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第21話 現触
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「おじさん、今、いけるかな。時間は取らせない。一〇分くらいだけでいいんだ」
俺はおじさんに電話をかけていた。
それは――ある種の疑いを晴らすためだった。
『うん、どうしたんだい、しづるくん』
「おじさん――」
俺の額には、少し脂汗が浮いていた。己の猜疑心が、愛するおじさんに向かっている事実、それに困惑しているのだ。
おじさんが礼香と繋がりを持っていたとして、どうしてこんな疑いがかけられる? これは荒唐無稽な妄想だろう。何を想像できる。
「人を探しててさ。研究者っぽい人らしくてね。心当たりがあれば教えて欲しいんだ。十年くらい前に三咲町に来たらしい子が自分を養ってくれてる人を探してる」
『――ふうん、差し当たってはそれだけじゃ何もわからない。どうしてその子のことをぼくに?』
おじさんは俺の言葉の意図するところを探るみたいに聞き返してきた。
「おじさん、その子もループから抜けだしてるみたいなんだ」
『……興味深いことだ。何かが起こっているのかもしれないね。ぼくの知らないことが』
「おじさん、体調悪そうだけど大丈夫かな。それと、そっちに悠里は行ってない?」
さっきから妙なタイムラグがあるな、地下にでもいるんだろうか。
『いや、悠里は来てないと思う。もどるさんしか知らないと思うが……。実はしづるくん、ぼくは今、日本にはいないものでさ』
「……冗談」
『いや本当だ。今アメリカのマサチューセッツ州にいる。昨日あの後すぐに発った』
「十五時間近くかかるとは前聞いたけど、何しに行ったんだ? そんなに重要な用事だったのか」
『殆どタイムラグなしで飛行機に乗り込むことができてね。幸運だった。今し方“今回みたいな件”の専門家とのお話をしてきたところでね。その人はアナログ専門なもんで、会いに行くしかなかった』
専門家……。そう凡百用の説明される心は穏やかではない。『大人になったらわかるよ』と暗に子供扱いされているように感じてならないからだ。
『さて、しづるくん。時間がない。君の要件を進めたいのだがね』
はぐらかすように、おじさんは俺に聞き返す。
「先に一点……移動しても、大丈夫だったのか?」
移動すれば恐ろしい災厄に見舞われる可能性があるというのは、おじさんが教えてくれたことだ。その禁を自ら破るというのはどういう了見なのだろう。俺たちを無駄な危険に巻き込まないための方便だったのだろうか、それともその禁を破ってでもなすべきことがあったのか――いずれにせよ、俺が突っ込むべきではないとしても看過すべきでない。
『鋭いね。大丈夫じゃないさ。それでも犠牲覚悟で進む必要があった。ぼくにはその責任があった』
おじさんは、普段の忽せでぼんやりとした雰囲気らしからぬきっぱりとした声で言い切った。
「ずるいな。そんな言い方したら言い返せない」
『……ごめんね。もうすぐ戻るから。君たちには不便をかける。もどるさんにも』
「もどるさんは喜んでるんじゃないかな。散らかす人が居なくなったんだから」
はは、そうかもな。とおじさんはカラカラと笑った。
「話を戻すよ。おじさん、俺がその子の件で連絡を取ったのは理由がある。その子は十年くらい前に三咲町にやってきてる。そして住む家と毎月暮らしていけるだけの預金を定期的に与えられて生きてきた」
『……続けてくれ。誰かに心当たりがあるかも知れない』
「三咲町にやってきたばかりの頃のことだ。その子はまだ十にも満たなかった。家は与えられたが、とても生活力があるとは思えない。店先に並んだ物を買うことだって難しい年齢だ。でも生活に必要なものは定期的に送られてきており、時々赤い髪をした女性が家に来て世話を見てくれたらしい。その時に口座を渡されたらしいな。そしてそれをくれたのは白衣を着た三十四十代くらいの男性で、煙草を吸っており甘い匂いがしたらしい」
『随分詳しく聞き取れたね、すごい。けれどしづるくん、君も人間の精神を観測する学問を学んできたなら知っているだろう。人間の記憶ほどアテにならないものはない。あらゆる記憶、思い出と呼ばれるものは常に認識とその場その場で経た経験によって整合を取られ、余分な情報はそぎ落とされ、都合良く、或いは都合悪く変換されていく。それがどこまで正しいのか君には見分けられているのかい?』
「――できないさ。今の俺にはまだそこまでの予測を立てる能力はない。俺が今持ってるのは、その子が教えてくれたことと物証で最低限の予測を立てて、その結論を確かめることだ」
『なるほど、実に君らしい回答だ。その物証というのはどういうものだい?』
「口座の振り込みを行っている人間の名義はイチサワシノキになっていた。おじさん、俺は聞きたいんだ。その子を養っていたのはおじさんで、その子の面倒を見に行っていたのはもどるさんじゃないのかって。そうすると、妙に辻褄が合うんだ。その子がループから抜けだしていること、そして俺たちがループを抜けだしていること。その二つの点がおじさんを介して線になる――そう考えるのが自然、違うかな」
電話口は沈黙に包まれた。病院の喧騒も聞こえない。お互いに緊張しているように茫洋とした大気が淀んで澱になっていた。
『イチサワくんはぼくの友人でね。同分野の研究員さ』
「……嘘だ!」
声が口を衝いた。考えよりも先に、言葉が放たれた。
流石にわかる。こんな苦しい嘘があるか。というよりもおじさんはこんな人じゃなかったはずだ。だって、あり得ないだろう。こんな条件が揃う人、他に。
『しづるくん。勘違いが酷いな。ぼくの観測所の名簿を見たことがあるのかい?』
「いや、ない。でもそんなことはないはずだ。こんな近くで同じような名前で――」
『でも無いとは言い切れない、そうだろう?』
「それはそうだけど……でも」
嘘だ、嘘に決まっている。ではなぜ嘘を吐く? 吐かざるを得ない? そんなのは……理由なんて一つしかない。知っているんだ、何かを知っているんだ。
静かに息を吸い込み、施策を練る。どうするべきだろう、名簿――もどるさんに頼めば見せてくれるだろうか。いや、そんな訳はない。とりわけ情報の統制には厳しいあの人だ。
『でも、そんなことあり得ないはずだ。かな? でも実際に君はあり得ないと一蹴したループだって受け容れた。ならこれくらいのことは十分起こりうる範囲内だと考えるべきなんじゃないかな?』
「おじさん、仮にそうだとしてさ。その人に連絡を取ってくれないかな。だってかわいそうだろ。十年もずっとその人に会いたがってたんだ……」
『確かに、それはそうだね。連絡は取っておくよ――ところで、彼女は今どこにいるんだい』
「――!」
思考に電流が走った。
確かに今、彼女、彼女と言った。ダウトだ。これで確信が持てる。知ってるんだ、何かを握っている。それを話さないようにしているんだ。今尻尾が見えた。だってこれまで性別に言及なんて一度もしてない。
『さあ、教えてくれしづるくん。『彼女』は、今どこに居るんだい?』
「……っ」
しかし急激に、その確信に濁るような違和感が表れた。
胸の中に膨れ上がった懐疑は、案外あらぬ方向に向いていた。妙だった……なぜ強調するのだろう? 今のは明らかに例によれば隠さなくてはならない場面なはずだ、加えてもし失言があったならおじさんが気が付かないはずはない。そんなまるで俺に気が付けと言わんばかりの言葉をどうしてあのタイミングで放つ。
「い、今は病院にいるよ。――でも、どうして彼女ってわかったんだ。性別については言及してない」
俺はそれを待っていたのだ。おじさんが性別についての失言を漏らすことを、或いは家についての失言を。でも現実はどうだ。おじさんがその少女について知っている情報を自ら強調までして見せた……何を考えている。
ふふ、とおじさんの笑う声が聞こえた。それは何か楽しんでいるような、寂寥のような、何かを悟ったように不思議な笑みだった。
『それはね――おっと、答える前にしづるくん、そろそろ12時になる』
視線を上げる。秒針はゆっくりと世界の中身にある『時間という概念』を指し示している。あと十二回時計の針が刻めば、一日の半分が終わる。だけれどそれがなんの関係があるだろう。それにおじさんは今アメリカの東海岸にいるわけだし、こっちの時間はそんなに関係のないことのはずだ。
「それが、それがどうしたって言うんだよ。話を逸らさないでくれ」
俺の手は、気が付けば震えていた。理由はハッキリとしていた。俺の悪い予想が、どこかで当たっている兆候があった。それも予想だにしていなかった方向に。
『しづるくん、今から大きな地震が起こる』
「――」
『すぐに足下に屈むか座り込むかしなさい。絶対に目を開けてはならない。何があっても、絶対に』
「何を言ってるんだよ……おじさん。どうしてだよ、話を逸らすな――逃げないでくれ」
『早く。でないと手遅れになる』
時計の針が鳴り響く。
一秒、一秒。流れ続ける時を人間という生命の区切りやすい瞬間と瞬間に切り分けた、形式的連続性。
拡散を続けるエントロピーと、その裏付けとしての熱量の移動。
時間、世界の法則、そして重力による制御。
カチリ、と時計の針が重なり合い一直線になった。
「――を」
ぽんっ、とくぐもった破裂音がどこからともなく響いた。
「え?」
俺は気がつけば、直立した状態で体が浮いていた。
目の前には壁に張り付いたガートル台の直下に点滴がぶら下がっている。それでいてガートル台は壁に張り付いたまま動かない。重力がかかっている方向に落ちていかない。
壁にかかった時計、そうだ。時計は落ちていないだろうか。
視線を上げる。そこには天井が見える。暗く薄汚れた天井は、昼白色の頭が痛くなりそうな電球がはめ込んである。
「あれ」
ああ、そうか。ひっくり返っても、位置関係は変わらないに決まっている。どうして俺は天井なんかを見上げているんだ――。
がたん、がたん、何かが崩れる音がする。
どこで崩れているんだ? 反転したままの世界で誰ともなく問いかける。
俺は天井を見上げている。俺は天井を見上げている、俺は天井を見上げている。天井を見上げ飽きたので俺は正面を見ることにした。
重力が上に向かって引っ張られている、そう感じているのは俺が浮いているからだろうか。
あれ、俺はどうして浮いているんだ? 俺はどうして、俺はどうしてここにいるんだ? 俺は? どこにいるんだ? この足場は何だ?
言葉が空間に浮いて停滞している。まるで時間が急激にゆっくりになったような――あるいは回りの時間だけが俺を取り残して進んでいるような。自分の声を他人の鼓膜を通して聞いているような。
正面には夏の空を映す窓があった。発達しかけの積乱雲が海の上で渦巻いている。色はピンク色、海は緑色に輝いている。空には明度の低いどす黒い赤色の液体のような雨が滴っていた。
窓の前には何人かの医師や患者がえっちらおっちらとどこか機械仕掛け人形のように、誰もが今歩くことを命令されたようにぎこちなく歩いていた。
彼らは廊下に足を付けて歩いていた。しかし誰もが歩くことを不思議そうに歩いていた。
廊下の片隅の那辺から、かたんかたん、と音が聞こえた。どうやらさっきの音もここから聞こえていたのかも知れない。
その音はこちらに近づいてき、頭を出した。
白と黒で縁取り塗られたひさしのような立派な角が瞼らしい場所から二本生えていた。口元には長い舌があり、首からは急に踏み潰された空き缶のように捻れて縊れて、糸のような胴体がそろりそろりと左見右見してこちらを見た。よく見れば頭部はクラインの壺のように内側に凹んで不可解な形に歪んでいた。
羊に少し似ているようにも感じるが、それとはまた違う――それにここは病院である。動物など万が一にもいるはずがない。そしてその生き物らしきなにかは、俺と同じ辺りを浮いているにも拘らずその蹄らしき突っかけを空中にかけて、器用にこちらに向かって歩いてくるのである。その様は崖を上る山羊に既視感を得るものだったが、彼が異様だったのは、表情らしき表情がないのに笑っているように見えたことであった。
「――」
怖気が背筋を駆け上がった。彼は頭部を膨らませたり縮ませたりして柔らかに、けれど不安になるような緩急を付けて呼吸に疑似した挙動を取っている。深海に生きる奇妙な体型と色彩感覚を彷彿とさせるのに、その姿勢はどこまでも陸――あるいは狩りを意識した造形である。
瞬間の後、違和感に気が付いたのは僥倖だった。
その山羊のような、としか例えようもない生き物が、どこか敵意に近いものを俺に向けていると直感したのだ。それは医者や患者の間を器用に通り抜けてきたからではなく、本能的な直感――普段なら桜庭しづるが好んで採用しないはずの思考回路であった。であると同時に、自身の置かれた状況の奇怪さに俺は急にこれが俺自らが体験していることであると実感し始めた。
「まずい」
何が起こっている、違う、今のこれまでの時間、何が起こっていた? 現状の把握に思考が追い付かない。現実離れしすぎている。どこまでも現実世界への周波数が合わない。
「とにかくあれから逃れなければ――」
急いで離れなければならない、にも拘らず俺には足場もない。手足を振り回してみようとしても、指先に力みが柔らかく滲むだけでその先の行動に結びつかない。
「くっ、くそ」
そうこうしている間にも、螺旋を描くように規則正しい周期性で「何か」は近付いて来ている。どうしようもない――どうにかしなければ、どうすればいい。
まるで金縛りのようだ、動けない。動けない、なぜだ。どうして俺は――
「は、はあ、なぜ」
久しく掠りもしなかった恐怖の感情が脳裏に重油のように流れ込んでくる。思考の為のキャパシティが恐怖によって満たされ、完全に逗留した。
「■■■……」
鳴き声らしいものが鼓膜を通っていく。それはもう既に彼の顔がそこにあるから聞こえているのである。
いよいよ以て、逃げるには能わない。
泡立った肌はとても生き物に見えないが、確かに何かが代謝している趣がある。だがそれは呼吸や心拍のリズムがそうしているわけではない、もっと直接的な――例えるならヒドロ虫科のクラゲが無限に群体と固体に分かれてぐちゃぐちゃに混ぜ合わされながらも一個体としての生命も保っているように、その泡立ち一つ一つが生きているように動き、泡立ち全てが彼であり、一つ一つが俺を見ていることを顕しているようだった。
「う、うう――あ」
逃れられない――何をしても無意味だ、不可能すぎる。びくりともこの場所から動くことがかなわない。
頭が真っ白になる。殺されるのだろうか、俺はこのまま、殺されるのか。
彼は静かに頭を垂れ、何度も体中を膨らませては萎ませた。無線の周波数を合わせるような音を立てながら彼は何度も俺の周りを回る。
目を瞑る。
「――……」
走馬灯すらも浮かび上がらない闇の中、どれくらいが経っただろう。
そっと目を開けると、彼はもういなかった。
「は――ぁは……なんだよ、なんだってんだよ」
息をついて、肩が落ちる。
「!」
休む間もなく、目の前にあった光景は急に変化を見せていた。
目まぐるしく空模様が変化している――夕立だ。発達し終わった積乱雲が、コールタールを含んだような真っ黒い雨を空から垂れ流している。次は雷……雹――。この世の終わりを想起させるような激しい天候。予感があった。流星雨の後に空は晴れる、あらゆる天候の後にもう一度やってくるのだ、晴天が。輪廻を回る蛇のように、世界の理を飲み込みながら収束させている……俺はなぜか「クローズド・タイムライク・カーヴ」その言葉を反芻していた。
病院内も、目まぐるしく変化していた。
患者がいたはずの場所には、芋虫が群れていた。彼らはその辺りの衣類を食い漁ってぶくぶくと太って蛹になった。その揺籃は次の瞬間にはもうひび割れ始め、極彩色の気味の悪い蝶たちを羽化させていた。そして雹の中を飛び交い、ウスバカゲロウの一斉羽化のように空を覆いつくした――そうだ、虫の大群もまた地球という存在の天気の一つなのだ。
医者は気が付けば大の男から少女になり、老婆になっていき、死んでいった。そして空に流星雨が架かる頃、真ん中で二人に別れて片方は車椅子を押す娘に、片方は廃人の目をした男になった。娘は突如、小さなハンドナイフで目の光を失った父の胸を切りつけた。男は車椅子から飛び出して先ほどの芋虫のようにグネグネと悶え始め、やがて少女が大声で泣き始めた。
「ここは」
どこだ? この世界は、いったいどこなんだ。
俺はいったいどこに、来てしまったんだ? 俺だけは正気に残して、世界は狂ってしまったのか?
俺はどうするべきだ? 俺も狂ってしまうべきか?
違う――世界が狂っている時に正気なやつなんて、狂っているんだ。
「うう――ううううああああああ!!!」
怖い、怖い。誰か助けてくれ。
誰か、だれか――!
気が狂ったように俺は走り出していた。恐ろしかった。こんなことはあってはならない。こんな無規律な世界があっては――!
走る、俺は走っているのか? さっきまで動かなかったじゃないか、今も動いてはいない? 俺は今、どこで何をしているんだ?
「しづる君、目を覚ませ。そこは現実じゃない」
声が聞こえた。
俺はさっきまで、何をしていたんだっけ。
俺はさっきまで、さっきとはいつだ。どの世界の話をしているんだ――?
「しづる君! 起きたまえ! 君の世界はここにあるのだッ!」
誰かが俺の手を強く引っ張った。その手の感触が懐かしくて、俺はピタリと止まった。だけれど、誰かが俺の隣を、走って行った。
一人、また一人。ずっと先に走っていき、真っ白の熱線の中、ある一点を超えたものは視界から消えていく。
その全員が叫んでいた、あるいは泣いていた。
その数は追い切れないほどの人数に増えていく。
レミングの集団自殺を彷彿させる脱落、狂騒――そして死。
その中にあって、俺は振り向いた。
目の前に時計があった。
時計の秒針が、12時1秒を刻んでいた。
「はっ」
じー、じー。
クマゼミの鳴き声が聞こえる、汚れたリノリウムの床がある――。
「俺は、いったい」
辺りを見回す。どこにもおかしな点は見つからない。耳に当てている電話からはおじさんの声が聞こえる。
『はあ――おかえり、しづる君』
電話口からは、おじさんが安心したように息をついているのが聞こえた。
「おかえり……?」
何を言っているんだ――どういうことだ。
『ここまで来られた君は、初めてだ。本当に、本当にここまで長かった――』
感慨深そうにおじさんは言った。その声は、耳慣れた心地を含んだ優し気なものだった。
12時1分、12秒。
車椅子を押す親子が、きいきいと糸車の軋む音を立てながら横を通り過ぎていく。
夏の激しい蝉の声だ。ジイジイと喚いているこの声はさっきとまるで違う。
汗が滴っている、つばを飲み込む。
足下には床の感覚があった。外には通り雨の気配、アスファルトの含有物が揮発して鼻腔をくすぐる。
もう直に冷徹な雨が降るだろう、夏の香りを押し流す、掌返したようなあの雷雨が――
『ここまで来られた君は、初めてだ。本当に、本当にここまで長かった』
夏の向こう側、なぜだかそんな場所に立っている自覚があった。
それは或いは思い込みかも知れない。或いは幻覚ばかりに支配された俺の精神の終着をそこに見ていたからかも知れない。
「おじさん、さっきのアレ、なんなんだ」
『『世界が見る夢』と言っても抽象的な説明になることを許して欲しい。時間という絶えず流れ続けるはずの膨大なエネルギーに逆行したせいで、君の中に『世界が経験したこと』が圧縮されて流れ込んだ。そのせいで本来人間が体験するはずもない情報を君が知覚することになった』
世界が見る夢――その言葉は衒学的に感じたけれど、同時に俺の中でもあの映像は普通の言葉では表せなかった。存在し得ない生命体、人が見るには大きすぎる規模、そして何よりも五感の全てとあの『流星雨の予感』。未来を一度識った上で追体験するような、或いは物語の中にでもいるかのような全能の断片――。
『……君が信じてくれることを、信じている』
祈るように静かにおじさんはそう言った。俺は、もう疑う材料を使い切ってしまっていた。これが事実だと、心は受け容れていた。
「信じるよ。それにしても、ここってどこなんだ? さっきと同じ場所なのに、何かが違う……言い表せないが決定的に歯車がズレている感じがする」
『そうだね、このループの『輪っかの途切れ目』というとわかりやすいかな。繰り返す日々の巻戻り地点、ある場所を起点にして世界は巻き戻っている。そして巻き戻った世界は再び、ここに戻ってくるために進み始める――それが、この繰り返しなんだ。今はそのループが一度終了し、開始点に戻ろうとする為の準備時間にあたる場所にいる』
『巻き戻った世界が、再びこの場所に戻ってくるために進み始める』、その言葉を聞いて、俺は何処か納得していた。
ミツビシというあの司書に教えてもらった『クローズド・タイムライク・カーヴ』という存在。あの在り方とこの現在の状況はよく似ている。必ずここに戻ってくる様に仕組まれた因果、けれどそれなら納得できる――あるいは、納得できるように俺はやってこさせられたのかもしれない。
「どうして……ここまで黙ってたんだよ。おじさん」
『ここまで来るためだよ』
「ここまで? どうしておじさんは“ここ”を、そんなに拘っていたんだ?」
『そうだね、そうなるだろう。1つ目の質問にまず、答えよう。それが2つ目の質問に答えることにもなるから』
そう言って、ジッポの擦れる音がした。
『時間には、『修正力』というものがある。本来行われるはずの時間で行われた行動を優先して処理しようとするこの性質のことを表現する言葉だ。『閉じた輪の中』の時間では、この修正力が非常に強いんだ。だから本来の時間で起こったことを、未来に起こることがわかっていようとも、ある程度の大筋は追従しなければならない。でなければ、間違った時間を修正しようとする時間の力の影響をモロに受けて君たちだけでなくこの三崎町――ひいては世界そのものにまで大きな危険、つまり既成事実の改変が及ぶことが考えられた。だからぼくはさっきまで、修正力の介入を避けるために避けるために『オリジナルのぼく』が行った行動を大筋において模倣し続けていた。だからごめんよ――本当に不安な思いをさせたね』
肩の荷がおりたように、ため息が漏れた。話なんか全然つかめている自信はなかったけれど、それでもおじさんが俺たちのことを第一義的に考えていてくれたことはおよそ事実に思えたからだ。
「閉じた、時間の輪――」
呟いてみれば、途方も無い話、というのが感想だった。疑っているわけじゃない、けれど心のどこかはやはり現実味を帯びてこない。ここまで奇妙な現象が続いたのに、俺はまだこの世界が現実でないことを信じていたらしい自分に辟易していた。
「全然信じられないけど、信じるよ……それが、“ここ”に関わってくるってことかな」
『ああ。『閉じた時間の輪』という存在は、強い修正力を持っていて、その上で中にいるものを逃さないようにしている。『輪』の外に出ることがないようにね。その上、どうすれば抜けられるのか条件も皆目見当がつかなかった。今だってただ状況としてそうなっているだけで、明確な理由はわからない。だから、ぼくは――何度も何度も修正力を受けない範囲で君たちが『本来の時間と違う行動』をする可能性を探して、ほんの少しずつ、修正力の対象にならない程度にほんの少しずつ『時間の輪の内側』から起こることを曲げ続けた。そうやって、もう何度やったかわからないほど繰り返して試行錯誤して、ようやく君が初めて“ここ”まで、来てくれた』
「ここまで来られなかった俺は――どうなったんだ」
『『世界が見る夢』に耐えきれずに目の前で狂ったことも多かった。或いは修正力の影響でここに来たはずの君が内側から何かに食い破られるように別人になったこともあった。……語りきれないほど、君の無残な様を見た。その度にぼくは――自分がなんと無力なのか恨んだ。君一人救えないぼくが、今この世界の中で一人だけが変わらず『時間の輪』の影響を受けずに記憶を引き継ぎ続けている――この役目が姉さんだったら、或いはぼくなんかよりももっと秀でた人はいくらでもいる。その人だったら、きっとこんなことは起こさないのだろう。そう思って何度も挫けそうになった。けど、ようやく君が”ここ”に来てくれた。君を救いたかった。しづるくん。だから、ぼくは”ここ”に来なければならなかった。それが本当に、本当に遠い、永遠の2日間の繰り返しだった――』
おじさんの声は、上ずっていた。初めて聞いた声だった。あんなに頼りになって、優しくて、いつも俺たちを受け止めてくれていた人、その人が泣いていた。俺と一緒で無力さに悩んでいた。凡百は己の無能を恨み輝かしい力に幻想を抱き、夢の中に溺れていく。けれどきっとこの人は、諦めなかった人なのだ。凡百の中にあって、誰よりも運命に抗うための人。ずっと自身の力のなさを恨みながら、悔やみながら、決して折れなかった人。俺は、こんな人になりたい。どこからともなく、思い出したように湧いてきた涙が頬を伝っていた。
「ありがとう、おじさん。本当にありがとう……じゃあ、“ここ”は――」
『ここまで来られた君は、初めてだ。本当に、本当にここまで長かった』
その言葉の真意、それはきっと。
『ああ。“ここ”は、『閉じた時間の輪』から外れた場所だ。ぼくはここに君たちを連れてくることが目標だった――』
そうか――俺たちを、助けるためにおじさんは――繰り返し続ける時の中で、ずっと抗い続けていてくれたんだ。
時間の輪の中で、きっといつだって一人で抜け出してしまいたい気持ちでいっぱいになりながら――おじさんは何度でも立ち止まって、何度でも歯痒い思いをしながら、何度でもやり直し続けてくれていたのだ。
真っ暗闇に灯明が見えた。闇の帳に一条差し込んだ太陽の兆しのように、俺の心に深く立ち込めた暗雲が薄らいでいくのを感じた。
「いつも、いつも、俺を助けに来てくれる、頼んでもないのに。なんでそんなに誰かの危機に鼻が利くんだ――ほんと勝てないな……おじさんには」
『いいことばかりじゃあないんだぜ、これも。タイミングが良すぎて何度も濡れ衣食らったし』
うわずった軽口を飛ばすおじさんは、どこか誇らしげだった。
「っはは。そうだよな、そういうこともあるよな……悠里がイヤに勘が当たるのもアンタ譲りなのかもな」
『そうだね、あの子はぼくや姉さんの血を濃く継いでる――篠沢の血統だ』
俺はなぜか酷い疲労感に包まれて、病院の壁にぺたりと背中を打ち付けて、そのまま座り込んでいた。
俺の中にあった、絶対的な聳える壁。決して超えられない限界点。おじさんのことを、ずっとそう思っていた。けれど、俺の心の中には小さな、けれど決して消えない明かりが灯っていた。俺には悠里やおじさん、おばさんのような勘もない。ましてや誰かより秀でた能力もない。けれど、きっとこの人が目の前でいてくれたことが俺を引き上げてくれる。この人が、己の無力さを恨みながら決して諦めなかったように――俺は、俺もそうありたい。
「――ありがとう、本当にありがとうおじさん。“ここ”では何ができるんだ? きっと、この先に何かがあるんだろう」
『“ここ”は、修正力から外れた場所、そう言ったね。時間の輪の向こう側であるこの場所では、決まった未来が変えることができる』
「……未来を変えることができる場所」
『ああ。この場所で行った行動で、未来が変えられる。また29日の未明には時間の輪が閉じて再生が始まる。その時には恐らく君も悠里もまた記憶を失ってしまうだろう。だからあと二日で決着をつけないといけない』
「――教えてくれ、俺たちはどうすればループの中から抜けられるんだ」
悠里、礼香ちゃん――そしておじさん、みんなを助けるんだ。そして未来を――だって、約束がある。もう一度三人で星を見に行かなくちゃならないんだから。来年も、再来年も、ずっと、ずっと夏休みには三崎町に来て、ずっと一緒にいたいんだ。それが、俺の願いだから。
『雪星を止める。この異変は、星から降る雪が蓄積していった結果起こった異変なんだ』
「……どうすれば止められる?」
『ループを断ち切るんだ。何度もループし続け、定期的に雪が降り続けているからこの異変は起こっている。ループを断ち切ってやれば雪は降らなくなる。大きなダメージは残るだろうが、ゆっくりと時間をかけて世界は修正されていく――それが一つ目のプラン』
「一つ目のプラン……そもそも雪星って止められるのか――!?」
『このループを仕組んだ犯人がいるんだ』
びくり、と背中が震えた。それは明らかに恐怖だった。なぜならそれは、『時間の輪』という余りにも壮大な仕掛けを作り上げた人間がおり、ソイツを止めるということだ。これほどのものを作り上げた誰か――しかもそれが、個人だと言っているのだ。理の当然にも規格外だろう。
「そんな人間がいるのか? いや、あり得ないだろう。人間じゃないのか?」
『……生物学上は人間と言えるがね。もう既にその力は人間という範疇を大きく突き抜けている』
「そんな……」
『だが、やるしかない――果てしなく勝てる確率は低い。それでもやらねばならない。これは……後始末でもある』
「『後始末』ってどういうことだ。おじさんは、そいつが誰で何をしようとしているのかも知っているのか!?」
『ああ。この事件はカリナという人間が起こしている。そしてそいつは、ぼくに縁のある人間だ。二日後に再び廃教会に現れるだろう。雪星を招来させるために――そこを叩く』
「作戦は――もちろんあるんだよな。そして二つ目ってなんだ?」
無策におじさんがそんなことを言うとは思えない、絶対に勝算があるからここまで丹念に作り上げたに違いない――それでも勝算は低いのだ。
『悪いが二つ目はまだ教えられない、不確実だしまだ最後の調整ができていなくてね、今から三崎町に戻るから間に合うかどうかわからない』
「何か俺にできることはないか? なんでもいい、手伝わせてくれ」
『君は、礼香ちゃんの面倒を見てやって欲しい。彼女と約束があるはずだ』
「どうしてだ……! 俺は、俺だって力になりたいんだ! なんでもやってみせるから」
『しづるくん。彼女はぼくが三崎町に連れてきた。面倒を見てきたのもそうだ。君の推理はかなり当たっている。ここまで推理を固めたのも今回の君が初めてだった』
「――!」
『でも、今は仔細説明している時間がない。けれど彼女の存在がカリナを攻略する為の鍵になる。約束を守ってやってくれ。頼む。これは君にしかできないことだ。ぼくだけは手数が絶対的に足りない。頼むよ。いいね』
俺は押し込まれるように肯いた。時間がないのだ。俺よりもおじさんの方が圧倒的に。気持ちだけが逸って駄々を捏ねている暇はない。
「……ああ、わかった。やるよ。それより悠里のヤツは大丈夫なのか? こんな風になる前に電話してみたんだが、繋がんなくてさ」
おじさんはタバコの煙を一つふかして、革靴の音が響き始めた。
『悠里は――特殊な場所にいるから悠里次第としか言い様がない。ぼくがどうにかしてあげられるのは君だけなんだ。今から悠里の方も確認を取る。君は君のことをお願いするよ。ああそれと、時間の流れがおかしくなっているから、基本的に時計はアテにならないと思ってくれ。気をつけて』
「ああ。おじさんも気をつけて」
『ありがとう――本当に、君がいてくれてよかった』
「俺も、おじさんがいてくれてよかった」
『約束、忘れないでくれよ』
「……ああ」
電話は切れた。俺は病室の扉に手をかける。
悠里――心配だが、それでも……。
やれる。やれるさ。悠里だろう、おじさんだろう、そして……俺だろう。
信じあっているんだ。お互いにバラバラな場所にいても、どんなことをしていようとも。
例え世界が虚想の永遠に遡行しようと、輪廻の輪にあろうと――俺たちを繋いでいるのは現実のものなのだから。
俺はおじさんに電話をかけていた。
それは――ある種の疑いを晴らすためだった。
『うん、どうしたんだい、しづるくん』
「おじさん――」
俺の額には、少し脂汗が浮いていた。己の猜疑心が、愛するおじさんに向かっている事実、それに困惑しているのだ。
おじさんが礼香と繋がりを持っていたとして、どうしてこんな疑いがかけられる? これは荒唐無稽な妄想だろう。何を想像できる。
「人を探しててさ。研究者っぽい人らしくてね。心当たりがあれば教えて欲しいんだ。十年くらい前に三咲町に来たらしい子が自分を養ってくれてる人を探してる」
『――ふうん、差し当たってはそれだけじゃ何もわからない。どうしてその子のことをぼくに?』
おじさんは俺の言葉の意図するところを探るみたいに聞き返してきた。
「おじさん、その子もループから抜けだしてるみたいなんだ」
『……興味深いことだ。何かが起こっているのかもしれないね。ぼくの知らないことが』
「おじさん、体調悪そうだけど大丈夫かな。それと、そっちに悠里は行ってない?」
さっきから妙なタイムラグがあるな、地下にでもいるんだろうか。
『いや、悠里は来てないと思う。もどるさんしか知らないと思うが……。実はしづるくん、ぼくは今、日本にはいないものでさ』
「……冗談」
『いや本当だ。今アメリカのマサチューセッツ州にいる。昨日あの後すぐに発った』
「十五時間近くかかるとは前聞いたけど、何しに行ったんだ? そんなに重要な用事だったのか」
『殆どタイムラグなしで飛行機に乗り込むことができてね。幸運だった。今し方“今回みたいな件”の専門家とのお話をしてきたところでね。その人はアナログ専門なもんで、会いに行くしかなかった』
専門家……。そう凡百用の説明される心は穏やかではない。『大人になったらわかるよ』と暗に子供扱いされているように感じてならないからだ。
『さて、しづるくん。時間がない。君の要件を進めたいのだがね』
はぐらかすように、おじさんは俺に聞き返す。
「先に一点……移動しても、大丈夫だったのか?」
移動すれば恐ろしい災厄に見舞われる可能性があるというのは、おじさんが教えてくれたことだ。その禁を自ら破るというのはどういう了見なのだろう。俺たちを無駄な危険に巻き込まないための方便だったのだろうか、それともその禁を破ってでもなすべきことがあったのか――いずれにせよ、俺が突っ込むべきではないとしても看過すべきでない。
『鋭いね。大丈夫じゃないさ。それでも犠牲覚悟で進む必要があった。ぼくにはその責任があった』
おじさんは、普段の忽せでぼんやりとした雰囲気らしからぬきっぱりとした声で言い切った。
「ずるいな。そんな言い方したら言い返せない」
『……ごめんね。もうすぐ戻るから。君たちには不便をかける。もどるさんにも』
「もどるさんは喜んでるんじゃないかな。散らかす人が居なくなったんだから」
はは、そうかもな。とおじさんはカラカラと笑った。
「話を戻すよ。おじさん、俺がその子の件で連絡を取ったのは理由がある。その子は十年くらい前に三咲町にやってきてる。そして住む家と毎月暮らしていけるだけの預金を定期的に与えられて生きてきた」
『……続けてくれ。誰かに心当たりがあるかも知れない』
「三咲町にやってきたばかりの頃のことだ。その子はまだ十にも満たなかった。家は与えられたが、とても生活力があるとは思えない。店先に並んだ物を買うことだって難しい年齢だ。でも生活に必要なものは定期的に送られてきており、時々赤い髪をした女性が家に来て世話を見てくれたらしい。その時に口座を渡されたらしいな。そしてそれをくれたのは白衣を着た三十四十代くらいの男性で、煙草を吸っており甘い匂いがしたらしい」
『随分詳しく聞き取れたね、すごい。けれどしづるくん、君も人間の精神を観測する学問を学んできたなら知っているだろう。人間の記憶ほどアテにならないものはない。あらゆる記憶、思い出と呼ばれるものは常に認識とその場その場で経た経験によって整合を取られ、余分な情報はそぎ落とされ、都合良く、或いは都合悪く変換されていく。それがどこまで正しいのか君には見分けられているのかい?』
「――できないさ。今の俺にはまだそこまでの予測を立てる能力はない。俺が今持ってるのは、その子が教えてくれたことと物証で最低限の予測を立てて、その結論を確かめることだ」
『なるほど、実に君らしい回答だ。その物証というのはどういうものだい?』
「口座の振り込みを行っている人間の名義はイチサワシノキになっていた。おじさん、俺は聞きたいんだ。その子を養っていたのはおじさんで、その子の面倒を見に行っていたのはもどるさんじゃないのかって。そうすると、妙に辻褄が合うんだ。その子がループから抜けだしていること、そして俺たちがループを抜けだしていること。その二つの点がおじさんを介して線になる――そう考えるのが自然、違うかな」
電話口は沈黙に包まれた。病院の喧騒も聞こえない。お互いに緊張しているように茫洋とした大気が淀んで澱になっていた。
『イチサワくんはぼくの友人でね。同分野の研究員さ』
「……嘘だ!」
声が口を衝いた。考えよりも先に、言葉が放たれた。
流石にわかる。こんな苦しい嘘があるか。というよりもおじさんはこんな人じゃなかったはずだ。だって、あり得ないだろう。こんな条件が揃う人、他に。
『しづるくん。勘違いが酷いな。ぼくの観測所の名簿を見たことがあるのかい?』
「いや、ない。でもそんなことはないはずだ。こんな近くで同じような名前で――」
『でも無いとは言い切れない、そうだろう?』
「それはそうだけど……でも」
嘘だ、嘘に決まっている。ではなぜ嘘を吐く? 吐かざるを得ない? そんなのは……理由なんて一つしかない。知っているんだ、何かを知っているんだ。
静かに息を吸い込み、施策を練る。どうするべきだろう、名簿――もどるさんに頼めば見せてくれるだろうか。いや、そんな訳はない。とりわけ情報の統制には厳しいあの人だ。
『でも、そんなことあり得ないはずだ。かな? でも実際に君はあり得ないと一蹴したループだって受け容れた。ならこれくらいのことは十分起こりうる範囲内だと考えるべきなんじゃないかな?』
「おじさん、仮にそうだとしてさ。その人に連絡を取ってくれないかな。だってかわいそうだろ。十年もずっとその人に会いたがってたんだ……」
『確かに、それはそうだね。連絡は取っておくよ――ところで、彼女は今どこにいるんだい』
「――!」
思考に電流が走った。
確かに今、彼女、彼女と言った。ダウトだ。これで確信が持てる。知ってるんだ、何かを握っている。それを話さないようにしているんだ。今尻尾が見えた。だってこれまで性別に言及なんて一度もしてない。
『さあ、教えてくれしづるくん。『彼女』は、今どこに居るんだい?』
「……っ」
しかし急激に、その確信に濁るような違和感が表れた。
胸の中に膨れ上がった懐疑は、案外あらぬ方向に向いていた。妙だった……なぜ強調するのだろう? 今のは明らかに例によれば隠さなくてはならない場面なはずだ、加えてもし失言があったならおじさんが気が付かないはずはない。そんなまるで俺に気が付けと言わんばかりの言葉をどうしてあのタイミングで放つ。
「い、今は病院にいるよ。――でも、どうして彼女ってわかったんだ。性別については言及してない」
俺はそれを待っていたのだ。おじさんが性別についての失言を漏らすことを、或いは家についての失言を。でも現実はどうだ。おじさんがその少女について知っている情報を自ら強調までして見せた……何を考えている。
ふふ、とおじさんの笑う声が聞こえた。それは何か楽しんでいるような、寂寥のような、何かを悟ったように不思議な笑みだった。
『それはね――おっと、答える前にしづるくん、そろそろ12時になる』
視線を上げる。秒針はゆっくりと世界の中身にある『時間という概念』を指し示している。あと十二回時計の針が刻めば、一日の半分が終わる。だけれどそれがなんの関係があるだろう。それにおじさんは今アメリカの東海岸にいるわけだし、こっちの時間はそんなに関係のないことのはずだ。
「それが、それがどうしたって言うんだよ。話を逸らさないでくれ」
俺の手は、気が付けば震えていた。理由はハッキリとしていた。俺の悪い予想が、どこかで当たっている兆候があった。それも予想だにしていなかった方向に。
『しづるくん、今から大きな地震が起こる』
「――」
『すぐに足下に屈むか座り込むかしなさい。絶対に目を開けてはならない。何があっても、絶対に』
「何を言ってるんだよ……おじさん。どうしてだよ、話を逸らすな――逃げないでくれ」
『早く。でないと手遅れになる』
時計の針が鳴り響く。
一秒、一秒。流れ続ける時を人間という生命の区切りやすい瞬間と瞬間に切り分けた、形式的連続性。
拡散を続けるエントロピーと、その裏付けとしての熱量の移動。
時間、世界の法則、そして重力による制御。
カチリ、と時計の針が重なり合い一直線になった。
「――を」
ぽんっ、とくぐもった破裂音がどこからともなく響いた。
「え?」
俺は気がつけば、直立した状態で体が浮いていた。
目の前には壁に張り付いたガートル台の直下に点滴がぶら下がっている。それでいてガートル台は壁に張り付いたまま動かない。重力がかかっている方向に落ちていかない。
壁にかかった時計、そうだ。時計は落ちていないだろうか。
視線を上げる。そこには天井が見える。暗く薄汚れた天井は、昼白色の頭が痛くなりそうな電球がはめ込んである。
「あれ」
ああ、そうか。ひっくり返っても、位置関係は変わらないに決まっている。どうして俺は天井なんかを見上げているんだ――。
がたん、がたん、何かが崩れる音がする。
どこで崩れているんだ? 反転したままの世界で誰ともなく問いかける。
俺は天井を見上げている。俺は天井を見上げている、俺は天井を見上げている。天井を見上げ飽きたので俺は正面を見ることにした。
重力が上に向かって引っ張られている、そう感じているのは俺が浮いているからだろうか。
あれ、俺はどうして浮いているんだ? 俺はどうして、俺はどうしてここにいるんだ? 俺は? どこにいるんだ? この足場は何だ?
言葉が空間に浮いて停滞している。まるで時間が急激にゆっくりになったような――あるいは回りの時間だけが俺を取り残して進んでいるような。自分の声を他人の鼓膜を通して聞いているような。
正面には夏の空を映す窓があった。発達しかけの積乱雲が海の上で渦巻いている。色はピンク色、海は緑色に輝いている。空には明度の低いどす黒い赤色の液体のような雨が滴っていた。
窓の前には何人かの医師や患者がえっちらおっちらとどこか機械仕掛け人形のように、誰もが今歩くことを命令されたようにぎこちなく歩いていた。
彼らは廊下に足を付けて歩いていた。しかし誰もが歩くことを不思議そうに歩いていた。
廊下の片隅の那辺から、かたんかたん、と音が聞こえた。どうやらさっきの音もここから聞こえていたのかも知れない。
その音はこちらに近づいてき、頭を出した。
白と黒で縁取り塗られたひさしのような立派な角が瞼らしい場所から二本生えていた。口元には長い舌があり、首からは急に踏み潰された空き缶のように捻れて縊れて、糸のような胴体がそろりそろりと左見右見してこちらを見た。よく見れば頭部はクラインの壺のように内側に凹んで不可解な形に歪んでいた。
羊に少し似ているようにも感じるが、それとはまた違う――それにここは病院である。動物など万が一にもいるはずがない。そしてその生き物らしきなにかは、俺と同じ辺りを浮いているにも拘らずその蹄らしき突っかけを空中にかけて、器用にこちらに向かって歩いてくるのである。その様は崖を上る山羊に既視感を得るものだったが、彼が異様だったのは、表情らしき表情がないのに笑っているように見えたことであった。
「――」
怖気が背筋を駆け上がった。彼は頭部を膨らませたり縮ませたりして柔らかに、けれど不安になるような緩急を付けて呼吸に疑似した挙動を取っている。深海に生きる奇妙な体型と色彩感覚を彷彿とさせるのに、その姿勢はどこまでも陸――あるいは狩りを意識した造形である。
瞬間の後、違和感に気が付いたのは僥倖だった。
その山羊のような、としか例えようもない生き物が、どこか敵意に近いものを俺に向けていると直感したのだ。それは医者や患者の間を器用に通り抜けてきたからではなく、本能的な直感――普段なら桜庭しづるが好んで採用しないはずの思考回路であった。であると同時に、自身の置かれた状況の奇怪さに俺は急にこれが俺自らが体験していることであると実感し始めた。
「まずい」
何が起こっている、違う、今のこれまでの時間、何が起こっていた? 現状の把握に思考が追い付かない。現実離れしすぎている。どこまでも現実世界への周波数が合わない。
「とにかくあれから逃れなければ――」
急いで離れなければならない、にも拘らず俺には足場もない。手足を振り回してみようとしても、指先に力みが柔らかく滲むだけでその先の行動に結びつかない。
「くっ、くそ」
そうこうしている間にも、螺旋を描くように規則正しい周期性で「何か」は近付いて来ている。どうしようもない――どうにかしなければ、どうすればいい。
まるで金縛りのようだ、動けない。動けない、なぜだ。どうして俺は――
「は、はあ、なぜ」
久しく掠りもしなかった恐怖の感情が脳裏に重油のように流れ込んでくる。思考の為のキャパシティが恐怖によって満たされ、完全に逗留した。
「■■■……」
鳴き声らしいものが鼓膜を通っていく。それはもう既に彼の顔がそこにあるから聞こえているのである。
いよいよ以て、逃げるには能わない。
泡立った肌はとても生き物に見えないが、確かに何かが代謝している趣がある。だがそれは呼吸や心拍のリズムがそうしているわけではない、もっと直接的な――例えるならヒドロ虫科のクラゲが無限に群体と固体に分かれてぐちゃぐちゃに混ぜ合わされながらも一個体としての生命も保っているように、その泡立ち一つ一つが生きているように動き、泡立ち全てが彼であり、一つ一つが俺を見ていることを顕しているようだった。
「う、うう――あ」
逃れられない――何をしても無意味だ、不可能すぎる。びくりともこの場所から動くことがかなわない。
頭が真っ白になる。殺されるのだろうか、俺はこのまま、殺されるのか。
彼は静かに頭を垂れ、何度も体中を膨らませては萎ませた。無線の周波数を合わせるような音を立てながら彼は何度も俺の周りを回る。
目を瞑る。
「――……」
走馬灯すらも浮かび上がらない闇の中、どれくらいが経っただろう。
そっと目を開けると、彼はもういなかった。
「は――ぁは……なんだよ、なんだってんだよ」
息をついて、肩が落ちる。
「!」
休む間もなく、目の前にあった光景は急に変化を見せていた。
目まぐるしく空模様が変化している――夕立だ。発達し終わった積乱雲が、コールタールを含んだような真っ黒い雨を空から垂れ流している。次は雷……雹――。この世の終わりを想起させるような激しい天候。予感があった。流星雨の後に空は晴れる、あらゆる天候の後にもう一度やってくるのだ、晴天が。輪廻を回る蛇のように、世界の理を飲み込みながら収束させている……俺はなぜか「クローズド・タイムライク・カーヴ」その言葉を反芻していた。
病院内も、目まぐるしく変化していた。
患者がいたはずの場所には、芋虫が群れていた。彼らはその辺りの衣類を食い漁ってぶくぶくと太って蛹になった。その揺籃は次の瞬間にはもうひび割れ始め、極彩色の気味の悪い蝶たちを羽化させていた。そして雹の中を飛び交い、ウスバカゲロウの一斉羽化のように空を覆いつくした――そうだ、虫の大群もまた地球という存在の天気の一つなのだ。
医者は気が付けば大の男から少女になり、老婆になっていき、死んでいった。そして空に流星雨が架かる頃、真ん中で二人に別れて片方は車椅子を押す娘に、片方は廃人の目をした男になった。娘は突如、小さなハンドナイフで目の光を失った父の胸を切りつけた。男は車椅子から飛び出して先ほどの芋虫のようにグネグネと悶え始め、やがて少女が大声で泣き始めた。
「ここは」
どこだ? この世界は、いったいどこなんだ。
俺はいったいどこに、来てしまったんだ? 俺だけは正気に残して、世界は狂ってしまったのか?
俺はどうするべきだ? 俺も狂ってしまうべきか?
違う――世界が狂っている時に正気なやつなんて、狂っているんだ。
「うう――ううううああああああ!!!」
怖い、怖い。誰か助けてくれ。
誰か、だれか――!
気が狂ったように俺は走り出していた。恐ろしかった。こんなことはあってはならない。こんな無規律な世界があっては――!
走る、俺は走っているのか? さっきまで動かなかったじゃないか、今も動いてはいない? 俺は今、どこで何をしているんだ?
「しづる君、目を覚ませ。そこは現実じゃない」
声が聞こえた。
俺はさっきまで、何をしていたんだっけ。
俺はさっきまで、さっきとはいつだ。どの世界の話をしているんだ――?
「しづる君! 起きたまえ! 君の世界はここにあるのだッ!」
誰かが俺の手を強く引っ張った。その手の感触が懐かしくて、俺はピタリと止まった。だけれど、誰かが俺の隣を、走って行った。
一人、また一人。ずっと先に走っていき、真っ白の熱線の中、ある一点を超えたものは視界から消えていく。
その全員が叫んでいた、あるいは泣いていた。
その数は追い切れないほどの人数に増えていく。
レミングの集団自殺を彷彿させる脱落、狂騒――そして死。
その中にあって、俺は振り向いた。
目の前に時計があった。
時計の秒針が、12時1秒を刻んでいた。
「はっ」
じー、じー。
クマゼミの鳴き声が聞こえる、汚れたリノリウムの床がある――。
「俺は、いったい」
辺りを見回す。どこにもおかしな点は見つからない。耳に当てている電話からはおじさんの声が聞こえる。
『はあ――おかえり、しづる君』
電話口からは、おじさんが安心したように息をついているのが聞こえた。
「おかえり……?」
何を言っているんだ――どういうことだ。
『ここまで来られた君は、初めてだ。本当に、本当にここまで長かった――』
感慨深そうにおじさんは言った。その声は、耳慣れた心地を含んだ優し気なものだった。
12時1分、12秒。
車椅子を押す親子が、きいきいと糸車の軋む音を立てながら横を通り過ぎていく。
夏の激しい蝉の声だ。ジイジイと喚いているこの声はさっきとまるで違う。
汗が滴っている、つばを飲み込む。
足下には床の感覚があった。外には通り雨の気配、アスファルトの含有物が揮発して鼻腔をくすぐる。
もう直に冷徹な雨が降るだろう、夏の香りを押し流す、掌返したようなあの雷雨が――
『ここまで来られた君は、初めてだ。本当に、本当にここまで長かった』
夏の向こう側、なぜだかそんな場所に立っている自覚があった。
それは或いは思い込みかも知れない。或いは幻覚ばかりに支配された俺の精神の終着をそこに見ていたからかも知れない。
「おじさん、さっきのアレ、なんなんだ」
『『世界が見る夢』と言っても抽象的な説明になることを許して欲しい。時間という絶えず流れ続けるはずの膨大なエネルギーに逆行したせいで、君の中に『世界が経験したこと』が圧縮されて流れ込んだ。そのせいで本来人間が体験するはずもない情報を君が知覚することになった』
世界が見る夢――その言葉は衒学的に感じたけれど、同時に俺の中でもあの映像は普通の言葉では表せなかった。存在し得ない生命体、人が見るには大きすぎる規模、そして何よりも五感の全てとあの『流星雨の予感』。未来を一度識った上で追体験するような、或いは物語の中にでもいるかのような全能の断片――。
『……君が信じてくれることを、信じている』
祈るように静かにおじさんはそう言った。俺は、もう疑う材料を使い切ってしまっていた。これが事実だと、心は受け容れていた。
「信じるよ。それにしても、ここってどこなんだ? さっきと同じ場所なのに、何かが違う……言い表せないが決定的に歯車がズレている感じがする」
『そうだね、このループの『輪っかの途切れ目』というとわかりやすいかな。繰り返す日々の巻戻り地点、ある場所を起点にして世界は巻き戻っている。そして巻き戻った世界は再び、ここに戻ってくるために進み始める――それが、この繰り返しなんだ。今はそのループが一度終了し、開始点に戻ろうとする為の準備時間にあたる場所にいる』
『巻き戻った世界が、再びこの場所に戻ってくるために進み始める』、その言葉を聞いて、俺は何処か納得していた。
ミツビシというあの司書に教えてもらった『クローズド・タイムライク・カーヴ』という存在。あの在り方とこの現在の状況はよく似ている。必ずここに戻ってくる様に仕組まれた因果、けれどそれなら納得できる――あるいは、納得できるように俺はやってこさせられたのかもしれない。
「どうして……ここまで黙ってたんだよ。おじさん」
『ここまで来るためだよ』
「ここまで? どうしておじさんは“ここ”を、そんなに拘っていたんだ?」
『そうだね、そうなるだろう。1つ目の質問にまず、答えよう。それが2つ目の質問に答えることにもなるから』
そう言って、ジッポの擦れる音がした。
『時間には、『修正力』というものがある。本来行われるはずの時間で行われた行動を優先して処理しようとするこの性質のことを表現する言葉だ。『閉じた輪の中』の時間では、この修正力が非常に強いんだ。だから本来の時間で起こったことを、未来に起こることがわかっていようとも、ある程度の大筋は追従しなければならない。でなければ、間違った時間を修正しようとする時間の力の影響をモロに受けて君たちだけでなくこの三崎町――ひいては世界そのものにまで大きな危険、つまり既成事実の改変が及ぶことが考えられた。だからぼくはさっきまで、修正力の介入を避けるために避けるために『オリジナルのぼく』が行った行動を大筋において模倣し続けていた。だからごめんよ――本当に不安な思いをさせたね』
肩の荷がおりたように、ため息が漏れた。話なんか全然つかめている自信はなかったけれど、それでもおじさんが俺たちのことを第一義的に考えていてくれたことはおよそ事実に思えたからだ。
「閉じた、時間の輪――」
呟いてみれば、途方も無い話、というのが感想だった。疑っているわけじゃない、けれど心のどこかはやはり現実味を帯びてこない。ここまで奇妙な現象が続いたのに、俺はまだこの世界が現実でないことを信じていたらしい自分に辟易していた。
「全然信じられないけど、信じるよ……それが、“ここ”に関わってくるってことかな」
『ああ。『閉じた時間の輪』という存在は、強い修正力を持っていて、その上で中にいるものを逃さないようにしている。『輪』の外に出ることがないようにね。その上、どうすれば抜けられるのか条件も皆目見当がつかなかった。今だってただ状況としてそうなっているだけで、明確な理由はわからない。だから、ぼくは――何度も何度も修正力を受けない範囲で君たちが『本来の時間と違う行動』をする可能性を探して、ほんの少しずつ、修正力の対象にならない程度にほんの少しずつ『時間の輪の内側』から起こることを曲げ続けた。そうやって、もう何度やったかわからないほど繰り返して試行錯誤して、ようやく君が初めて“ここ”まで、来てくれた』
「ここまで来られなかった俺は――どうなったんだ」
『『世界が見る夢』に耐えきれずに目の前で狂ったことも多かった。或いは修正力の影響でここに来たはずの君が内側から何かに食い破られるように別人になったこともあった。……語りきれないほど、君の無残な様を見た。その度にぼくは――自分がなんと無力なのか恨んだ。君一人救えないぼくが、今この世界の中で一人だけが変わらず『時間の輪』の影響を受けずに記憶を引き継ぎ続けている――この役目が姉さんだったら、或いはぼくなんかよりももっと秀でた人はいくらでもいる。その人だったら、きっとこんなことは起こさないのだろう。そう思って何度も挫けそうになった。けど、ようやく君が”ここ”に来てくれた。君を救いたかった。しづるくん。だから、ぼくは”ここ”に来なければならなかった。それが本当に、本当に遠い、永遠の2日間の繰り返しだった――』
おじさんの声は、上ずっていた。初めて聞いた声だった。あんなに頼りになって、優しくて、いつも俺たちを受け止めてくれていた人、その人が泣いていた。俺と一緒で無力さに悩んでいた。凡百は己の無能を恨み輝かしい力に幻想を抱き、夢の中に溺れていく。けれどきっとこの人は、諦めなかった人なのだ。凡百の中にあって、誰よりも運命に抗うための人。ずっと自身の力のなさを恨みながら、悔やみながら、決して折れなかった人。俺は、こんな人になりたい。どこからともなく、思い出したように湧いてきた涙が頬を伝っていた。
「ありがとう、おじさん。本当にありがとう……じゃあ、“ここ”は――」
『ここまで来られた君は、初めてだ。本当に、本当にここまで長かった』
その言葉の真意、それはきっと。
『ああ。“ここ”は、『閉じた時間の輪』から外れた場所だ。ぼくはここに君たちを連れてくることが目標だった――』
そうか――俺たちを、助けるためにおじさんは――繰り返し続ける時の中で、ずっと抗い続けていてくれたんだ。
時間の輪の中で、きっといつだって一人で抜け出してしまいたい気持ちでいっぱいになりながら――おじさんは何度でも立ち止まって、何度でも歯痒い思いをしながら、何度でもやり直し続けてくれていたのだ。
真っ暗闇に灯明が見えた。闇の帳に一条差し込んだ太陽の兆しのように、俺の心に深く立ち込めた暗雲が薄らいでいくのを感じた。
「いつも、いつも、俺を助けに来てくれる、頼んでもないのに。なんでそんなに誰かの危機に鼻が利くんだ――ほんと勝てないな……おじさんには」
『いいことばかりじゃあないんだぜ、これも。タイミングが良すぎて何度も濡れ衣食らったし』
うわずった軽口を飛ばすおじさんは、どこか誇らしげだった。
「っはは。そうだよな、そういうこともあるよな……悠里がイヤに勘が当たるのもアンタ譲りなのかもな」
『そうだね、あの子はぼくや姉さんの血を濃く継いでる――篠沢の血統だ』
俺はなぜか酷い疲労感に包まれて、病院の壁にぺたりと背中を打ち付けて、そのまま座り込んでいた。
俺の中にあった、絶対的な聳える壁。決して超えられない限界点。おじさんのことを、ずっとそう思っていた。けれど、俺の心の中には小さな、けれど決して消えない明かりが灯っていた。俺には悠里やおじさん、おばさんのような勘もない。ましてや誰かより秀でた能力もない。けれど、きっとこの人が目の前でいてくれたことが俺を引き上げてくれる。この人が、己の無力さを恨みながら決して諦めなかったように――俺は、俺もそうありたい。
「――ありがとう、本当にありがとうおじさん。“ここ”では何ができるんだ? きっと、この先に何かがあるんだろう」
『“ここ”は、修正力から外れた場所、そう言ったね。時間の輪の向こう側であるこの場所では、決まった未来が変えることができる』
「……未来を変えることができる場所」
『ああ。この場所で行った行動で、未来が変えられる。また29日の未明には時間の輪が閉じて再生が始まる。その時には恐らく君も悠里もまた記憶を失ってしまうだろう。だからあと二日で決着をつけないといけない』
「――教えてくれ、俺たちはどうすればループの中から抜けられるんだ」
悠里、礼香ちゃん――そしておじさん、みんなを助けるんだ。そして未来を――だって、約束がある。もう一度三人で星を見に行かなくちゃならないんだから。来年も、再来年も、ずっと、ずっと夏休みには三崎町に来て、ずっと一緒にいたいんだ。それが、俺の願いだから。
『雪星を止める。この異変は、星から降る雪が蓄積していった結果起こった異変なんだ』
「……どうすれば止められる?」
『ループを断ち切るんだ。何度もループし続け、定期的に雪が降り続けているからこの異変は起こっている。ループを断ち切ってやれば雪は降らなくなる。大きなダメージは残るだろうが、ゆっくりと時間をかけて世界は修正されていく――それが一つ目のプラン』
「一つ目のプラン……そもそも雪星って止められるのか――!?」
『このループを仕組んだ犯人がいるんだ』
びくり、と背中が震えた。それは明らかに恐怖だった。なぜならそれは、『時間の輪』という余りにも壮大な仕掛けを作り上げた人間がおり、ソイツを止めるということだ。これほどのものを作り上げた誰か――しかもそれが、個人だと言っているのだ。理の当然にも規格外だろう。
「そんな人間がいるのか? いや、あり得ないだろう。人間じゃないのか?」
『……生物学上は人間と言えるがね。もう既にその力は人間という範疇を大きく突き抜けている』
「そんな……」
『だが、やるしかない――果てしなく勝てる確率は低い。それでもやらねばならない。これは……後始末でもある』
「『後始末』ってどういうことだ。おじさんは、そいつが誰で何をしようとしているのかも知っているのか!?」
『ああ。この事件はカリナという人間が起こしている。そしてそいつは、ぼくに縁のある人間だ。二日後に再び廃教会に現れるだろう。雪星を招来させるために――そこを叩く』
「作戦は――もちろんあるんだよな。そして二つ目ってなんだ?」
無策におじさんがそんなことを言うとは思えない、絶対に勝算があるからここまで丹念に作り上げたに違いない――それでも勝算は低いのだ。
『悪いが二つ目はまだ教えられない、不確実だしまだ最後の調整ができていなくてね、今から三崎町に戻るから間に合うかどうかわからない』
「何か俺にできることはないか? なんでもいい、手伝わせてくれ」
『君は、礼香ちゃんの面倒を見てやって欲しい。彼女と約束があるはずだ』
「どうしてだ……! 俺は、俺だって力になりたいんだ! なんでもやってみせるから」
『しづるくん。彼女はぼくが三崎町に連れてきた。面倒を見てきたのもそうだ。君の推理はかなり当たっている。ここまで推理を固めたのも今回の君が初めてだった』
「――!」
『でも、今は仔細説明している時間がない。けれど彼女の存在がカリナを攻略する為の鍵になる。約束を守ってやってくれ。頼む。これは君にしかできないことだ。ぼくだけは手数が絶対的に足りない。頼むよ。いいね』
俺は押し込まれるように肯いた。時間がないのだ。俺よりもおじさんの方が圧倒的に。気持ちだけが逸って駄々を捏ねている暇はない。
「……ああ、わかった。やるよ。それより悠里のヤツは大丈夫なのか? こんな風になる前に電話してみたんだが、繋がんなくてさ」
おじさんはタバコの煙を一つふかして、革靴の音が響き始めた。
『悠里は――特殊な場所にいるから悠里次第としか言い様がない。ぼくがどうにかしてあげられるのは君だけなんだ。今から悠里の方も確認を取る。君は君のことをお願いするよ。ああそれと、時間の流れがおかしくなっているから、基本的に時計はアテにならないと思ってくれ。気をつけて』
「ああ。おじさんも気をつけて」
『ありがとう――本当に、君がいてくれてよかった』
「俺も、おじさんがいてくれてよかった」
『約束、忘れないでくれよ』
「……ああ」
電話は切れた。俺は病室の扉に手をかける。
悠里――心配だが、それでも……。
やれる。やれるさ。悠里だろう、おじさんだろう、そして……俺だろう。
信じあっているんだ。お互いにバラバラな場所にいても、どんなことをしていようとも。
例え世界が虚想の永遠に遡行しようと、輪廻の輪にあろうと――俺たちを繋いでいるのは現実のものなのだから。
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