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2巻
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だからこそ、貴族としての身分を剥奪されたレフィーナを嘲る視線が、多くの貴族から向けられた。
「レフィーナ! とっても素敵な会場ね! 私、レフィーナと一緒に舞踏会に出られて、とっても嬉しいわ」
レフィーナを見てこそこそと話す貴族たちの声をかき消すように、ドロシーの弾んだ声が響いた。レオンから離れた彼女は、レフィーナの手を握り、可愛らしく笑う。レフィーナは突然のことに驚いて、目を丸くした。
「ド、ドロシー様……?」
「レフィーナは私の大切な侍女ですもの。私の贈ったドレスもよく似合っていて……素敵だわ」
ドロシーの言葉にひそひそと囁きあっていた貴族たちの多くが、ピタリと口を閉ざした。
そして、急にニコニコと愛想笑いを浮かべると、レフィーナたちに近づいてくる。
「いやぁ、ドロシー様はお優しいですな」
「ドロシー様の専属とあって美しい方ですね。いやはや、エスコートしている男性が羨ましい……はっはっはっ」
ドロシーの機嫌を窺う言葉が次々と飛び交う。先ほどの彼女の言葉で、レフィーナが気に入られているのが分かったのだ。
王太子妃のお気に入りの侍女を侮辱した、などと騒ぎが起きれば、立場がなくなると分かっている貴族たちは保身に忙しい。
彼らの中ではもうレフィーナは、貴族から身分を落としたみっともない令嬢ではなく、王太子妃であるドロシーのお気に入りの侍女、という認識に変わっている。
「……ドロシー様……ありがとうございます」
「……いつの日か約束しましたもの。侯爵令嬢としてできることはなんでもする、と。……今は侯爵令嬢ではありませんが、レフィーナ様を守れるなら王太子妃という立場を利用いたします」
周りの貴族には聞こえないように、こそっとそう言ったドロシーは優しく微笑んだ。
レフィーナは嘲笑など気にしない性格だが、それでも彼女の気遣いがとても嬉しかった。目を細めながらドロシーを見つめていると、唐突に低い男性の声が会場に響いた。
「少し、道を空けてくれないか」
「フィーリアン殿下だ」
レフィーナたちを取り囲んでいた貴族たちの一部が左右に分かれて道を空けると、プリローダの王太子であるフィーリアンが姿を現した。
「遠いところ、よくぞお越しくださいました。新婚旅行に我が国を選んでくださり、ありがとうございます。どうぞ、舞踏会を楽しんでいってください」
「ご招待ありがとうございます」
レオンと挨拶を交わしたフィーリアンがパンパンと手を叩くと、集まっていた貴族たちが散り散りに去っていく。それを見送ったフィーリアンは後ろを振り返り、呆れた声で弟を呼んだ。
「レイ、落ち込んでいないで挨拶をしないか」
「……遠いところ、お越しいただきありがとうございます……」
酷く落ち込んだ様子でレイがトボトボと歩いてきて、レオンとドロシーに挨拶をする。それからレイは、レフィーナとヴォルフの胸元に飾られたお揃いのコサージュに視線を移し、へにゃりと眉尻を下げた。その落ち込んだ表情に、レフィーナがそっと声をかける。
「……レイ殿下……」
「僕がレフィーナをエスコートしたかったのに……」
「レイ、お前には婚約者がいるだろう。婚約者をエスコートするのは当たり前だ」
「…………でも、僕が好きなのは……」
第四王子であるレイには当然婚約者がいる。しかし、レフィーナのことが好きなレイは納得がいかない様子で、小さな唇を突き出してむっとしていた。
「……レフィーナはヴォルフと恋仲なので、パートナーとして彼がエスコートしました」
「えっ?」
「レ、レオン殿下……そんなはっきりと仰らなくても……」
「ドロシー、遅かれ早かれいずれは知ることだよ。それに、どちらにしても……侍女と王子では身分が違いすぎて、恋仲になることすらできない」
はっきりと言い切ったレオンに、ドロシーが慌てたようにレイの様子を窺った。レオンの言ったことは正しい。それは子供とはいえ王子として教育されてきたレイとて分かっている。
きゅっと唇を引き締めたレイに、今度はレフィーナが困って眉尻を下げた。
なんて声をかけても彼を傷つけてしまいそうだ。
「……好きな人、作っちゃだめだって言ったのに!」
「レイ殿下……!」
泣きそうな震える声でレフィーナにそう言うと、レイはくるりと背を向けて走り去る。それを追いかけようとすると、ヴォルフに止められた。
「ヴォルフ様……?」
「俺が行く」
そう短く告げたヴォルフがレイを追って、その場から立ち去った。残されたレフィーナがどうしようかと視線をさ迷わせていると、レオンがそっけなく言う。
「……ヴォルフに任せておけばいいよ」
「で、でも……」
「レイのことはお気になさらず。……あれでも理解はしていますので」
レフィーナがレイを心配する表情を浮かべると、フィーリアンがゆっくりと首を横に振りながら口を挟んだ。
「レフィーナ、きっとヴォルフならレイ殿下の言いたいことを残らず受け止めてくれるわ。そしてそれはあなたの恋人になったヴォルフの役目……。だから、彼に任せましょう?」
「……はい」
ドロシーの言葉にレフィーナは、レイのことを気にしつつも、後を追っていったヴォルフに任せることにした。
「では、ドロシー。私たちは他の方にも挨拶に行こうか」
「はい」
「レフィーナはどうする? 一緒に来るかい」
立ち去ろうとしたレオンが、足を止めてレフィーナに問いかける。レフィーナは少し迷ったものの、小さく首を横に振った。
自分と一緒にいると、ドロシーにもさらに好奇の目が集まってしまうかもしれない。
先ほどから、こちらをちらちらと見ながら、ひそひそと話している令嬢たちがいる。
多くの貴族はドロシーの機嫌を窺っていたが、それは立場のある当主たちだ。その娘たちも賢い者は状況を正確に把握して、余計な話どころか好奇の視線すら向けない。しかし、中にはそうでない令嬢たちもいる。
フィーリアンがいるのでかなり控えめだが、彼女たちは明らかにレフィーナのことを馬鹿にする雰囲気を出していた。
「この方には私がついていましょう」
「……そうですか……。では、お言葉に甘えさせていただきます」
気を利かせたフィーリアンが笑みを浮かべながら、レフィーナの隣に立つ。レオンはすんなりと彼の言葉を受け入れると、頭を下げてから心配そうなドロシーと共に立ち去った。
「あの……」
「お気になさらず。本当は私がレイを追わなければならなかったところを、彼に任せてしまったので」
「え?」
「……レイは、四人目の王子なだけあって皆の関心が薄かったんです。我々兄弟も構ってやる暇がなく……。いつの間にか誰にも心を閉ざしてしまった。でも、あなたを好きになって、彼をライバル視して……。私が行ったところで何もぶつけてはくれないでしょう。でも、彼ならレイも言いたいことを言える」
少し寂しそうにフィーリアンはそう言った。
たしかに初めて会ったときのレイは寂しそうだった。そして、ヴォルフには初めからレフィーナを取られまいと敵意を向けていた。
「……レイにも婚約者がいます。彼女に目を向けてくれると嬉しい、と思うのはきっと大人の勝手な都合でしょうね」
「……いいえ」
貴族も王族も、恋だの愛だので結婚相手を選べることは少ない。レオンにしたってレフィーナが婚約破棄のために行動したおかげで、ドロシーと結婚することができたのだ。
フィーリアンの視線をたどったレフィーナは小さく微笑む。彼の視線の先にはキョロキョロと辺りを見回して、誰かを探す少女がいたのだ。
「……彼女がレイ殿下の……」
「そうです」
ツインテールに結われた茶色の髪はふわふわで、忙しなく動く瞳は綺麗な青色だ。可愛らしい少女はフィーリアンを見つけると、駆け寄ってきた。
小さな手でドレスをつまんで可愛らしく挨拶をする。
「フィーリアン殿下、こんばんは」
「リア嬢、こんばんは」
「あの、そちらの方は?」
リア、と呼ばれたレイの婚約者の少女は、大きな青い瞳をレフィーナに向ける。
レフィーナもドレスを持ち上げてお辞儀をすると、優しい笑みを浮かべた。
「初めまして。ドロシー様の専属侍女のレフィーナと申します」
「……侍女……レフィーナ……。あなたがレイ殿下の……」
「リア嬢、彼女には恋人がいる。レイの片想いだ」
「……そう、なのですか?」
「ああ」
レフィーナがレイの想い人だと知っているらしいリアが、名前を聞いて複雑そうな表情を浮かべる。しかし、フィーリアンの言葉を聞いて、すぐに表情を明るくさせた。
だがまたすぐに、複雑そうな表情に戻ってしまう。
「レイ殿下がフラれて喜ぶなんて、だめですわ……。私も片想いの辛さは分かっていますのに」
リアのことを見ていたレフィーナは、すぐに、彼女がレイに想いを寄せているのが分かった。
レイの恋が叶わないことが嬉しい気持ちと、彼が傷ついたことを心配する気持ちが、少女の中でせめぎ合っている様子だった。
そんなリアを優しい目で見るフィーリアンは、彼女にレイのことを頼む。
「リア嬢、レイはあちらの方へ向かった。……弟をお願いしてもいいか?」
「フィーリアン殿下……。失礼いたしますわ!」
フィーリアンをじっと見つめたリアは、令嬢らしくきちんと挨拶をしてから、レイとヴォルフが去っていった方へ向かった。
「リア嬢はとてもいい子です。……レイはそれをちゃんと分かっている。だから、きちんと婚約者であるリア嬢と向き合ってもらいたいのです」
「……フィーリアン殿下……」
レイは気づいていないようだが、フィーリアンも末の弟を気にかけている。時間が取れなかっただけで、兄として弟を愛しているのだ。
リアとレイを見守るときの優しい瞳を見れば、それがよく分かった。
「レイ殿下は、フィーリアン殿下のお気持ちもきっと分かってくださいます。……そういえば、フィーリアン殿下のお妃様も参加なさっているのですよね? それでしたら、どうかお妃様のところへ行ってください」
「しかし……」
「私は美味しそうなお料理をいただきますのでお気になさらず。それにお妃様を一人にして、他の女性といては悲しみます」
フィーリアンはもうすでに結婚している。以前、レフィーナがレオンと共にプリローダを訪れたのは、その婚儀に招待されたためだ。
優しそうな妃を思い出したレフィーナは、気を遣ってフィーリアンに戻るように伝えた。
「リア様が向かわれたなら、ヴォルフ様もすぐに戻ってくると思います。それに、いつまでもフィーリアン殿下をお引き留めするわけにはいきません」
レフィーナがにっこりと笑みを浮かべると、フィーリアンは困った様子で首の後ろを撫でたが、やがてゆっくりと頷いた。
「……お気遣い、ありがとうございます。では、そうさせていただきます」
「はい」
フィーリアンも笑みを浮かべると、レフィーナに背を向けて去っていった。すると、遠巻きでこそこそと見ていた令嬢たちがさっそくレフィーナの近くにやってくる。
それをちらりと見てから、気づかれないように小さくため息をついた。
団体様のご到着だ、とレフィーナは失笑をもらす。だが、やはりドロシーについていかなくて正解だった。ついていっていれば、この暇な令嬢たちの悪意がドロシーにまで及んでしまっただろう。
「……皆さん、場違いな方がいらっしゃるわぁ」
「くすくすっ。本当ですわね」
「私なら身分がなくなったら恥ずかしくて、こんな場所に来られませんわ」
目に痛いカラフルなドレスを身にまとう令嬢たちは、下の者を笑うのが大好きなのだろう。親に蝶よ花よと育てられ、貴族が偉いという考えに染まっている。
だから、嘲るのにピッタリなレフィーナをさっそく苛めに来たのだ。
……そのターゲットであるレフィーナは、まったく気にした素振りを見せず、優雅な仕草でパスタを口に運んでいた。
「んー、やっぱりプリローダはプリローダでパスタの味が違うのね」
モグモグとパスタを咀嚼するレフィーナは、近くで笑っている令嬢たちを完全に無視だ。
近くに来たときは面倒だな、とは思ったが、こういう令嬢には無視が一番いい。逆上して怒鳴り散らせば、淑女にあるまじき行動だと白い目で見られる。
さすがにそんなはしたない真似はできないことくらいは分かっているのか、レフィーナを笑いに来た令嬢たちは、相手にされず顔を真っ赤にして唇を噛んでいた。
そんな彼女たちの背後から不意に一人の男性が現れ、なだめるように声をかける。
「やあやあ、お嬢様方。可愛いお顔が台無しですぞ」
「まあ! ボースハイト伯爵様!」
「んっ?」
ボースハイト伯爵、と呼ばれた男性は焦げ茶色の髪に同色の髭を蓄え、目尻には皺が刻まれている。レフィーナの父であるアイフェルリア公爵よりも少し年齢は上だろうか。
「さあ、お父様方が可愛い娘を探していましたぞ」
「まあ、そうですの」
「せっかく美しく着飾っているのですから、ダンスを楽しまれてはいかがかな?」
「美しいだなんて、お上手ですわ!」
「いやはや、私がもっと若ければぜひ、ダンスを踊っていただきたかったくらいですよ」
歳をとっているとはいえ整った顔立ちのボースハイト伯爵は、令嬢たちに人気があるらしい。
彼女たちはすでにレフィーナから興味が失せたらしく、ボースハイト伯爵を取り囲んできゃっきゃっと騒いでいる。
女性慣れした様子の伯爵は、レフィーナにとって苦手な部類だ。
それに、ああいうタイプは何を考えているか分からない。
「ほらほら、曲が始まりましたぞ」
「そうですわね、ではボースハイト伯爵様、またお話しいたしましょう」
「楽しみにしていますぞ」
ゆったりとした曲が流れ始めて、ようやく令嬢たちは去っていった。ボースハイト伯爵はそんな彼女たちをその場から動かず見送っている。
レフィーナも迷ったが、このままでは伯爵と二人きりになるので、この場を離れるためにくるりと背を向けた。
「やあ、お待ちくださるかな?」
歩き出すより早く呼び止められて、レフィーナは思わず眉を寄せる。呼び止められたからには、止まらないといけない。
小さくため息をつき、ゆっくりと振り返ると、思っていたよりも近くにボースハイト伯爵がいて、ビクリと肩を震わせた。
「初めまして。アングイス・ボースハイトと申します」
「……初めまして、レフィーナと申します」
名乗られたからには、こちらも名乗るしかない。
レフィーナはボースハイト伯爵の値踏みするような視線に不快感を覚えたが、ぐっとこらえて愛想笑いを浮かべた。
「……やはり……相応しくないな……」
「え?」
「君、エスコートされていた騎士と恋仲なのだろう?」
先ほど令嬢たちと話していたときの柔らかな雰囲気から一変、アングイスは貴族特有の高圧的な態度で問いかける。
レフィーナは伯爵の金色の瞳を真っ直ぐに見つめ返しながら、ミリーの一件で誘拐されたときにベルグに耳打ちされた内容を思い出していた。
「……はい、そうです」
「そうかね。……だが、彼には君は相応しくないな。貴族から落ちた君は相応しくない」
「……それは、ヴォルフ様が……貴方のご子息だからですか」
レフィーナの言葉にアングイスは驚いた表情を浮かべた。
あのときベルグに教えられたのは、ヴォルフの父親がプリローダの貴族の中にいる、という情報だ。目の前にいるアングイスは、ヴォルフと同じ焦げ茶色の髪に金色の瞳をしている。
そして、先ほどの問いや言葉を重ねて考えれば……プリローダにいるヴォルフの父親がこの男だという考えに簡単に行き着いた。
「ふむ……」
驚いた表情を浮かべていたアングイスが、すっと金色の瞳を細めた。柔らかい雰囲気のときよりも、今の表情や鋭さのある雰囲気はヴォルフに近く、よく似ている。
「……君の言う通り、彼は私の子だ。……いや、そうでなければ困る」
「困る……?」
「……彼も私が父と知れば、私のもとに来るだろう。騎士なんかより貴族になる方がいいに決まっているからな」
レフィーナの疑問には答えず、アングイスは腕を組んでそう言うと、ニヤリと笑った。
「そうなれば、彼には君は相応しくない。貴族ではない小娘なんかに価値はないからな」
こちらを見ながら馬鹿にした声色で話すアングイスに、レフィーナは小さく息を吸い込む。そして、決して揺るがない緋色の瞳で真っ直ぐにアングイスを見た。
「……騎士をやめて貴族になるかも、私が相応しくないかも……どちらもヴォルフ様が決めることです。……あなたが決めることではありません」
出した声は凛としていて、震えていない。
ベルグにもらった情報が頭の片隅にあったおかげで、アングイスがヴォルフの父親だということにあまり動揺はなかった。
「身は引かない、ということかな」
「……ヴォルフ様がそう望まない限りは。私は……ヴォルフ様のことが好きですから」
アングイスはレフィーナの方から身を引かせたかったのだろうが、彼女はそんな思惑に乗るつもりはなかった。
レフィーナはヴォルフが好きだ。そして、彼の甘い瞳や声を思い出せば、自分を好きでいてくれることを疑いようもない。
ヴォルフが望むなら、喜んで身を引こう。だが、それを本人から聞くまでは自ら身を引く気などない。
「ふむ。揺さぶられても動揺しないか。だが、それも今だけだ。……短い時間で別れる覚悟を決めておくことだね。好きだの愛しているだの、下らない感情だ」
アングイスはレフィーナが思い通りにならなかったことが、面白くないのだろう。些か苛立った様子で吐き捨てるように言い残し、去っていった。
「……はぁ……」
知らず知らずのうちに肩に力が入っていたレフィーナは、ため息と共に体の力を抜いた。
アングイスの声以外は遠退いていた周りの音が明瞭に聞こえ、かなり緊張していたことに初めて気づく。
アングイスは去ったが、おそらくまた会うことになるだろう。どんな事情があるのかは知らないが、ヴォルフを自分の息子として迎え入れないといけない様子だった。
その時、後ろから唐突に声をかけられた。
「レフィーナ」
「ヴォルフ様……」
「どうした、顔色が悪いぞ」
振り返ると、レイのところから戻ってきたヴォルフが立っている。レフィーナは安堵し、その名前を呼んだ。
よっぽど顔色が悪かったのか、心配したヴォルフが顔を覗き込んできた。
「歩けるか?」
「はい……」
「人の少ないところに行って少し休むぞ」
「ありがとうございます」
ぎゅっと手を握られて、人がほとんどいない壁際まで連れられて歩いていく。
前を歩くヴォルフの焦げ茶色の髪を眺めながら、先ほどのことを話すか考える。
「あの、ヴォルフ様……」
「着いたな。ほら、ここに座れ」
「あ、あの」
「ちょっと待っていろ、水をもらってくる」
レフィーナは口を開いたものの、心配そうに気遣うヴォルフにことごとく遮られて、話をする前に彼は去って行ってしまった。
一人になったレフィーナは、アングイスのことを思い出す。ヴォルフは突然父親が分かったら、どうするのだろうか。
レフィーナには、ヴォルフが貴族になりたいと思うとは考えられない。だが、もし父親と共にいたいと願うなら、自分は身を引くしかないだろう。
そんなことを考えていると、目の前に水の入ったグラスが差し出された。
「あっ……」
「ほら、飲め」
「ありがとう、ございます」
「久しぶりの舞踏会で疲れたんだろう」
労るように頬を撫でられ、レフィーナは優しく微笑むヴォルフを見る。
アングイスのことを今度こそ話そうと口を開いたのだが、結局何も言えず口を閉じた。なんと伝えればいいのか分からなかったのと、父親を選ぶかもしれないという先ほどまではなかった不安がためらわせたのだ。
話せなくなってしまったレフィーナは、違う話題を口にした。
「……レイ殿下のご様子はどうでしたか?」
「心配しなくていい。殿下は……立派な男だからな」
「立派な男……?」
「ああ。だから、大丈夫だ」
二人の間でどんな会話があったのかは分からないが、ヴォルフの様子からしてレイは問題なさそうだ。それに今はリアも側に寄り添っているだろう。
レフィーナはほっと胸を撫で下ろした。
「……明日は一緒にいられるな」
「はい」
「楽しみだな」
愛おしそうに自分を見るヴォルフの金色の瞳を見て、レフィーナは大切なことを思い出した。
ヴォルフは自分を好きでいてくれている。何も不安になる必要などなく、レフィーナはただ彼を信じればいいのだ。それを思い出せば、先ほどはためらった言葉が口からするりと滑り出た。
「ヴォルフ様。大切なお話があります」
「なんだ、急に改まって」
「先ほど……ヴォルフ様のお父様にお会いしました」
「……は……?」
レフィーナの言葉にヴォルフが目を見開いた。レフィーナはそんな彼から視線を逸らさずに、再び口を開く。
「名前はアングイス・ボースハイト伯爵です」
「ちょ、ちょっと待て。なんで急に……。どうして、その伯爵が俺の父親だと?」
混乱した様子のヴォルフに、レフィーナは静かに言葉を重ねる。
「レフィーナ! とっても素敵な会場ね! 私、レフィーナと一緒に舞踏会に出られて、とっても嬉しいわ」
レフィーナを見てこそこそと話す貴族たちの声をかき消すように、ドロシーの弾んだ声が響いた。レオンから離れた彼女は、レフィーナの手を握り、可愛らしく笑う。レフィーナは突然のことに驚いて、目を丸くした。
「ド、ドロシー様……?」
「レフィーナは私の大切な侍女ですもの。私の贈ったドレスもよく似合っていて……素敵だわ」
ドロシーの言葉にひそひそと囁きあっていた貴族たちの多くが、ピタリと口を閉ざした。
そして、急にニコニコと愛想笑いを浮かべると、レフィーナたちに近づいてくる。
「いやぁ、ドロシー様はお優しいですな」
「ドロシー様の専属とあって美しい方ですね。いやはや、エスコートしている男性が羨ましい……はっはっはっ」
ドロシーの機嫌を窺う言葉が次々と飛び交う。先ほどの彼女の言葉で、レフィーナが気に入られているのが分かったのだ。
王太子妃のお気に入りの侍女を侮辱した、などと騒ぎが起きれば、立場がなくなると分かっている貴族たちは保身に忙しい。
彼らの中ではもうレフィーナは、貴族から身分を落としたみっともない令嬢ではなく、王太子妃であるドロシーのお気に入りの侍女、という認識に変わっている。
「……ドロシー様……ありがとうございます」
「……いつの日か約束しましたもの。侯爵令嬢としてできることはなんでもする、と。……今は侯爵令嬢ではありませんが、レフィーナ様を守れるなら王太子妃という立場を利用いたします」
周りの貴族には聞こえないように、こそっとそう言ったドロシーは優しく微笑んだ。
レフィーナは嘲笑など気にしない性格だが、それでも彼女の気遣いがとても嬉しかった。目を細めながらドロシーを見つめていると、唐突に低い男性の声が会場に響いた。
「少し、道を空けてくれないか」
「フィーリアン殿下だ」
レフィーナたちを取り囲んでいた貴族たちの一部が左右に分かれて道を空けると、プリローダの王太子であるフィーリアンが姿を現した。
「遠いところ、よくぞお越しくださいました。新婚旅行に我が国を選んでくださり、ありがとうございます。どうぞ、舞踏会を楽しんでいってください」
「ご招待ありがとうございます」
レオンと挨拶を交わしたフィーリアンがパンパンと手を叩くと、集まっていた貴族たちが散り散りに去っていく。それを見送ったフィーリアンは後ろを振り返り、呆れた声で弟を呼んだ。
「レイ、落ち込んでいないで挨拶をしないか」
「……遠いところ、お越しいただきありがとうございます……」
酷く落ち込んだ様子でレイがトボトボと歩いてきて、レオンとドロシーに挨拶をする。それからレイは、レフィーナとヴォルフの胸元に飾られたお揃いのコサージュに視線を移し、へにゃりと眉尻を下げた。その落ち込んだ表情に、レフィーナがそっと声をかける。
「……レイ殿下……」
「僕がレフィーナをエスコートしたかったのに……」
「レイ、お前には婚約者がいるだろう。婚約者をエスコートするのは当たり前だ」
「…………でも、僕が好きなのは……」
第四王子であるレイには当然婚約者がいる。しかし、レフィーナのことが好きなレイは納得がいかない様子で、小さな唇を突き出してむっとしていた。
「……レフィーナはヴォルフと恋仲なので、パートナーとして彼がエスコートしました」
「えっ?」
「レ、レオン殿下……そんなはっきりと仰らなくても……」
「ドロシー、遅かれ早かれいずれは知ることだよ。それに、どちらにしても……侍女と王子では身分が違いすぎて、恋仲になることすらできない」
はっきりと言い切ったレオンに、ドロシーが慌てたようにレイの様子を窺った。レオンの言ったことは正しい。それは子供とはいえ王子として教育されてきたレイとて分かっている。
きゅっと唇を引き締めたレイに、今度はレフィーナが困って眉尻を下げた。
なんて声をかけても彼を傷つけてしまいそうだ。
「……好きな人、作っちゃだめだって言ったのに!」
「レイ殿下……!」
泣きそうな震える声でレフィーナにそう言うと、レイはくるりと背を向けて走り去る。それを追いかけようとすると、ヴォルフに止められた。
「ヴォルフ様……?」
「俺が行く」
そう短く告げたヴォルフがレイを追って、その場から立ち去った。残されたレフィーナがどうしようかと視線をさ迷わせていると、レオンがそっけなく言う。
「……ヴォルフに任せておけばいいよ」
「で、でも……」
「レイのことはお気になさらず。……あれでも理解はしていますので」
レフィーナがレイを心配する表情を浮かべると、フィーリアンがゆっくりと首を横に振りながら口を挟んだ。
「レフィーナ、きっとヴォルフならレイ殿下の言いたいことを残らず受け止めてくれるわ。そしてそれはあなたの恋人になったヴォルフの役目……。だから、彼に任せましょう?」
「……はい」
ドロシーの言葉にレフィーナは、レイのことを気にしつつも、後を追っていったヴォルフに任せることにした。
「では、ドロシー。私たちは他の方にも挨拶に行こうか」
「はい」
「レフィーナはどうする? 一緒に来るかい」
立ち去ろうとしたレオンが、足を止めてレフィーナに問いかける。レフィーナは少し迷ったものの、小さく首を横に振った。
自分と一緒にいると、ドロシーにもさらに好奇の目が集まってしまうかもしれない。
先ほどから、こちらをちらちらと見ながら、ひそひそと話している令嬢たちがいる。
多くの貴族はドロシーの機嫌を窺っていたが、それは立場のある当主たちだ。その娘たちも賢い者は状況を正確に把握して、余計な話どころか好奇の視線すら向けない。しかし、中にはそうでない令嬢たちもいる。
フィーリアンがいるのでかなり控えめだが、彼女たちは明らかにレフィーナのことを馬鹿にする雰囲気を出していた。
「この方には私がついていましょう」
「……そうですか……。では、お言葉に甘えさせていただきます」
気を利かせたフィーリアンが笑みを浮かべながら、レフィーナの隣に立つ。レオンはすんなりと彼の言葉を受け入れると、頭を下げてから心配そうなドロシーと共に立ち去った。
「あの……」
「お気になさらず。本当は私がレイを追わなければならなかったところを、彼に任せてしまったので」
「え?」
「……レイは、四人目の王子なだけあって皆の関心が薄かったんです。我々兄弟も構ってやる暇がなく……。いつの間にか誰にも心を閉ざしてしまった。でも、あなたを好きになって、彼をライバル視して……。私が行ったところで何もぶつけてはくれないでしょう。でも、彼ならレイも言いたいことを言える」
少し寂しそうにフィーリアンはそう言った。
たしかに初めて会ったときのレイは寂しそうだった。そして、ヴォルフには初めからレフィーナを取られまいと敵意を向けていた。
「……レイにも婚約者がいます。彼女に目を向けてくれると嬉しい、と思うのはきっと大人の勝手な都合でしょうね」
「……いいえ」
貴族も王族も、恋だの愛だので結婚相手を選べることは少ない。レオンにしたってレフィーナが婚約破棄のために行動したおかげで、ドロシーと結婚することができたのだ。
フィーリアンの視線をたどったレフィーナは小さく微笑む。彼の視線の先にはキョロキョロと辺りを見回して、誰かを探す少女がいたのだ。
「……彼女がレイ殿下の……」
「そうです」
ツインテールに結われた茶色の髪はふわふわで、忙しなく動く瞳は綺麗な青色だ。可愛らしい少女はフィーリアンを見つけると、駆け寄ってきた。
小さな手でドレスをつまんで可愛らしく挨拶をする。
「フィーリアン殿下、こんばんは」
「リア嬢、こんばんは」
「あの、そちらの方は?」
リア、と呼ばれたレイの婚約者の少女は、大きな青い瞳をレフィーナに向ける。
レフィーナもドレスを持ち上げてお辞儀をすると、優しい笑みを浮かべた。
「初めまして。ドロシー様の専属侍女のレフィーナと申します」
「……侍女……レフィーナ……。あなたがレイ殿下の……」
「リア嬢、彼女には恋人がいる。レイの片想いだ」
「……そう、なのですか?」
「ああ」
レフィーナがレイの想い人だと知っているらしいリアが、名前を聞いて複雑そうな表情を浮かべる。しかし、フィーリアンの言葉を聞いて、すぐに表情を明るくさせた。
だがまたすぐに、複雑そうな表情に戻ってしまう。
「レイ殿下がフラれて喜ぶなんて、だめですわ……。私も片想いの辛さは分かっていますのに」
リアのことを見ていたレフィーナは、すぐに、彼女がレイに想いを寄せているのが分かった。
レイの恋が叶わないことが嬉しい気持ちと、彼が傷ついたことを心配する気持ちが、少女の中でせめぎ合っている様子だった。
そんなリアを優しい目で見るフィーリアンは、彼女にレイのことを頼む。
「リア嬢、レイはあちらの方へ向かった。……弟をお願いしてもいいか?」
「フィーリアン殿下……。失礼いたしますわ!」
フィーリアンをじっと見つめたリアは、令嬢らしくきちんと挨拶をしてから、レイとヴォルフが去っていった方へ向かった。
「リア嬢はとてもいい子です。……レイはそれをちゃんと分かっている。だから、きちんと婚約者であるリア嬢と向き合ってもらいたいのです」
「……フィーリアン殿下……」
レイは気づいていないようだが、フィーリアンも末の弟を気にかけている。時間が取れなかっただけで、兄として弟を愛しているのだ。
リアとレイを見守るときの優しい瞳を見れば、それがよく分かった。
「レイ殿下は、フィーリアン殿下のお気持ちもきっと分かってくださいます。……そういえば、フィーリアン殿下のお妃様も参加なさっているのですよね? それでしたら、どうかお妃様のところへ行ってください」
「しかし……」
「私は美味しそうなお料理をいただきますのでお気になさらず。それにお妃様を一人にして、他の女性といては悲しみます」
フィーリアンはもうすでに結婚している。以前、レフィーナがレオンと共にプリローダを訪れたのは、その婚儀に招待されたためだ。
優しそうな妃を思い出したレフィーナは、気を遣ってフィーリアンに戻るように伝えた。
「リア様が向かわれたなら、ヴォルフ様もすぐに戻ってくると思います。それに、いつまでもフィーリアン殿下をお引き留めするわけにはいきません」
レフィーナがにっこりと笑みを浮かべると、フィーリアンは困った様子で首の後ろを撫でたが、やがてゆっくりと頷いた。
「……お気遣い、ありがとうございます。では、そうさせていただきます」
「はい」
フィーリアンも笑みを浮かべると、レフィーナに背を向けて去っていった。すると、遠巻きでこそこそと見ていた令嬢たちがさっそくレフィーナの近くにやってくる。
それをちらりと見てから、気づかれないように小さくため息をついた。
団体様のご到着だ、とレフィーナは失笑をもらす。だが、やはりドロシーについていかなくて正解だった。ついていっていれば、この暇な令嬢たちの悪意がドロシーにまで及んでしまっただろう。
「……皆さん、場違いな方がいらっしゃるわぁ」
「くすくすっ。本当ですわね」
「私なら身分がなくなったら恥ずかしくて、こんな場所に来られませんわ」
目に痛いカラフルなドレスを身にまとう令嬢たちは、下の者を笑うのが大好きなのだろう。親に蝶よ花よと育てられ、貴族が偉いという考えに染まっている。
だから、嘲るのにピッタリなレフィーナをさっそく苛めに来たのだ。
……そのターゲットであるレフィーナは、まったく気にした素振りを見せず、優雅な仕草でパスタを口に運んでいた。
「んー、やっぱりプリローダはプリローダでパスタの味が違うのね」
モグモグとパスタを咀嚼するレフィーナは、近くで笑っている令嬢たちを完全に無視だ。
近くに来たときは面倒だな、とは思ったが、こういう令嬢には無視が一番いい。逆上して怒鳴り散らせば、淑女にあるまじき行動だと白い目で見られる。
さすがにそんなはしたない真似はできないことくらいは分かっているのか、レフィーナを笑いに来た令嬢たちは、相手にされず顔を真っ赤にして唇を噛んでいた。
そんな彼女たちの背後から不意に一人の男性が現れ、なだめるように声をかける。
「やあやあ、お嬢様方。可愛いお顔が台無しですぞ」
「まあ! ボースハイト伯爵様!」
「んっ?」
ボースハイト伯爵、と呼ばれた男性は焦げ茶色の髪に同色の髭を蓄え、目尻には皺が刻まれている。レフィーナの父であるアイフェルリア公爵よりも少し年齢は上だろうか。
「さあ、お父様方が可愛い娘を探していましたぞ」
「まあ、そうですの」
「せっかく美しく着飾っているのですから、ダンスを楽しまれてはいかがかな?」
「美しいだなんて、お上手ですわ!」
「いやはや、私がもっと若ければぜひ、ダンスを踊っていただきたかったくらいですよ」
歳をとっているとはいえ整った顔立ちのボースハイト伯爵は、令嬢たちに人気があるらしい。
彼女たちはすでにレフィーナから興味が失せたらしく、ボースハイト伯爵を取り囲んできゃっきゃっと騒いでいる。
女性慣れした様子の伯爵は、レフィーナにとって苦手な部類だ。
それに、ああいうタイプは何を考えているか分からない。
「ほらほら、曲が始まりましたぞ」
「そうですわね、ではボースハイト伯爵様、またお話しいたしましょう」
「楽しみにしていますぞ」
ゆったりとした曲が流れ始めて、ようやく令嬢たちは去っていった。ボースハイト伯爵はそんな彼女たちをその場から動かず見送っている。
レフィーナも迷ったが、このままでは伯爵と二人きりになるので、この場を離れるためにくるりと背を向けた。
「やあ、お待ちくださるかな?」
歩き出すより早く呼び止められて、レフィーナは思わず眉を寄せる。呼び止められたからには、止まらないといけない。
小さくため息をつき、ゆっくりと振り返ると、思っていたよりも近くにボースハイト伯爵がいて、ビクリと肩を震わせた。
「初めまして。アングイス・ボースハイトと申します」
「……初めまして、レフィーナと申します」
名乗られたからには、こちらも名乗るしかない。
レフィーナはボースハイト伯爵の値踏みするような視線に不快感を覚えたが、ぐっとこらえて愛想笑いを浮かべた。
「……やはり……相応しくないな……」
「え?」
「君、エスコートされていた騎士と恋仲なのだろう?」
先ほど令嬢たちと話していたときの柔らかな雰囲気から一変、アングイスは貴族特有の高圧的な態度で問いかける。
レフィーナは伯爵の金色の瞳を真っ直ぐに見つめ返しながら、ミリーの一件で誘拐されたときにベルグに耳打ちされた内容を思い出していた。
「……はい、そうです」
「そうかね。……だが、彼には君は相応しくないな。貴族から落ちた君は相応しくない」
「……それは、ヴォルフ様が……貴方のご子息だからですか」
レフィーナの言葉にアングイスは驚いた表情を浮かべた。
あのときベルグに教えられたのは、ヴォルフの父親がプリローダの貴族の中にいる、という情報だ。目の前にいるアングイスは、ヴォルフと同じ焦げ茶色の髪に金色の瞳をしている。
そして、先ほどの問いや言葉を重ねて考えれば……プリローダにいるヴォルフの父親がこの男だという考えに簡単に行き着いた。
「ふむ……」
驚いた表情を浮かべていたアングイスが、すっと金色の瞳を細めた。柔らかい雰囲気のときよりも、今の表情や鋭さのある雰囲気はヴォルフに近く、よく似ている。
「……君の言う通り、彼は私の子だ。……いや、そうでなければ困る」
「困る……?」
「……彼も私が父と知れば、私のもとに来るだろう。騎士なんかより貴族になる方がいいに決まっているからな」
レフィーナの疑問には答えず、アングイスは腕を組んでそう言うと、ニヤリと笑った。
「そうなれば、彼には君は相応しくない。貴族ではない小娘なんかに価値はないからな」
こちらを見ながら馬鹿にした声色で話すアングイスに、レフィーナは小さく息を吸い込む。そして、決して揺るがない緋色の瞳で真っ直ぐにアングイスを見た。
「……騎士をやめて貴族になるかも、私が相応しくないかも……どちらもヴォルフ様が決めることです。……あなたが決めることではありません」
出した声は凛としていて、震えていない。
ベルグにもらった情報が頭の片隅にあったおかげで、アングイスがヴォルフの父親だということにあまり動揺はなかった。
「身は引かない、ということかな」
「……ヴォルフ様がそう望まない限りは。私は……ヴォルフ様のことが好きですから」
アングイスはレフィーナの方から身を引かせたかったのだろうが、彼女はそんな思惑に乗るつもりはなかった。
レフィーナはヴォルフが好きだ。そして、彼の甘い瞳や声を思い出せば、自分を好きでいてくれることを疑いようもない。
ヴォルフが望むなら、喜んで身を引こう。だが、それを本人から聞くまでは自ら身を引く気などない。
「ふむ。揺さぶられても動揺しないか。だが、それも今だけだ。……短い時間で別れる覚悟を決めておくことだね。好きだの愛しているだの、下らない感情だ」
アングイスはレフィーナが思い通りにならなかったことが、面白くないのだろう。些か苛立った様子で吐き捨てるように言い残し、去っていった。
「……はぁ……」
知らず知らずのうちに肩に力が入っていたレフィーナは、ため息と共に体の力を抜いた。
アングイスの声以外は遠退いていた周りの音が明瞭に聞こえ、かなり緊張していたことに初めて気づく。
アングイスは去ったが、おそらくまた会うことになるだろう。どんな事情があるのかは知らないが、ヴォルフを自分の息子として迎え入れないといけない様子だった。
その時、後ろから唐突に声をかけられた。
「レフィーナ」
「ヴォルフ様……」
「どうした、顔色が悪いぞ」
振り返ると、レイのところから戻ってきたヴォルフが立っている。レフィーナは安堵し、その名前を呼んだ。
よっぽど顔色が悪かったのか、心配したヴォルフが顔を覗き込んできた。
「歩けるか?」
「はい……」
「人の少ないところに行って少し休むぞ」
「ありがとうございます」
ぎゅっと手を握られて、人がほとんどいない壁際まで連れられて歩いていく。
前を歩くヴォルフの焦げ茶色の髪を眺めながら、先ほどのことを話すか考える。
「あの、ヴォルフ様……」
「着いたな。ほら、ここに座れ」
「あ、あの」
「ちょっと待っていろ、水をもらってくる」
レフィーナは口を開いたものの、心配そうに気遣うヴォルフにことごとく遮られて、話をする前に彼は去って行ってしまった。
一人になったレフィーナは、アングイスのことを思い出す。ヴォルフは突然父親が分かったら、どうするのだろうか。
レフィーナには、ヴォルフが貴族になりたいと思うとは考えられない。だが、もし父親と共にいたいと願うなら、自分は身を引くしかないだろう。
そんなことを考えていると、目の前に水の入ったグラスが差し出された。
「あっ……」
「ほら、飲め」
「ありがとう、ございます」
「久しぶりの舞踏会で疲れたんだろう」
労るように頬を撫でられ、レフィーナは優しく微笑むヴォルフを見る。
アングイスのことを今度こそ話そうと口を開いたのだが、結局何も言えず口を閉じた。なんと伝えればいいのか分からなかったのと、父親を選ぶかもしれないという先ほどまではなかった不安がためらわせたのだ。
話せなくなってしまったレフィーナは、違う話題を口にした。
「……レイ殿下のご様子はどうでしたか?」
「心配しなくていい。殿下は……立派な男だからな」
「立派な男……?」
「ああ。だから、大丈夫だ」
二人の間でどんな会話があったのかは分からないが、ヴォルフの様子からしてレイは問題なさそうだ。それに今はリアも側に寄り添っているだろう。
レフィーナはほっと胸を撫で下ろした。
「……明日は一緒にいられるな」
「はい」
「楽しみだな」
愛おしそうに自分を見るヴォルフの金色の瞳を見て、レフィーナは大切なことを思い出した。
ヴォルフは自分を好きでいてくれている。何も不安になる必要などなく、レフィーナはただ彼を信じればいいのだ。それを思い出せば、先ほどはためらった言葉が口からするりと滑り出た。
「ヴォルフ様。大切なお話があります」
「なんだ、急に改まって」
「先ほど……ヴォルフ様のお父様にお会いしました」
「……は……?」
レフィーナの言葉にヴォルフが目を見開いた。レフィーナはそんな彼から視線を逸らさずに、再び口を開く。
「名前はアングイス・ボースハイト伯爵です」
「ちょ、ちょっと待て。なんで急に……。どうして、その伯爵が俺の父親だと?」
混乱した様子のヴォルフに、レフィーナは静かに言葉を重ねる。
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