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第四幕 ~光秀の夢、信長の野心~
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「全軍進め!」
明智軍は行軍を再開していた。暗闇を突き進み目指すは、京の都、信長の居る本能寺である。その大軍の歩を無数の松明が彩る姿は勇壮でもあり、どこかしら、幻想的にも感じられた。
(このような多くの火を眺めていると、あの時の事を思い出すわ)
馬上の人となった光秀の胸に去来するのは、忘れたくても忘れられぬ、ある事件の出来事であった。
ある日光秀は、居城である坂本城の天守閣より、水面が輝く雄大な琵琶湖を眺めていた。
「殿、何をしておられまする?」
光秀の側に妻の熙子がそっと寄り添う。この夫婦は、光秀の浪人時代より互いに支え合い、何でも話す間柄であって、終生仲睦まじい夫婦であったと言われている。
「この坂本城の天守より眺める景色の、素晴らしき事よと思うてな」
光秀はそう言うと、微笑して顔を妻に向けた。その顔を見た熙子は、言葉とは裏腹に光秀の心に生じた、少しの曇りを感じ取っていた。
「我が君は、あの事が頭から離れぬご様子」
妻の言葉に光秀は何も発せず、再び黙って琵琶湖を眺めていた。
元亀二年九月十二日(1571)今で言う滋賀県大津市付近である。その日、光秀はその場所に居た。
「やはり、勧告には応じませぬか」
光秀の横で秀満が呟いた。二人の視線の先には山が見える。比叡山である。
そして、そこにある寺が問題であった。延暦寺である。
平安時代に最澄が開いた天台宗の総本山が、織田に敵対する浅井・朝倉を支援している事は、すでに周知の事実となっていた。
信長と延暦寺との争いは根が深い。最初の発端は、信長が延暦寺の寺領を横領した事にある。延暦寺側は、朝廷を仲介に立てて返還を迫ったが、信長はこれを拒絶している。
延暦寺側は、当然の事ながら織田に不信感を持った。そして、信長と敵対する浅井・朝倉の兵を寺内に迎え入れるという、行動に出たのであった。
延暦寺は、比叡山全体が一つの砦のように堅固に出来ており、そこに何万という大軍を駐屯させる事が出来た。そして、比叡山の山僧らも、武器を携えて軍閥化の一途を辿っていたのだ。
また、比叡山があった地理的状況も、信長にとっては感化出来ぬ事であった。この琵琶湖の側にある比叡山は、京の護りとして建てられており、要所にあった。ここに軍勢が駐屯していては、甚だ都合が悪かったのである。
信長は比叡山に対して、
「こちらに味方せぬのなら、せめて中立を守って欲しい」
と懇願し、先に横領した寺領も返還する事を一度は約束している。しかし、延暦寺側ではこれを拒絶し、信長も寺領返還の約束を反古としている。
そして、信長包囲網と言われる壮大な謀略によって、織田と延暦寺との諍いは、もう引き帰せない所まで来てしまっていた。
包囲網に加わったのは、浅井・朝倉を初め、石山本願寺、六角承禎親子、三好勢、そして、甲斐の武田信玄らであった。これらの包囲網を主導していたのは、将軍足利義昭である。義昭は信長に擁立されて京に上り、将軍になれた。言わば恩人である。
しかし、時が経つにつれて、政治を左右する信長を疎ましく思い、これを排除しようと試みた。その稀代の謀略家としての才能が、開花してしまったのである。
「やはり公方様の企みか…」
金ヶ崎の退き陣で決死の殿を務めて京に戻った光秀は、その事を細川藤孝に確認している。
「恐らく、浅井を唆したのも…」
これが、あの殿(しんがり)を買って出た時に、信長が光秀に生きて戻るように言った理由であった。事ここに至っては、もはや猶予は成らなかった。信長は、比叡山周辺に軍勢を集めて包囲するように命じた。
そして、長い時間をかけて、延暦寺側を平和的に武装解除するように迫っていたが、延暦寺側ではこれも拒絶。信長は仕方なく、最後の命令を下す。
「山門を撃ち払うべし」
この命令に佐久間を初めとした織田の老臣たちは、反対したと言われている。しかし、信長の意志は強固であった。
「この後に及んで攻めぬとあっては、武門の恥辱也。誰ぞ攻め手を務める者は居らぬか」
信長の剣幕にすぐに名乗りを上げるものは居なかった。皆、下を向いて信長の勘気を被らぬように努めている様子であった。無理もない。この時代では、まだまだ神や仏を信仰する心は、現代人と比べても甚だ強かったはずである。比叡山を攻めるなどと、どれほどの神罰が降るだろうか。
「私に是非!」
その時、一人の武将が信長の前に進み出た。光秀であった。
「どう攻めるか?」
「山全体を囲み、火計にて一気に攻め申す。山より逃れて来る僧兵共も、一網打尽に出来ましょう」
「それでよいが一つ足りぬ。山より下りてくる者どもは、女子供に至るまで、一人残らず斬れ!」
信長の命令は絶対であった。
「明智殿らしく御座らぬ。此度の戦、何故に先陣を望まれた?」
信長の元を辞した諸将らのうち、そう光秀に直接聞いてきたのは秀吉ただ一人であった。
「私は責任を取りたいと思っておったのだ。それに自分がやれば、敵・味方ともに被害を最小限に抑えられる思案もあってな」
光秀はそれ以上を語らずに、自陣へと引き上げていった。
「のう半兵衛よ。光秀殿は何を考えているのだろうのう?」
「明智様は、幕府と織田と両方に仕える特異なお方でござりまする。しかし、公方様の一連の蠢動により、そのお立場は危うい。そして、此度の延暦寺との戦でございまする。胸に期する所があるのでしょう」
秀吉に問われた腹心の竹中半兵衛は、存念を主に申し上げた。そして、それは的確に光秀の心情を捉えていたのであった。
元亀二年(1571)九月十二日、比叡山焼き討ちが行われた。信長公記によれば、数千人が惨殺されたと記されており、当時の記録で、最も少なく記している人数でも、ルイス・フロイスの記録で、千五百名の人が殺されたと記している。
この中には、多くの僧侶に加えて、それらが囲っていた女や、野武士の類までもが大勢いたと書かれている。
この者達が、仏敵の名の元に信長に敵意を剥き出しにしている。信長は、それを一人も許す事なく、一人残らず殺すように厳命していた。
「そもそも、女人禁制の寺で女を囲い、酒肉を喰らう輩が民を扇動して、我に逆らうとは、僧に有るまじき振る舞いなり」
信長の怒りが頂点に達した時の恐ろしさを、世の中が知った出来事であった。
そして、光秀は比叡山焼き討ちの恩賞として、坂本城の築城を許されている。そして、城持ち大名となるのは、織田家臣で最初の事であった。
「名誉にございましょう」
熙子や秀満もそう光秀を誉めたが、光秀の心情は複雑であった。
光秀が坂本を統治し始めた時に、領民たちは、この新しい領主を歓迎しなかった。
いや、恐れていたのだ。神仏に唾するどころか、刃を向けて焼き討ちにした武将である。係れば、自分たちにもどのような仏罰が降るかと領民たちは恐れたのだ。
「殿はそれでも民の下に入り、施政を行われたではございませぬか」
光秀は、坂本の領民と積極的に距離を縮めようと、時に琵琶湖で漁を共にし、米の収穫を共に祝った。信長も若い頃には、領主の身でありながら、米の収穫時に自ら酒を振る舞い、民と共に謳い踊った事があったという。光秀もそれに倣ったのかもしれない。
そんな光秀を領民たちも少しずつ認め、慣れていった。光秀の人となりが領民たちの心を溶かしたのだった。
「人は、なぜ生まれて、一体何の為に死んでゆくのでしょうか?」
坂本城の天守閣で、熙子は、琵琶湖を眺める夫の側で寄り添っている。熙子は、極楽浄土を謡い、民を扇動して戦を起し、守るべき民を死地に向かわせる、この時代の仏門の在り方に疑問を感じていたのだった。
「わしにはわからぬ。分からぬが、信長様のお側で仕え、戦の無い世を作る事が出来れば、きっと自分が生まれてきた理由が、分かる気がするのだ」
光秀は、こういう言葉を残している。
(仏の嘘は方便、武士の嘘は武略、民の嘘は可愛ゆきことかな)
光秀の建てた坂本城は壮麗にして、後年に信長が建てた安土城に次いで、壮大な城であったとルイス・フロイスは記している。そして、その治世は行き届き、領民も光秀を許し、その治世を崇めていた。光秀が信長に仕えてから、わずかに四年後の出来事であった。
元亀四年七月十八日(1573)信長は、以前より不仲となって敵対関係に陥っていた将軍義昭をとうとう京より追放した。これにより、室町幕府は実質上その存続を失ったに等しい。この追放劇は、信長が望んだ事ではない。
事はこの前年に遡る。甲斐の武田信玄が軍を発し、信長の同盟者である徳川領へ侵攻したのである。世に言う三方ヶ原の戦いである。これに織田・徳川連合軍は敗北し、武田軍は、なおも進軍の歩を進めた。信長は、武田の快進撃に人質を送ろうとし、低頭外交をもって機嫌を取り繕うとしたが、信玄は首を縦に振らない。
「延暦寺を再興する」
これが武田の大義名分だったと言われる。事実として、信玄は、甲斐に逃れた延暦寺の名僧である正覚院豪盛らを保護し、延暦寺自体を甲斐に持って来ようとした節が伺える。信玄が京に上って、天下を掌握しようとしていたのかは、分かっていないが、本気で織田を討とうとしていたのは、間違いないだろう。
義昭である。この戦国最強と謳われた武田軍ついに起つの報を聞き、義昭は狂喜する。そして、自らも信長に反旗を翻し、二条城に立て籠もり、信長包囲網を構成すべく、各国の大名に激を飛ばし続けた。この事を信長に報せたのは、皮肉にも義昭を擁立し、幕府の再建を助けてきた腹心の、細川藤孝や荒木村重たちであった。
「あの方をどうか止めてくれ…」
藤孝は、盟友たる光秀に言葉少なめに心の内を吐露した。光秀には、それだけで藤孝の気持ちが痛い程伝わってくる。
(幕府再興は、我らの夢であった…)
それが、その象徴であった将軍義昭自身の暴走によって、思い描いた物とはかけ離れた絵となってしまっている。光秀は、これを正さねばならなかった。自らの手によって…。
「武田軍迫る!」
の報は、日を追うごとに信長の元に頻度を増していった。
ところでである。織田と武田の衝突は、信長の延暦寺焼き討ちや、義昭との不和とそれに伴う信長包囲網の為と記してきたが、史実で言えば、それだけではない。これより、以前より、信長は養女を信玄の嫡男である勝頼の妻とし、この妻が若く亡くなると、今度は信玄の娘を信長の嫡男たる信忠に娶らせようとしている。そうまでして、織田と武田が結びつこうとしていたのには、理由があった。
信玄は、甲斐より北上して信濃攻略が当初の目的であり、そのために駿河の今川家と相模の北条家との三国同盟を結んでいた。対する信長も美濃の斎藤氏を攻略しており、本領より東にまで兵を回す余裕は無かったのである。利害の一致により、同盟を結んでいた両家の友好が崩れたのは、信濃攻略を果たした武田が、次の野心を西に向けた事による。
武田領の西には、駿河の今川家が在った。そして、その今川は当主の義元が信長によって桶狭間で討たれた事により、その力を失いつつあったのである。
信玄は思った。この力が衰えた同盟者と今まで通りに関係を続けるのか、それともいっそのこと攻め滅ぼすのかと。信玄が選んだのは後者であり、そのために駿河領を挟んで信長の同盟者たる徳川家とも、勢力争いを始めてしまった。
信玄は、駿河に攻め入る為に嫡男義信を殺している。義信の正室が今川家より来ており、義信が駿河侵攻を食い止めるために、かつて信玄が行った父親追放を画策したからと言われている。
信玄の駿河侵攻と、その後の西上作戦は並々ならぬ決意を秘めていたのであった。
本音を言えば、信長は信玄と争いたくは無かったであろう。武田軍は強大であり、得るものは少ない。織田は軍勢を京より西に傾けており、東の武田と争う余裕などまだまだ無かったのである。この時、武田が織田の本領に迫っていれば、信長の採れた戦略は、桶狭間で見られたような乾坤一擲の策ぐらいでしかなく、義元の死を知っている信玄が、その轍を踏むとも思えず、万事休すであったかもしれない。
或いは、二万五千とも三万とも言われた武田軍の補給線が尽きるのを待つ、焦土戦術があったかもしれないが、その信長の戦略が何であったかは、とうとう分からずじまいである。
「武田軍が兵を返しまして御座いまする」
元亀四年四月十二日(1573)甲斐の虎、武田信玄は、甲斐に戻る途中、三河街道で病に倒れ死んだと伝わる。
「大殿の運よ」
光秀以下、織田の重臣たちは、この僥倖に只ならぬ物を感じていた。信長は、武田軍撤退の事実を確認すると、安堵したのか、上座でうたた寝を始めてしまい、ついにはそのまま寝入ってしまったという。
無理もない、信玄来る!の報に接し、このところ、ロクに眠れてなかったのである。およそ、三日ぶりの睡眠であったと伝わる。信長にとっても正念場であった。
信長の一番の脅威であった信玄は死んだ。一説によれば、信玄は、自分の死を三年秘匿するよう遺言したらしい。そして、いつの世も情報を早く正確に掴む物が、世の中を動かしていくのである。秘匿された武田家当主の死を、信長が如何にして知り得たのかは分からない。
しかし、この驚くべき情報を、知らずに決起してしまった人物も居たのである。将軍義昭である。義昭は、武田軍の西上作戦が着実に進んでいると信じて、今までの信長に対する不満を晴らすかのように、軍勢を集めて反旗を翻した。
とうとう堪忍袋の尾が切れた信長は、四月四日に上京焼き討ちを決行した。震えあがった義昭は、一度は信長との和議を結ぶ。しかし、七月に入り再び和議を反古にして、槇島城に立て籠もった。ここに至るまでに信長は、一度は和解をし、人質を出すなどの将軍を立てるように努力をしていたようである。
しかし、それをその都度破ったのは、義昭の方であった。信長は、義昭の立て籠もる城を大軍で包囲し、遂に義昭は家臣一同に促されて降伏を決意した。
「余は和議を結ぶぞ。余の嫡男を質に出してもよい」
信長の元に引き据えられてきた将軍は、憐れにも和議を請うていた。
「のう光秀よ、藤孝よ。そなた達からも信長に頼んでくれ」
信長の下で、かつての主君の無残な姿を見た光秀も、心中穏やかではなかった。
「公方様の事、どれが相当か?」
上座に座る信長より、諸将たちに下問がある。その場にいる誰もが口を開かない。
「京より追うて候」
そう言ったのは、秀吉である。
「手ぬるい、切腹さすべし」
それに応える様に佐久間盛重が激しく口を切る。しばらく、幾人かが主張を繰り広げたが、光秀や藤孝らの旧幕臣たちは誰も口を開こうとはしなかった。
「光秀はどう思うか?」
しばらくして、そう信長が口を開くと、それまでの口論が嘘のようにその場を静寂にした。皆の視線が光秀一点に集まる。しかし、光秀はすぐには言葉を発せないでいた。
「公方様を生かしておれば、遠謀にてどのような策を弄するやもしれず、断固禍根は絶つべきと存ずる」
光秀は、絞り出すかのように言葉にした。その光秀を白洲に座らされた義昭が哀願の眼で見ていた。光秀は、義昭の姿を見る事が出来ないでいる。
「そうであるか。ならば、これでその禍根を絶て」
信長はそう言うと、自らの佩刀を小姓より受け取り、それを光秀に放って渡した。
「御意!」
光秀は、決意したかのように颯爽と立ち上がると、その大刀を手に取り、鞘を投げ打ち、白洲へと降り、義昭と対峙した。
「光秀よ、頼む…頼む…」
刀をぎらつかせた光秀を見て、義昭は縋るように頭を下げ続けている。その姿は哀れそのものであった。
「こうなったのも、上様ご自身の存念に相らわずや。御覚悟めされい!」
義昭はガタガタと震え、身を竦めるので、その両肩を首が出やすいように二人の下士に捕まれていた。
「貴方様の兄上は、最後の時まで、将軍らしく戦って死にましたぞ。どうか将軍の名に恥じぬご最期を…」
光秀は、大刀を上段に構えた。
「相分かった。余も天下の将軍である。じたばたせぬゆえ、縄目を解いてくれ」
光秀の言葉に義昭がそう答えると、光秀の目の合図で義昭を縛り付けていた縄目が解かれた。すると、光秀は懐より出した櫛を持って、義昭のその乱れた髪を結ってあげた。
「上様、オサラバに御座いまする」
光秀が再び大刀を上段に構えると、義昭は元僧侶らしく、両手を合わせて静かに目を閉じて、首を前に突き出して見せた。
「御免!」
光秀は、その掛け声と共に大刀を持つ力両腕に力を込めて、振り下ろした。
(バサッ)
その音とともに義昭の首は地面に転がっている筈であった。しかし、音と共に飛んだのは、義昭の首ではなく、髷の方であった。義昭は、その両頬に結ってあった髪が触れるのを感じて、閉じていた目をそっと開けた。
「光秀、お主は…」
義昭が呟くのと当時に、諸将がざわつき始めていた。しかし、そのざわつきを制したのは信長であった。
「宜しい光秀よ。上様は信長にとっても主君にあたる。そのお方の首を討つなどとは、到底出来ぬ事だ。京より出て行かれませ」
信長はそう言うと、立ち上がり義昭に向かって頭を下げた。そして、それ以上は何も言わず、その場を後にした。信長なりのそれが、主君に対する決別の仕方であった。
その後、義昭は信長の命を受けた秀吉によって、京・幾内より放逐され、各地を彷徨い中国地方の大大名である毛利氏の庇護を受けるのであった。これより、形の上では幕府内の一大名でしかなかった織田信長は、名実ともに天下人への道を歩み始めるのである。
明智軍は行軍を再開していた。暗闇を突き進み目指すは、京の都、信長の居る本能寺である。その大軍の歩を無数の松明が彩る姿は勇壮でもあり、どこかしら、幻想的にも感じられた。
(このような多くの火を眺めていると、あの時の事を思い出すわ)
馬上の人となった光秀の胸に去来するのは、忘れたくても忘れられぬ、ある事件の出来事であった。
ある日光秀は、居城である坂本城の天守閣より、水面が輝く雄大な琵琶湖を眺めていた。
「殿、何をしておられまする?」
光秀の側に妻の熙子がそっと寄り添う。この夫婦は、光秀の浪人時代より互いに支え合い、何でも話す間柄であって、終生仲睦まじい夫婦であったと言われている。
「この坂本城の天守より眺める景色の、素晴らしき事よと思うてな」
光秀はそう言うと、微笑して顔を妻に向けた。その顔を見た熙子は、言葉とは裏腹に光秀の心に生じた、少しの曇りを感じ取っていた。
「我が君は、あの事が頭から離れぬご様子」
妻の言葉に光秀は何も発せず、再び黙って琵琶湖を眺めていた。
元亀二年九月十二日(1571)今で言う滋賀県大津市付近である。その日、光秀はその場所に居た。
「やはり、勧告には応じませぬか」
光秀の横で秀満が呟いた。二人の視線の先には山が見える。比叡山である。
そして、そこにある寺が問題であった。延暦寺である。
平安時代に最澄が開いた天台宗の総本山が、織田に敵対する浅井・朝倉を支援している事は、すでに周知の事実となっていた。
信長と延暦寺との争いは根が深い。最初の発端は、信長が延暦寺の寺領を横領した事にある。延暦寺側は、朝廷を仲介に立てて返還を迫ったが、信長はこれを拒絶している。
延暦寺側は、当然の事ながら織田に不信感を持った。そして、信長と敵対する浅井・朝倉の兵を寺内に迎え入れるという、行動に出たのであった。
延暦寺は、比叡山全体が一つの砦のように堅固に出来ており、そこに何万という大軍を駐屯させる事が出来た。そして、比叡山の山僧らも、武器を携えて軍閥化の一途を辿っていたのだ。
また、比叡山があった地理的状況も、信長にとっては感化出来ぬ事であった。この琵琶湖の側にある比叡山は、京の護りとして建てられており、要所にあった。ここに軍勢が駐屯していては、甚だ都合が悪かったのである。
信長は比叡山に対して、
「こちらに味方せぬのなら、せめて中立を守って欲しい」
と懇願し、先に横領した寺領も返還する事を一度は約束している。しかし、延暦寺側ではこれを拒絶し、信長も寺領返還の約束を反古としている。
そして、信長包囲網と言われる壮大な謀略によって、織田と延暦寺との諍いは、もう引き帰せない所まで来てしまっていた。
包囲網に加わったのは、浅井・朝倉を初め、石山本願寺、六角承禎親子、三好勢、そして、甲斐の武田信玄らであった。これらの包囲網を主導していたのは、将軍足利義昭である。義昭は信長に擁立されて京に上り、将軍になれた。言わば恩人である。
しかし、時が経つにつれて、政治を左右する信長を疎ましく思い、これを排除しようと試みた。その稀代の謀略家としての才能が、開花してしまったのである。
「やはり公方様の企みか…」
金ヶ崎の退き陣で決死の殿を務めて京に戻った光秀は、その事を細川藤孝に確認している。
「恐らく、浅井を唆したのも…」
これが、あの殿(しんがり)を買って出た時に、信長が光秀に生きて戻るように言った理由であった。事ここに至っては、もはや猶予は成らなかった。信長は、比叡山周辺に軍勢を集めて包囲するように命じた。
そして、長い時間をかけて、延暦寺側を平和的に武装解除するように迫っていたが、延暦寺側ではこれも拒絶。信長は仕方なく、最後の命令を下す。
「山門を撃ち払うべし」
この命令に佐久間を初めとした織田の老臣たちは、反対したと言われている。しかし、信長の意志は強固であった。
「この後に及んで攻めぬとあっては、武門の恥辱也。誰ぞ攻め手を務める者は居らぬか」
信長の剣幕にすぐに名乗りを上げるものは居なかった。皆、下を向いて信長の勘気を被らぬように努めている様子であった。無理もない。この時代では、まだまだ神や仏を信仰する心は、現代人と比べても甚だ強かったはずである。比叡山を攻めるなどと、どれほどの神罰が降るだろうか。
「私に是非!」
その時、一人の武将が信長の前に進み出た。光秀であった。
「どう攻めるか?」
「山全体を囲み、火計にて一気に攻め申す。山より逃れて来る僧兵共も、一網打尽に出来ましょう」
「それでよいが一つ足りぬ。山より下りてくる者どもは、女子供に至るまで、一人残らず斬れ!」
信長の命令は絶対であった。
「明智殿らしく御座らぬ。此度の戦、何故に先陣を望まれた?」
信長の元を辞した諸将らのうち、そう光秀に直接聞いてきたのは秀吉ただ一人であった。
「私は責任を取りたいと思っておったのだ。それに自分がやれば、敵・味方ともに被害を最小限に抑えられる思案もあってな」
光秀はそれ以上を語らずに、自陣へと引き上げていった。
「のう半兵衛よ。光秀殿は何を考えているのだろうのう?」
「明智様は、幕府と織田と両方に仕える特異なお方でござりまする。しかし、公方様の一連の蠢動により、そのお立場は危うい。そして、此度の延暦寺との戦でございまする。胸に期する所があるのでしょう」
秀吉に問われた腹心の竹中半兵衛は、存念を主に申し上げた。そして、それは的確に光秀の心情を捉えていたのであった。
元亀二年(1571)九月十二日、比叡山焼き討ちが行われた。信長公記によれば、数千人が惨殺されたと記されており、当時の記録で、最も少なく記している人数でも、ルイス・フロイスの記録で、千五百名の人が殺されたと記している。
この中には、多くの僧侶に加えて、それらが囲っていた女や、野武士の類までもが大勢いたと書かれている。
この者達が、仏敵の名の元に信長に敵意を剥き出しにしている。信長は、それを一人も許す事なく、一人残らず殺すように厳命していた。
「そもそも、女人禁制の寺で女を囲い、酒肉を喰らう輩が民を扇動して、我に逆らうとは、僧に有るまじき振る舞いなり」
信長の怒りが頂点に達した時の恐ろしさを、世の中が知った出来事であった。
そして、光秀は比叡山焼き討ちの恩賞として、坂本城の築城を許されている。そして、城持ち大名となるのは、織田家臣で最初の事であった。
「名誉にございましょう」
熙子や秀満もそう光秀を誉めたが、光秀の心情は複雑であった。
光秀が坂本を統治し始めた時に、領民たちは、この新しい領主を歓迎しなかった。
いや、恐れていたのだ。神仏に唾するどころか、刃を向けて焼き討ちにした武将である。係れば、自分たちにもどのような仏罰が降るかと領民たちは恐れたのだ。
「殿はそれでも民の下に入り、施政を行われたではございませぬか」
光秀は、坂本の領民と積極的に距離を縮めようと、時に琵琶湖で漁を共にし、米の収穫を共に祝った。信長も若い頃には、領主の身でありながら、米の収穫時に自ら酒を振る舞い、民と共に謳い踊った事があったという。光秀もそれに倣ったのかもしれない。
そんな光秀を領民たちも少しずつ認め、慣れていった。光秀の人となりが領民たちの心を溶かしたのだった。
「人は、なぜ生まれて、一体何の為に死んでゆくのでしょうか?」
坂本城の天守閣で、熙子は、琵琶湖を眺める夫の側で寄り添っている。熙子は、極楽浄土を謡い、民を扇動して戦を起し、守るべき民を死地に向かわせる、この時代の仏門の在り方に疑問を感じていたのだった。
「わしにはわからぬ。分からぬが、信長様のお側で仕え、戦の無い世を作る事が出来れば、きっと自分が生まれてきた理由が、分かる気がするのだ」
光秀は、こういう言葉を残している。
(仏の嘘は方便、武士の嘘は武略、民の嘘は可愛ゆきことかな)
光秀の建てた坂本城は壮麗にして、後年に信長が建てた安土城に次いで、壮大な城であったとルイス・フロイスは記している。そして、その治世は行き届き、領民も光秀を許し、その治世を崇めていた。光秀が信長に仕えてから、わずかに四年後の出来事であった。
元亀四年七月十八日(1573)信長は、以前より不仲となって敵対関係に陥っていた将軍義昭をとうとう京より追放した。これにより、室町幕府は実質上その存続を失ったに等しい。この追放劇は、信長が望んだ事ではない。
事はこの前年に遡る。甲斐の武田信玄が軍を発し、信長の同盟者である徳川領へ侵攻したのである。世に言う三方ヶ原の戦いである。これに織田・徳川連合軍は敗北し、武田軍は、なおも進軍の歩を進めた。信長は、武田の快進撃に人質を送ろうとし、低頭外交をもって機嫌を取り繕うとしたが、信玄は首を縦に振らない。
「延暦寺を再興する」
これが武田の大義名分だったと言われる。事実として、信玄は、甲斐に逃れた延暦寺の名僧である正覚院豪盛らを保護し、延暦寺自体を甲斐に持って来ようとした節が伺える。信玄が京に上って、天下を掌握しようとしていたのかは、分かっていないが、本気で織田を討とうとしていたのは、間違いないだろう。
義昭である。この戦国最強と謳われた武田軍ついに起つの報を聞き、義昭は狂喜する。そして、自らも信長に反旗を翻し、二条城に立て籠もり、信長包囲網を構成すべく、各国の大名に激を飛ばし続けた。この事を信長に報せたのは、皮肉にも義昭を擁立し、幕府の再建を助けてきた腹心の、細川藤孝や荒木村重たちであった。
「あの方をどうか止めてくれ…」
藤孝は、盟友たる光秀に言葉少なめに心の内を吐露した。光秀には、それだけで藤孝の気持ちが痛い程伝わってくる。
(幕府再興は、我らの夢であった…)
それが、その象徴であった将軍義昭自身の暴走によって、思い描いた物とはかけ離れた絵となってしまっている。光秀は、これを正さねばならなかった。自らの手によって…。
「武田軍迫る!」
の報は、日を追うごとに信長の元に頻度を増していった。
ところでである。織田と武田の衝突は、信長の延暦寺焼き討ちや、義昭との不和とそれに伴う信長包囲網の為と記してきたが、史実で言えば、それだけではない。これより、以前より、信長は養女を信玄の嫡男である勝頼の妻とし、この妻が若く亡くなると、今度は信玄の娘を信長の嫡男たる信忠に娶らせようとしている。そうまでして、織田と武田が結びつこうとしていたのには、理由があった。
信玄は、甲斐より北上して信濃攻略が当初の目的であり、そのために駿河の今川家と相模の北条家との三国同盟を結んでいた。対する信長も美濃の斎藤氏を攻略しており、本領より東にまで兵を回す余裕は無かったのである。利害の一致により、同盟を結んでいた両家の友好が崩れたのは、信濃攻略を果たした武田が、次の野心を西に向けた事による。
武田領の西には、駿河の今川家が在った。そして、その今川は当主の義元が信長によって桶狭間で討たれた事により、その力を失いつつあったのである。
信玄は思った。この力が衰えた同盟者と今まで通りに関係を続けるのか、それともいっそのこと攻め滅ぼすのかと。信玄が選んだのは後者であり、そのために駿河領を挟んで信長の同盟者たる徳川家とも、勢力争いを始めてしまった。
信玄は、駿河に攻め入る為に嫡男義信を殺している。義信の正室が今川家より来ており、義信が駿河侵攻を食い止めるために、かつて信玄が行った父親追放を画策したからと言われている。
信玄の駿河侵攻と、その後の西上作戦は並々ならぬ決意を秘めていたのであった。
本音を言えば、信長は信玄と争いたくは無かったであろう。武田軍は強大であり、得るものは少ない。織田は軍勢を京より西に傾けており、東の武田と争う余裕などまだまだ無かったのである。この時、武田が織田の本領に迫っていれば、信長の採れた戦略は、桶狭間で見られたような乾坤一擲の策ぐらいでしかなく、義元の死を知っている信玄が、その轍を踏むとも思えず、万事休すであったかもしれない。
或いは、二万五千とも三万とも言われた武田軍の補給線が尽きるのを待つ、焦土戦術があったかもしれないが、その信長の戦略が何であったかは、とうとう分からずじまいである。
「武田軍が兵を返しまして御座いまする」
元亀四年四月十二日(1573)甲斐の虎、武田信玄は、甲斐に戻る途中、三河街道で病に倒れ死んだと伝わる。
「大殿の運よ」
光秀以下、織田の重臣たちは、この僥倖に只ならぬ物を感じていた。信長は、武田軍撤退の事実を確認すると、安堵したのか、上座でうたた寝を始めてしまい、ついにはそのまま寝入ってしまったという。
無理もない、信玄来る!の報に接し、このところ、ロクに眠れてなかったのである。およそ、三日ぶりの睡眠であったと伝わる。信長にとっても正念場であった。
信長の一番の脅威であった信玄は死んだ。一説によれば、信玄は、自分の死を三年秘匿するよう遺言したらしい。そして、いつの世も情報を早く正確に掴む物が、世の中を動かしていくのである。秘匿された武田家当主の死を、信長が如何にして知り得たのかは分からない。
しかし、この驚くべき情報を、知らずに決起してしまった人物も居たのである。将軍義昭である。義昭は、武田軍の西上作戦が着実に進んでいると信じて、今までの信長に対する不満を晴らすかのように、軍勢を集めて反旗を翻した。
とうとう堪忍袋の尾が切れた信長は、四月四日に上京焼き討ちを決行した。震えあがった義昭は、一度は信長との和議を結ぶ。しかし、七月に入り再び和議を反古にして、槇島城に立て籠もった。ここに至るまでに信長は、一度は和解をし、人質を出すなどの将軍を立てるように努力をしていたようである。
しかし、それをその都度破ったのは、義昭の方であった。信長は、義昭の立て籠もる城を大軍で包囲し、遂に義昭は家臣一同に促されて降伏を決意した。
「余は和議を結ぶぞ。余の嫡男を質に出してもよい」
信長の元に引き据えられてきた将軍は、憐れにも和議を請うていた。
「のう光秀よ、藤孝よ。そなた達からも信長に頼んでくれ」
信長の下で、かつての主君の無残な姿を見た光秀も、心中穏やかではなかった。
「公方様の事、どれが相当か?」
上座に座る信長より、諸将たちに下問がある。その場にいる誰もが口を開かない。
「京より追うて候」
そう言ったのは、秀吉である。
「手ぬるい、切腹さすべし」
それに応える様に佐久間盛重が激しく口を切る。しばらく、幾人かが主張を繰り広げたが、光秀や藤孝らの旧幕臣たちは誰も口を開こうとはしなかった。
「光秀はどう思うか?」
しばらくして、そう信長が口を開くと、それまでの口論が嘘のようにその場を静寂にした。皆の視線が光秀一点に集まる。しかし、光秀はすぐには言葉を発せないでいた。
「公方様を生かしておれば、遠謀にてどのような策を弄するやもしれず、断固禍根は絶つべきと存ずる」
光秀は、絞り出すかのように言葉にした。その光秀を白洲に座らされた義昭が哀願の眼で見ていた。光秀は、義昭の姿を見る事が出来ないでいる。
「そうであるか。ならば、これでその禍根を絶て」
信長はそう言うと、自らの佩刀を小姓より受け取り、それを光秀に放って渡した。
「御意!」
光秀は、決意したかのように颯爽と立ち上がると、その大刀を手に取り、鞘を投げ打ち、白洲へと降り、義昭と対峙した。
「光秀よ、頼む…頼む…」
刀をぎらつかせた光秀を見て、義昭は縋るように頭を下げ続けている。その姿は哀れそのものであった。
「こうなったのも、上様ご自身の存念に相らわずや。御覚悟めされい!」
義昭はガタガタと震え、身を竦めるので、その両肩を首が出やすいように二人の下士に捕まれていた。
「貴方様の兄上は、最後の時まで、将軍らしく戦って死にましたぞ。どうか将軍の名に恥じぬご最期を…」
光秀は、大刀を上段に構えた。
「相分かった。余も天下の将軍である。じたばたせぬゆえ、縄目を解いてくれ」
光秀の言葉に義昭がそう答えると、光秀の目の合図で義昭を縛り付けていた縄目が解かれた。すると、光秀は懐より出した櫛を持って、義昭のその乱れた髪を結ってあげた。
「上様、オサラバに御座いまする」
光秀が再び大刀を上段に構えると、義昭は元僧侶らしく、両手を合わせて静かに目を閉じて、首を前に突き出して見せた。
「御免!」
光秀は、その掛け声と共に大刀を持つ力両腕に力を込めて、振り下ろした。
(バサッ)
その音とともに義昭の首は地面に転がっている筈であった。しかし、音と共に飛んだのは、義昭の首ではなく、髷の方であった。義昭は、その両頬に結ってあった髪が触れるのを感じて、閉じていた目をそっと開けた。
「光秀、お主は…」
義昭が呟くのと当時に、諸将がざわつき始めていた。しかし、そのざわつきを制したのは信長であった。
「宜しい光秀よ。上様は信長にとっても主君にあたる。そのお方の首を討つなどとは、到底出来ぬ事だ。京より出て行かれませ」
信長はそう言うと、立ち上がり義昭に向かって頭を下げた。そして、それ以上は何も言わず、その場を後にした。信長なりのそれが、主君に対する決別の仕方であった。
その後、義昭は信長の命を受けた秀吉によって、京・幾内より放逐され、各地を彷徨い中国地方の大大名である毛利氏の庇護を受けるのであった。これより、形の上では幕府内の一大名でしかなかった織田信長は、名実ともに天下人への道を歩み始めるのである。
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