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ピーテルに消えた雨 Ⅰ
繋がりと綻び
しおりを挟む試行錯誤しながらも何とか袖を通したそのドレス。
恐る恐る鏡の前に立ち自分の姿を見た時、ただひとり自分だけが場違いなものだとそう言われているような気がした。
少しサイズの大きいパンプスを履き、俯く心と共にふらつく足取りでミハイルの待つリビングへと出る。
「ミハイル……?」
「あぁ、着れた? どうだった?」
リビングの椅子に腰掛け、手帳を眺めていたミハイルはその不安げな声に咄嗟に振り向いた。
「あーー」
そしてその姿に目を見開き、言葉を失った。
「これで、大丈夫でしょうか?」
光沢感のある水色のドレスーー。
それを選んだのは、レイラの金髪に映える色だと思ったから。
そしてその選択が正しいことをミハイルの胸の高鳴りが証明しようとしていた。
フリルや繊細な刺繍などは施されていないものの、生地の照りや艶を存分に生かしたシンプルなデザインは、レイラの美しさを際立たせていた。
色もない質素な服から、ドレスに着替えるだけで、こんなにも人は変わるのだろうかーー。
レイラから美しさを感じ取ったミハイルは、どこか遠い存在を見つめるかのような気持ちになっていた。
「ああ……」
しかし、呆気に取られたのもつかの間、細いレイラの身体には少しサイズが緩いことに気付く。
「あ、ごめん、上だけもしかしたらサイズ大きかったかもしれないね。服に触っても大丈夫……?」
レイラは一瞬だけ迷ったが、言葉も何も無くただ1回だけ頷いた。
「後ろ、向いて」
ミハイルはレイラの背中にあるウエストをしぼめる小さなリボンをそっときつく閉めた。
「……大丈夫? 苦しく、ない?」
「え、ええ。大丈夫です」
「よし。これでなんとかいけるかな?」
少し緊張していたミハイルの手の震えはレイラにも伝わっていた。
レイラはミハイルに気付かれないようにそっと彼の顔を見上げたかったのだが、同じ事を思っていたミハイルもまたレイラの顔を覗こうとしていた。
微妙なタイミングで合わさる二人の視線に、二人して戸惑った。
ミハイルは咄嗟に、細いレイラの身体を見て「ご飯もちゃんと食べてね」と上ずった声をかける。
「あ、はい。お気遣いありがとうございます」
レイラもまた上ずった声でミハイルへと微笑みかけた。
その後ミハイルはベッドルームへと戻り、ドレッサーにレイラを腰掛けさせ、簡単に彼女の髪を結った。
簡単なアップヘアではあったが、その慣れた手つきに、
ーー高貴な方は女性の髪の結い方まで学ぶのかしら? とレイラは感心している。
しかし、そんな彼女の心を読んだミハイルは、人知れず悲しげな笑みを浮かべていた。
ピーテルの郊外で母と2人で暮らしている時。母の髪を結っていたのは他の誰でもない幼いミハイルだった。
本来ならば、ガーリン家の男子として生まれた身でありながら女性の髪の結い方など学ぶはずもない。
書を開き、試行錯誤しながら母の髪をいじっていたあの頃から、ミハイルの息苦しさはずっと続いていた。
懐かしい感覚に胸を震わせながら、レイラの髪から手を離す。
「出来た」
「ありがとうございます」
鏡越しに微笑んだレイラと目が合った時、それは何だか救いのように思えるミハイルがいた。
ーーらしくもないな。と頭を軽く振り、感情を落ち着かせている間に、レイラは誰の手も借りずに立ち上がっている。
ーー全てが新鮮だった。
「それじゃあ、行こうか」
ミハイルは余裕を装い、軽く微笑みながらレイラに腕を差し出した。
「…………え、こう?」
しかし、それがどういう意味か分からなかったレイラは首を傾げながらミハイルの真似をする。
ミハイルはきょとんとしたまま、差し出された細い腕を見つめていた。
そして首を傾げるレイラに視線を移した瞬間に堪らず吹き出し、気付けば声を上げて笑っていた。
レイラは驚いたように、声を上げて笑うミハイルを見上げた。
「ーーーー」
ゆっくりと瞳孔は開く。
珍しく晴れた日、陽の光が差し込んだ部屋でミハイルの嫌味のない笑顔は、レイラの心にも光を差していくのが分かった。
落ち着いていていつも余裕げに笑うミハイルの無邪気な笑みは、胸に溜まった不安を解き、そして安心を与えた。
こんな単純なことで安心できてしまう自分が心配になるほど、それはレイラにとって初めての体験だった。
「腕を差し出されたら、手を回して。あ、でも誰に対してもやっていい訳じゃないから。嫌だと思ったらちゃんと断るんだよ」
そう笑いながらミハイルはレイラの手に触れ、自分の腕を取らせた。
「はい。ごめんなさい……。恥ずかしいわ」
「いいよいいよ。大丈夫気にしないで」
久々に声をあげて笑った自分がいた。
休まる時がないままに大人になったミハイルが掴んだレイラの手は、あまりにも小さくて柔らかかった。
初めてのブティックは戸惑いの連続だった。
なされるがままに採寸をされ、その後生地とデザインを選ぶ。
スタッフからは満面の笑みで辞典並みの分厚さを持つデザイン集を渡され、その種類の多さにレイラは言葉を失う。
なるべく安価なものを選びたかったのだが、価格は全て隠され、それこそファッションに疎いレイラにはどれがどれほどの価値を持つのかまるで分からなかった。
「ミハイル……」
レイラは助けを求めるようにミハイルを見上げると「何色が好き?」と彼は聞いてきた。
「ええっと、そうね。青……と白、でしょうか」
「いいね、それじゃあこれ……とこれにしよう」
ミハイルは優しくレイラに笑いかけると、レイラに代わって、生地は一番いいものを選び、フリルや刺繍もふんだんに使われた、優雅で美しいデザインを指定した。
「きっと似合うよ」
「は、はい。ありがとうございます」
「届くのいつだっけ?」
「10日後までにはご用意できるかと思います」
「あぁじゃあそれくらいにまた来るよ。着てることろ見たいからさ」
「承知いたしました。お待ちしております」
緊張しているレイラを気遣いたい思いから、ミハイルはレイラの手を取り、そそくさとその店をあとにした。
朝から連れ回してしまったからきっと疲れているだろうに。
機嫌を悪くすることもなく懸命に振舞おうとするその健気さが、嬉しくも悲しくもあった。
外に出た時にはもう陽は傾いていて、もうすぐ寒空の夜に移り変わろうとしている。
こんな晴れた日が一日中続くことに驚き、沈む太陽を指差して微笑みながら会話を交わす二人を、ゆっくりと夕陽が照らし始める。
ピーテルの石畳の道には寄り添う影が映し出され、それが視界に入る度に、満たされる事の無かった心の中に温もりが注がれていくような、そんな幸せを感じるミハイルがいた。
ブティックから出たミハイルとレイラ。
それを見つめる女性がいた。
ミハイルの妻のイネッサだった。
使用人と共に神への祈りを捧げた帰り。その瞳に映されたのは祝福などではなかった。
ーー我が子に見せる愛情と似通うものだと思っていたが、そのミハイルの笑顔に不穏な予感を胸にともす。
大富豪の家に嫁ぎながら、暗い色の服をまとい、質素に地味に暮らすイネッサとは違い、まだあどけないけれど道端に咲く水色の花ように可憐なレイラを目にした時、ふつふつと嫉妬のようなものが湧き上がるのを感じた。
何もミハイルでなくても、あのような小娘なら誰でもふっかけられたのではないかーー。
なぜ、ミハイルなのか。
ここピーテルで愛人を持つ者は珍しくはないし、格のある家門を持つ者であればあるほど、それは嗜みだという声もある。
しかしミハイルは庶子で、信仰深い正教徒だ。きっとレイラの方から持ちかけたに違いない。
そして、有り得るはずもない未来がイネッサの胸をよぎる。
事情も知らないのに、レイラに対してだけ底知れぬ嫌悪感が湧き上がってきた。
そんな感情に気付いた時、イネッサは無理やり二人から視線を逸らす。
醜い感情はやがて行動になることを知っていたからだ。
小さなレストランで二人は夕食を取り、そしてアパートに到着した頃にはもう、夕空から星が散らばる夜空に変わっていた。
一日中共に過ごしたのに、たった一瞬の出来事のように感じるミハイルとレイラがいた。
ミハイルは寂しい思いを抱えながらも、レイラに不安な要素を残してはいけないと、玄関先で別れを告げることに決める。
「明明後日の夕方また来て、その時に勉強を教えるから。それまでゆっくり休んで」
「はい。今日はありがとうございました」
「うん。ご飯もしっかり食べるんだよ」
「はい」
「鍵はしっかり閉めてね。ここらは治安が良いといえど、何があるか分からないから」
「はい、分かりました」
「家族を心配させないように、定期的に連絡はとるんだよ。何か必要なものがあれば言って」
「はい」
「生活費も足りなくなったらちゃんと言うんだよ」
「多分大丈夫だとは思いますけど、分かりました」
「あとは……もう、大丈夫か」
ミハイルは苦笑いを浮かべた。
「はい」
レイラも釣られて笑った。
「それじゃあ、おやすみ。冷えないように、暖かくして寝るんだよ」
「はい、おやすみなさい」
ミハイルはそっと玄関扉を閉め、この広い部屋にレイラ一人だけになった。
ミハイルが階段を下っていく音が聞こえた時に、レイラはやっと鍵をしめることが出来た。
ゆっくりを息を吐き出しながら振り返る。
「広すぎるわ……」
ひとまずリビングへと向かい、暖炉に火を付けた。
ドレスから着替えることも、髪を解くこともせずに、暖炉の前に座り込んでは徐々に燃えていく炎を見つめていた。
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