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第六幕 ~一年前~

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 天正十年(1582)六月二日卯の刻(午前六時頃)、明智軍は、信長の居る本能寺を完全に包囲していた。旧暦の六月は、今で言えば七月に辺り、六時過ぎともなれば光秀の旗印である、水色桔梗の鮮やかな色彩が、日の出の光に照らし出されていた筈である。

 その明智軍の先方の大将を務めるのは、家老の斎藤内蔵助利三であった。この人物は、その娘に有名な春日局がおり、利三は光秀から見て甥に当る。最初、西美濃三人衆の一人である稲葉一鉄の娘を妻としていたことから、これに仕えた。

 しかし、この義理の親子関係は上手く行っていなかったようで、

「最早、腹を切るほか道はなし」
 ある時、一鉄との関係に思い悩んでいた利三は、光秀の元を訪ねていた。

「叔父上には、お世話になり申した」
 利三にとって見れば、頑固一徹の語源にもなったと言われる、舅のその頑迷な頑固さを享受する事にほとほと疲れ果て、出奔しようと試みた。

 しかし、一鉄はそれを許さず、大人しく従うか、腹を切るかの二者選択を、利三に迫ってきたのだ。利三は、思い悩んだ。しかし、もう一鉄に再び仕える事など、出来ないとも思っていた。利三は、自分が腹を切り、事を収めた所で残される家族の安否を思い、死後の事を託すべく、光秀の元を訪ねていたのだ。

「そなた程の武士が、それでは犬死にではないか?宜しい。すべてこの光秀の存念に任せよ」

 そう言うと、光秀は稲葉家に対し、一方的に、利三一家を光秀が預かる旨を言い渡し、利三を何と明智家の家老として、一万石の知行を与え、黒井城主に任命してしまったのだ。

 これに激怒したのが件の稲葉一鉄である。一鉄は、光秀に抗議し、利三の返還を要求したが、これが受け入れられないと悟ると、今度は、主である信長に対して、光秀の非を訴えたのだ。光秀は信長に呼び出される事となった。

「利三を一鉄に返せ」
「…」
 信長の前で平伏する光秀は、信長に答えず、しばらく無言を続けていた。

「聞こえなんだか?利三を返せ」
 信長からしてみれば、これほど億劫な事案もないであろう。

 直臣ならいざ知らず、家臣の家臣である陪臣の為に、時間を割かれているのだ。さっさと終わらせたいことが信長の言動からありありと感じられていた。

「死にまするぞ」
 暫くの無言の後、光秀はそうポツリと呟いた。

「利三を引き渡せば、一分を立てるために腹を切りまする」
「切りたいならば、切らせればよかろう」

 信長の返答は冷たい。がしかし、これがこの時代に生きる武士の感覚と言うものだろう。武士は、何時どのようにして最後を迎えるかに、重きを置いていた。戦国時代と江戸時代では、大きく捉え方が異なるが、しかし、どの時代の武士でも自らの出処進退に大きな拘りを持っていたのは確かな事だろう。
 
 すなわち「恥」という概念である。この「恥」の為に武士は生き、そして死んだのである。利三を巡る光秀と、一鉄と信長の間にある考え方の根底には、やはりこの「恥」が隠されている。

「利三を迎えるは、恣意に非ず。織田家の為でござる。利三ほどの武士をむやみに死に追いやらば、天下の為成らず。有能の士を一人でも多く召し抱えるは、これ即ち上様(信長)の為成り」

 光秀は、普段の彼からは想像出来ぬ程の大声を張り上げた。本心からの事であった。信長ならば、分かってくれる筈だとの願いもあったのだ。

「わしがいつ頼んだ!何時だ!!」
 しかし、光秀の願いは虚しく、信長を怒らせてしまった。

 信長は、激怒した表情で、ズカズカと上段から光秀の前まで進み出てきて光秀を威圧した。しかし、光秀は一歩もその場を動かないでいた。ここが正念場だと感じての事だった。

 信長は、光秀の前にまで来ると、その平伏したまま動かない光秀の後頭部を凄まじい形相で睨みつけていた。その間、ほんの一、二秒の事である。しかし、当の二人にはとても長い時間に感じらていただろう。

「勝手にせよ。余は知らぬわ」
 信長は急に吐き捨てるかのように言うと、その場を大股歩きで去っていった。信長と光秀にとって、この事が、二人の間に起こった始めての衝突であり、心のすれ違いの始まりでもあった。

 光秀にとれば、どう言おうが、信長は自分の意見を認めてくれたと感じていたのだが、信長にとって見れば、光秀の我儘に振り回されたとしか感じておらず、この、ただ少しの、心の微妙な変化が、後々まで大きくシコリとなって存在して行くことになろうとは、この時の二人は、知る由もなかった。

 そして、光秀は、信長との今までの良好な関係を盲信してしまい、大切な事を忘れてしまっていたのである。

 信長は、自分に逆らう者を決して許せない男であると言う事を…。

    

(これで、これで土佐も救われる…)
 本能寺に火の手が上がるのを見た利三は、そう心の中で何度も呟いていた。

 天下人である主君の信長を攻める大逆の罪を背負う事に、最も積極的であった光秀の重臣は、利三であったと言われている。それには理由がある。利三の妹が、土佐の大名である長宗我部元親に嫁いでいた事が関係している。

 元々、織田家と長宗我部家とは、同盟を組んでいた。まだ、信長が中央で勃興する以前からである。信長が中央で権力を握ると、そのお墨付きを得た元親は、四国制圧に乗り出し、その完遂まで一歩手前まで来ていた。その織田家と長宗我部家との取次を行っていたのが光秀であった。

 光秀は、利三と長宗我部との縁戚から、結びつきを強くし、同盟者として織田政権内でその立場が保たれるように助力していた。

 しかし、事体は急変する。信長は急遽、四国における外交を方向転換し、阿波の三好康長を支援し始め、康長は、信長の三男である信孝を養子とし、自分の後継者にする事と引き換えに信長の支援を受けていた。

 その取次をしたのは、羽柴秀吉と言われている。信長からすれば、労さずして一国が手に入るのだからこれ以上にない案であっただろう。

 この案を秀吉が自分の元に持ってきた時には、長宗我部に四国を渡すのが惜しくなってしまっていた。光秀や利三、元親からすれば、たまったものではない。

 元親からすれば、一家の死活問題であるし、光秀や利三からすれば、武士の一分が立たぬ出来事であった。当然、信長に翻意するように何度も懇願した。

「くどい!」
「しかし、上様!一度の約定を反古にするのは、面目が経ち申さぬ」
 光秀も必死に食い下がったであろう。

「そなたは、利三の時に余に何と申した?織田家の為と言うたではないか?」
(筑前の策と、そなたの一分と、どちらが余のためぞ…)

 信長にはその思いがあった。信長も光秀も、互いにどうして分かってくれないのかと思い、また同時にきっと理解してくれる筈との考えが去来していた。 

 信長は、三男の信孝を総大将とした四国征伐軍を編成する事を決定した。その軍が海を渡る予定日は、天正十年六月三日であった。運命の日は、そこに向けて廻り始めていた。



 少し脱線するが、ここに信長と光秀との関係を語る上で、興味深い資料をお見せしたいと思う。

 ここに十八条に及ぶ光秀が記したと伝わる明智家中軍法と言う物が存在する。織田家中では信長を始め、光秀以外の誰もが、軍法などを定めたという記録は残っおらず、その内容はまるで今後の織田家の指針とも言うべき見事な法となっている。一部紹介する。

 特記すべきは、その緻密さであるが、大きく分けて、前半が軍法や規律を重視した内容に成っているのに対して、後半は軍役の仕方とその具体的な方法にまで及んでいる。画期的なのが、その知行地に応じた軍役の差配である。

 つまりは、領地に応じて、出す兵士の数を決めている所だ。一見すると、当たり前のようであるが、この時代は、一度戦が起こると、大名が配下の武将に兵を出すように命じると、出す人数は武将の勝手であった。それがこの時代の常識であった。しかし、光秀はその常識を打ち破るべく、この軍法を定めている、これによって、
 
 明智家では、いつでも一定数での人数で戦に臨める事になる。これは、光秀が自領の石高を正確に把握していた証拠だと言える。これも当たり前に思うかもしれないが、この時代に例がない。検地を行い知行高が正確に把握出来るようになるには、もっと後世になってからの話しである。

 そして、光秀は、兵士の食糧の基準を設けている。これが京都法度之器物である。京都で作られた升で統一するという法である。例えば一斗とするだけでは、器や計る方法が違えば差が出来る。それを統一したのだ。この辺りは、後に秀吉が模倣している事である。

 また、光秀はこの軍法に最後にこう記している。

(思えば、落ちぶれた境遇だった自分が、信長様から莫大な軍勢を預けられている以上、軍律を正さなければ国家の殻つぶしであり、公務を掠め取るに等しく、皆に嘲られて苦労を重ねるであろう。粉骨砕身し忠節を励めば、主君の耳に届くであろう。すなわち家中の軍法は、かくのごとくである)

 この文面からは、光秀が信長に感謝し、信長に対して忠義を尽くし、働いてきた自負が読み取れる筈だ。

 そして、光秀は「国家」という語を使っている。この時代、地方で争い国家感のまだ薄い時代に、光秀の見た国家像とは一体何だったのであろうか。

 この軍法が記されたのは、天正九年(1581)六月二日、本能寺の変が起きる、丁度一年前の事である。
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