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第5部
たくさんのおつり
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まだ寒い季節の澄んだ空気が心地よく感じられる晴天の下、男は一人で運河沿いの道を歩いていた。
運河といってもこのあたりは川幅の狭い小運河で、流れも穏やかだった。日の光が水面に反射してキラキラと輝いており、小さな波が岸辺の石垣にぶつかって間の抜けた音をたてている。
だが、のどかな景色とは裏腹に、男は鬱屈した思いを抱えていた。
少し逸りすぎたのは否めない。唐突に無謀な申し出をした自覚もある。
けれど、それで暇を出されるとは思わなかった。
勿論復帰することが前提の暇なのだが、いつまで、と期限が決まっているわけではない。
よほど上の人間の機嫌を損ねたらしかった。
それでも、言葉にしないわけにはいかなかった。長年の悲願であり、2度とあんなチャンスは訪れることはないのだから。
ビビアナに叱られるだろうな。
ため息を吐く男は前方から、数名がこちらに向かって走ってくるのを見つけた。
その者たちは紅潮した顔で運河を見ている。
「何の騒ぎだ?」
男は集団の1人に声をかけた。
「愛し子様がゴンドラに乗っておいでだ」
「お歌がすごく上手で、心が洗われるようだ」
興奮した者たちが男に向かって興奮した声をあげた。
「愛し子様?」
運河を見ると数艘のゴンドラがこちらに向かって進んでいて、先頭のゴンドラに愛し子が婚約者である王太子と並んで乗船していた。
愛し子は花を手に穏やかな笑みを浮かべ、時折り手を振って沿道からの声に応えている。
男は運河沿いの木の陰に隠れるようにしてゴンドラが通過するのを見送った。
二艘め、三艘めは使用人や護衛だろうか。ゴンドラの列が通り過ぎると、今度は沿道を馬に乗った騎士たちが追随していた。
男は騎士たちの後を追うように、今来た道を引き返した。
庭先にある夕凪亭専用の船着き場にゴンドラが係留されると、先に降りたヴァレリラルドがアシェルナオに手を差し出す。
「ありがとう」
手を借りて、桟橋にストンと着地したアシェルナオは、つないだ手を引っ張ってヴァレリラルドを夕凪亭に先導した。
「ヴァル、行こう」
早くロザンネとルーロフに会いたいアシェルナオに、ヴァレリラルドは目を細めてついていく。
おそらく前もってマフダルが知らせていたのだろう。庭から眺める夕凪亭の内部には客の姿はなかった。ただロザンネとルーロフが建物を背に、胸の前で手を組み合わせて待っていた。
「ロザンネ! ルーロフ!」
アシェルナオは満面の笑顔で、手を振って2人に駆け寄る。
「ああ……本当にナオ様だ……」
体の大きいルーロフは両膝を突き、両手で顔を覆う。
「しっかりおし、ルーロフ。ナオ様がこうやってお越しくださったのに」
ルーロフの肩に右手を当てて揺さぶりながら、ロザンネは左手で両目を覆っていた。
2人が泣いていると知って、アシェルナオは立ち止まる。
「ナオ?」
呼びかけに応えずに、アシェルナオはヴァレリラルドと繋いでいた手を離し、ゆっくりと2人に歩み寄った。
ただ感動にむせび泣いているというだけではない、どこかに悲痛なものを抱えているような姿に、
「心配させてごめんね」
アシェルナオは土の上に膝をつくと、ルーロフの両肩に手を置いた。
「ナオ様……」
「ずっと、ずっと長い間、悲しい思いをさせてごめんなさい」
ヴァレリラルドを庇って消えてしまったことを、アシェルナオは後悔していなかった。
けれどショトラやヴァレリラルド、ロザンネ、ルーロフ。おそらく17年前に出会った人のほとんどは、梛央を護り切れなかったこと、消失させてしまったことに責任を感じ、心に深い傷を負ったのだ。
「こうやってまた生きています!」「おめでとう!」で、すべてが解決してしまえるほど、絶望の中で過ごした歳月は短くはなかったのだ。
「いいえ、いいえ、生きておいでで、こうしてまたお会いできて、嬉しいのです」
ルーロフは顔をあげ、泣きぬれた顔で懸命に首を振る。
「……ナオ。皆が悲しい思いをしたのは私のせいだ」
横に来たヴァレリラルドがアシェルナオを立ち上がらせる。
「ううん、ヴァルのせいじゃない。みんなに悲しい思いをさせても、それでも僕はヴァルがこうして生きていてくれることの方がいい」
もし梛央がアシェルナオとして生まれ変わることがなかったのなら、それはただの悲劇だった。
そうなっていたら、ヴァレリラルドは一生自分を許さずに空虚な心で生きていただろう。それでも、ヴァレリラルドに生きていてほしかった。
「私のせいでないのなら、それ以上にナオのせいではない。それでもナオが、死んだと思わせて皆を悲しませたことを申し訳ないと思うなら、その荷は私も背負う。この先ナオがずっと私のそばにいてくれるなら、何を背負ってもたくさんのおつりがくるからね」
包み込むような笑顔を浮かべるヴァレリラルドの金色の髪が、陽の光を受けて輝く。
アシェルナオの胸に生れていた暗い蟠りを照射するように。蟠りなど消しさるように。眩しく輝く。
ヴァレリラルドの手がアシェルナオの手を握りしめる。
「うん」
アシェルナオもヴァレリラルドの手を握り返し、微笑む。
悲しい思いをさせたのは申し訳ないが、アシェルナオもまた、ヴァレリラルドと歩む未来を手放すつもりはなかった。
周囲で成り行きを見守っていたテュコやマフダルたちも、アシェルナオが笑顔を浮かべるとほっと胸を撫でおろした。
「あんたが大袈裟だから、ナオ様がびっくりしてしまわれたじゃない」
ロザンネはまだ涙の乾かない顔で弟を𠮟りつけた。
※※※※※※※※※※※※※※※※
エール、いいね、ありがとうございます。
寒い……。
運河といってもこのあたりは川幅の狭い小運河で、流れも穏やかだった。日の光が水面に反射してキラキラと輝いており、小さな波が岸辺の石垣にぶつかって間の抜けた音をたてている。
だが、のどかな景色とは裏腹に、男は鬱屈した思いを抱えていた。
少し逸りすぎたのは否めない。唐突に無謀な申し出をした自覚もある。
けれど、それで暇を出されるとは思わなかった。
勿論復帰することが前提の暇なのだが、いつまで、と期限が決まっているわけではない。
よほど上の人間の機嫌を損ねたらしかった。
それでも、言葉にしないわけにはいかなかった。長年の悲願であり、2度とあんなチャンスは訪れることはないのだから。
ビビアナに叱られるだろうな。
ため息を吐く男は前方から、数名がこちらに向かって走ってくるのを見つけた。
その者たちは紅潮した顔で運河を見ている。
「何の騒ぎだ?」
男は集団の1人に声をかけた。
「愛し子様がゴンドラに乗っておいでだ」
「お歌がすごく上手で、心が洗われるようだ」
興奮した者たちが男に向かって興奮した声をあげた。
「愛し子様?」
運河を見ると数艘のゴンドラがこちらに向かって進んでいて、先頭のゴンドラに愛し子が婚約者である王太子と並んで乗船していた。
愛し子は花を手に穏やかな笑みを浮かべ、時折り手を振って沿道からの声に応えている。
男は運河沿いの木の陰に隠れるようにしてゴンドラが通過するのを見送った。
二艘め、三艘めは使用人や護衛だろうか。ゴンドラの列が通り過ぎると、今度は沿道を馬に乗った騎士たちが追随していた。
男は騎士たちの後を追うように、今来た道を引き返した。
庭先にある夕凪亭専用の船着き場にゴンドラが係留されると、先に降りたヴァレリラルドがアシェルナオに手を差し出す。
「ありがとう」
手を借りて、桟橋にストンと着地したアシェルナオは、つないだ手を引っ張ってヴァレリラルドを夕凪亭に先導した。
「ヴァル、行こう」
早くロザンネとルーロフに会いたいアシェルナオに、ヴァレリラルドは目を細めてついていく。
おそらく前もってマフダルが知らせていたのだろう。庭から眺める夕凪亭の内部には客の姿はなかった。ただロザンネとルーロフが建物を背に、胸の前で手を組み合わせて待っていた。
「ロザンネ! ルーロフ!」
アシェルナオは満面の笑顔で、手を振って2人に駆け寄る。
「ああ……本当にナオ様だ……」
体の大きいルーロフは両膝を突き、両手で顔を覆う。
「しっかりおし、ルーロフ。ナオ様がこうやってお越しくださったのに」
ルーロフの肩に右手を当てて揺さぶりながら、ロザンネは左手で両目を覆っていた。
2人が泣いていると知って、アシェルナオは立ち止まる。
「ナオ?」
呼びかけに応えずに、アシェルナオはヴァレリラルドと繋いでいた手を離し、ゆっくりと2人に歩み寄った。
ただ感動にむせび泣いているというだけではない、どこかに悲痛なものを抱えているような姿に、
「心配させてごめんね」
アシェルナオは土の上に膝をつくと、ルーロフの両肩に手を置いた。
「ナオ様……」
「ずっと、ずっと長い間、悲しい思いをさせてごめんなさい」
ヴァレリラルドを庇って消えてしまったことを、アシェルナオは後悔していなかった。
けれどショトラやヴァレリラルド、ロザンネ、ルーロフ。おそらく17年前に出会った人のほとんどは、梛央を護り切れなかったこと、消失させてしまったことに責任を感じ、心に深い傷を負ったのだ。
「こうやってまた生きています!」「おめでとう!」で、すべてが解決してしまえるほど、絶望の中で過ごした歳月は短くはなかったのだ。
「いいえ、いいえ、生きておいでで、こうしてまたお会いできて、嬉しいのです」
ルーロフは顔をあげ、泣きぬれた顔で懸命に首を振る。
「……ナオ。皆が悲しい思いをしたのは私のせいだ」
横に来たヴァレリラルドがアシェルナオを立ち上がらせる。
「ううん、ヴァルのせいじゃない。みんなに悲しい思いをさせても、それでも僕はヴァルがこうして生きていてくれることの方がいい」
もし梛央がアシェルナオとして生まれ変わることがなかったのなら、それはただの悲劇だった。
そうなっていたら、ヴァレリラルドは一生自分を許さずに空虚な心で生きていただろう。それでも、ヴァレリラルドに生きていてほしかった。
「私のせいでないのなら、それ以上にナオのせいではない。それでもナオが、死んだと思わせて皆を悲しませたことを申し訳ないと思うなら、その荷は私も背負う。この先ナオがずっと私のそばにいてくれるなら、何を背負ってもたくさんのおつりがくるからね」
包み込むような笑顔を浮かべるヴァレリラルドの金色の髪が、陽の光を受けて輝く。
アシェルナオの胸に生れていた暗い蟠りを照射するように。蟠りなど消しさるように。眩しく輝く。
ヴァレリラルドの手がアシェルナオの手を握りしめる。
「うん」
アシェルナオもヴァレリラルドの手を握り返し、微笑む。
悲しい思いをさせたのは申し訳ないが、アシェルナオもまた、ヴァレリラルドと歩む未来を手放すつもりはなかった。
周囲で成り行きを見守っていたテュコやマフダルたちも、アシェルナオが笑顔を浮かべるとほっと胸を撫でおろした。
「あんたが大袈裟だから、ナオ様がびっくりしてしまわれたじゃない」
ロザンネはまだ涙の乾かない顔で弟を𠮟りつけた。
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エール、いいね、ありがとうございます。
寒い……。
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