ピーテルに消えた雨

藤沢はなび

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ピーテルに消えた雨 Ⅰ

目に見える贈り物

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 レイラは呆気にとられ、言葉を失っていた。

 玄関扉が開かれた途端、そこはまるでおとぎ話に出てくる宮殿の中かと見間違えるほど洗練された空間が迫っていた。
 玄関から広がるホールは、レイラがピーテルで住んでいた寮の一室とさほど変わらない広さで、そのまた奥の扉を開けば、リビングやキッチンの他、4つのベッドルームがある。
 調度品は全てアンティーク調の最高級のもので揃えられ、カーテンから絨毯からソファから何から何までが、レイラの目には淡い光を放っているように見えた。

 どこか場違いな場所に来てしまったような居心地の悪さと、観光地を巡るような高揚感がレイラの胸には混在している。
 予想外のあまりにも広い部屋に、ミハイルのような人はここに一人で住むのが当たり前なのだろうかーー。レイラは引け目のようなものを感じていた。

 そして、僅かに匂う木材の香りにここが新築だと次第に気付き、焦りは募る。
 ーー果たして自分にここまでされる価値があるのだろうかと。
 自分はとんでもないものを受け取ってしまったのではないだろうかと。
 私はきっと見合った対価をミハイルに差し出せないのではないかと。
 次第にそんな緊張と不安に苛まれていく。

 そんな中ミハイルはレイラから抱えていた本を受け取り、トランクと共に玄関ホールに佇むアンティーク調のテーブルの上に置いた。
 そしてコートを脱ぎながら部屋の説明をし始めた。

 ミハイルの声さえもまともに聞こえないレイラの心の内は静かに荒れていく。

「レイラ? 聞いてる?」
 ぼーっと立ち尽くすレイラの顔をミハイルは覗き込んだが、レイラはミハイルから逃げるように視線を逸らした。
「あ、はい。ごめんなさい」
「大丈夫? 具合でも悪い?」
「いえ! あまりにも、その、素敵な部屋に、驚いてしまって……」
「そっかそっか。次第に慣れていくと思うよ」
 ミハイルはレイラの気持ちに気付かないまま、そっと微笑んだ。

 慣れるーー彼のその言葉が頭の中で繰り返される。
 いずれミハイルがくれる優しさも当たり前だと慣れる日が来るのだろうか。
 何故かそれは嫌だと思うのと同時に、どれだけミハイルのそばにいられるのか、その期間がきっと有限である事がレイラを静かに突き刺していた。

「あの、本当に、何度お礼を言ったらいいか……。本当にありがとうございます」
「いいよ。気にしないで。楽しかったんだ、揃えるの」
 ぎこちなく微笑みながら一礼するレイラを前に、ミハイルは幸せそうに笑う。
 レイラはその姿を見て、何故お金が減ったミハイルの方が幸せそうなのだろうかと不思議そうに首を傾げた。


 妻が贅沢を嫌い、自身が正教徒だというのも相まって、ミハイルは滅多にお金を使うことをしない人だった。
 レイラの為に揃えた全てはミハイルの自己資金から捻出したものだが、惜しいとは一度も感じなかった。
 それだけ、レイラを思いながら選ぶ時間がミハイルにとって充実した時間だったからだ。
 ーーピアノも置いた方が良かっただろうか。
 ミハイルはそわそわと部屋を見渡すレイラを見て微笑む。


「本当にこれから、私ここで暮らすのですか?」
「あぁ、そうだよ」
「何か嫌なものでもあった?」
「いえそうじゃなくて。その、あまりにも……私にはもったいないなくて、相応しくないんじゃないかと、思うんです」
 レイラは不安げに自らの腕をさすりながら、視線を僅かに下げた。
 先ほどからまともに笑顔も作れていない自分に、ミハイルは呆れてしまうのではないかと思った。
 しかし、ミハイルの心はそんなもので呆れるほど狭くはなかった。
「自分をそんなに卑下しないで。贈り物を受け取るのに相応しいもなにもない」
 そのさり気ない言葉にレイラは顔を上げる。
 上流階級らしくない優しさをふと感じたのだ。
 レイラの知る限り、ここまで穏やかに言葉を紡げる上流階級の紳士はおらず、何故こんなに優しい人が私なんかを助けようとしたのか、それは余計に混乱を深めた。
「ーーはい」

 落ち込んでいるように見えたレイラを励ましたくて、ミハイルは明るく声をかける。
「よし! それじゃあ行きたいところがあるから着替えよう」
「ーーえ?」
「今日は休みでさ。今日出来ることは今日中に済ませておきたくて」
「どこかへ行くのですか?」
「ブティックに。衣装を何着かは用意してるんだけど、サイズ合ってるか分からないし、観劇用にドレス数着分はオーダーメイドで作っておきたくて」
「……ミハイル! それはダメです」
「どうして?」
「どうしてって……。だって」
 もし私がここから出ていかなくてはならなくなった時、ここにあるものは全て、誰かに譲ったり、売ったりして処分することが出来るだろう。
 しかしオーダーメイドはそれが出来ない。しかもレイラのような人は決して手に出来ない貴重なドレスだ。
 そんな負担を背負う自信がレイラにはなかった。

「ねぇレイラ。顔を見せて」
 顔を伏せるレイラの頬にミハイルは優しく触れる。
「俺は君に何か求めるような事はしない。絶対だ。不安がらなくていい。怖いかもしれない。でも」
 ーーでもそれ以上に、この贈り物たちを受け取って貰えない事の方が怖いのだと。そう伝えたらレイラの負担になってしまうだろうか。
 ミハイルは眉を下げながら、その言葉をぐっと飲み込んだ。

「……でも、大丈夫だから」
 何がどう大丈夫なのか、自分でも何を言っているのか分からなかった。
 どうすればレイラを追い詰める不安を取り除けるのか、ミハイルには分からなくて、それは咄嗟にでた言葉だった。

 そしてレイラは必死に不安を取り除こうとしてくれているミハイルの姿にはっとした。同時に反省もした。
 不安を見せる事が彼の負担になってしまうのならば、微笑みくらいは頑張ろうと思ったのだ。
「本当に、親切な方なのですね」

 レイラが微笑んだ途端、空いている窓から冷たい風が二人の間を通り抜け、ミハイルの瞳が揺れた。







「ドレスの着方は分かる?」
「なんとなくは……?」
「分かった。じゃあちょっと待って」

 ミハイルは寝室内のクローゼットまで歩くと、光沢感のある水色のドレスのセットを取り出した。
 そして何枚もある衣服を「こうだっけな」と独り言を繰り出しながら、ベッドの上に並べ始める。
 レイラは息を止めてその様子をじっと伺った。
 そして全ての衣服がミハイルの手元から消えると、ミハイルはレイラの方を向いた。

「ゆっくりで大丈夫だから、右から順番に着ていって。他分からないところがあれば順次聞いて。俺はリビングにいるから」
 そう言って上機嫌に微笑むと、ぽかんと口を開けたまま立ち尽くすレイラを置いて、ミハイルは寝室のドアを閉めてリビングへと向かった。

 一人取り残されたレイラは止めていた息を吐き出し、その場にへたりこむ。
「嘘、でしょう? 私がこれを着るなんて……」
 それは流行やファッションに疎いレイラでも分かることだった。
 目の前に佇むこのドレスは、あの田舎に顔を見せた近所のお姉さんが着ていたものよりも、ずっと高価な生地を使っている。
 レイラが必死で働いた給料の数ヶ月分にもきっとくだらない価格だろう。
 この時代。ドレスを一着持っているだけでも羨ましがられるというのに、これからまた、これ以上のものを作りに行くというのーー?

 レイラは胸に手を当て、荒れる呼吸を整えた。

 未だに信じられない。何か裏があるに違いない。
 ここまでの"親切"をされると、逆にミハイルを疑いたくなるレイラもいた。
 しかし、与えてもらったものを受け取らないというのはそれはそれで失礼に当たりそうな気がして、レイラはミハイルが並べた水色のドレスと睨めっこをする。

「…………」

 窓から差し込む陽の光が真っ直ぐにドレスを照らし、水色がキラキラと発光していた。
 それはレイラの心を静めるには充分な光景だった。

「とりあえず。とりあえず着てみましょう。着てみるだけよ」
 ひとつため息をついたあと、レイラは自分にそう言い聞かせてミハイルの言った通り、右側から順番に袖を通していった。




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