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『双つの心』
其の四 ★
しおりを挟む「だ……誰だ!?」
鉄柵格子戸の鍵を開け、ゆっくりと鳥篭に入った楚白は、間仕切りの薄い壁代を、乱暴にまくった。途端に、蛍拿はおびえて跳ね起きた。
中心六角柱にピッタリと背中をつけ、蛍拿は、来訪者・楚白を敵意に満ちた瞳で迎える。
「こんな時分……なにしに来た!」
蛍拿の辛辣な口調を、楚白は酷薄な笑みで受け入れた。
簾をむしり取り、遠慮もためらいもなく、蛍拿に接近する。
無垢な戴星姫は、楚白の下卑た思惑に勘づき、寝巻き姿で身がまえる。
「~~妻問婚の蚊帳の宴~~か。なかなかオツなものだな。夫が夜更けに、妻の寝所を訪れる理由は、ひとつしかあるまい……判るだろう、蛍拿」
流行歌の一節を取り入れて、楚白は平然と云い放った。
目前にかがんだ男の、淫虐な微笑に悪寒を感じ、蛍拿は思わず身震いした。
胸をよぎる真っ赤な天狗面……蛍拿は当初の目的を果たすため、必死に知恵を廻らせた。
「俺には、幸福をもたらす神通力なんかないよ! けど、いずれ後宮監吏を継ぐあんたが、戴星姫を献上すれば……『闈司』の株は上がる! 皇帝陛下の信頼を勝ち得れば、きっと」
再び、楚白の拳がうなった。容赦ない一撃を喰らい、蛍拿は欄干まで吹き飛ばされた。
鉄格子をつかみ、辛うじて立ち上がるも、口の端から血がしたたり落ちた。
結髪は解け、左頬は熱を含み、クラクラと激しいめまいがする。
「お前は俺の飼犬にすぎん! 薄汚い非人卑族の分際で、御主人さまに意見などするな!」
楚白の満面には、苛烈な憤懣がみなぎっていた。床板に組み伏せる勢いも、夜着をはぐ腕力も、過日より手荒だった。帯は千切られ、襦裙は裂かれ、たちまち浅黒い肌が露になる。
蛍拿がここへ幽閉されて早三月半。尻尾つきとはいえ、四肢も以前より一層しなやかに艶めいて、成熟間近な生娘の初々しさ、華奢で清廉な女体が、ある種の魅力を宿していた。
あれからも幾度かあった、放蕩息子の非道な悪巫山戯とは、明らかにちがっている。
蛍拿は、おぞましさと嫌悪感で、体中が粟立った。
「嫌だぁぁ! 誰か、助けてぇぇえ!」
無駄とは知りつつも、蛍拿は助けをもとめずにいられなかった。
またしても、頬を打たれる。
「俺の妻になるのが、そんなに嫌か! 装束も、食事も、待遇も、卑族女の分にあまる贅沢をさせてやっているのに、なつこうとしないのは、腹立たしい限りだ! よく聞けよ! 『戴星印』があるからとて、お前は所詮、非人【卑族】なのだ! 【劫貴族】の俺に、刃向かうことなど、決して許さん! お前が、後宮入りを望む真の狙いは、判っているぞ! だが……そうはさせない! その前に、後宮監吏として、お前を教育せねばならんしな! 『闈司・姑洗太保』が負う、重要な仕事のひとつを今宵……ここで教えてやる!」
楚白は、いよいよ獣性をむき出しにし、己の長袍を脱ぎ捨てた。
『闈司』は、後宮妾妃の監督官だ。彼女らが、皇帝との閨事をつつがなく進められるよう、教養、礼儀作法、立ち居ふるまい以外にも、性伎を教えこまねばならない。
蛍拿には、まったくあずかり知らぬ世界であった。
「やめて! お願いっ……嫌あぁぁぁあっ!」
楚白は、蛍拿を拳で黙らせ、最後の薄絹を腰まで、たくし上げた。
ついに、乙女の秘処が獣の目に晒される。恥辱のあまり、蛍拿は泣き叫んだ。
目前に、猛り立つ楚白の欲望を突きつけられ、蛍拿は激しく身をよじった。
「お前なんか大嫌いだぁ! 放せよぉぉおっ!」
蛍拿は必死だった。
楚白に屈服したら、無惨にも殺された仲間たちへ申しわけが立たない。
「残念だったな! どんなに嫌な男でも、女の体は受け容れられるようにできてるのさ!」
楚白は、嗚咽する蛍拿の耳朶を噛み、下卑たセリフを口にする。
蛍拿の躯幹を、戦慄がほとばしった。再び、脳裏へ懐かしい顔が黄泉還った。
――赤い異相の天狗面――襤褸蓬髪――修験者姿――
〈上! 蛍拿は、上のためだけに……こんな男の玩具にされるなんて、絶対に嫌だ!〉
蛍拿の藍眼に、冷酷な殺意が芽生えた。
楚白が、純潔の無垢な胸に、顔をうずめてもてあそぶ間、歯を食いしばり、結髪をまとめる笄に手をかけた。蛍拿はそれを、獣の背に回す。まるで、愛撫を受け入れたようなそぶりで、楚白の首筋にしがみつき……男のうなじへ、鋭い切っ先を当てる。
〈この男を殺す以外、逃げ道はないんだ!〉
楚白が、細腰に手を回した瞬間、蛍拿の覚悟は決まった。
力をこめた笄の先端から、血がにじむ。行為に夢中の楚白は、まだ気づかない。蛍拿はギュッと目を閉じ、張り裂けそうな胸の中、一心に、天へ贖罪の祈りを捧げた。
〈神さま、どうか……お許しください!〉
だが……その時である。荒々しく、むさぼるような楚白の動きが、ピタリと止まった。
「……?」
蛍拿は訝り、不安そうに目を開けた。
楚白は、鳥篭離宮のある一点を見つめたまま、硬直していた。
まるで金縛りに遭ったようだ。顔色は青ざめ、小刻みに震えている。
彼の視線を追い、恐る恐る頭をのけぞらせた蛍拿は、そこに信じがたい光景を目撃した。
……雨の夜さりに聞く声は、
耳朶を震わす哀歌なり、
夏の終わりの蝉囃子、
残夢と名付けば小夜嵐……
出入口のない鳥篭離宮、その片隅に青白い顔の女が立ち現れ、物悲しい童謡を口ずさんでいた。しかも、からみ合う楚白と蛍拿の痴態を、泪目でぼんやりとながめているのだ。
……妙なる調べに汝は酔うて、
戯れ句の風騒 膝枕、
妻問婚の蚊帳の宴、
酒酌む朱盃に泪落つ……
途端に、蛍拿の羞恥心が働いて、呆然自失の楚白を押しのけた。
楚白は驚くほど呆気なく腰砕けになり、女の立ち姿を見つめ続けた。
……爪紅の浮気心、
悟らば悔しと生むは夜叉、
問わず語りの汝を抓て、
二人静かが善かれかし……
細身に白装束をまとう女は、朱唇を幽かに震わせ、陽炎の如く揺らいだ。
その存在は、もろく儚い泡沫だ。夜明け間近の風が、女の遺影を薄めてしまう。
蛍拿はおびえ、言葉も出ない。
……然れども明けの雨音を、
露命と知れば雲居に陽、
包まる夜着と汝の腕に、
夜叉を隠してやすむ幸……
しかし……女の童謡が終ると同時、楚白の口から、恐るべき一言が発せられた。
「母上……」
女は哀憐に満ちた眼差しで楚白を見、確かにうなずいた。
直後、女の体は無数の蛍火へ分散。煌々と転化するや、宵闇の中へ霧消した。
まさに夢幻泡影、一瞬の出来事だった。
「今更……何故、母上が、ここに……そんな、う、嘘だっ……ぎゃあああぁぁぁぁあっ!」
楚白は、凄まじい雄叫びを上げ、裸で鳥篭離宮を飛び出した。異変に気づき、駆けつけた典磨老が、慌てて若君を追う。李蒐武官が鉄格子に錠を下ろしつつ、内部の蛍拿を睨む。
肌も露な乙女は、驚愕の事態により貞操を守り抜けたが……たった今、自分を襲った恐怖と屈辱に顔をゆがめ、やがて、こらえきれず慟哭した。
それから寸刻後、鳥篭離宮へ取って返した隻眼の武官は、鬼の形相で蛍拿に詰め寄った。
「お前に、訊ねたいことがある!」
宅守たちが取り押さえ、なんとかなだめたものの、不可解な若君の奇行に、ますます懸念を昂ぶらせた李蒐は、蛍拿に事情を聞くため再訪問したのだ。ズカズカと広間を突っ切り、中心支柱で泣きじゃくる蛍拿に、大刀の鞘を差し向ける。
頤に鞘先が触れ、蛍拿は否応なく泣き顔を上向けられた。衝撃のあまり身づくろいもままならず、しどけない半裸状態で、李蒐を出迎えてしまった蛍拿……慌てて裾をかき合わせたものの、ここでなにが行われたかは、一目瞭然だった。
「先刻の騒ぎ……若君の取り乱しようは、尋常でなかった! 一体、ここでなにがあったのだ!? お前は若君に……なにをしたのだ!?」
彼は、蛍拿が楚白に毒でも盛ったのではないかと、疑っているらしい。それも道理だ。
毒を所持していたなら、蛍拿は喜んで楚白に使ったことだろう。
だが生憎、非力で無防備な彼女は、されるがままの人形に等しかった。
「黙ってないで、なんとか答えろ! 非人卑族の分際で、若君のご寵愛を受けるとは、身にあまる栄誉であろう! その恩を仇で返すとは、言語道断! つけ上がりおって、雌犬め!」
李蒐はイラ立ち、蛍拿の頬を鞘で打った。彼女の額に『戴星印』があろうと、なかろうと、李蒐はハナから、身分をわきまえぬ婚儀に反対の姿勢だった。他の家臣や宅守が、諸手を挙げて賛同する中、典磨家宰も慎重派だった。けれど今の蛍拿には、どうでもいいことである。元より、楚白の妻に納まる気持ちなど、さらさらない。ただ、悔しくて、哀しくて、胸が壊れそうで、唇を嚙みしめたまま、なにも云えないのだ。
「若君は、ここで《水沫の方》さまを見た、と……確かにそう仰った! 若君の御生母さまだ! 十三年前、御方さまは、ここで自ら命を絶ったのだ!」
李蒐は、楚白が蛍拿に与えた、わずかな家財道具を、無闇に引っくり返し……せまい六角堂内部を隅々まで検分しつつ、恐ろしい真実を語った。
その時、蛍拿の瞳に、初めて鮮烈な畏怖心が閃いた。あの、おぞましい行為の最中、突如として出現し、楚白の暴虐を止めた女は……なんと、彼の死んだ母親だったのだ。
つまり、蛍拿と楚白は亡霊を見たことになる。しかもそのせいで、楚白は乱心し、病床に臥せってしまったわけだ。蛍拿は恐々とつぶやいた。
「あの女……唄を口ずさんでたわ……『雨の夜さりに聞く声は、耳朶を震わす哀歌なり』って……とても、哀しそうだった……でも瞳は空ろで、儚くて……なにも見ていなかった」
なにげなく蛍拿が発したセリフは、李蒐を恐怖の底に叩きこんだ。それは、御生母《水沫の方》が生前、子守唄として、幼い楚白に、よく唄い聞かせていた童謡だ。
物悲しい調べが当事、流行った『夜さりの残夢』に相違ない。
「そんな、莫迦なことが……あり得ん!」
李蒐は再び、大刀の鞘を振りかざした。
蛍拿は避けようともせず、李蒐の晴眼を見すえた。額だけ、白く色抜けした菱形模様が、やけに皓々と光って見える。李蒐は急に怖気づき、ゆっくり刀身を退くや、踵を返した。
「今宵は引き上げるが……若君御身に万一のことあらば、お前は〝幸福の使者〟どころか、とんだ〝疫病神〟だ! その時は、俺が容赦なく斬り捨てるゆえ、覚悟しておくんだな!」
李蒐は化け物でも見るような目つきで蛍拿を一瞥すると、足早に鳥篭離宮を立ち去った。
――暗転――
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