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第7章 腕
腕Ⅱ
しおりを挟むこの人は何を言っているのだろう。理解したくない。
私の左腕が元に戻らないなんて。絶対に信じない。
左手を見詰める私に、医者は「失礼致します」とだけ言って出ていってしまった。
「……なんで!? ねえ、なんで!? ミエラは何も悪い事なんてしてないでしょ!? ねえ、何なのー!」
「ヒルダ、落ち着いて」
部屋にお姉様の泣き声だけが響く。
私はと言うと、心が何処かへ行ってしまったかのようだ。涙も出てこないし、怒りすら沸いてこない。
「……取り敢えず、本邸に行こう? 私もゆっくり休みたいし」
「ミエラ……」
クラウは私と視線を合わせ、悲しそうな顔で私の頬を撫でる。
「ん~?」
「無理しないで」
「無理してないよ?」
無理なんてしていない。していないから涙が出ないのだ。
クラウは私の頭を抱き、自身の胸に引き寄せた。
「……帰ろっか」
「うん」
小さな囁きに、頷いてみせる。
それから慌ただしく帰り支度が行われた。とは言っても、私は着替えくらいで終わった。
クラウと手を繋いでエントランスを出る。馬車は二台到着していた。前の馬車にクラウと私、ルーナ、もう一人の執事が、後ろの馬車にお兄様とお姉様、執事とメイドがそれぞれ一人ずつ乗り込んだ。
腰を落ち着かせると、僅かな時間を置いて馬車は動き始める。流れる車窓を何となく眺めてみる。
「ライアン」
「はい。お嬢様」
聞き慣れない声に振り向くと、私たちと同じ歳くらいの茶髪の執事が此方を見ていた。
「僕はライアンと申します。クローディオ様の専属執事、兼、執事長です。お見知り置き下さい」
「うん、お願いします」
お辞儀しそうになったものの、咄嗟に止めた。先日、ルーナにお辞儀をしそうになって止められたのを思い出したのだ。
クラウの顔を見上げてみると、此方を向いて微笑んでいた。
「クローディオ……」
「ん?」
「私、疲れちゃった……」
「……大丈夫。無理しないで寝て?」
酷い眠気と現実逃避に抗う事もせず、クラウに身体を預けた。重い瞼を伏せる──
ふわふわとした感覚に襲われる。まるで雲の上を歩いているかのようだ。
目の前に居るのはリエルで、私はカノンと呼ばれていて。あの真っ白な花畑で結婚の約束をした。左手の小指には緑色の石が付いた指輪が輝いている。遠い、遠い昔の記憶──
久し振りにカノンの夢を見た気がする。
ゆっくりと瞼を開けると、まだ馬車の中だった。馬の蹄と滑車が動く音が聞こえる。視界には私の左手の青と緑の石が並んだ結婚指輪が映っていた。
「ん~……」
「あっ。起きた?」
頭を僅かに上げて頷くと、傷を避けて左腕を抱かれた。
「そのままで良いよ」
「……うん」
再び身体をクラウに預ける。
「カノンとリエルの夢、見た」
「……そっか」
その後、沈黙が続く。
以前ルーナには話したから分かるだろうけれど、ライアンは何の事を言っているのかさっぱり分からないだろう。クラウも私も話し出そうとはせず、ただ温もりに縋る。
どれくらいそうしていただろう。馬車の速度が徐々に落ちていった。
「ミエラ、着いたよ」
言われ、ようやく身体を起こした。クラウが座っている右側の車窓を見てみると、あの大豪邸の扉が目に映った。
先頭で馬車を降り、扉に歩み寄る。最後尾のライアンがドアノッカーを叩くと、すぐさま扉は開かれた。温かい空気が辺りに広がる。
「ミエラ!」
この声はお母様だ。直ぐに銀髪の女性が走り寄って来てくれ、私に飛び付いた。
「ごめんなさいね! 本当にごめんなさいね! 私が貴女を一人にしたから!」
「お母様……」
お母様が謝る事なんて無いのに。お母様は成すべき事をしただけだ。
戸惑っていると、今度は大きな手が頭に乗った。
「よく帰ってきてくれたね。生きていてくれて良かった」
「お父様……」
声のした方を振り向くと、お父様は悲しそうに微笑んでいた。
「さあ、中に入って」
お母様がゆっくりと私から離れ、お父様も私の背中をそっと押すので、薄暗い屋敷の中へと足を踏み入れた。クラウにエスコートされながらエントランスを通り抜け、リビングへと入る。そのままルーナに引かれた椅子に座った。私の隣にはクラウが、向かいにはお父様とお母様が座る。
息を着いたのも束の間、お父様は口を開く。
「クローディオ、ライアン。事件のあらましを話してくれないか?」
「でも、ミエラが──」
「私は……大丈夫」
何かを言われたとしても、これ以上傷付く事は無いだろう。と、クラウの声を遮っていた。
「ホント?」
「うん」
瞼を伏せながら、ゆっくりと頷く。
「じゃあ、話すよ? ……父さんたちが知ってる通り、事件は皆が寝静まった真夜中に起きた」
何かおかしな所があれば、訂正しなければ。しっかりと耳を傾ける。
「クローゼットに隠れてた犯人は、いきなりミエラを襲った。抵抗されて、ミエラの腕と首を切り付けて、そのまま窓から逃走。西の森に逃げ込んだ。犯人の目的は……ミエラの誘拐」
「誘拐……だと!?」
驚愕するお父様に、クラウと私で頷いてみせる。
「凶器はこれです」
いつの間にかクラウの隣に立っていたライアンが、テーブルの上に麻布に包まれた何かを置いた。金属の硬い音が鳴り響く。その手で布が剥がされていく。
中にあったのはシルバーの短剣だった。切先には血痕が付着している。
──私の血だ。左腕が妙に傷んだ気がした。
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