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第九章 中原の覇者と魔王の片鱗

第百九話 徐州侵攻

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夜半過ぎ、宿舎の明かりはいまだ消える事なく、中からを打つ音やきんに乗せて食器を叩く音などが聞こえている。
暗闇に潜む男たちは苛立いらだちながら、ただ時が過ぎるのを待っていた。

「全く、こんな時間だと言うのに、奴らはまだ起きておるのか…!」
塀上の見張りがこちらへ合図を送るのを見て、主犯格らしき男があきれた様子でつぶやく。

呂布軍の兵士は血気盛けっきさかんな若者が多く、その分問題行動も多かったが、彼らの団結力は非常に強い。
めてかかれば、手痛い反撃を喰らう可能性も高く、男たちは慎重に慎重を重ね、彼らが寝静まるのを待っていた。

深夜になっても、まだ明かりは消されず、鼓を打つ音が聞こえる。
流石に不審感をつのらせた主犯の男は、これ以上は待てぬと仲間を振り返り、突入の合図を送ろうとした。

その時、突然宿舎の明かりが全て消され、暗闇からは物音一つ聞こえなくなった。

「まさか…!!」
あせりを覚えた男たちは次々に塀を乗り越え、宿舎の扉へ殺到する。
そして、勢い良く扉を蹴破けやぶり中へ入ると、そこは既にもぬけの殻であった。

時は前日の夕刻にさかのぼる。
奉先は士恭と話し合い、袁本初が暗殺者を送り込んで来る事を警戒して、その日の内にそこから逃亡する計画を立てた。

若く俊敏しゅんびんな兵をりすぐり、宴会を開いているように見せ掛ける為、宿舎の明かりを煌々と照らして鼓を打たせ、自らはその隙きに、こっそりと兵を率いて城を脱出していたのである。
暗殺部隊が突入した時には、既に彼らは本初の手の届かない所にまで逃げ去っていた。

翌日、その報告を聞いた本初は強く歯噛みをしたが、同時に自分が暗殺者を送り込んだ事が奉先側に露見ろけんしていた事を知ると、復讐ふくしゅうされるのではと強い恐怖心を抱き、門を堅く閉じて誰とも会おうとしなかった。


冀州きしゅうを後にした彼らは河内かだい郡を目指し、太守となっていた張楊ちょうよう、字を稚叔ちしゅくと言う人物を頼る事にした。

稚叔は并州雲中郡の出身で、元は丁原ていげんの配下だった。
中常侍の蹇碩けんせき何進かしんに殺された後、彼の軍に所属したが、何進から并州での募兵ぼへいを命じられ、故郷で千人余りを集めた。
その後、董卓から建義けんぎ将軍、河内太守に任命されていたのである。

奉先と部下たちは稚叔と面識が有り、彼が慈悲深く温厚な人物である事も良く知っていた。
従って、昔のよしみから彼がきっと自分たちを受け入れるに違い無いと考え、彼の元を訪れたのである。

奉先らの思惑おもわく通り、稚叔は董仲穎とうちゅうえいたおした奉先を喜んで迎え入れ、李傕りかく郭汜かくしらからかくまってくれる事を約束してくれた。

しかし、彼の元には既に長安から呂奉先殺害の要請が届いており、家臣たちは皆一様に反対し、奉先を斬って長安に送るよう進言していた。

中でも取り分け丁原の元配下で、今は稚叔の参謀も務めている雅敬がけいと言う男は、元々奉先との折り合いが悪かった為、今でも彼を嫌っており、直ぐにでも始末するべきだと主張していた。

ある晩、稚叔と二人きりで酒宴しゅえんを開いた奉先は、暫し談笑でくつろいだ頃合いを見計らい、彼に向かって言った。

「稚叔殿…貴方の元に、長安から俺の暗殺命令が届いている事は知っている。家臣たちも我々をうとんじ、俺を斬るよう進言しているであろう。俺の首を長安へ送れば、高額な懸賞金が手に入り、貴方には高位こういが与えられるに違い無い…」

それを聞くと、稚叔はさっと顔色を変えて彼の手を取った。

「何を言う、わしが御主おぬしを李傕らに売ると申すのか?!」
「貴方は、我々に良くしてくれた。恩を返せるとすれば、この首を差し出す他に無い。貴方になら、俺は喜んで斬られよう…!」

赤い目を向ける奉先に見詰められると、稚叔は強い憐憫れんびんの情を感じ、同じように目を赤くして瞳を潤ませた。

「奉先殿、見縊みくびらないでくれ…!わしは何よりを重んじ、義をもって利と成す事を知っている…!御主を助けるのは当然の事。わしを信じてくれ…!」

稚叔はそう言うと、少し顔を紅潮こうちょうさせ、強く握っていた彼の手をほどいたかと思うと、愛おしい物をでる様な手付きで彼の手を優しく撫でる。
そして、今度はその手を奉先の膝にそっと乗せると、彼の太腿ふとももの上をう様に滑らせた。

その瞬間、どこか淫猥いんわいなその手の動きに激しい悪寒おかんが走るのを感じ、奉先は思わず苦笑を浮かべて彼の手を取ると、やんわりと押し戻す。

「有り難う、稚叔殿。俺は、貴方の事を信じております…!」
奉先がそう言って微笑を浮かべるのを見ると、稚叔はひど名残なごしげな眼差しで彼を見詰めたていたが、やがて微笑を返し、再び酒坏さかずきみ交わした。

「やはり、此処に長居するのは気が進まぬ。皆には悪いが、他所よそへ移りたいと思うのだが…」
翌日、奉先は宿舎を訪れた士恭と文遠を前に、少し言い出しにくそうに自分の首を掻いた。

「昨夜はお二人で酒宴を開かれたとか、何か有りましたか?」
士恭が怪訝けげんな様子で問い掛ける。
「いや、別に…そう言う訳では…」
歯切れの悪い答えを返す奉先に対し、文遠は微笑を浮かべて言った。

「稚叔殿は男色だんしょく家だ。彼に迫られたか?」
それを聞いた奉先は思わず瞠目どうもくし、二人の顔を呆気に取られた表情で見た。

「そ、そうなのか?!お前たち…知っていたのだな?!」

すると二人は互いの顔を見合わせ、思わず吹き出す。

「奉先殿、むしろ気付いていなかったのですか?」
「彼は、以前からお前に好意を抱いていた。そうでなければ、配下の反対を押し切ってまで我々を受け入れる筈は無いであろう…!」

「そうか…そう言う事か…」

思い返せば、彼は奉先より二回りは年長であるが、時折、乙女の様な恥じらいを浮かべ、物陰から眺めている姿を何度か見掛けた事があった。
その時は特に気にも止めていなかったが、
奉先が自分を頼って来た事を、稚叔はどんなに喜んだであろうか…
そう思うと、少し彼に悪い事をしたのではと思えて来る。

「それなら尚更なおさら、変に期待を持たせては、稚叔殿に申し訳無い…」
自分の額を手で押さえ、奉先は苦笑を浮かべた。

後日、改めて稚叔に面会し此処を去る事を伝えると、彼は驚きと戸惑いを以て彼を引き留めた。

「奉先殿…遠慮は要らぬ、まだ此処に居ても良いのだぞ…!」
「いえ、このまま此処に居ては、やがて配下の雅敬たちが謀叛むほんを起こし兼ねない。貴方に、これ以上迷惑は掛けられませんので…」
奉先がそう言って彼に拱手きょうしゅすると、稚叔は瞳を潤ませ、彼の手を強く握り締めて別れを惜しむ。

「そうか、残念だ…だが、わしは何時でも御主の味方だ。困った時には、またわしを頼ってくれ…!」
握り締めた奉先の手を自分の胸に引き寄せながら、稚叔は彼に訴え掛ける様な眼差しを向ける。
奉先は彼を見詰めて微笑を返し、握る彼の手をそっとほどいて、その肩に優しく手を置いた。

「分かりました、稚叔殿。この御恩は決して忘れません。では、いずれまたお会いしましょう…!」

稚叔に見送られ、彼の居城きょじょうを去った奉先らの軍勢は、再び行く場を失い流浪する事になったが、その頃、ある人物から一通の書簡が届いていた。

それは、曹孟徳の配下となっている陳公台ちんこうだいからである。

「公台殿の書簡にれば、曹孟徳の親友である、陳留太守の張孟卓ちょうもうたくが我々を受け入れてくれるそうです。」
幕舎で士恭から書簡の内容を伝え聞いた奉先は、一先ず安堵あんどの溜め息を吐いた。

張孟卓は以前、袁本初のおごった態度に「己の態度を改めるべきである。」といさめた事で口論となり、激昂げっこうした本初が曹孟徳に命令して、彼を斬らせようとした事があった。
だがこの時、孟徳は本初に反発し、自らの危険を顧みる事なく逆に孟卓をかばってくれたのである。
この事で、孟卓は曹孟徳に対して強い信頼と恩義を感じ、それ以来彼の親友となっていた。

高唐こうとうの劉玄徳、徐州牧じょしゅうぼく(刺史)の陶恭祖とうきょうそらが袁術軍に付いた事で、彼らと対立した曹孟徳は徐州へ兵を進める為、暫く兗州えんしゅうを離れるのだそうです。」
士恭は、更に詳しい内容を彼に伝える。
それを聞くと、奉先は稍々やや表情を曇らせた。

「孟徳殿が徐州へ…」

劉玄徳が高唐県にいる事を始めて知ったが、彼が孟徳と敵対している事を聞いて、奉先が胸に抱くのは複雑な思いだった。

以前、“降龍の谷”で彼らは共に敵味方として戦った事があった。
あの時は孟徳と玄徳が協力して、呂興将軍の一万もの兵を破ったのである。

劉玄徳…あの男が何を考えているのか、俺にはかる事は出来ぬ…

何度か彼と武器をまじえて対峙たいじした事のある奉先から見れば、劉玄徳は得体えたいの知れない人物ではあるが、何処か不思議な魅力を持っている様に感じられる。

玄徳の義兄弟で護衛でもある、関雲長かんうんちょう張翼徳ちょうよくとくの二人もまた、その不思議な存在に心かれ、固い絆で結ばれているのであろう。

奉先は感慨深い思いを感じながら、両腕を胸の前に組んで深く瞑座めいざした。



曹孟徳が青州黄巾軍と戦っていた時、黄巾軍に対してひそかに後方援助を行っている疑いの有る者がいた。
それこそが徐州刺史しし陶恭祖とうきょうそである。

彼は曹孟徳の勢力が強大になる事を恐れており、自らも黄巾討伐をする一方で、裏では黄巾軍と繋がり青州黄巾軍を支援していた事になる。
しかし、孟徳が黄巾軍と和睦した事により恭祖の思惑おもわくは外れ、孟徳の矛先ほこさきは徐州へと向かったのであった。

この時、孟徳の父、曹巨高そうきょこうは徐州琅邪郡ろうやぐん隠棲いんせいしていたが、孟徳と恭祖の関係が不穏ふおんになりつつある事で、家族を連れて兗州えんしゅうの孟徳の元へ向かう事にした。

その報せは孟徳にも届いており、父と家族を迎える為、孟徳は州境しゅうきょうまで迎えに出向いた。
恭祖は既に、幾度か曹操軍に破られており、曹操軍に対して恐れを抱いている。
その為、孟徳の父巨高に手を出す可能性は低いと思われていた。

恭祖の部下に張闓ちょうがいと言う者がある。
彼は稍々やや目元に苛立いらだちを浮かべ、仲間たちを前にして言った。

「主殿は、曹孟徳の父が琅邪から悠然ゆうぜんと去るのを、ただ黙って見過ごすお積もりか…?!曹孟徳は、我々が曹操軍を恐れていると嘲笑あざわらっていると言うのに…!」

怒りをあらわにした張闓は、仲間と話し合ってある計画を立てると、早速、恭祖の居室へおもむき、自ら進んでこう申し出た。

「主殿、私に兵をお付け下さい。曹巨高を、州境で待つ曹孟徳の元まで無事に送り届けましょう。」

それを聞くと、恭祖は喜んでその申し出を承諾した。
曹巨高を無事に送り届ければ、孟徳は彼に恩義を感じるに違い無い。

「そうか、それは良い。では早速、兵を引き連れ琅邪郡へ向かってくれ。」
かしこまりました。」
張闓は拱手きょうしゅし、恭祖に向かって深く礼をしたが、立ち去る彼は不敵な笑みを浮かべていた。


朝露にきらめく深緑の庭園を、子守唄を口遊くちずさみながら歩いている一人の美しい娘の姿がある。
彼女の腕には、生後間も無い乳呑児ちのみごいだかれていた。

鈴星りんせい様、赤子あかごは眠りましたか?」

彼女の元へ小走りに走り寄ったのは、長身で精悍せいかんな美青年である。
彼女の腕に抱かれた赤子は、すやすやと寝息を立てて眠っていた。

「しーっ、大きな声を立てては成らぬ。今やっと眠った所だ。」
鈴星りんせいは赤い唇に指を押し当て、赤子を愛おしげに見詰めて答える。

「申し訳ありません…!」
虎淵こえん、姉上様の具合は?」
声を押し殺し、自分の頭をきながら彼女の腕の中を覗き込む青年を見て、鈴星が問い掛けた。

「はい、今日は熱も下がって、体調は良いようです。」
微笑を浮かべ、虎淵が答える。
彼の妻、香蘭こうらんは産後の肥立ひだちが悪く、しばらとこく日々を送っていたが、この数日は体調も回復に向かっていた。

「それは良かった。…それで、坊やの名前はもう決まったの?」
「いいえ、この子には孟徳様に名付け親になって貰う約束なのです。もうすぐお会い出来ますから、楽しみにしております!」

虎淵はそう言って、嬉しそうに笑った。

その頃、孟徳は州境に近い小さな城邑じょうゆうに入り、城外に陣を張って練兵れんぺいを行っていた。
彼の父曹巨高は、琅邪郡から虎淵ら護衛と共に兗州へ向かっている。
城主にも手厚くもてなされ、暫くはそこで兵を鍛えて父の到着を待つ事にしたのである。

その夜、孟徳は配下の将たちと共に、城主や地元の名士たちに招かれ宴に参加した。

「孟徳殿、呂奉先は無事に張孟卓殿に受け入れられ、今は陳留に滞在しているそうです。」
そう言って、宴席の孟徳に歩み寄り、陳公台から送られた書を手渡したのは、于禁うきん、字を文則ぶんそくと言う将である。
文則は鮑信ほうしんの元部下だったが、彼が戦死した事で孟徳の配下に加えられていた。

渡された書に目を通した孟徳は、安堵を瞳に宿すと満面の笑みを浮かべた。

「これでようやく、奉先を仲間に迎え入れる事が出来る…!一刻も早く徐州を制圧し、孟卓の元へ向かおう…!」

そこへ現れた初老の城主が、美しい侍女たちを呼び寄せ、宴席の将たちに酒を注いで回らせる。
やがて彼は孟徳の隣に座し、柔らかい笑みをもって礼をすると、

「孟徳様、今宵はどうぞおくつろぎ下され。丁度今、このまち旅楽団たびがくだんの者がおります。彼らの芸をご披露致しましょう。」

そう言って、城主は振り返って部下に合図を送った。
たちまち広間に楽団の者たちが現れ、華やかな演舞えんぶを披露し始める。
美しい舞姫まいひめたちが踊る中、一際ひときわ目をく美しい少女の存在に、やがて孟徳の目は釘付けとなった。

「…あ、あれは…!」

孟徳は思わず大きく息を呑み、目をみはる。

その少女は、透き通る雪のような白い肌と、しなやかで長い四肢ししを持つ絶世の美少女である。
だが、孟徳が少女に目を奪われたのはそこでは無い。

舞い踊る少女は、揺れる着物の袖からそっと孟徳に視線を送った。
その瞳は可憐かれんで、何処か物憂ものうげな輝きを放っている。

「孟徳様、あの娘がお気に召されましたか?」
城主は微笑みを浮かべて問い掛ける。

「ああ…あのの名を知りたい…!」
孟徳が唇を震わせると、城主は少女を呼び寄せ孟徳の前に座らせた。

少女はうつむいていたが、やがて顔を上げ、孟徳を愛おしげに見詰める。
すると、孟徳は静かに席から立ち上がり少女の前まで来ると、彼女の手を取って瞳を潤ませた。


「……玉白ぎょくはく…!お前だったのだな…!」

震える孟徳の声に、少女もまた瞳を潤ませ、大きくうなずいた。

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