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第10話
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風呂で泥と臭いを落とし、昼食を食べ、夕方になるまでは力仕事の手伝いと、結局ディヒトバイとやることが同じでつかず離れずの距離にいた。
オーナーからの話が気になるのかこれといって会話をすることもなかったが、それが逆に意識していることを浮き彫りにさせた。
夕食の前というのが少し曖昧だったが、念のため暗くなってから間を置いてディヒトバイと共にキースチァの部屋に向かった。
西棟の三階にあるクエルチア達の部屋の上、四階が客間とキースチァの仕事部屋である。
金でできた獅子の飾りがついたドアをノックする。
中から返事がした。
耳慣れたキースチァの声ではなく、低めの男性の声だ。
疑問に思いながら部屋の中に入ると、再び男の声がした。
「お、来たな」
声のしたほうを見ると、応接用の椅子に男が座っていた。その前にある低い卓には簡単な食事と果物、酒瓶がいくつか置かれている。
男は波打った金髪を後ろで括り、顎に少し髭を生やしている。
神父のような紫紺の詰め襟の上衣と揃いの生地の下衣を身につけていた。
顔はにやにやとしていて、二人を検分するように見つめている。
その姿には何となくだが見覚えがあった。
この前ディヒトバイとリングで戦ったとき、来賓席で女を侍らせていた金髪の男だ。
男は続き間の扉に向かって歩くとキースチァを呼んだ。
「キース、来たぞ」
奥からはい、と明るい返事をするキースチァの声が聞こえた。
すぐにキースチァは姿を現した。
「お疲れ様。いきなり呼びつけて悪かったね、とりあえずそこに座ってよ」
背中まで伸ばした橙の髪に、灰色のシャツ、焦げ茶のベストとズボンはいつ見ても汚れひとつない。
穏やかな顔の人懐こい笑顔はいつ見ても二十代ほどに若く見える。
いくらやり手とはいえ闘技場のオーナーがそれほど年若いとは思えないため、クエルチアは見た目より十や二十は歳を重ねているのではないかと見ていた。
二人は金髪の男の向かいに並んだ椅子に腰掛けた。
キースチァも金髪の男の隣に座る。
「話ってのは」
ディヒトバイが切り出すとキースチァが答えた。
「君達に仕事を依頼したいんだ。護衛の仕事をね」
「護衛? この人のですか?」
クエルチアが尋ねると、金髪の男が頷いた。
「そうだ、ブル・マリーノ。自己紹介をしよう。俺はアカート・ヒペリツムスキーだ」
言って金髪の男は名乗った。聞き慣れない言葉の名前である。
「それは通り名で……。クエルチア・チェルボッティです」
「ディヒトバイ・ウオルフ・ヴァン・デン・ボッシュ」
クエルチアも名乗り、ディヒトバイも渋々といった様子で名乗った。
へらへらとしたアカートのことが気に入らないらしい。
「シエルボにウオルフか。いい二人組だ。特にディヒトバイ、お前だ。ディヒトと呼んでいいか?」
二人の名前を聞いて何かに納得したようなアカートに、ディヒトバイは勝手にしろ、と答えた。
「じゃあディヒトで。そう、その名前だ、あんたフリースラントの生まれだな?」
「だからなんだ、関係あるのか」
ぶっきらぼうにディヒトバイは言う。
フリースラントというのは海を渡った先にある海沿いの国だ。
毛織物や花、特にチューリップが有名だと聞いたことがある。
ディヒトバイはここスヴェリアではない別の国の生まれだと思っていたが、どこの国かまでは考えもしなかったクエルチアは、名前を聞いただけでわかるのかと驚いた。
「フリースラント人には恩がある。代書屋時代によく稼がせてもらったからな。チューリップの取引の契約書を一日中書いて、でかい屋敷を建てたもんだ」
「関係ねえ話だな」
言い捨ててディヒトバイは顔を背けると、アカートは慌てて話を戻した。
「悪い、あんたと違って人と話すのが好きなんだ。だが、あんたにとっても悪くない話だ。俺はフリースラントに用がある。往復の護衛を頼みたい。生まれの国なら土地のことがよくわかるだろう?」
ディヒトバイは何も言わなかった。
「フリースラントって海の向こうですよね。長い旅になりそうですが、その間、闘技場を空けることになりますけど」
「それは問題ないよ。君達に頼りすぎるのも問題だし、新しい試みをしようと思ってたんだ。無論、お金は弾むよ」
キースチァの言葉を受けてアカートは話を続ける。
「大雑把に見てフリースラントまで一週間、現地で二週間、帰りに一週間の四週間ってとこだな。あんたらが週に一回戦う度に金貨三枚だって? ならその倍だ。四週間で金貨二十四枚」
「に、二十四枚……」
クエルチアは思わず口に出してしまった。
普段の報酬の金貨三枚ですら持て余して金庫に入れてもらっているというのに、一週間あたりその倍。
金貨二十枚もあれば一家族が一年暮らしていける額になる。それをぽんと払うとアカートは言う。
「受けてくれるか?」
クエルチアは隣のディヒトバイの様子を窺う。断る理由はないが、二人一緒に話を聞かされるとできることなら一緒に受けたいと思う。
「倍だ」
ディヒトバイは眉を寄せ不機嫌そうに口を開いた。
「その倍を払うなら受けてやってもいい」
金貨四十八枚でなら受けるとディヒトバイは言った。
それだけあれば一年は遊んで暮らせるだろう。
彼が金に困っているようにも見えなかった。
暗に断ると言っているのだ。
「多少は羽振りがいいようだが、たかが護衛にそんな額は払えねえだろ」
言いながらディヒトバイは用意されていたコップに酒を注ぐとぐいと仰いだ。
「払うよ、いくらでも払う」
ぴりぴりとした空気の中でキースチァが口を開いた。
「これはアカートの依頼だけど、僕からの依頼でもある。アカートは僕にとって大事な人だ。彼に護衛をつけるというなら僕の知りうる限り最高の人間をつける。それが君達だし、君達が望むならいくらだってお金を払う」
いつもは柔和な笑みを浮かべているキースチァが真摯な表情でディヒトバイに言う。
「お願いだよ。アカートはまあ、癖があるけど悪い人ではないんだよ。お菓子、特にプリンさえ与えておけば口を閉じるから」
「本人が横にいるのによくそういうことを言うな?」
「正直言って君達二人とは相性が悪すぎる組み合わせというのは重々承知している、だけど僕の目の届く範囲で一番腕が立って信頼できるのも君達だけなんだ! お願い!」
アカートの言葉をキースチァは無視して、拝み倒す勢いで彼は頭を下げた。
断る理由はないのだが、ディヒトバイが渋っているとなると、クエルチアだけが受けるとも言いにくい雰囲気だった。
「フリースラントに行きたくない理由でもあるのか?」
アカートが問うとディヒトバイは露骨に嫌そうな顔をした。それも一瞬のことで、頭を下げるキースチァを見て大きなため息をついた。
「……日頃よくしてもらってるからな、あんたの頼みなら断れねえ。引き受ける」
「本当かい?」
キースチァが顔を上げてディヒトバイのほうを見る。
それに答えるようにディヒトバイは頷いた。
「クエルチアも?」
「はい。海を越える旅なのでちょっと不安ですけど、ディヒトさんがいるなら安心できます」
「ありがとう!」
キースチァはまたいつも通りの柔和な笑みを見せた。
「よろしくな。仲良くやろう」
アカートもにやついた笑顔を見せて二人に握手を求めた。
仲良くなれるかはわからないが、四週間も共に過ごすのだ。
何も問題が起こらなければいいと思いながらクエルチアは握手を交わした。
その後、しばらく食事をしながら細かい話を詰めた。
報酬の金貨四十八枚のうち、半分の二十四枚を前金として払い、ここに帰ってきたときに残りの二十四枚を払うこと。
その他旅にかかる経費は全てアカートが払うこと、契約書を書くので後で署名することなど。
出立は三日後という話だった。
意外とすぐだと思ったものの、特に済ませておく用事があるわけでもない。
強いて言うなら、次にいつおいしい食事にありつけるかわからないので、悔いのないよう食べておくことぐらいだ。
クエルチアもディヒトバイも話を盛り上げることは苦手なので、酒に酔って上機嫌なアカートとキースチァの話に相槌を入れながら黙々と食事を口にした。
頃合いを見てディヒトバイが席を立つと、クエルチアもそれに倣って部屋を後にした。
「頼んだぞ、お二人さん」
扉を閉める間際、アカートが大きな声で言う。
ディヒトバイはそれを聞こえなかったふりをして後ろ手に扉を閉めた。
その顔には嫌そうな表情が浮かんでいた。
オーナーからの話が気になるのかこれといって会話をすることもなかったが、それが逆に意識していることを浮き彫りにさせた。
夕食の前というのが少し曖昧だったが、念のため暗くなってから間を置いてディヒトバイと共にキースチァの部屋に向かった。
西棟の三階にあるクエルチア達の部屋の上、四階が客間とキースチァの仕事部屋である。
金でできた獅子の飾りがついたドアをノックする。
中から返事がした。
耳慣れたキースチァの声ではなく、低めの男性の声だ。
疑問に思いながら部屋の中に入ると、再び男の声がした。
「お、来たな」
声のしたほうを見ると、応接用の椅子に男が座っていた。その前にある低い卓には簡単な食事と果物、酒瓶がいくつか置かれている。
男は波打った金髪を後ろで括り、顎に少し髭を生やしている。
神父のような紫紺の詰め襟の上衣と揃いの生地の下衣を身につけていた。
顔はにやにやとしていて、二人を検分するように見つめている。
その姿には何となくだが見覚えがあった。
この前ディヒトバイとリングで戦ったとき、来賓席で女を侍らせていた金髪の男だ。
男は続き間の扉に向かって歩くとキースチァを呼んだ。
「キース、来たぞ」
奥からはい、と明るい返事をするキースチァの声が聞こえた。
すぐにキースチァは姿を現した。
「お疲れ様。いきなり呼びつけて悪かったね、とりあえずそこに座ってよ」
背中まで伸ばした橙の髪に、灰色のシャツ、焦げ茶のベストとズボンはいつ見ても汚れひとつない。
穏やかな顔の人懐こい笑顔はいつ見ても二十代ほどに若く見える。
いくらやり手とはいえ闘技場のオーナーがそれほど年若いとは思えないため、クエルチアは見た目より十や二十は歳を重ねているのではないかと見ていた。
二人は金髪の男の向かいに並んだ椅子に腰掛けた。
キースチァも金髪の男の隣に座る。
「話ってのは」
ディヒトバイが切り出すとキースチァが答えた。
「君達に仕事を依頼したいんだ。護衛の仕事をね」
「護衛? この人のですか?」
クエルチアが尋ねると、金髪の男が頷いた。
「そうだ、ブル・マリーノ。自己紹介をしよう。俺はアカート・ヒペリツムスキーだ」
言って金髪の男は名乗った。聞き慣れない言葉の名前である。
「それは通り名で……。クエルチア・チェルボッティです」
「ディヒトバイ・ウオルフ・ヴァン・デン・ボッシュ」
クエルチアも名乗り、ディヒトバイも渋々といった様子で名乗った。
へらへらとしたアカートのことが気に入らないらしい。
「シエルボにウオルフか。いい二人組だ。特にディヒトバイ、お前だ。ディヒトと呼んでいいか?」
二人の名前を聞いて何かに納得したようなアカートに、ディヒトバイは勝手にしろ、と答えた。
「じゃあディヒトで。そう、その名前だ、あんたフリースラントの生まれだな?」
「だからなんだ、関係あるのか」
ぶっきらぼうにディヒトバイは言う。
フリースラントというのは海を渡った先にある海沿いの国だ。
毛織物や花、特にチューリップが有名だと聞いたことがある。
ディヒトバイはここスヴェリアではない別の国の生まれだと思っていたが、どこの国かまでは考えもしなかったクエルチアは、名前を聞いただけでわかるのかと驚いた。
「フリースラント人には恩がある。代書屋時代によく稼がせてもらったからな。チューリップの取引の契約書を一日中書いて、でかい屋敷を建てたもんだ」
「関係ねえ話だな」
言い捨ててディヒトバイは顔を背けると、アカートは慌てて話を戻した。
「悪い、あんたと違って人と話すのが好きなんだ。だが、あんたにとっても悪くない話だ。俺はフリースラントに用がある。往復の護衛を頼みたい。生まれの国なら土地のことがよくわかるだろう?」
ディヒトバイは何も言わなかった。
「フリースラントって海の向こうですよね。長い旅になりそうですが、その間、闘技場を空けることになりますけど」
「それは問題ないよ。君達に頼りすぎるのも問題だし、新しい試みをしようと思ってたんだ。無論、お金は弾むよ」
キースチァの言葉を受けてアカートは話を続ける。
「大雑把に見てフリースラントまで一週間、現地で二週間、帰りに一週間の四週間ってとこだな。あんたらが週に一回戦う度に金貨三枚だって? ならその倍だ。四週間で金貨二十四枚」
「に、二十四枚……」
クエルチアは思わず口に出してしまった。
普段の報酬の金貨三枚ですら持て余して金庫に入れてもらっているというのに、一週間あたりその倍。
金貨二十枚もあれば一家族が一年暮らしていける額になる。それをぽんと払うとアカートは言う。
「受けてくれるか?」
クエルチアは隣のディヒトバイの様子を窺う。断る理由はないが、二人一緒に話を聞かされるとできることなら一緒に受けたいと思う。
「倍だ」
ディヒトバイは眉を寄せ不機嫌そうに口を開いた。
「その倍を払うなら受けてやってもいい」
金貨四十八枚でなら受けるとディヒトバイは言った。
それだけあれば一年は遊んで暮らせるだろう。
彼が金に困っているようにも見えなかった。
暗に断ると言っているのだ。
「多少は羽振りがいいようだが、たかが護衛にそんな額は払えねえだろ」
言いながらディヒトバイは用意されていたコップに酒を注ぐとぐいと仰いだ。
「払うよ、いくらでも払う」
ぴりぴりとした空気の中でキースチァが口を開いた。
「これはアカートの依頼だけど、僕からの依頼でもある。アカートは僕にとって大事な人だ。彼に護衛をつけるというなら僕の知りうる限り最高の人間をつける。それが君達だし、君達が望むならいくらだってお金を払う」
いつもは柔和な笑みを浮かべているキースチァが真摯な表情でディヒトバイに言う。
「お願いだよ。アカートはまあ、癖があるけど悪い人ではないんだよ。お菓子、特にプリンさえ与えておけば口を閉じるから」
「本人が横にいるのによくそういうことを言うな?」
「正直言って君達二人とは相性が悪すぎる組み合わせというのは重々承知している、だけど僕の目の届く範囲で一番腕が立って信頼できるのも君達だけなんだ! お願い!」
アカートの言葉をキースチァは無視して、拝み倒す勢いで彼は頭を下げた。
断る理由はないのだが、ディヒトバイが渋っているとなると、クエルチアだけが受けるとも言いにくい雰囲気だった。
「フリースラントに行きたくない理由でもあるのか?」
アカートが問うとディヒトバイは露骨に嫌そうな顔をした。それも一瞬のことで、頭を下げるキースチァを見て大きなため息をついた。
「……日頃よくしてもらってるからな、あんたの頼みなら断れねえ。引き受ける」
「本当かい?」
キースチァが顔を上げてディヒトバイのほうを見る。
それに答えるようにディヒトバイは頷いた。
「クエルチアも?」
「はい。海を越える旅なのでちょっと不安ですけど、ディヒトさんがいるなら安心できます」
「ありがとう!」
キースチァはまたいつも通りの柔和な笑みを見せた。
「よろしくな。仲良くやろう」
アカートもにやついた笑顔を見せて二人に握手を求めた。
仲良くなれるかはわからないが、四週間も共に過ごすのだ。
何も問題が起こらなければいいと思いながらクエルチアは握手を交わした。
その後、しばらく食事をしながら細かい話を詰めた。
報酬の金貨四十八枚のうち、半分の二十四枚を前金として払い、ここに帰ってきたときに残りの二十四枚を払うこと。
その他旅にかかる経費は全てアカートが払うこと、契約書を書くので後で署名することなど。
出立は三日後という話だった。
意外とすぐだと思ったものの、特に済ませておく用事があるわけでもない。
強いて言うなら、次にいつおいしい食事にありつけるかわからないので、悔いのないよう食べておくことぐらいだ。
クエルチアもディヒトバイも話を盛り上げることは苦手なので、酒に酔って上機嫌なアカートとキースチァの話に相槌を入れながら黙々と食事を口にした。
頃合いを見てディヒトバイが席を立つと、クエルチアもそれに倣って部屋を後にした。
「頼んだぞ、お二人さん」
扉を閉める間際、アカートが大きな声で言う。
ディヒトバイはそれを聞こえなかったふりをして後ろ手に扉を閉めた。
その顔には嫌そうな表情が浮かんでいた。
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