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第五幕 ~本能寺の朝~
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「全軍止まれ!」
光秀は、下知を下す。
明智軍は桂川の前に着いていた。いよいよ川を渡れば、本能寺がある京の街までは、目と鼻の先だ。
「わしらは、何をしに京に行くのかのう」
「上様に我らの晴れ姿を見せる為じゃろう」
この時、京に進軍する明智軍には、厳重な統制が敷かれていた。光秀は、明智次右衛門に命じて彼の部隊を先行させ、京に向かう怪しい者がいれば斬れと命じていた。明智軍の武者達は、何も知らされないままにここまで来ていたので、間違いはないであろう。
ここに、本城惣右衛門と言う男が登場する。惣右衛門は、光秀配下の武士として、この戦に参加していた、その時の貴重な資料を後世に残している。
(もしや、家康公を討ちに行くのではないのか…)
惣右衛門は、京に向かう途中でそう思っていたと、自らの手記に残している。
当然、惣右衛門が手記を認めたのは、事がすべて終わってから、何年も後になってからである。そのすべての結果を知った後に書いたのだ。
では、なぜ彼は、わざわざ家康が…と書いたのだろか?この問いが、この物語を語る上で後々に重大な意味を持つのである。
光秀の眼前には、信長のいる本能寺の姿が、夜が明ける前の静寂の暗闇の中で、うっすらと見え始めていた。
信長は、本能寺内の自らの寝所にて目を覚ましていた。昨晩は、嫡男の信忠を始め、名のある公家や僧、商人などが信長を訪ねて、寺内はちょっとした宴会場と化していた。信長も昨晩は上機嫌で、呑めない酒を彼にしては、大量に呑んだと言う。信長は、酒が回るとわざわざ安土城より一緒に持ってきていた名物の茶器を披露しては、その話題に花を咲かせていたのだ。
その昨晩の大宴会が、嘘のような静まり返った清々しい朝であった。信長は、その眼をしっかりと開けながらも、床からは起きずに体を横たえていた。
(昨晩の美酒は格別であった)
そう思っていた。昨日は、痛飲して夜更けまで起きていたのに、今朝は予定よりも早くに目が覚めてしまっていた。
信長が、この後に起きる事をどこかで予感してのものであったのか、ただの偶然であったのかは、誰にも分からない事であった。
(何も懸念に及ぶべからず。予定では、今日にも光秀が全軍を持って、京に攻め上って来る手筈だ)
この時まで、信長の光秀に対する信頼が揺るいだ様子は、伺えしれなかった。
(それにしても、彼の浪人風情がよくもここまでになったものだ)
信長は、再び目を閉じてみる。
(天下だ!天下をこの手に入れる。それがもうすぐ、目の前に来ているのだ)
信長が考える天下とは、一体何であったのだろうか?
その信長の天下を体現したような城である安土城が完成したのは、天正七年(1579)であった。この安土城は、建設当時は、琵琶湖に面して建てられており、京より約五十キロの位置にあった。北には秀吉の城である長浜城があり、対岸には光秀の坂本城がある。城はその二城のちょうど中央に位置し、安土山全体を城と見立てた壮大な縄張りに、山頂に建てられた地下一階地上六層の七階を誇る。
それまでの日本には無い高層天主があり、信長はそこで寝起きしていたと言う。天守ではなく、天主と呼ばせていた所に信長の自負を感じる。
「かつて見た事が無い、壮大な宮殿のようだ」
とルイス・フロイスは本国に書き送っている。
同年の十月二十四日に光秀は、安土城に伺候している。任されていた丹波・丹後の平定が完了した報告の為であった。
「ご苦労であった」
応対した信長は、至極ご機嫌であった。
光秀が信長より丹波平定を命じられたのは、天正三年であるから、平定までに四年もの歳月がかかっている。
しかし、信長はこの光秀の功績を高く評価していた。
「これにより、西国への道程が見えたわ」
安土城の天主閣で、信長と光秀は琵琶湖を眺めている。
「光秀よ、身体は大事ないか?そなたも夜風が身に染みる年に近づいたであろう。体は厭えよ」
「ありがたき幸せ」
信長は、光秀の体を心配する労わりを見せた。
そう、信長が思わず優しい言葉を口にする程に、丹波平定は激戦であった。
丹波地方は、そのほとんどが山地であり、土地柄で隆起した斜面が多く、大軍を進めるに適さない。この地形が、独特の風土を形成するのに一役買っているのは間違いない事実であろう。とにかく在地の豪族が多く、それが一つ一つ独立しており、時には諍い、時には連合する。そのより集めの集合体のような物が丹波の国人衆であった。
言葉だけを見れば、烏合の衆のように感じられるが、平時は国内で諍いあっていても、一度外敵が来れば、一致団結してそれを排除する。長年の間にこの地を平定出来た者がついに出現しなかった、それが理由であった。
織田軍は、丹波の国人衆と最初から敵対していたわけではない。最初はその関係は良好であった。しかし、この丹波の民は、昔から足利将軍家と固い結びつきの深い土地であった為に、信長が都から将軍義昭を追放すると、両者の関係も次第に悪化の一途を辿ったのである。そして、丹波を代表する勇将である、黒井城主の赤井直正が織田家に反旗を翻したのであった。
ここに至って信長も丹波平定を決断し、光秀に軍勢を招集させ、その攻め手の大将として派遣したのである。当初、戦の優勢は明智軍であった。光秀は離反した赤井軍ら以外の丹波の豪族たちを懐柔し、黒井城に迫ったのである。この城さえ落とせば、丹波平定は成ったも同然であった。
しかし、戦の帰趨は思わぬ事体を迎えたのである。城を包囲して二か月が経ったころに突如として、有力国人である八上城の城主である波多野秀治が離反し、赤井軍らに合流してしまったのである。これを受けて、戦の形勢は一気に逆転する。今まで光秀に従っていた他の国人衆もすべて離反してしまったのであった。光秀は丹波より退却を余儀なくされた。
「おのれーーっ丹波の国人衆め!このままで済ますまいぞ」
光秀は歯ぎしりして悔しがり、軍勢の態勢を整えると、すぐに丹波攻略に取りかかるが、今度もすべての国人衆の反撃に合い、あえなくすぐに退却している。どうやら、波多野氏の離反も、それに次ぐ国人衆たちの行動も、すべては示し合わせた上での策略であったようだ。
光秀は、丹波という特殊な国の平定の難しさを、身を以て知ったのであった。
その後、光秀としてはすぐにも攻めたかったであろうが、信長に他の戦地への加勢を頼まれるなど、丹波攻略に専念出来ぬままに時が流れた。
そして、天正四年五月(1576)光秀は、一年に渡り休む間もなく、各地に転戦した疲れが出たのか、遂に病に臥せり、およそ二か月間も寝たきりになっていたらしい。一時は死亡説が流れるなどの事態にまで発展し、これには、信長自身も光秀を見舞っている。
「申し訳ござりませぬ。かかる大事にこのような仕儀に」
「今は何も申すな。静養し、一日も早く戦に復帰せよ。天下布武の道のりはまだ道半ばぞ」
信長はそっと光秀の手を取り、微笑んで見せた。それは、或いは光秀が始めてみる柔和な信長の笑みであったかもしれない。
一度は、死を覚悟するほどの重病となってしまった光秀であったが、妻熙子による献身的な介護のお蔭か、病気もほどなくして完治していた。しかし、今度は、光秀の看病疲れのせいだったのか、妻熙子が病にかかり、あっという間に世を去ってしまったのだった。
しかし、光秀は悲嘆に暮れる暇も無く、再び戦場へと戻らなければならない。
光秀が丹波攻略を再開したのは、天正五年十月(1577)の事であった。信貴山城に立て籠もって、再度の反逆を試みた松永久秀を攻めて、爆死させた後の事である。
「これで、亡き上様(足利義輝)も浮かばれよう」
愛妻を無くした事が影響しているのか、幾度の戦場での死線を超えてきた経験によるものなのか、この時期から、明智光秀という武将の性質は、少し変わって行くような気がしている。
それまでにあった、理想を追い求める中で見せた、時よりの青臭さが消えて、武将としての狡猾さや、結果を求めるための果断さが、見て取れるようなのだ。
「倫子の様子はどうだ?」
「息災にございまする」
馬上にて、光秀と秀満が並びあう。長年、二人が見せるこの雄姿こそが、明智家の中核であり、一家の武者たちを奮い立たせる。
光秀の娘の内、長女である倫子は、有岡城の城主である荒木村重の嫡男に嫁いでいた。村重は、足利将軍家の有力武将の一人であったが、将軍義昭追放に際に信長に降っている。信長は、村重を近畿地方の司令官に任命し、重用していたのだが、村重は突如、信長に謀反する。理由は色々言われているが、とにかくも織田と敵対していた毛利・本願寺側に付いたのだ。
そして、信長にとって、この村重の離反は、地理上の上でも重大事案であった。中国地方を攻略している秀吉の軍と、京の都の中間地点に有岡城があったからだ。早期にこれを打開しなければ、織田軍の戦線は、崩壊する危険を孕んでいた。光秀は、村重を遺留すべく有岡城に出向いた。
「大殿も何かの間違いであろう。とくと村重の要望を聞いて参れと私を派遣したのだ」
光秀は殊更に明るく振舞っていた。しかし、久しぶりに見た村重の顔は色白く、頬は扱けて生気を失って見えた。
「お主にも織田信長の正体は分かっている筈だ。一度嫌疑がかかれば、それを許す事は無い。その気性の危うさゆえ、私は離反したのだ」
村重の答えは静かだが、迷いに無い言葉だった。一時は翻意しかけ、二点、三点していた村重の態度も、ここに至って固まったと見えた。
「娘は返してもらう」
光秀はそれを言うのが、精いっぱいであった。後日、村重は有岡城を身一つで逃げ落ちた。残された一族郎党は、悉く処刑された。
これに先立って、秀吉の軍師で、名高い竹中半兵衛が病死している。その死に際に彼がした事として、有名な逸話がある。秀吉の幕僚にして名高い黒田勘兵衛が、村重を説得すべく、単身有岡城に乗り込んだ。
しかし、敢え無く説得に失敗し、官兵衛は一年もの間、狭い牢に閉じ込められた。この時に信長は官兵衛が裏切ったと思い込み、嫡男である後の黒田長政を処刑するように命じた。
しかし、自らの死期を悟っていた竹中半兵衛は、信長の命令を無視し、自分の独断で長政を匿ったという。智者が死に際して、世の中に何を残して逝ったのか、興味深い話である。戻された光秀の娘は、たっての希望で秀満に再嫁した。そして、秀満は名を改め、明智弥平次秀満となり、これで名実共に明智家の重鎮となったのであった。
戦は続いて行く。光秀は、丹波攻略戦を再開するに、前回とは別の方法を取っていた。まず、丹波亀山城を攻め落とし、丹波に根拠地とも言える場所を、確保する事に成功している。
そして、準備を周到に行い、徐々に徐々に豪族たちを切り崩して、その弱体化を図っていった。そして、明けて天正六年(1578)に、黒井城主の赤井直正が病死すると、これを機に、一気に決着を着けるべく、波多野秀治が立て籠もる八上城を取り囲んだ。
がしかし、八上城は、山城で天然の要害とも言える強固な要塞であったので、これが容易に落ちなかった。何とこの城攻めは、一年の長きに渡って続けられる事となるのであった。
光秀は、城と街道とを完全に遮断すると、敵の補給路を断って無理に力攻めせず、敵の疲弊を待って、城を内部より崩壊させる作戦を取った。
しかし、この当時の織田軍は、光秀を一つの戦場に固定出来る程の強大さは、まだ持ち合わせておらず、光秀は、時には信長と行動を共にし、また荒木村重や松永久秀の謀反鎮圧に助力し、秀吉の播磨侵攻作戦を助け、本願寺との戦線にも加わる事となった。
正にこの時期の光秀は、東西に奔走し続けており、その光秀不在時においても、八上城の包囲網は残された秀満たちが、警戒を怠る事は無かった。
この時期の連続した戦に次ぐ戦が、熙子を失った光秀の心の支えであり、また明智軍団を成長させる要因となった事は、想像に難くない。
また、驚異的なのは、およそ敵地において、長きに渡って戦線を維持出来る能力の高さである。戦をするには金がかかる。兵は飯を食えば、給金も必要となってくる。諸々にたくさんの人夫が必要であっただろうし、多数の馬の世話にも金はかかるのである。
では、いかにして光秀はそれを賄っていたのだろうか?略奪であろか?自領からの輸送であろうか?光秀は、敵地の戦線を掛けずり周る内に一つの経済の捉え方と言うべき答えにたどり着いていたのだ。光秀は、自領でも敵地でも関係なく、自らが影響を及ぼせる地域に渡り、その領民たちを直接支配下に置いて、全く新しい経済圏を作ろうとしていたのであった。
この時代、座や荘園、寺領に代表されるような、中間支配者層がどの国のどの地域にも長きに渡って広がっていた。領民や農民の上には、地主や名主がおり、その上には寄合いや組、座があって、その上に地頭や地侍が居て、その上で初めて領主や、大名となるのである。
光秀はこれを取っ払ってしまった。敵地であればあるほど、積極的に行った。新しき世が訪れる事を、内外に知らしめる為でもあった。この発想は、恐らく楽市・楽座を国全体で見た規模を、大きくしたやり方であったろう。中間で搾取する者がいなくなれば、当然、領主の取り分も、一番下の領民の取り分も増す事になる。今で言う問屋を無くす流通構造と似た感じであろうか。
こうして、光秀の率いる明智軍団は、連続的な戦線の維持が可能となったのである。
翌年の天正七年六月一日に、長期の籠城で疲弊しきった八上城が落城する。最後には内通者の手によって、波多野秀治ら一族の者が捕らえられての落城であった。光秀の粘り勝ちである。波多野秀治らは、信長の居る安土城に送られて斬首となった。ここに四年を過ぎて、苦しかった丹波平定が完了した。
「ようやく、これで熙子の墓前に立つ事が出来るな」
光秀は振り向いて言った。秀満は笑顔でそれに応えた。
ここは、明朝前の本能寺である。
信長は、起きだして顔を洗っている。大名ともなれば、普通は起床時間が決まっており、小姓が起こしに来るまでは、寝所でじっとしているものなのだが、信長にはその習慣がない。無駄だと思っている。
好きな時に起き、好きな時に寝る。信長にとって重要な事は、必要なのか、そうではないのかという価値観でしかない。顔を洗い終わって、拭いていると、辺りから妙な気配や物音が聞こえてくる。空耳かとも思ったがやはりする。
(何やら騒がしいような。喧嘩か何かか?)
信長は、当初そう考えていたようだ。
この時、本能寺にお供していたのは、僅かに三十余名であったとも二百名であったとも言われているが、少数であったことは確かのようだ。本能寺の変を語るときに、信長の油断として、供回りの数の少なさを挙げる声があるが、この時、京周辺はすでに信長の領土であり、本能寺は信長の定宿として、何度も京を行き来している。
信長の油断というよりも、それを行った者たちに、より多くの要因を求めるべきであろう。
「誰ぞある!」
信長は、機を見るに敏な性格である。すぐに小姓を呼んだ。
一人の小姓が現れると、様子を見に行かせた。信長は、胸騒ぎと共に全身に高揚感が湧いてくるのを感じて、少し戸惑っていた。まるで、戦が起きる前の状態に、身体が疼いてきていた。信長は、鳥肌が立っている自分の腕を見て、戦が起こっているのを確信的に直感していた。
すると、信長の元に森蘭丸が走り込んできた。
「蘭丸、謀反か?如何なる者の企てぞ」
「水色桔梗の旗が見えましてございまする。明智が者と見え申し候」
蘭丸は息を切らせていた。その信長を見る目には、縋る様な表情が見て取れた。
信長は、寝姿のままで部屋を飛び出していった。この時の信長の心情を思うと、計り知れない。もう少しの所で天下統一が見えてきた所での光秀による謀反である。しかも信長は、光秀を信頼していた事は、紛れもない事実であっただろう。
(光秀め。もしやあの時の事を実行に移したとでも言うのか)
信長は、一つの事を思い出していた。
天正八年閏三月五日(1580)長きに渡った石山本願寺と、織田家との争いが終結し講和が成った。これにより本願寺門跡である本願寺顕如が、石山より退いたため、事実上は織田家の完全勝利と言えるだろう。
そして、これを待っていたかのように織田家中に激震が走った。織田家の筆頭宿老とも言うべき、林通勝と佐久間信盛親子、そして美濃三人衆の一人であり重臣の安藤守就が信長の命により、相次いで追放されたのである。
特に佐久間信盛は、逃げ佐久間と渾名され、事実上の織田家の筆頭軍団長とでも言うべき立場にあり、織田家内で、最大規模の兵力を保持した実力者でもあった。
これらの重臣たちを、信長はただの紙切れ一枚であっさりと追放してしまった。そこに掛かれていた内容は、十九条にも及ぶ。
「惟任日向守の働き目覚ましく、天下に面目を施し候、羽柴筑前守も播磨数ヶ国切り取り比類なし」
ここで注目すべきは、光秀が家臣の中で、一番に賞せられている所である。秀吉はすでに播磨平定を終えており、その功績は数か国に及んでいたが、それでも光秀に次いでの評価に留まる。また、佐久間、林と同等の地位にあった柴田勝家でさえ、三番目の扱いとなっている。
何が言いたいかと言うと、信長は、この時期に、近畿地方を平定したことにより、後顧の憂いが無くなったのを待って、家中で大改革を施したのだ。これにより、信長の先代より仕えて居る重臣の中で、今後の信長の方針には邪魔になるだろうと思われる老臣たちを、容赦なく切り捨てたと言えるだろう。
林佐渡守などは、二十数年前に、信長の弟信行を擁立して謀反を企てた罪により追放となっている。これらが単なる言いがかりで、目的が実力主義による家中改革であったのは、最早自明の理であるはずだ。
しかし、折檻状の最期の一文にある(天下を支配している信長に口答えするもの…)とあるのは、信長のその執拗な性格を強く現していると言える。
佐久間にしろ、林にしろ、安藤にしろ、信長に一度でも逆らえば、それを覚えていて、もう役に立たないと思えば容赦なく切り捨てる。これが信長なのである。
この処置により、織田家の家臣団の筆頭には、光秀が上がる事となった。光秀は信長により、誉められた丹波国を領地として与えられ、細川藤孝も丹後国を与えれれた。そして、この両者によって喜ぶべき事として、細川家嫡男、与一郎忠興と光秀の三女お玉との婚礼が決まった。
「上様の計らいにより、我らは親戚と相成った。幾久しくも、織田家と天下のために共に尽くそうぞ」
光秀にとって、これは本心であった。
自分を信任して大国を与えて働きによる功績を認めてくれる信長に深く感謝していた。そして、細川藤孝とは足利将軍家に仕えていた時からの盟友であり、信頼できる友だと、心から信じて疑ってはいなかった。しかし、藤孝にとっては、今や明智軍団の一与力大名へと成り下がった自分と、織田家筆頭重臣となった光秀とを比べて、素直になれない気持ちも混在して複雑な心中であったのだ。
(かつては、私の中間として仕えていた男に、頭を下げねばならぬのか)
藤孝にとって口には出さぬまでも、その気持ちは、心の深い部分に少しの闇となって、確実に存在していくのだ。この光秀の出世が、今までの僚友たちとの間にも少しずつだが、不協和音をもたらしていくのである。
天正九年二月二十八日(1581)この日、皇居東門外にて、正親町天皇をお迎えし、天覧馬揃えが執り行われた。これは、十一年に及ぶ石山本願寺との争いが終結した事や、関東の北条氏と、徳川家康を介して新たに友好関係を結べ、信長の一統へ、西国に本格的に乗り出せる用意が整ったからに他ならない。その名誉ある総奉行には、光秀が任命されている。
「お主にすべて任せるゆえ、粗相の無きように執り計るよう」
そう直々に信長から言われて、光秀も身の引き締まる思いであっただろう。
馬揃えの行列は、本能寺から出発して、最後に内裏の東側に造営された馬場へと向かう。その先頭には、丹羽長秀率いる摂津衆を筆頭に、光秀は総奉行として大和・山城衆を率いる。
その後を信長自身と、織田家一門が行軍し、前関白近衛前久を筆頭とした公家衆が続いた。信長自身は、豪奢な衣装に身を包んで頭巾を被り、化粧を施し、能の演者の如く出立ちであったと言う。この馬揃えは、京の都人にも歓声を持って迎えられ、その豪勢な行列は、語り草となる程の大成功を収めた。
しかし、この行事事体は、信長にとっては別の意味も持っていたのだ。後日の事である。一室に信長を始め、織田家の重臣達が一同に会した酒席があった。光秀を筆頭に柴田勝家、羽柴秀吉、滝川一益、丹羽長秀など織田家の方面軍司令官とも目される重臣を筆頭とした面々が居並ぶ。
「馬揃えも上首尾にて、これも一重に上様の御威光の賜物」
「明智殿も総奉行の大任を果たし、これで織田家の顔と言え申そう」
酒が回ってきて、皆口ぐちに信長を称え、功績著しい光秀に媚びるような発言が目立っていた。
「上様、それにしても朝廷より左大臣の内示を御断りするのは、ちと勿体のうございましたな」
いつものように飄々とした体で、秀吉が信長の前にどっかりと座った。大胆にも盃を信長の前に突きだし、酒を所望している。
如何にも酔っている風を装っているが、このような時の秀吉は、酔っているフリをして何か考えがある事を光秀は知っていた。
「筑前、酒が欲しいなら注いでやろう」
そう言うと信長は、手つかずで酒を盃に注いでやる。秀吉は、その並々と注がれた酒を、深々と一礼すると一気に飲み干した。あれ程騒がしかった宴会の席も、いつしか、その様子を伺うように声が一つ一つと減ってきていた。
「余は左大臣への任官を断ったわけではないぞ。誠仁親王への譲位後に受けると言ったのだ。主上が誠の天子と上られた折に務めるは、臣として当たり前の事だと、そう申し上げたのだ」
この時、信長は右大臣の位にあって、しかも、それを返上していた。よって、正式には、前の右大臣平朝臣信長であり、無位無官であった。朝廷からすれば、その無位無官である事が問題であった。
信長は権力者である。その勢いは、天井を知らない。その力を持った男が、朝廷の位を受けずに一民間人でいる。しかも、織田家の家督も嫡男の信忠に譲ってしまっており、表向きはただの隠居であった。
朝廷の過去の歴史からして、時の権力者に位を授けて朝廷の守護者とする事で朝廷自身を護ってもらい、存続してきた過去があった。平清盛始め、源頼朝、足利義満など代々そうである。
がしかし、信長は、その流れに右大臣に任官した後、すぐに外れた。これを朝廷は不穏に思っている。信長の考えが分からないから、余計にであった。織田家では、誠仁親王の立太子後に、主上と呼んで実質天皇と同義と考えていた節があり、余計に朝廷を困惑させていた。
誠仁親王と信長は昵懇の仲であり、親王の息子である邦慶親王は、信長の猶子となっている。信長の考えとして、誠仁親王に譲位後、更に時を経て、邦慶親王へと譲位を迫り、その猶子親として朝廷を操るつもりではないのかと、そう疑念が朝廷内に広まり始めていたのだ。
信長は、朝廷を守護して以来、一度として、それを害したりする事が無く、どちらかと言えば積極的な傍観とも言うべき微妙な立場を貫いていた。その態度が、朝廷に不安と困惑と疑惑をもたらせてしまった事は、残念と言うしかない。
「天下とは、どういうものじゃ?」
宴会はさらに進んでいた。酒に酔ったのか、普段余り己の内を語らない信長がなぜかこの夜は、上機嫌で話しに華を咲かせていた。
「天下は力ある者が奪うものじゃろ」
「いやもっとも知恵のあるものじゃ」
「そうではない。もっとも戦に長けたものが勝つのだ」
信長の問いに、酒で上気した男たちが、我も我もと進んで持論を話していた。
「では、力や知恵とはなんじゃ。天下を取るにもっとも何が必要か…」
さらに信長は問う。しかし、皆はその問いにすぐには、答えられないでいた。
「誰ぞこの刀を折ってみよ」
信長は、場内が静まるのを見て、おもむろに大刀を放り投げた。信長の意図を計りかねた皆であったが、力自慢が我も我もと、素手でその大刀を折ろうと試みた。しかし、その大刀はビクともしない。
「よう見ていよ。これが一番肝要な事じゃ」
信長はそう言うとスクっと立ち上がり、場の中央へ躍り出た。そして、持っていたもう一つの大刀で、床にあった誰も折れなかった大刀へ、持つ刀を一閃した。
「パキンッ」
その瞬間、床にあった大刀の刀身が真っ二つに折れた。見るに信長の持っている大刀にも刃こぼれがしている。
「見よ、これが天下じゃ!刀を折ると一度決めたなら、手段は問わずに、すぐに折るのじゃ。その断固たる意志こそが、天下を決める道なのじゃ」
この信長の演説に、その場にいた誰しもが畏敬と憧憬の念を持った事だろう。この時の信長の姿は、それほどに強烈で美しかった。
「されば、我も上様の目指す天下に、一仕事仕らん」
静まる場内で最初にそう切り出したのは、光秀であった。
光秀は先程信長が追った刀の刃先を拾い上げると、懐から懐紙を取り出した。そして、自らの右親指に刃先を押しつけると、にぶい痛みと共に、滲み出る自らの血潮によって、懐紙に何か書き始めた。
そこには、
(天下布武 日向守 光秀 )
と血文字で記されており、名前の後には、しっかりと拇印が押されていた。それを見た秀吉や勝家、長秀などの重臣たちも、我先に光秀と同じように血判に署名をしていった。
それは、信長にとって見れば、一地方大名でしかなかった織田家が、京幾内を押さえて、天下布武を推し進めて、全国へと伸しあがって行くために必要な、儀式であったのかもしれない。
信長は我に返る。境内では、鬨の声が木霊して聞こえ始めていた。
(あの時の天下取りの決意を、自らの天下として、昇華出来たとでも言うのか…)
信長は、聞こえてくる明智軍の鬨の声を聞きながら、光秀の心中を図っていた。
光秀は、下知を下す。
明智軍は桂川の前に着いていた。いよいよ川を渡れば、本能寺がある京の街までは、目と鼻の先だ。
「わしらは、何をしに京に行くのかのう」
「上様に我らの晴れ姿を見せる為じゃろう」
この時、京に進軍する明智軍には、厳重な統制が敷かれていた。光秀は、明智次右衛門に命じて彼の部隊を先行させ、京に向かう怪しい者がいれば斬れと命じていた。明智軍の武者達は、何も知らされないままにここまで来ていたので、間違いはないであろう。
ここに、本城惣右衛門と言う男が登場する。惣右衛門は、光秀配下の武士として、この戦に参加していた、その時の貴重な資料を後世に残している。
(もしや、家康公を討ちに行くのではないのか…)
惣右衛門は、京に向かう途中でそう思っていたと、自らの手記に残している。
当然、惣右衛門が手記を認めたのは、事がすべて終わってから、何年も後になってからである。そのすべての結果を知った後に書いたのだ。
では、なぜ彼は、わざわざ家康が…と書いたのだろか?この問いが、この物語を語る上で後々に重大な意味を持つのである。
光秀の眼前には、信長のいる本能寺の姿が、夜が明ける前の静寂の暗闇の中で、うっすらと見え始めていた。
信長は、本能寺内の自らの寝所にて目を覚ましていた。昨晩は、嫡男の信忠を始め、名のある公家や僧、商人などが信長を訪ねて、寺内はちょっとした宴会場と化していた。信長も昨晩は上機嫌で、呑めない酒を彼にしては、大量に呑んだと言う。信長は、酒が回るとわざわざ安土城より一緒に持ってきていた名物の茶器を披露しては、その話題に花を咲かせていたのだ。
その昨晩の大宴会が、嘘のような静まり返った清々しい朝であった。信長は、その眼をしっかりと開けながらも、床からは起きずに体を横たえていた。
(昨晩の美酒は格別であった)
そう思っていた。昨日は、痛飲して夜更けまで起きていたのに、今朝は予定よりも早くに目が覚めてしまっていた。
信長が、この後に起きる事をどこかで予感してのものであったのか、ただの偶然であったのかは、誰にも分からない事であった。
(何も懸念に及ぶべからず。予定では、今日にも光秀が全軍を持って、京に攻め上って来る手筈だ)
この時まで、信長の光秀に対する信頼が揺るいだ様子は、伺えしれなかった。
(それにしても、彼の浪人風情がよくもここまでになったものだ)
信長は、再び目を閉じてみる。
(天下だ!天下をこの手に入れる。それがもうすぐ、目の前に来ているのだ)
信長が考える天下とは、一体何であったのだろうか?
その信長の天下を体現したような城である安土城が完成したのは、天正七年(1579)であった。この安土城は、建設当時は、琵琶湖に面して建てられており、京より約五十キロの位置にあった。北には秀吉の城である長浜城があり、対岸には光秀の坂本城がある。城はその二城のちょうど中央に位置し、安土山全体を城と見立てた壮大な縄張りに、山頂に建てられた地下一階地上六層の七階を誇る。
それまでの日本には無い高層天主があり、信長はそこで寝起きしていたと言う。天守ではなく、天主と呼ばせていた所に信長の自負を感じる。
「かつて見た事が無い、壮大な宮殿のようだ」
とルイス・フロイスは本国に書き送っている。
同年の十月二十四日に光秀は、安土城に伺候している。任されていた丹波・丹後の平定が完了した報告の為であった。
「ご苦労であった」
応対した信長は、至極ご機嫌であった。
光秀が信長より丹波平定を命じられたのは、天正三年であるから、平定までに四年もの歳月がかかっている。
しかし、信長はこの光秀の功績を高く評価していた。
「これにより、西国への道程が見えたわ」
安土城の天主閣で、信長と光秀は琵琶湖を眺めている。
「光秀よ、身体は大事ないか?そなたも夜風が身に染みる年に近づいたであろう。体は厭えよ」
「ありがたき幸せ」
信長は、光秀の体を心配する労わりを見せた。
そう、信長が思わず優しい言葉を口にする程に、丹波平定は激戦であった。
丹波地方は、そのほとんどが山地であり、土地柄で隆起した斜面が多く、大軍を進めるに適さない。この地形が、独特の風土を形成するのに一役買っているのは間違いない事実であろう。とにかく在地の豪族が多く、それが一つ一つ独立しており、時には諍い、時には連合する。そのより集めの集合体のような物が丹波の国人衆であった。
言葉だけを見れば、烏合の衆のように感じられるが、平時は国内で諍いあっていても、一度外敵が来れば、一致団結してそれを排除する。長年の間にこの地を平定出来た者がついに出現しなかった、それが理由であった。
織田軍は、丹波の国人衆と最初から敵対していたわけではない。最初はその関係は良好であった。しかし、この丹波の民は、昔から足利将軍家と固い結びつきの深い土地であった為に、信長が都から将軍義昭を追放すると、両者の関係も次第に悪化の一途を辿ったのである。そして、丹波を代表する勇将である、黒井城主の赤井直正が織田家に反旗を翻したのであった。
ここに至って信長も丹波平定を決断し、光秀に軍勢を招集させ、その攻め手の大将として派遣したのである。当初、戦の優勢は明智軍であった。光秀は離反した赤井軍ら以外の丹波の豪族たちを懐柔し、黒井城に迫ったのである。この城さえ落とせば、丹波平定は成ったも同然であった。
しかし、戦の帰趨は思わぬ事体を迎えたのである。城を包囲して二か月が経ったころに突如として、有力国人である八上城の城主である波多野秀治が離反し、赤井軍らに合流してしまったのである。これを受けて、戦の形勢は一気に逆転する。今まで光秀に従っていた他の国人衆もすべて離反してしまったのであった。光秀は丹波より退却を余儀なくされた。
「おのれーーっ丹波の国人衆め!このままで済ますまいぞ」
光秀は歯ぎしりして悔しがり、軍勢の態勢を整えると、すぐに丹波攻略に取りかかるが、今度もすべての国人衆の反撃に合い、あえなくすぐに退却している。どうやら、波多野氏の離反も、それに次ぐ国人衆たちの行動も、すべては示し合わせた上での策略であったようだ。
光秀は、丹波という特殊な国の平定の難しさを、身を以て知ったのであった。
その後、光秀としてはすぐにも攻めたかったであろうが、信長に他の戦地への加勢を頼まれるなど、丹波攻略に専念出来ぬままに時が流れた。
そして、天正四年五月(1576)光秀は、一年に渡り休む間もなく、各地に転戦した疲れが出たのか、遂に病に臥せり、およそ二か月間も寝たきりになっていたらしい。一時は死亡説が流れるなどの事態にまで発展し、これには、信長自身も光秀を見舞っている。
「申し訳ござりませぬ。かかる大事にこのような仕儀に」
「今は何も申すな。静養し、一日も早く戦に復帰せよ。天下布武の道のりはまだ道半ばぞ」
信長はそっと光秀の手を取り、微笑んで見せた。それは、或いは光秀が始めてみる柔和な信長の笑みであったかもしれない。
一度は、死を覚悟するほどの重病となってしまった光秀であったが、妻熙子による献身的な介護のお蔭か、病気もほどなくして完治していた。しかし、今度は、光秀の看病疲れのせいだったのか、妻熙子が病にかかり、あっという間に世を去ってしまったのだった。
しかし、光秀は悲嘆に暮れる暇も無く、再び戦場へと戻らなければならない。
光秀が丹波攻略を再開したのは、天正五年十月(1577)の事であった。信貴山城に立て籠もって、再度の反逆を試みた松永久秀を攻めて、爆死させた後の事である。
「これで、亡き上様(足利義輝)も浮かばれよう」
愛妻を無くした事が影響しているのか、幾度の戦場での死線を超えてきた経験によるものなのか、この時期から、明智光秀という武将の性質は、少し変わって行くような気がしている。
それまでにあった、理想を追い求める中で見せた、時よりの青臭さが消えて、武将としての狡猾さや、結果を求めるための果断さが、見て取れるようなのだ。
「倫子の様子はどうだ?」
「息災にございまする」
馬上にて、光秀と秀満が並びあう。長年、二人が見せるこの雄姿こそが、明智家の中核であり、一家の武者たちを奮い立たせる。
光秀の娘の内、長女である倫子は、有岡城の城主である荒木村重の嫡男に嫁いでいた。村重は、足利将軍家の有力武将の一人であったが、将軍義昭追放に際に信長に降っている。信長は、村重を近畿地方の司令官に任命し、重用していたのだが、村重は突如、信長に謀反する。理由は色々言われているが、とにかくも織田と敵対していた毛利・本願寺側に付いたのだ。
そして、信長にとって、この村重の離反は、地理上の上でも重大事案であった。中国地方を攻略している秀吉の軍と、京の都の中間地点に有岡城があったからだ。早期にこれを打開しなければ、織田軍の戦線は、崩壊する危険を孕んでいた。光秀は、村重を遺留すべく有岡城に出向いた。
「大殿も何かの間違いであろう。とくと村重の要望を聞いて参れと私を派遣したのだ」
光秀は殊更に明るく振舞っていた。しかし、久しぶりに見た村重の顔は色白く、頬は扱けて生気を失って見えた。
「お主にも織田信長の正体は分かっている筈だ。一度嫌疑がかかれば、それを許す事は無い。その気性の危うさゆえ、私は離反したのだ」
村重の答えは静かだが、迷いに無い言葉だった。一時は翻意しかけ、二点、三点していた村重の態度も、ここに至って固まったと見えた。
「娘は返してもらう」
光秀はそれを言うのが、精いっぱいであった。後日、村重は有岡城を身一つで逃げ落ちた。残された一族郎党は、悉く処刑された。
これに先立って、秀吉の軍師で、名高い竹中半兵衛が病死している。その死に際に彼がした事として、有名な逸話がある。秀吉の幕僚にして名高い黒田勘兵衛が、村重を説得すべく、単身有岡城に乗り込んだ。
しかし、敢え無く説得に失敗し、官兵衛は一年もの間、狭い牢に閉じ込められた。この時に信長は官兵衛が裏切ったと思い込み、嫡男である後の黒田長政を処刑するように命じた。
しかし、自らの死期を悟っていた竹中半兵衛は、信長の命令を無視し、自分の独断で長政を匿ったという。智者が死に際して、世の中に何を残して逝ったのか、興味深い話である。戻された光秀の娘は、たっての希望で秀満に再嫁した。そして、秀満は名を改め、明智弥平次秀満となり、これで名実共に明智家の重鎮となったのであった。
戦は続いて行く。光秀は、丹波攻略戦を再開するに、前回とは別の方法を取っていた。まず、丹波亀山城を攻め落とし、丹波に根拠地とも言える場所を、確保する事に成功している。
そして、準備を周到に行い、徐々に徐々に豪族たちを切り崩して、その弱体化を図っていった。そして、明けて天正六年(1578)に、黒井城主の赤井直正が病死すると、これを機に、一気に決着を着けるべく、波多野秀治が立て籠もる八上城を取り囲んだ。
がしかし、八上城は、山城で天然の要害とも言える強固な要塞であったので、これが容易に落ちなかった。何とこの城攻めは、一年の長きに渡って続けられる事となるのであった。
光秀は、城と街道とを完全に遮断すると、敵の補給路を断って無理に力攻めせず、敵の疲弊を待って、城を内部より崩壊させる作戦を取った。
しかし、この当時の織田軍は、光秀を一つの戦場に固定出来る程の強大さは、まだ持ち合わせておらず、光秀は、時には信長と行動を共にし、また荒木村重や松永久秀の謀反鎮圧に助力し、秀吉の播磨侵攻作戦を助け、本願寺との戦線にも加わる事となった。
正にこの時期の光秀は、東西に奔走し続けており、その光秀不在時においても、八上城の包囲網は残された秀満たちが、警戒を怠る事は無かった。
この時期の連続した戦に次ぐ戦が、熙子を失った光秀の心の支えであり、また明智軍団を成長させる要因となった事は、想像に難くない。
また、驚異的なのは、およそ敵地において、長きに渡って戦線を維持出来る能力の高さである。戦をするには金がかかる。兵は飯を食えば、給金も必要となってくる。諸々にたくさんの人夫が必要であっただろうし、多数の馬の世話にも金はかかるのである。
では、いかにして光秀はそれを賄っていたのだろうか?略奪であろか?自領からの輸送であろうか?光秀は、敵地の戦線を掛けずり周る内に一つの経済の捉え方と言うべき答えにたどり着いていたのだ。光秀は、自領でも敵地でも関係なく、自らが影響を及ぼせる地域に渡り、その領民たちを直接支配下に置いて、全く新しい経済圏を作ろうとしていたのであった。
この時代、座や荘園、寺領に代表されるような、中間支配者層がどの国のどの地域にも長きに渡って広がっていた。領民や農民の上には、地主や名主がおり、その上には寄合いや組、座があって、その上に地頭や地侍が居て、その上で初めて領主や、大名となるのである。
光秀はこれを取っ払ってしまった。敵地であればあるほど、積極的に行った。新しき世が訪れる事を、内外に知らしめる為でもあった。この発想は、恐らく楽市・楽座を国全体で見た規模を、大きくしたやり方であったろう。中間で搾取する者がいなくなれば、当然、領主の取り分も、一番下の領民の取り分も増す事になる。今で言う問屋を無くす流通構造と似た感じであろうか。
こうして、光秀の率いる明智軍団は、連続的な戦線の維持が可能となったのである。
翌年の天正七年六月一日に、長期の籠城で疲弊しきった八上城が落城する。最後には内通者の手によって、波多野秀治ら一族の者が捕らえられての落城であった。光秀の粘り勝ちである。波多野秀治らは、信長の居る安土城に送られて斬首となった。ここに四年を過ぎて、苦しかった丹波平定が完了した。
「ようやく、これで熙子の墓前に立つ事が出来るな」
光秀は振り向いて言った。秀満は笑顔でそれに応えた。
ここは、明朝前の本能寺である。
信長は、起きだして顔を洗っている。大名ともなれば、普通は起床時間が決まっており、小姓が起こしに来るまでは、寝所でじっとしているものなのだが、信長にはその習慣がない。無駄だと思っている。
好きな時に起き、好きな時に寝る。信長にとって重要な事は、必要なのか、そうではないのかという価値観でしかない。顔を洗い終わって、拭いていると、辺りから妙な気配や物音が聞こえてくる。空耳かとも思ったがやはりする。
(何やら騒がしいような。喧嘩か何かか?)
信長は、当初そう考えていたようだ。
この時、本能寺にお供していたのは、僅かに三十余名であったとも二百名であったとも言われているが、少数であったことは確かのようだ。本能寺の変を語るときに、信長の油断として、供回りの数の少なさを挙げる声があるが、この時、京周辺はすでに信長の領土であり、本能寺は信長の定宿として、何度も京を行き来している。
信長の油断というよりも、それを行った者たちに、より多くの要因を求めるべきであろう。
「誰ぞある!」
信長は、機を見るに敏な性格である。すぐに小姓を呼んだ。
一人の小姓が現れると、様子を見に行かせた。信長は、胸騒ぎと共に全身に高揚感が湧いてくるのを感じて、少し戸惑っていた。まるで、戦が起きる前の状態に、身体が疼いてきていた。信長は、鳥肌が立っている自分の腕を見て、戦が起こっているのを確信的に直感していた。
すると、信長の元に森蘭丸が走り込んできた。
「蘭丸、謀反か?如何なる者の企てぞ」
「水色桔梗の旗が見えましてございまする。明智が者と見え申し候」
蘭丸は息を切らせていた。その信長を見る目には、縋る様な表情が見て取れた。
信長は、寝姿のままで部屋を飛び出していった。この時の信長の心情を思うと、計り知れない。もう少しの所で天下統一が見えてきた所での光秀による謀反である。しかも信長は、光秀を信頼していた事は、紛れもない事実であっただろう。
(光秀め。もしやあの時の事を実行に移したとでも言うのか)
信長は、一つの事を思い出していた。
天正八年閏三月五日(1580)長きに渡った石山本願寺と、織田家との争いが終結し講和が成った。これにより本願寺門跡である本願寺顕如が、石山より退いたため、事実上は織田家の完全勝利と言えるだろう。
そして、これを待っていたかのように織田家中に激震が走った。織田家の筆頭宿老とも言うべき、林通勝と佐久間信盛親子、そして美濃三人衆の一人であり重臣の安藤守就が信長の命により、相次いで追放されたのである。
特に佐久間信盛は、逃げ佐久間と渾名され、事実上の織田家の筆頭軍団長とでも言うべき立場にあり、織田家内で、最大規模の兵力を保持した実力者でもあった。
これらの重臣たちを、信長はただの紙切れ一枚であっさりと追放してしまった。そこに掛かれていた内容は、十九条にも及ぶ。
「惟任日向守の働き目覚ましく、天下に面目を施し候、羽柴筑前守も播磨数ヶ国切り取り比類なし」
ここで注目すべきは、光秀が家臣の中で、一番に賞せられている所である。秀吉はすでに播磨平定を終えており、その功績は数か国に及んでいたが、それでも光秀に次いでの評価に留まる。また、佐久間、林と同等の地位にあった柴田勝家でさえ、三番目の扱いとなっている。
何が言いたいかと言うと、信長は、この時期に、近畿地方を平定したことにより、後顧の憂いが無くなったのを待って、家中で大改革を施したのだ。これにより、信長の先代より仕えて居る重臣の中で、今後の信長の方針には邪魔になるだろうと思われる老臣たちを、容赦なく切り捨てたと言えるだろう。
林佐渡守などは、二十数年前に、信長の弟信行を擁立して謀反を企てた罪により追放となっている。これらが単なる言いがかりで、目的が実力主義による家中改革であったのは、最早自明の理であるはずだ。
しかし、折檻状の最期の一文にある(天下を支配している信長に口答えするもの…)とあるのは、信長のその執拗な性格を強く現していると言える。
佐久間にしろ、林にしろ、安藤にしろ、信長に一度でも逆らえば、それを覚えていて、もう役に立たないと思えば容赦なく切り捨てる。これが信長なのである。
この処置により、織田家の家臣団の筆頭には、光秀が上がる事となった。光秀は信長により、誉められた丹波国を領地として与えられ、細川藤孝も丹後国を与えれれた。そして、この両者によって喜ぶべき事として、細川家嫡男、与一郎忠興と光秀の三女お玉との婚礼が決まった。
「上様の計らいにより、我らは親戚と相成った。幾久しくも、織田家と天下のために共に尽くそうぞ」
光秀にとって、これは本心であった。
自分を信任して大国を与えて働きによる功績を認めてくれる信長に深く感謝していた。そして、細川藤孝とは足利将軍家に仕えていた時からの盟友であり、信頼できる友だと、心から信じて疑ってはいなかった。しかし、藤孝にとっては、今や明智軍団の一与力大名へと成り下がった自分と、織田家筆頭重臣となった光秀とを比べて、素直になれない気持ちも混在して複雑な心中であったのだ。
(かつては、私の中間として仕えていた男に、頭を下げねばならぬのか)
藤孝にとって口には出さぬまでも、その気持ちは、心の深い部分に少しの闇となって、確実に存在していくのだ。この光秀の出世が、今までの僚友たちとの間にも少しずつだが、不協和音をもたらしていくのである。
天正九年二月二十八日(1581)この日、皇居東門外にて、正親町天皇をお迎えし、天覧馬揃えが執り行われた。これは、十一年に及ぶ石山本願寺との争いが終結した事や、関東の北条氏と、徳川家康を介して新たに友好関係を結べ、信長の一統へ、西国に本格的に乗り出せる用意が整ったからに他ならない。その名誉ある総奉行には、光秀が任命されている。
「お主にすべて任せるゆえ、粗相の無きように執り計るよう」
そう直々に信長から言われて、光秀も身の引き締まる思いであっただろう。
馬揃えの行列は、本能寺から出発して、最後に内裏の東側に造営された馬場へと向かう。その先頭には、丹羽長秀率いる摂津衆を筆頭に、光秀は総奉行として大和・山城衆を率いる。
その後を信長自身と、織田家一門が行軍し、前関白近衛前久を筆頭とした公家衆が続いた。信長自身は、豪奢な衣装に身を包んで頭巾を被り、化粧を施し、能の演者の如く出立ちであったと言う。この馬揃えは、京の都人にも歓声を持って迎えられ、その豪勢な行列は、語り草となる程の大成功を収めた。
しかし、この行事事体は、信長にとっては別の意味も持っていたのだ。後日の事である。一室に信長を始め、織田家の重臣達が一同に会した酒席があった。光秀を筆頭に柴田勝家、羽柴秀吉、滝川一益、丹羽長秀など織田家の方面軍司令官とも目される重臣を筆頭とした面々が居並ぶ。
「馬揃えも上首尾にて、これも一重に上様の御威光の賜物」
「明智殿も総奉行の大任を果たし、これで織田家の顔と言え申そう」
酒が回ってきて、皆口ぐちに信長を称え、功績著しい光秀に媚びるような発言が目立っていた。
「上様、それにしても朝廷より左大臣の内示を御断りするのは、ちと勿体のうございましたな」
いつものように飄々とした体で、秀吉が信長の前にどっかりと座った。大胆にも盃を信長の前に突きだし、酒を所望している。
如何にも酔っている風を装っているが、このような時の秀吉は、酔っているフリをして何か考えがある事を光秀は知っていた。
「筑前、酒が欲しいなら注いでやろう」
そう言うと信長は、手つかずで酒を盃に注いでやる。秀吉は、その並々と注がれた酒を、深々と一礼すると一気に飲み干した。あれ程騒がしかった宴会の席も、いつしか、その様子を伺うように声が一つ一つと減ってきていた。
「余は左大臣への任官を断ったわけではないぞ。誠仁親王への譲位後に受けると言ったのだ。主上が誠の天子と上られた折に務めるは、臣として当たり前の事だと、そう申し上げたのだ」
この時、信長は右大臣の位にあって、しかも、それを返上していた。よって、正式には、前の右大臣平朝臣信長であり、無位無官であった。朝廷からすれば、その無位無官である事が問題であった。
信長は権力者である。その勢いは、天井を知らない。その力を持った男が、朝廷の位を受けずに一民間人でいる。しかも、織田家の家督も嫡男の信忠に譲ってしまっており、表向きはただの隠居であった。
朝廷の過去の歴史からして、時の権力者に位を授けて朝廷の守護者とする事で朝廷自身を護ってもらい、存続してきた過去があった。平清盛始め、源頼朝、足利義満など代々そうである。
がしかし、信長は、その流れに右大臣に任官した後、すぐに外れた。これを朝廷は不穏に思っている。信長の考えが分からないから、余計にであった。織田家では、誠仁親王の立太子後に、主上と呼んで実質天皇と同義と考えていた節があり、余計に朝廷を困惑させていた。
誠仁親王と信長は昵懇の仲であり、親王の息子である邦慶親王は、信長の猶子となっている。信長の考えとして、誠仁親王に譲位後、更に時を経て、邦慶親王へと譲位を迫り、その猶子親として朝廷を操るつもりではないのかと、そう疑念が朝廷内に広まり始めていたのだ。
信長は、朝廷を守護して以来、一度として、それを害したりする事が無く、どちらかと言えば積極的な傍観とも言うべき微妙な立場を貫いていた。その態度が、朝廷に不安と困惑と疑惑をもたらせてしまった事は、残念と言うしかない。
「天下とは、どういうものじゃ?」
宴会はさらに進んでいた。酒に酔ったのか、普段余り己の内を語らない信長がなぜかこの夜は、上機嫌で話しに華を咲かせていた。
「天下は力ある者が奪うものじゃろ」
「いやもっとも知恵のあるものじゃ」
「そうではない。もっとも戦に長けたものが勝つのだ」
信長の問いに、酒で上気した男たちが、我も我もと進んで持論を話していた。
「では、力や知恵とはなんじゃ。天下を取るにもっとも何が必要か…」
さらに信長は問う。しかし、皆はその問いにすぐには、答えられないでいた。
「誰ぞこの刀を折ってみよ」
信長は、場内が静まるのを見て、おもむろに大刀を放り投げた。信長の意図を計りかねた皆であったが、力自慢が我も我もと、素手でその大刀を折ろうと試みた。しかし、その大刀はビクともしない。
「よう見ていよ。これが一番肝要な事じゃ」
信長はそう言うとスクっと立ち上がり、場の中央へ躍り出た。そして、持っていたもう一つの大刀で、床にあった誰も折れなかった大刀へ、持つ刀を一閃した。
「パキンッ」
その瞬間、床にあった大刀の刀身が真っ二つに折れた。見るに信長の持っている大刀にも刃こぼれがしている。
「見よ、これが天下じゃ!刀を折ると一度決めたなら、手段は問わずに、すぐに折るのじゃ。その断固たる意志こそが、天下を決める道なのじゃ」
この信長の演説に、その場にいた誰しもが畏敬と憧憬の念を持った事だろう。この時の信長の姿は、それほどに強烈で美しかった。
「されば、我も上様の目指す天下に、一仕事仕らん」
静まる場内で最初にそう切り出したのは、光秀であった。
光秀は先程信長が追った刀の刃先を拾い上げると、懐から懐紙を取り出した。そして、自らの右親指に刃先を押しつけると、にぶい痛みと共に、滲み出る自らの血潮によって、懐紙に何か書き始めた。
そこには、
(天下布武 日向守 光秀 )
と血文字で記されており、名前の後には、しっかりと拇印が押されていた。それを見た秀吉や勝家、長秀などの重臣たちも、我先に光秀と同じように血判に署名をしていった。
それは、信長にとって見れば、一地方大名でしかなかった織田家が、京幾内を押さえて、天下布武を推し進めて、全国へと伸しあがって行くために必要な、儀式であったのかもしれない。
信長は我に返る。境内では、鬨の声が木霊して聞こえ始めていた。
(あの時の天下取りの決意を、自らの天下として、昇華出来たとでも言うのか…)
信長は、聞こえてくる明智軍の鬨の声を聞きながら、光秀の心中を図っていた。
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