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第九章 中原の覇者と魔王の片鱗
第百十話 玉白の身請け
しおりを挟む“降龍の谷”の住民たちは、黄巾の乱が勃発すると、比較的戦乱の少なかった徐州へ逃れ、玉白もまた、玄徳の侍女として仕えていた明明たちと共に琅邪郡へと移り住んだのであった。
そこで、地元の名士の屋敷で侍女として雇われていたが、卞遠と言う賈人に気に入られ、玉白は彼の養女として迎えられたのである。
卞遠は、他にも身寄りの無い何人もの子供を養子として引き取っており、家は裕福とは言い難かった。
成長した彼女は、やがて邑一番の美少女として知られる様になり、歌妓となって家族を養う様になっていたのである。
玉白は、既に十五歳となっていた。
孟徳の記憶の中の玉白は、まだ邪気無いままの姿で、目の前に座る細りとした美少女が、あの玉白だとはとても信じ難い程である。
しかし孟徳には、一目でその少女が玉白だと分かった。
良く良く見れば、確かにその顔には面影が残っている。
彼女の憂いを帯びた眼差しは、あの頃のままであった。
「玉白…美しくなったな。」
孟徳が彼女を見詰めて染み染みそう言うと、玉白は耳の先まで真っ赤になって俯いた。
宴は果て、既に宴会の参加者たちは帰路に就いている。
孟徳は玉白と二人きりで居室へ入り、小さな燭台の灯りの下で、彼女の白く美しい項を眺めた。
やがて紅潮した顔を上げた玉白は、潤んだ瞳を輝かせながら艷やかな唇を震わせる。
「孟徳…私の事なんて、もう忘れてると思ってた…」
「忘れる筈が無いであろう…!お前の事を、今まで探していたのだぞ…」
孟徳は苦笑を浮かべ、首を大きく振った。
「私も…ずっと、ずっと会いたかった…!」
その途端、玉白の瞳から大粒の泪が溢れ落ちたかと思うと、彼女は咄嗟に孟徳の胸に飛び込み、強く彼に抱き着いた。
震える玉白の白く細い肩を抱き寄せ、彼女の肩に掛かる長い艷やかな髪を撫で下ろすと、孟徳はその体を強く抱き締め、その柔らかく甘い香りを吸い込みながら彼女の髪に頬を寄せた。
翌日、孟徳は早速、楽団の団長の元を訪れ、玉白を引き取る相談を持ち掛けたが、彼はその話を渋い表情で聞いていた。
「玉白を“身請け”してぇって事か?だが、あの娘はうちの看板だからなあ…」
「勿論、只とは言わぬ。幾ら用意すれば良い?」
「そうさなぁ、ざっと見積もって…金百万ってところだな…!」
「…!!」
金百万とは大金である。
簡単に用意出来る額では無かったが、玉白を自由にしてやる為なら惜しんではいられない。
「分かった、十日の内に用意しよう。それまで待って貰えぬか?」
「ああ、いいぜ。きっちり十日後に支払って貰おう。」
早速、孟徳は仲間たちと相談し、近隣の邑々を巡って豪族や貴族たちに融資を持ち掛ける事にした。
「しかし、金百万とは…軍馬が数十頭は手に入る額ですね。」
「楽団長の男は、全く欲深い奴だ…!」
孟徳の話を聞いた李曼成と楽文謙の二人は、呆れて愚痴を吐いたが、彼らが手分けをして金集めに奔走してくれたお陰で、八日が経過し、孟徳の元には凡そ九十万近くの金額が集まっていた。
「孟徳様、あと少しで目標額に届きますね!」
「だが、殆どの邑は回ったし、もう当ては有りませんぞ…!」
集められた金を嬉しそうに数える曼成を尻目に文謙がそう言うと、孟徳は腕を胸の前に組み、眉根を寄せて深く考え込んだ。
やがて、孟徳はふと思い付いた様に、ぱっと顔を上げて二人を見詰めると、
「お前たち…歌は得意か?」
と問い掛ける。
「…歌、ですか?」
文謙と曼成は互いの顔を見合わせて首を大きく傾げ、怪訝な顔付きで問い返した。
邑の一画にある大きな広場に立派な舞台が建てられ、邑の住民たちが何事かと集まり始めていた。
それは昨日、孟徳と部下の兵士たちが徹夜で完成させた物である。
『 晨に上る散関の山、
此の道當に何ぞ険しき事よ…!
晨に上る散関の山、
此の道當に何ぞ険しき事よ…! 』
突然、舞台に現れた文謙が大声で歌い始める。
続いて現れた曼成も、同じように歌い始めた。
『 牛は倒れて起きず、
車は谷間に堕ちぬ。
盤石の上に座し、
五弦の琴を爪弾かん。 』
集まった民衆は皆、暫し呆気に取られた様子でそれを見ていたが、やがて美しい琴の音色が辺りに響き渡ると、皆手を打って喝采を送った。
『 作り為すは清角の韻、
意中は迷い煩う。
歌いて以て志を詠ぜん、
晨に上る散関の山 』
舞台の上で踊り歌うのは、孟徳の配下の将たちである。
舞台袖には、優雅に琴を奏でる孟徳の姿があった。
民衆の騒ぎに駆け付けた玉白は、人々を掻き分けながら舞台の下まで来ると、息を弾ませ頬を紅くしながら、孟徳の姿を見詰めた。
それに気付き、孟徳は視線を玉白に向けると、彼女に柔らかく微笑み掛ける。
笑顔でそれに応える玉白は、やがて文謙と曼成の二人に腕を取られ、忽ち舞台の上へ持ち上げられた。
玉白は孟徳の琴に合わせ、即興の舞を披露する。
その美しさと見事さに、人々からは大きな感嘆の声が上がり、舞台は更に盛り上がりを見せた。
美しく舞い踊る玉白の姿を、孟徳はただ目を細めて見詰めていたが、胸に湧き上がる愛おしさを琴の音色に乗せて奏で続ける。
彼らの舞台は、民衆たちの間で大盛況の内に幕を下ろしたのであった。
十日目の朝、孟徳は集めた金を団長の宿舎へと運び込んだ。
「約束の金百万を用意した。数えてくれ。」
すると、団長は孟徳の顔を見上げ、小さく鼻で笑う。
「これでは足りぬ…!百五十万だ。」
「?!馬鹿な、百万の約束ではないか…?!」
思わず孟徳は声を荒げ、団長の前に置かれた卓を強く拳で叩いた。
「十日の間に値が上がったのだ。あと三日待ってやるよ、五十万用意しろ。」
団長は太々しく、指を立てて孟徳の前に付き出す。
「……っ!!」
孟徳は強く唇を噛み締めたが、その場は大人しく引き下がり、直ぐに宿舎へと戻ると再び配下たちと話し合った。
「そんな奴は斬り捨ててやれば良いのだ…!」
話を聞いた文謙は怒りを露わにし、曼成は大きな溜め息を吐く。
「三日後には、再び値を上げて来るに違いありませんね。」
「ああ、団長は初めから玉白を手放す気が無かったのだ…!」
孟徳が強く眉根を寄せ唸る様に言うと、傍らに座していた玉白が彼の手を取った。
「孟徳…私の為に、有り難う。私…もう一度、孟徳に会えて本当に嬉しかった。」
玉白の瞳には、大粒の泪が浮かんでいた。
「私、孟徳の事を絶対に忘れない。だから、貴方も忘れないでね…」
「玉白…」
孟徳は彼女の手を握り締め、ただ悔しさを噛み締めながら見詰め返す事しか出来ない。
その時、部屋へ現れた曼成の配下の者が、彼に小さく耳打ちをし、少し怪訝な様子で眉を顰た曼成は、孟徳に向き直り彼に告げた。
「孟徳様、殿に面会したいと申している者が、表門へ来ているそうです。」
「…?!」
孟徳が直ぐに宿舎の表へ出て行くと、門の前に初老の男性が馬を引いて立っている。
「どちら様でしょうか?」
「貴方様が、噂に名高い曹孟徳殿ですか?」
声を掛けると、男は満面の笑みを浮かべて彼を見詰める。
「…父上様…!」
背後から、後を追い掛けて来た玉白の声が聞こえ、孟徳はそちらを振り返った。
「父上…?!」
「おお、玉白。元気そうじゃな…!」
孟徳は驚き、改めて男を顧みる。
男は顔をくしゃくしゃにしながら、可愛い娘の姿を眺めて笑った。
男は、玉白の養父である卞遠と言う賈人であった。
娘を身請けしたいと申し出た人物がいる事を聞き付け、この城邑までやって来たのである。
「わしは、あの団長の欲深さを良く知っておる…その様な事態になっているであろう事は、予測出来た…」
団長との話を聞くと、卞遠は大きく頷きながら言った。
そして、傍らの玉白を振り返り、彼女の細い肩に優しく手を乗せる。
「だが玉白、心配は要らぬぞ。わしは、この日の為に、お前から送られて来た金を大切に隠しておいた。姉弟たちも、お前の為に金を出し合ってくれたのだぞ。」
そう言うと、卞遠は従者の者を呼び寄せ、大きな箱に詰めた金銭を室内へ運び込ませる。
孟徳の配下たちがそれを数えると、丁度金五十万に達する額であった。
「お前には、今まで苦労を掛けたな…玉白。」
「父上様…!」
玉白の大きな瞳から途端に泪が溢れ出すと、養父の胸に縋り付き、肩を震わせて泣いた。
卞遠は優しくその肩を撫で下ろし、潤んだ瞳で孟徳を振り返る。
「孟徳殿…どうか、娘を宜しくお願いします。」
「いえ、お父上。礼を言うのは此方の方です…!今まで、玉白の事を育てて頂き、本当に有り難う御座いました…!」
孟徳は卞遠の前に額突き、深く頭を下げて彼に感謝の言葉を述べた。
その後、再び団長の元を訪れ金百五十万を差し出すと、団長は渋い顔で孟徳を睨みつけたが、流石に反論出来ず、
「良いだろう…!約束は約束だ、玉白はあんたにくれてやるよ…!」
そう言って、悔しげに捨て台詞を吐いたのであった。
孟徳は玉白の手を取り、共に城壁の上に登って沈む夕陽を眺めた。
「明日には、虎淵と共に俺の父上が州境へ辿り着く予定になっている。お前も一緒に連れて行ってやるからな。」
そう言って笑い、彼女の肩を抱き寄せる。
「俺には、鈴星と言う妻がいる。少し気は強いが心根の優しい娘だ。」
玉白は頬を紅く染め嬉しそうに彼の顔を見上げていたが、それを聞くと少し眉宇の辺りを翳らせた。
孟徳に既に妻がいる事は知っていたし、覚悟も出来ていたが、彼の口から言われると酷く現実味を帯びていて、心の何処かが痛むのを感じる。
その様子を見て、孟徳は彼女の肩を更に強く抱き寄せると陽気な声で言った。
「心配するな、玉白。お前の事は俺が守ってやる。きっと、上手くやって行けるさ…!」
夕陽に照らされた孟徳の笑顔は、例えようの無い程に美しく輝いている。
それを見詰めると、今は只、彼の側に居られるだけで幸せなのだと感じ、玉白は孟徳の胸に強く抱き着いた。
「孟徳…私、貴方の側に居られたら、それだけで幸せ…!」
玉白はうっとりと瞼を閉じ、耳に伝わる彼の鼓動を安らかな気持ちで聞いている。
やがて紫紺に染まる東の空を振り返り遠く眺めた孟徳は、棚引く雲を指差しながら、
「今夜は一雨来そうだな…明日は晴れると良いが…」
そう小さく呟いた。
雨脚は次第に強まり、兗州へ向かっていた曹巨高の一行は、泰山付近の費、葉両県の境辺りで足止めを食らい、小さな山寺に宿を借りる事にした。
彼らの一行は、此処へ至るまで全く問題なく順調に旅を続けて来た。
それも陶恭祖の配下、張闓が兵を率いて彼らを護衛して来てくれたお陰である。
更に、張闓は巨高らを山寺へ送り届けると、自らは兵たちと山の中に陣を張り、外敵から彼らを護ってくれると言う。
巨高は、張闓に深々と礼をし感謝の意を伝え、兵士たちに貴重な食糧を分け与えた。
「曹氏、今宵は安心して休まれると良い。この雨では山賊らの襲撃も有るまいし、我々が見張っております故。明日には、無事に州境を超えられるでしょう。それでは…」
「張将軍、今まで大変世話になりました。明日でお別れとは実に寂しいが、御恩は決して忘れません。」
巨高は名残惜しげにそう言うと、去り行く張闓の後ろ姿を見送った。
深夜になると、更に本格的な嵐となり、強風が建物の扉をガタガタと鳴らす。
従者たちは寝静まっていたが、激しい物音に赤子が目を覚まし泣き始めた。
「良し良し、大丈夫だ。泣くのはお止し。」
鈴星は赤子を揺り籠から抱き上げ、胸に抱いて優しくあやす。
それに気付いた虎淵も起き出し、着物を整えながら彼女に近付いた。
「鈴星様は眠って下さい。僕がやりますから…」
「大丈夫だ。それに、明日には孟徳に会えると思うと…何だか眠れぬのだ。」
鈴星は微笑し、頬を紅く染めて答える。
「実は、僕も同じです。」
虎淵が頭を掻きながら言うと、二人は互いの顔を見てクスクスと笑う。
「?!」
その時、突然、虎淵が何かに気付いて辺りを見回した。
「虎淵、どうした?」
「しっ…!外に何かが居ます…!」
「…?!」
鈴星は不安な面持ちで、赤子を強く抱き締める。
「主様と妻を起こして下さい。僕は表を見て来ます…!」
そう言うと虎淵は素早く剣を佩き、表の門の方へ向かって走って行った。
外では相変わらず激しい雨音が響いている。
虎淵は寺院の門扉を少しだけ開いて、外の様子を伺った。
外は明かり一つ無く、漆黒の闇である。
暗闇に目を凝らしていると、突然、雷光が閃き辺りを明るく照らし出した。
その途端、何者かの黒い影が浮かび上がり、虎淵は咄嗟に剣を抜き放って斬り掛かる。
「虎淵殿!私です…!」
「ち、張闓殿…っ?!」
その声に驚き、虎淵は振り上げた剣を頭上で停止させた。
「山賊が現れました!この寺院に侵入するのを見て、後を追って来たのです…!急ぎ曹氏にお伝え下さい!」
「分かりました。では、一緒に主殿の元へ参りましょう…!」
そう言って虎淵が後ろを振り返った時、張闓は眼光を鋭く光らせたかと思うと素早く剣を抜き放ち、彼の背後から襲い掛かった。
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