信じているんだ。
「アタシは、帰るんだーーーーッ!!!」
迸った力場は、対数螺旋の幾何学模様を辺りに散らしながら無空を漂っていたアタシの体を掴んでいた。
がくん、と落下速度が下がる。
けれどそれは、アタシが空中に留まったわけじゃなかった。
辺り一面に立ち込めていた構成物すべて、それらをひっくるめた理が止まっていたのだ。
光も、空気も、時間も、重力も全てが停止していた。
手を伸ばす。
これなら、遠いけれど、届く。
そこにあるのなら――絶対に届くんだ。
「待ってて、みんな」
空の円環の輪郭を捉えた。
もう離さない。
「そこだ。アタシの世界」
無空の向こう側、象限を超えた。
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