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第六章

127.ユディトさんほどの剛腕だったら、骨はまっすぐに断ち切られているはずだよな。

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 ロンドンのタワーブリッチからメリージに突き落とされたのを救ったのは、バーントの死神。そして、連れて行かれた部屋に時間差でやってきたのは父親ロレンツォ。バーントの死神はそのときはもう姿を消していた。


「バーントの死神さんは、いや父さんは、ユディトさんに襲われた俺を助けようとして戦ってくれた訳じゃなかったんだな。サライが、父さんが美術限定の警察みたいなことをしているって言っていたから、彼女のことを追っていたんだ。そして、レオさんは父さんは秘密主義で周りを欺くようことをするって」


 アンジェロは絵から離れ、目を怪我したムンディの部屋をそっと覗く。

 もうレオの姿は無かった。

 ベットサイドにぼんやりと包帯を巻かれたムンディが座っていた。

 血がまだ完全に止まらないのか、包帯に下向きの半楕円の血の跡が浮いている。


「おかしい」


 アンジェロは即座に呟いた。


「サライと俺がいる館に襲撃してきたのは、絶対にユディトさんだと思いこんでいたけど、ユディトさんは平剣の使い手みたいだから、こんな下弦の月みたいなゆるくカーブした傷は残せないはず」


 腕組みして考え込む。


「そして、レオさんに犯人のことを詳しく聞こうとしたら、敵だろうってぼんやりした答え」


 アンジェロは、老人の頭部を鷲掴みにしていたユディトの姿を脳裏に思い浮かべる。


「あの切断面はどうなっているんだろう?ユディトさんほどの剛腕だったら、骨はまっすぐに断ち切られているはずだよな。きっと筋肉組織も同じように。―――我を助けよってそういうこと?」


 真犯人像の想像を避けるように目を瞑る。だが、瞼の裏にちらつくのは、鈍色に光る鉄の穂だ。

 アンジェロは何かに突き動かされるように、館を出た。

 どこをどう歩いたのか覚えていない。

 いつの間にか、通学路として使っている細い路地を息を弾ませながら歩いていた。

 目立つ落書きがある。随分前に書かれたもので、日本のアニメ映画に出てくる顔の無い神様が泣いているものだ。
 いつも立ち止まってしまう場所だった。

 吹き出しには、『この国にとどまりたい。屋根のあるところで暮らしたい。ビザをください。誰でもいいから、私と結婚して』と書いてあるからだ。

 きっと移民の子。

 この子からしたら自分はかなり幸せ、なはず。

 衣食住事足りて学校にも通わせてもらって。ビザを得るために、誰でもいいから結婚してなんて悲しいことを言わなくてもいい。

 これを一番最初に見たときに感じたのはシンパシー。

 自分とは違う種類の不幸を抱えた子がいるんだなと思った。

 次にやってきたのは、ひそかな優越。

 鬱陶しさしかないと思っていても、ロレンツォの息子ということでチヤホヤされるのは内心、気持ちが良かったりする。
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