鬼凪座暗躍記

緑青あい

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『双つの心』

其の五

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《私のせいで……皆、殺された。故郷も、焼き尽くされてしまった。もう、帰る場所はない……私は一人ぼっちで、地獄に堕ちる》――惨めな姿であちこちさまよい、うずくまった裸足の路傍ろぼう。血がにじみ、幼い少女の心を凍らせる。
《ここで死のう……早く皆のところへ逝こう》――冬の曇天、舞い散る六花りっか、黄泉路に続く深山白道びゃくどう、少女は往き倒れ、故郷の夢にむせび泣く。
《許して、あにさん……許して、皆……》――浅黒い肌をおおう真綿、心はいつしか厭離穢土えんりえど……地獄詣での死門前しもんまえ、現れたのは獄卒鬼ごくそつき、真っ赤な肌に飛出眼とびでがん、天狗の如く高い鼻。
《これ、娘! 斯様なところで、寝る奴があるか! 凍え死んでしまうぞ! く、起きなさい!》――雪にまみれた卑族ひぞく少女、現世から遠のきかけた空蝉を、呼び戻したのは天狗面、醜い異相修験者は、蛍拿けいなを背負って歩み去る。
《種族や血統、利権、勢力争いなぞ、私には最早、無縁の世界。蛍拿よ……なにがあろうと、お前は、お前自身の望む道を往け。死地に赴くは、最後の最期でよい。己を責めさいなむな》――天狗面、ゆがんだ醜貌……その下に隠された温かな至心、蛍拿を黄泉還らせた加持力の持ち主は、高名な修験者――夜仏山よぼとけやま朱牙天狗しゅがてんぐ
《ずっと、ここにいたいよ……うえのそばに》


 蛍拿は体を強張らせ、敷布から飛び起きた。
 どうやら、自分の寝言で目が覚めたらしい。
 頬が泪で濡れている。蛍拿は、喪った故郷や仲間の亡霊に取り憑かれ、自ら命を捨てんとした五年前の少女を振り返り、優しい天狗面へ想いを馳せた。
 あの時、異相修験者と出会わなければ、彼女は恋も知らずに死んだはず。
「上……もう、上の三回忌も、過ぎてしまったよ……墓参にも往けず、仇討ちもできずごめんなさい。でも、蛍拿は……もう夜仏山には、二度と、帰れないかもしれないんだ……」
 季節はうつろい、廻る七夕……それすらも追い越して、はや初秋……虫の声音こわねを聞きながら、蛍拿は人の世の無情、儚さを嚙みしめた。
 なんの因果か、彼女は今、憎い仇の元にいる。
 虎鋏とらばさみの罠、皆の殺意から、あの男を助けてしまったのが、まちがいの始まりだった。
 怪我を手当てし、逃がしてやったその直後、当事十三歳の少年は、荒武者どもを従えて引き返し、あっと云う間に集落へ火を放った。逃げ惑う人々を、容赦なく斬り殺し、あるいは矢衾やぶすまにし、地獄の狩人どもは荒れ狂った。混乱の最中、死に逝く友人、乳兄弟、親代わりの老夫婦、蛍拿の唯一の肉親だった兄も、彼女をかばい、惨殺された。
 折りかさなる屍骸が、楯となり、火防ひぶせとなり、小さな体をおおう隠れ処となり……図らずして、難を逃れた蛍拿。焼け跡に一人、呆然と佇んで、泣き続けた。
 馬蹄に踏みにじられた遺骸は、いずれも怨嗟に満ちている。災いの種を集落に持ちこんだ挙句、一人生き残った蛍拿を、無言で責めているようだった。
 蛍拿はこの日、懐かしい故郷や仲間たちとともに、生きる希望まで喪った。 
 そして今、再び現れた楚白そはくが、またしても蛍拿の生命、儚い希望を奪い取ろうとしている。
〈あのまま、死んでしまえばいい!〉
 蛍拿は、世話係の奴婢ぬひに聞いた、楚白の病状悪化を内心喜び、密かに彼の死を願った。
 先だっての楚白訪問夜から、すでに三日。
 李蒐りしゅう典磨老てんまろうも、あれ以来、詮議に来ない。
 邸宅内の雰囲気も、心なしか、ピリピリと張り詰めている。楚白が死ねば、同胞の仇討ちは完結する。しかし、愛する師父しふの仇討ちには、やはり後宮へ乗りこむ以外、道はない。
〈あいつさえ死ねば、きっと『闈司みかどのつかさ』が私を後宮妾妃しょうきとして、皇帝へ献上するはずだ!〉
 さすれば、《朱牙天狗》の名誉を穢した怨敵……《千歳帝せんざいてい》を暗殺し、彼女の宿願は達成されるのだ。たとえ、これが自己満足の妄信だったとしても。
 蛍拿は呪詛のように、何度も何度も繰り返し、楚白の死を請う不穏当な言霊をつむぎ続けた。そんな蛍拿の耳に、身の毛もよだつ女の唄声が聞こえて来たのは、その直後だった。

 ……雨のさりに聞く声は、
   耳朶じだを震わす哀歌なり……

 蛍拿はハッと身がまえ、鳥篭内部を見渡した。
 まちがいなく、先夜の女だ。楚白の母親だという《水沫みなわかた》が、またも出現したのだ。
 蛍拿の背後、二間足らずの距離で、床板に座りこみ、ぼんやりと存在を揺るがす女。
 鉄格子の隙間から手を差し出し、歌詞の通りに、雨粒を受け止める仕草をしている。
 いや、受け止めているのは、月光である。
 恋火月れんかづきの白く輝く結晶……蛍拿はおびえ、あとずさった。
 水沫にして見れば、蛍拿は、息子の死を願う憎い仇。
 今宵、冥府めいふより黄泉還ったのも、あるいは蛍拿を取り殺すためかもしれぬ。

 ……夏の終わりの蝉囃子せみばやし
   残夢ざんむと名付けば小夜嵐さよあらし……

「あ、あなたは……水沫さんでしょう?」
 蛍拿は、思いきって女に声をかけてみた。
 すると女は、空ろな瞳で、声のした方をゆっくりと振り返り、弱々しい言葉を発した。

 ……そこに、いるのは、誰?……

 彼女の声は、鳥篭全体へ波紋の如く広がり、蛍拿の恐怖心を洗い流した。
 邪念や怨嗟はまったく感じられない。ただ、澄みきって麗しい声だ。
「私は……蛍拿。ここに、住んでいるのよ」

 ……じゃあ、私と一緒ね。うれしいわ。永い間、ずっと一人だったから……話し相手が欲しかったの。仲よくしてね、蛍拿さん……

 水沫は、童女の如く微笑んだ。しかしその瞳は空ろで、蛍拿の姿を捉えてはいない。
 貝髷ばいまげに結った黒髪の毛先が、段々と赤く色づいている。そして夜間だけ盲目となる体質。
〈このひとは、【唯族ゆいぞく】なんだ〉と、蛍拿は推察した。
 他族との婚姻で、授かった子供には、【唯族】の特徴は、まったく受け継がれない。
 楚白が毛先まで黒髪で、夜間も晴眼せいがんなのは、父親譲りなのだろうと、蛍拿は思った。
 その一方で、目前に現れた水沫の、端整な白面はくめんは、息子と生き写しだった。女性である分、水沫の方が柔和で、輪郭も丸いが、よく似ている。
 蛍拿は、悪夢の晩……おおいかぶさって来た楚白の凶相を思い出し、背筋を寒くした。
 水沫から、思わず目をそらす。ところが――、

 ……蛍拿さんは、誰に、どうして、閉じこめられたの? まさか、私の旦那さまが……

「……え?」
 蛍拿は愕然と目をみはり、水沫が放った言葉の意味を、問いただそうとした。
 その時である。
「……蛍拿……蛍拿」
 突然、何者かに名を呼ばれ、蛍拿は震撼した。聞き覚えのある男声だ。蛍拿は、願い果敢なく病状緩解かんかいした楚白が、またしても訪ねて来たのではないかと、おののき身をすくめた。
「蛍拿……ここだよ、蛍拿……」
 だが、声のする格子戸外側に目をこらした瞬間、蛍拿は信じられない者を、そこに見た。
 真っ赤な異相の天狗面である。
 白髪まじりの蓬髪ほうはつも、薄汚れた修験装も、蛍拿にとっては、懐かしい面影だ。
《朱牙天狗》にまちがいない。
 水沫の亡魂が、呼び水となったのだろうか。
 時刻は三更さんこう深夜だ。いや、亡霊でもかまわない。
 蛍拿は夢中で、鉄格子にしがみついた。
「上……上ぇ!」
 異相の修験者は、まっすぐこちらへ歩み寄る。
「蛍拿……だね?」
 劫貴族こうきぞくの討伐隊によって、故郷を焼き払われ、仲間をすべて喪った蛍拿は五年前、死に場所を探し、あてもなくさまよっていた。そんな彼女を、無明の苦しみから救い上げたのが、夜仏山の異相修験者《朱牙天狗》であった。
 以来、朱牙天狗とともに歩む修行の道が、蛍拿の生きる支え、一縷いちるの希望となったのだ。
「逢いたかったよ、上! 死んだなんて、やっぱり【鬼凪座きなぎざ】の嘘だったんだね!? 生きて、どこかに隠れてたんだよね!? お願いだから、顔を見せて! 私の手に触れて! どうか……幻じゃないって、信じさせて!」
 蛍拿の悲痛な訴えに驚き、朱牙天狗は歩を止めた。うつむいたきり、黙りこんでしまう。
 格子戸のわずかな隙間から、必死に伸ばす蛍拿の手も、何故かすげなく避ける修験者だ。
「上……どうして!? 私のこと、嫌いになったの!? ああっ……ここで、なにが起こったか、上は全部、知ってるんだね!? だから、だからっ……ひっく!」
 蛍拿は、胸が詰まってそれ以上云えず、しゃくり上げた。
 絶望にかげる瞳から、泪がこぼれ落ちる。
 すると朱牙天狗は激しくかぶりを振って、面の下に隠した、驚くべき正体を明かした。
「すまない、蛍拿……声を聞けば判るだろうが、私は《朱牙天狗》ではない。仔細あって、同じたぐいの面をかぶせられたまま、普段は、別の場所に幽閉されている者だ……つまり、君と同様。囚われの身なのさ……がっかりさせたね」
 蛍拿は、格子戸の前で、ワナワナとくずおれてしまった。確かにちがう。
 声が若すぎる。背も高い。そしてなにより、最初は修験者姿に見えた白装束も、実は似通った白地麻衣の長袍ちょうほうであると、蛍拿はようやく気づいたのだ。幽霊でもなかった。
 ふと背後を振り返ったが、いつの間にか、《水沫》の亡魂も、姿を消していた。
 あるいは、絶望が見せた、ただの幻影だったのか。
「あなた……誰なの? 囚われの身にしちゃ随分、勝手気ままなんだね……それとも、夜間だけは、自由が許されてるとでも云うの?」
 蛍拿は肩を落とし、つい憎まれ口を叩いた。
 謎めいた天狗面の男は、渡殿わたどのの欄干へもたれ、戸口に座りこみ、鷹揚おうような声音で返答した。
「ふふ、実はそうなんだ。と云うより、秘密の抜け穴を知ってるからね。僕の境遇を憐れんだ獄吏ごくりが、そっと教えてくれたんだよ。それで六斎日ろくさいにちの三更一刻だけ、僕は自由なのさ。僕を幽閉した連中は、僕がこうして夜間、出歩いていることにも、まったく気づいていない。お陰でこの十三年間……なんとか、正気を保てたよ」
 天狗面の男は自嘲気味に笑い、独語どくごした。どこか、哀しげな笑い方だった。
「おっと、ごめん。一人で色々、しゃべってしまって……あまり外界の人と、接触する機会がないものでね。話し相手が、欲しかったんだよ」
 先刻現れ、烟のように消えた水沫が、同じセリフを口にしていた。蛍拿は瞠目どうもくし慄いた。
「……十三年間も、幽閉されてるの? まさか、嘘でしょう? そんな、非道ひどいこと……」
「本当さ。光も差さない地下牢だよ」
 天狗面の男は、こともなげに云う。驚きつつ、蛍拿は徐々に、訪問者への警戒心を解いていった。天狗面男の所作言動は、穏やかに澄みきって、少しも邪念を孕んでいない。
 一種の悟りか達観し、浮世離れした感じすら漂う。
 蛍拿もかがみ、格子越しに天狗面を凝視した。
戴星印うびたいいん』を持すせいなのか、定かではないが、蛍拿には昔から、人の心を的確に見抜く、不思議な力がそなわっていた。例外は楚白だけだ。相対する天狗面男にいだく、唯一の気がかりは、声や背格好が、その楚白に酷似している点だ。
「信じられないわ……その天狗面、外して素顔を見せてよ。だってあなたの声……まるで」
「楚白に、そっくりだろ? 実はね、僕たちは双子の兄弟なんだ……けど、今のご面相では、とても楚白と双子には見えないだろうな。僕を幽閉する際、父上が……僕の顔を、焼き潰したんだ。だから、君にも見せたくない……絶対にね」
 はなはだ胡乱うろんな天狗面男は、驚愕の事実と、その正体を明かし、またも蛍拿を混乱させた――楚白と双子!? 父親に、顔を焼き潰された!? しかも、幽閉されて十三年!?
 絶句する蛍拿に、天狗面男は、ようやく名乗った。
「僕の名は、《青耶せいや》……少し、ここで君と話がしたいんだけど……かまわないかな?」
 真っ赤な異相の天狗面とは裏腹、鉄柵をはさみ、遠慮がちな《青耶》の問いかけに、蛍拿は否とも応とも云えず、別の質問を投げ返した。
「あなた……何故、ここに来たの?」
 青耶は、照れ臭そうに蓬髪頭をかいた。
「噂の【戴星姫】に逢うためさ。可愛い卑族少女《蛍拿》の話は、地下牢にも伝わって来てるんだ……それに、ここは思い出深い場所でもあるしね。僕と楚白の母が……昔、この離宮で暮らしてたんだ。いや、閉じこめられてた……今の君みたいに、篭の鳥だったのさ」
 青耶が発した言葉は、蛍拿をいよいよ震撼させた。
 思わず、鳥篭内部を隅々まで見渡し、儚くも消えた水沫の姿を、探しもとめてしまう。
「青耶さん。もしかして、あの人を見たの? ちょっと前まで彼女……ここにいたのよ?」
「……え?」
 唇を震わす蛍拿のつぶやきに、青耶は面喰らった様子。
 母の亡霊の存在を、彼は知らぬらしい。
「なんでもないわ……でも、どうしてお父さまは、実の息子や奥方に対して、こんな酷い真似をなさったの? そのクセ、双子の楚白には、わがまま放題させて……大事な『若君さま』! あんまりだわ! 不公平じゃない! 理不尽よ!」
 仮面に押し殺された青耶の感情を、蛍拿が痛烈に代弁した。
 劫貴族の御家騒動など、卑族の蛍拿にとっては、どうでもいい話ではあったが、抑圧された青耶の口調が、かえって彼女を発奮させた。青耶は、淡々と言葉をつむぐ。
高家こうけ【劫貴族】は、双子男児を忌み嫌うんだよ。家督相続の際、必ず争いの火種になるからね。それで董家とうけもご他聞にもれず、片方を抹殺せんとした。もし母上がかばってくださらなかったら、僕の命は、生後一刻で終わってたはずさ。でも結局、母上がここで自害したあと……僕は素顔と、自由まで奪い盗られてしまったんだ」
 青耶は、かすかに声を上すらせた。
 天狗面の奥、ほんのわずかにのぞく目が、泪でうるんでいる。
「自害……」
 うなずく青耶に、蛍拿は寒胆かんたんした。
 にわかには信じがたい内容だが、青耶の真摯な言葉は、蛍拿の胸を締めつけた。
 同時に、過日聞いた李蒐武官の非情な悪罵あくばが、彼女の脳裏をよぎった。
〈御方さまは、ここで自ら命を絶ったのだ!〉
 青耶は静かに、苦痛の過去を告白し続ける。
「父の……『闈司・姑洗太保こせんたいほう』の不貞が原因さ。なのに、あの男は……離縁を申し出た母上をここへ監禁し、責めさいなんだ挙句、死に追いやったんだ! 母上は、こうがいで咽を突き、自ら命を絶ってしまった……流れ出る血で、下の湖水は真っ赤に染まり、ここはしばらく開かずの間になっていた。元々は母を閉じこめておくため、あの男が手を加えた鳥篭離宮だ。新たな住人が住まうことは、もうないと思ってたのに、楚白が……こんな莫迦ばかな真似をするなんて、信じられないよ! でも、ああっ! 出来ることなら、今すぐにでも君を、ここから助け出してあげたい! 僕に、もう少し力があれば……ごめんよ、蛍拿!」
 鉄格子をつかみ、語気を荒げる青耶の至心に、蛍拿は胸を焦がした。楚白に乱暴されかけて以来、凍りついていた心が、少しずつ溶かされて往くようだった。
 感泪がこみ上げて来る。
「青耶さん……」
 格子戸から差し出す蛍拿の手を、今度はためらわず、にぎりしめる青耶……彼の手は温もりに満ちていた。血の通った人間の手だ。蛇のように冷たい、楚白の性根とは大ちがいだ。
「自由といっても、往ける範囲は限られてるし、一刻しか猶予はない……厳重な母屋には、近づくのも難しいだろう。けど今宵、君に逢って覚悟が決まったよ。楚白の居室から、鍵を持ち出して……太鼓橋を渡ったら、中庭の水路伝いに逃げよう! 獄吏の親友にも、相談してみる! 彼は古参こさんだし、他にも色々な抜け道を知ってるんだ。勿論、信頼できる人だよ。逆に、彼の方が僕を説得し、熱心に脱走をすすめてくれてるくらいで……ただ、母上の無念を思うと、踏ん切りがつかなくてね。僕だけ逃げるのが、申しわけなくて……僕がわずかな自由時間、いつもここを訪れてしまうのは、母上が生前暮らした、思い出深い場所だからだろうね……亡霊でもいい、一目だけでも母上に逢いたい……そんな、儚い望みを、持っているからなのさ……ふふ、莫迦みたいだろう?」
 醜悪な天狗面を、一筋の泪が伝った。青耶は、ずっと泣いていたのだろう。
「私、たった今まで、あなたのお母さまと……!」
 蛍拿は感きわまって、思わず先刻出逢った水沫のことを、青耶に告げようとした。
 しかし――、
「啊、合図のふえだ……君にも、聞こえただろう? 僕はもう、往かなくちゃ……」と、青耶は突然、蛍拿の手を放し、立ち上がった。蛍拿には、風の音以外、なにも聞こえなかったが、青耶は耳をそばだて、酷く慌てた様子で周囲を気にしている。
 視線は空ろに泳ぎ、心ここにあらずで、存在自体が、非道く弱々しい。そしてそのまま、青耶はきびすを返し、太鼓橋を歩み去ろうとする。まるで、なにかに牽引されるが如く。
「待って、青耶さん!」
 蛍拿は、去り往く青耶の袖をつかんだ。今となっては、天狗面の男《青耶》だけが、蛍拿にとって唯一の光明……一縷の希望である。彼ならきっと、自分を救い出してくれる。
 そう思うと、蛍拿は無性に、青耶と離れがたい気持ちになったのだ。
 青耶は、そんな蛍拿の手をにぎりしめ、力強く真摯な声で宣言した。
「大丈夫……心配しないで、蛍拿。次の六斎日、僕は必ずここへ来るよ。可愛い小鳥を空に帰すため、自由の鍵を持ってね。だからそれまで、自重して! くれぐれも、短慮は起こさないで! 母上のように、なって欲しくないんだ! 《朱牙天狗》もきっと、君の幸福だけを願い、僕たちを引き合わせたんだよ……蛍拿!」
〈啊、やはりこの人は、上がよこした救世主だった! いえ、上の化身にちがいない!〉
 蛍拿は喜びに嗚咽した。一時は荒廃してしまった世界が、ほんの少しだけ明るく色づいて見えた。と同時に、蛍拿のゆるんだ泪線は、止めどなく激情と恋慕を奔流させた。青耶の……いや、朱牙天狗の姿を、蛍拿は自身の目に、しかと焼きつける。そんな蛍拿の哀憐に感化され、青耶の天狗面にも慈悲の泪が一筋伝う。青耶は去り際、力強い約束を残した。
「次の六斎日は、二十九日だよ! それが駄目なら、三十日だ! 待っててね、蛍拿!」
「待ってるわ、青耶さん! 必ず、来てね!」
 蛍拿は泪で濡れた頬に精一杯の笑顔をたたえると、朱牙天狗の化身を切なげに見送った。
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