鬼凪座暗躍記

緑青あい

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『双つの心』

其の六

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「おお、これは大旦那さま!」
「ようこそ、お越しくださいました!」
「若君も、さぞや、お喜びになられるでしょう!」
 棟門むなもん奥の石畳に整列し、出迎えた家臣宅守やかもり一同が、御所車の貴人へ、うやうやしく低頭する。御簾みすをめくり、門前へ降り立った男は、恰幅のいい髭面壮年で、黒地紋絽もんろの礼服に、『玉佩五条ぎょくはいごじょう』の飾帯、亀甲烏帽子きっこうえぼしで正装した高官だ。
 彼こそ、名門《董家とうけ》の当主『闈司みかどのつかさ姑洗太保こせんたいほう』その人である。つまり楚白そはくの実父だ。
「楚白の具合は、どうだ? 降って湧いたような祝言の吉報に続き、容態急変の凶報を聞かされては、わしもいささか気がもめるぞ。典磨老てんまろう
 この別邸の主人代行役でもある老家宰ろうかさいは、幾分バツが悪そうに、しわみ顔をうつむけた。
「まことに申しわけありませぬ。これもすべて、我ら家臣一同の、不徳の致すところ。若君の病状は、幸い大事には到らず、お体も緩解かんかいへと向かっておりますが……実は、このところ、色々と困った問題が生じておりましてね。若君には、なれぬ出仕参内に加えて、もうひとつ気苦労の種が……例の祝言話です」
 典磨老の眉間に刻まれたシワを見れば、問題の根深さが、おおむね推量できる。
 闈司《董朱薇とうしゅび》は、此度の件が、相当な波乱を含む厄介事だと早くも見きわめ、長嘆息した。別邸へ踏みこむ足取りも重い。 
 元々、朱薇はこの別邸があまり好きではなかった。
 寂寞せきばくの中に漂う雰囲気、研ぎ澄まされた緊張感、高い築地塀ついじべいに沿って生い茂る草棘そうきょく、屋敷を取り巻く水路、どこか閉鎖的な四合院造しごういんづくり、迷路にも似た邸内の回廊……すべてが朱薇の心を沈鬱にさせる。なのに息子の楚白は、この別邸をいたく気に入り、今では自分専用の居住区と定めている。衣笠きぬがさを差す侍従や、護衛官とともに、ゆっくり石畳を進む朱薇は、楚白の要望さえなければ、っくに、ここを取り壊していただろう。
 苦々しい思いをかかえつつ、朱薇は典磨老に導かれ、息子が暮らす母屋へと向かった。
 長い透廊すきろうを渡り、板戸を開け、広間の帳台ちょうだいへと歩み寄る、
 丁度、替え着や耳盥みみだらいを捧げた侍女連が、甲斐甲斐しく退室するところだった。
 当主と老家宰へ深々ふかぶかと一礼し、板戸を閉める。
 朱薇は帳台へ上がった。
ああ、父上。ワザワザ、お越しくださらずとも」
 楚白はすでに長袍ちょうほう姿で、元結髷もとゆいまげも綺麗に整え、臥所ふしどの上に端座していた。顔色も良好だ。
「楚白、儂に気がねは無用じゃ。作法なぞかまわぬゆえ、横になっておれ。体をいたわれよ」
 朱薇は、寝台横の曲彔きょくろくへ腰かけ、楚白の歓待を喜ぶと同時に、遠慮深さを嘆きもした。
 親子であるにもかかわらず、楚白には父を頼り、甘えようとする心がない。
 こんな時でもだ。
「私はこの通り、平気です。典磨老が、大袈裟に騒ぎすぎただけですよ」と、楚白に睨まれ、白髭老家宰は首をすぼめた。朱薇は思わず苦笑する。
「お前という奴は……まったく」
「しかし丁度いい機会ですから、以前お伝えした婚礼話……是非、父上の承諾賜りたい」
 楚白の瞳は嬉々と輝いている。最早、病変の影も形も見えぬ、いつも通り壮健な楚白だ。
 朱薇は安堵するとともに、あるいは楚白の病気平癒も、【戴星姫うびたいひめ】による神通力の賜物ではないか……と、考えた。最初に報せを受けた晩は、さすがの姑洗太保も生きた心地がしなかった。突然の乱心と原因不明の高熱、侍医の治療も効果なく、病床に漂う死の匂い。
〈若君万一にも、お覚悟を〉――伝文には、確かにこう綴られていた。
 一年前、劫初内ごうしょだい後宮菊花殿こうきゅうきっかでん』で発生した、不祥事のあと処理に苦心惨憺、激務がかさなり、休暇も取れぬまま数日。再び届いた典磨老の伝文では、〈若君に少しずつ緩解の兆しあり〉と、喜ばしい吉報が書かれていたが、それにしても回復の早さに驚く。
「とにかく、その【戴星姫】に一度逢って見たいのう。返事は、そのあとで決めるとしよう」
 すると、楚白はおもむろに立ち上がり、朱薇や典磨牢が止める間もなく、帳台から外へ。
 さらに広間の板戸を開け放し、縁側で深呼吸する。
「これ、楚白!」
「若君! まだ、無理はいけません!」
 病み上がりを追いかけ、体を支える二人の心配性を余所よそに、喜色満面の楚白は、四合院中庭を指差した。深池みいけの中央に佇む、『鳥篭離宮とりかごりきゅう』である。
「あ、あれは一体……どうしたことじゃ!?」
 楚白が説明するより早く、鳥篭内の人影に気づいた朱薇が、驚愕のあまり、声を上ずらせた。典磨老が先回りし、やんわりと云いそえる。
「噂の【戴星姫】にございます。若君たっての希望で、一時あそこに住まわせております」
「なんだと!?」
 朱薇は何故か激昂し、険悪に眉根を寄せた。
「楚白……勝手な真似を! この屋敷を貴様へ譲り渡すに当たって、取り交わした約束を忘れたか! あそこにだけは、決して近づくなと再三、申しつけたはずだぞ! しかも渡殿わたどのの柵を壊し、破風はふを新たに普請し、鎧戸よろいどまでつけた挙句……女を囲うとはしからん!」
「ですが……鉄格子は父上が造りつけたまま、手を触れておりませぬ。あの戴星鳥うびたいどり、なかなか強情でしてな。私の命令には、ことごとく反発する始末。ですから、ああして閉じこめておく必要があるのです。私に従順な態度を示し、自ら進んでこの手に乗るほど、なつくまでの間はね」と、朱薇の面罵を物ともせず、口のをゆがめる楚白だ。息子の冷淡な横顔に、父王ふおう寒胆かんたんして、怒気が抜けた。かたわらの典磨老も、落胆いちじるしい。
「これは李蒐りしゅうに聞いた話だが、お前はあそこで、水沫みなわの亡霊を見たとか……本当なのか?」
 名門《董家》に嫁ぎ、大切な一粒種を産み、夭逝ようせつした【唯族ゆいぞく】の愛妻……夜盲症やもうしょうではあったが、聡明で美しい《水沫》の面影を偲び、朱薇は心を痛めた。
 いや、古傷をえぐられたのだ。
「李蒐、あのおしゃべりめ。くだらん戯言を、告げ口しおって……無論、デタラメですよ。私は、母の顔すら覚えていない。それに亡霊などと非現実的な物も、信じておりません」
 楚白は微笑し、朱薇の蒼白顔を見た。今では、見舞いに来た朱薇の方が、よほど病人じみていた。典磨老は、楚白に脅威すら感じた。
「若君……少し、お言葉がすぎますぞ」
「俺がなにを云ったと? お前も李蒐も、つまらん気を回しすぎだぞ! 下がっておれ!」
《董家》次世代の主は、刺々しい舌鋒ぜっぽうで老家宰を遠ざけた。
 やがて、縁側には親子二人きり……楚白は、前々から父親に訊ねたいことがあった。
 蛍拿けいなを捕えた今こそ、婚礼前に是が非でも聞き出さねばならぬ、重大な一件だ。
「父上……覚えていますか? 五年前、東国『未開区』付近にある、宮内大臣くないだいじん所有の狩り場へ、私が初めて、同道させて頂いた時のことです。父上は、私を救うためと称し、【卑族ひぞく】の集落を焼き討ちに致しましたね……あの一件です」
 朱薇は、息子が唐突に切り出した質問の真意を測りかね、不可解そうに首をかしげた。
「突然、なんだ? そんな、古い話を持ち出して……いや、しかし……あの時は、確かに大騒動だったな。猪を狩り出すため、皆で四散したあと、お前の行方が、判らなくなってしまった。儂や董家重臣は勿論、ご一緒していた侍従長や、『酒司みきのつかさぎみも懸命に探索してくれた。そして翌日の昼過ぎ、李蒐の父だった焔蒐武官えんしゅうぶかんが、恐るべき凶報をもたらしたのだ。なんと、お前は〝非人ひにん卑族〟の集落に囚われ、酷い仕打ちを受けていると云うではないか! 逃げられぬよう、虎鋏とらばさみで右足に怪我を負わせた挙句、傷口には、悪臭芬々ふんぷんたる汚物を塗りこまれ、さらには獣すら食さぬ木の根や雑草を、無理やり口に押しこまれ……見るも無惨な拷問だったと、焔蒐は泪ながらに報告して来たのだ! 儂はそれを聞いて、憤激のあまり、全身の血が燃えたぎったぞ! すぐに狩り場の外へ待機させておいた官兵を集め、奇襲の準備を整えた! お陰で、お前を無事に取り戻せたのだ。鬼畜にも劣る卑族どもは当然、皆殺しだ! 忌々しい集落も、焼き払った! 残る気がかりは、傷められたお前の右足だったが、侍医の看立てでは、ほとんど完治していたらしく……哈哈ハハ、そうか。お前の頑健さは、その頃から並外れていたのだな」
 明朗快活に、武勇伝を語る父親の笑顔を見て、楚白はめまいと、激しい動悸に襲われた。
「父上……あの、卑族たちは……」
「そんな昔話より、楚白よ。今が大事じゃ! 精のつく食物を持参して来たゆえ、早速にくりやへ運ばせよう。健やかそうでなによりだが、やはり病後は身をいたわらねば。劫初内への出仕も、しばらくはひかえるがよい。儂が、お前の上役《式部太鑑しきぶたいかん》へ、すでに話を通しておいたから喃」と、朱薇は、楚白の背を軽く叩き、さらにつけ加えた。
「もう日暮れだ。噂の【戴星姫】との接見は、明日に持ち越すとしよう。ささ、早く中へ」
 朱薇に促され、楚白もこれに従った。
 だがまたしても、重大な真実を伝えそびれてしまった。夕闇迫る四合院中庭に、ひっそりと聳立しょうりつする鳥篭離宮を振り返り、楚白は表情をかげらせた。
 右足に残る古傷が、何故か、かすかにうずいた。
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