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ピーテルに消えた雨 Ⅰ
ナターシャ夫人
しおりを挟むだだ広い部屋はレイラにさらなる孤独を教えていた。
何をすれば良いのか分からない。
美しい調度品を眺めるのも半日も経てば飽きる。
外へ出掛けるにも、ミハイルが居なければピーテルの街に何があるのかさえ知らない。
自分が酷く無知であるのを知った一日だった。
早く学びたい。
もっと知識をつけて、自由に生きてみたいーー。
そんな心を携えながら、レイラは読むことの出来ない本の文字を、物欲しそうになぞる一日を過ごしていた。
そんな中、ミハイルは仕事の合間を縫って、とある男爵夫人の元を訪ねていた。
「あら、ミハイル。久しぶりじゃない」
長らく顔を見せていなかったミハイルに対して、ナターシャは嫌味のない笑みを浮かべた。
純粋に懐かしい顔が見られた事が嬉しかったのだ。
ミハイルは夫人の手を取り軽く口付けては挨拶をした。
「ナターシャ夫人、お元気でしたか?」
「私は元気よ。あなたは元気なの?」
「はい」
仕事が忙しく連絡さえ取れなかった事が後ろめたくて、ミハイルはぎこちなく微笑んだ。
そんなミハイルを愛おしく思うナターシャは、声を上げて笑う。
「何か頼みたい事があってきたのでしょう? 都合のいい所も子どもの頃は可愛かったのに、大人になると少し憎らしいわね」
「子どもの頃から私が信頼していた方はあなただけだと言っても過言じゃありませんから。許してください」
「まぁ嬉しいこと言ってくれるじゃないの。あの時の小さい少年を庇って良かったわ。こんなに大きくなって」
しわの刻まれたその手が、微笑む口元に寄せられた。
お互い歳をとったのに、ナターシャ夫人の前では童心に帰りたくなるミハイルがいた。
ミハイルが訪ねたのは、とある格式高い男爵家だった。
ミハイルが首都へやってきたのは10歳の頃だった為、社交界や上流階級の場へとデビューするのが遅かった。
だからか根も葉もない噂や、同世代から物理的ないじめを受ける事もあった。
大人たちは皆ミハイルが庶子である身から庇う価値がないと判断したが、ただひとり。このナターシャ夫人だけは、ミハイルをいじめる者を叱り、そして庇ってくれた。
ただ、めそめそして背筋を丸めるミハイルにもナターシャは「凛と立つのです!」と遠慮なく叱ったがーー。
ナターシャは誰に対しても分け隔てなく接する夫人であった。
慈善活動に積極的に取り組み、愛情深く、地位や身分ではなく心を観る……社交界では珍しい、人との接し方を持っていた。
ミハイルは母と2人で暮らしていた期間が長いため、女性特有の礼儀作法に関する知識はあったものの、それが完璧かと言われれば、そうではなかった。
中途半端な知識をレイラに教える訳にもいかないミハイルは、礼儀作法だけは家庭教師に頼もうかと考えた。
しかし、上流階級を受け持つそこらの家庭教師に頼めば、レイラが嫌な思いをするのは目に見えている。
それだけは何としてでも避けたかったミハイルは、幼い頃自分を庇ってくれたナターシャ夫人を思い出し、彼女にレイラの家庭教師を頼もうと訪ねたわけだった。
幼い頃は彼女が心の拠り所だった。
自分を穿った目で見ないただ一人の女性だ。
そんな女性をレイラにも会わせたかった。
ナターシャと会うのはイネッサとの結婚式ぶりで、酷く緊張していたのは確かだったが、そこに迷いはなかった。
「申し訳ありません。仕事が忙しくて、中々連絡出来ずにおりました」
「元気でいることが分かったらそれでいいのよ。忙しいそうだし単刀直入に聞くわ。どうしたの?」
「……とある少女の家庭教師になっていただきたいのです。礼儀作法のみの」
「あらあなたの娘? でもまだ幼いわよね?」
「いえ……15.6の少女です」
ミハイルが俯くと、ナターシャは困ったように微笑む。
「……忙しいのは分かるけど、事情を聞いてもいいかしら?」
ミハイルは出来るだけ詳細にレイラとのことをナターシャに語った。
まだ出会って間もないのに、次から次へと彼女の話が口から出てきた。
身振り手振りを加えながら楽しそうに話すミハイルにナターシャは驚きながらも、くすぐったい思いが胸をうずめた。
「ふふ、そういう事なら分かったわ。快く引き受けましょう」
「ありがとうございます」
「久々に会って頭を下げに来たかと思いきやこんな事だなんて」
ナターシャは口に手を当てて優しく微笑んだあと、僅かに視線を下げて慎重に言葉を紡いだ。
幼い頃の彼を知っているからこそ、どうしても伝えずにはいられなかった。
「でもねミハイル。それが、娘のように想う慈悲心ならば私から言うことは何も無いけれど……。今のあなたは全てを持っているわ。かたや、そのレイラという子は恵まれていない子よ。似ているようで全然違う。あなたがどんなに愛情を注いでも、あなたを理解してくれるとは限らないし、あなたの望む行動を取るとも限らない。彼女があなたの理解者になるとは限らない」
ミハイルにはその言葉の意味が本気で分からなかった。
レイラに理解を望んだことは一度も無いからだ。
もちろん、自分の過去と重ね合わせたのは認めよう。
だが、慈悲を注いだら注いだ分だけレイラから返ってくるとは思っていないし、それを望んではいない。
ミハイルはレイラに対してなんの見返りも、理解も望んではいなかった。
ただ一人の少女を助けたいーーただそれ以外に何も想うことはなかった。
「理解など……何も望んでいません」
首を傾げながらナターシャを見つめるミハイル。
「……そ、う」
ナターシャは驚いた後、その後の未来を想像しては悲しく微笑んだ。
ミハイルは幼い頃から心優しい子ではあったが、恵まれぬ環境のせいか野心や向上心はちゃんと備わっている子だった。
本人は気付いているか分からないが、愛に飢えながら、時に冷酷さを見せることもあった。
何かを得る時は何かを失う。何かを与える時はそれ相応の価値をもらう。
ミハイル自身は意識していないかもしれない。しかし、ミハイルの幼い頃を知っているナターシャにはそれがはっきりと見えていた。
彼の人生の主軸は神だ。
妻がいても子がいても、どこか自分を俯瞰し、神のみこころのままに生きる。それが彼の人生だった。
見返りのない愛が自分に注がれる、その感覚に飢えていた幼少期のミハイルからは想像できない微笑みと言葉に、正直戸惑いは隠せなかった。
大人になり、人生の価値観が変わったのだと、そう思いたいナターシャがいた。
もし仮に、本当に、ミハイルが理解を一切望まない、見返りを望まない相手を見つけたのだとしたら、それは喜ばしいことだが、妻子がおり正教徒であるミハイルにとっては決して手が届かない相手という事になる。
少女の未来は決まっていない。
ミハイルにとってレイラがただ一人の少女であっても、レイラにとってミハイルは人生の通過点に過ぎない可能性もある。
そんな場面がこの先訪れた時、果たしてミハイルは泣かずにいられるのだろうか。
果たして本当に見返りを求めないと言うのだろうか。
想いというのは難しい。
愛なのか恋なのか情なのか、執着なのか、きっと本人も分かっていない。
ナターシャは、ミハイルがレイラに対する想いが愛だという事に、何となく気付いてしまった。
悲しい結末になる前に、どうかお互いその気持ちに気付かないまま、二人の別れが訪れて欲しいとナターシャは哀愁を浮かべるのだった。
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