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漆 三国峠ノ妖ノ章

漆ノ陸 残された二人

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 化け猫と二人が谷に消えていき、ヒナな真っ暗闇をのぞき込んで涙を流します。

「あうううう。フエノさん、ナギお兄さん……。やくにたちたいのに、わたし、こんなときはなにもできないのね」

『チチチチ。嬢ちゃん泣かないでほしいっさ。旦那はこれくらいで死ぬようなたまじゃないっさ。きっと鬼の兄さんが無事連れてもどってくれまさ』

 ヒナに聞こえないとはわかっていても、雀は思いつく限りいたわりの言葉をかけます。

「ナギが自らの意思で誰かのために動くのははじめて見たな」

 政信は真っ暗な谷を見下ろしながらつぶやきました。


 ナギが師に引き取られてきたのは、政信が七つ、陰陽道の修行をはじめた年のことです。
 その頃の政信は、あやかしの声を聞き未来を視える天賦の才をもっていました。
 土浦安永に師事を仰ぐようになったのもそのためです。

 鬼と人の混血である赤子は屋敷の皆から恐れられ、師以外の誰も近寄ろうとはしませんでした。

「どうか怖がらないでおくれ。この子はたしかに鬼の血を引いているけれど、人でもある。人として育ててやりたいのだ」

 尊敬する師に言われ、政信は少しずつナギに話しかけるようになりました。
 けれどナギは人の悪意にとても敏感で、政信が話しかけるのも、師匠のために仕方なくであることを見抜いていました。

「嫌なら話しかけてくるな」
 
 幼いなりの気遣いを無下にされて、政信はいっそうナギのことを嫌いになりました。

 成長したナギは陰陽道を学ぶことを望み、政信と優劣を争うまでになります。十にもならぬ歳でオサキギツネを式神として従える。

 半妖が師匠に大切にされているだけでも気に食わないのに、政信より若いうちに式神をもつ。政信の矜持をいたく傷つけました。

 嫌われるのを恐れて人の顔色をうかがってばかりのくせに、生意気な。
 人によってはナギの性格を謙遜・謙虚と取るでしょうが、政信には卑屈なだけに見えます。

 成長したふたりは意見が合わずぶつかることが多くなり、師は仲の悪い兄弟弟子にひっそりため息をつくのです。

 そうして昨年春、師の物忌みの時期にあやかし退治の依頼がきて、ナギが名代として遠征することになったのです。



「嫌われたくなくて人の言うことに従ってばかりだった子どもが、一年見ない間にずいぶんと丸くなったものだな」

 意見が合わないしナギのことが気に食わないのは変わりないですが、ナギが心から誰かのために命がけになれることを、少しだけ誇らしく思いました。

「アニデシさん、ナギお兄さん大丈夫かな。フエノさん、大丈夫かな」

 不安にかられて再び泣き出しそうなヒナを宥め、政信は扇子で口元を隠して笑います。

「心配無用だよ、お嬢さん。あれでも不肖ながら安永さまの弟子。必ずフェノエレーゼさんを連れて戻る。それまで君はここで待ちなさい。安全なところで待つことも仕事のうちだ。見えもしないのに夜の森で迷ったら、生きては戻れないからね」

 自信満々に言われ、ヒナは袖で涙をぬぐい笑います。

「わかったわ! わたし、ちゃんと待ってる。フエノさんたちがもどってきたらきっとお腹すかせてるわよね。ごはんのじゅんびをしておくわ」

 おとなしく待つよう言われても、結局何かしたくて動いてしまう。ききわけがいいようで悪い子に政信は苦笑します。

「アニデシさんも手伝って。おいしいごはんをつくってまちましょ」

『チチチチ。めしでさ、めしでさ! あっしは団子がほしいでさ!』

 ヒナは背負っていた風呂敷を広げて、政信を呼びます。

「ふぅ。仕方ないですね」

 政信は一度だけ谷を振り返って、呼びかけます。

「フェノエレーゼさんと無事に戻ってこなければ承知しないからな、ナギ」
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