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第五章 5
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クツナは半眼でシイカを見てから、視線をアルトに戻した。
シイカは両拳を握り、ほとんど施術台に乗り出す。
「どうしてですか。繭使いをするクツナさん本人より、私の繭を使った方が」
「これはもともと、僕たちの問題だ。君を巻き込んで済まないとさえ思ってる」
「とっくに、私の問題でもあります」
「鳴島、さっきも似たようなことを言ったが、僕たちのことに関して君が責任を負うべきことなんてひとつもない。君の繭を使う場合、君の四肢や臓器にダメージを与えないで済み、少しでもアルトに拒絶反応が起きづらい部分となると、ほとんどは記憶の繭を供出してもらうことになる。キリの時と同じだな、あれは本人のものだが。さてこれらを踏まえた場合、アルトに使えるのは、君の中にある僕やキリとの思い出、それに昨夜アルトが君に与えたキリの記憶の繭が大部分だ。しかし、かき集めても充分な量じゃないだろう。少しでもアルトに近しい記憶ということで、君が持つ僕との記憶も使って、それでも足りなければ、更に別の記憶もつぎ込むことになる。そんなことはさせられない」
「クツナさんの繭を使うよりずっといいじゃないですか! それこそ、二人の思い出が」
「いい悪いというより、未成年の女子を――君を犠牲にすることに強い嫌悪感がある。これでも成人なんでな、僕もアルトも。さっきも言ったが、そもそもキリの繭と君のそれは癒着してしまっていて、きれいに引きはがすのは難しい。その周囲から大きく切り取ってしまうことになるんだ。君への影響が大き過ぎる」
「そんなこと」
「さあ、始めるぞ。いつも通り、アシストを頼む。僕も初めての術式だからな、自分の繭を移植しながらというのは」
しかし、シイカはうつむいたままだった。
「鳴島」
「私と、クツナさんと」
「うん?」
「二人で、繭を出し合えば……どうですか」
「募金かい」
再び半眼になるクツナに、シイカは怯まずに言う。
「最初に、私の繭を使ってください。それで足りなければ、クツナさんのを」
「簡単に言うけどな、僕も頭をよぎりはした考えだが、凄く難しそうなんだぞ、それ」
「クツナさんならできるかも、ですよ」
「ご信頼ありがたいよ。本音を言えば、助かりもする。施術者本人である僕の繭を使うというのは、繭使いの精度を著しく落とすだろうしな。……でも、君は本当にいいのか?
記憶をなくすというのは、あれでかなりな」
「分かってます、経験者ですし。でも私の、皆さんとの思い出
は、元々クツナさんたちにもらったものですから、それをお返しするだけです」
「君がこれまで関わってきた客たちのことも、ほとんど忘れてしまうぞ。尾幌エツとの出会いだって、もしかしたら」
「いいんです。尾幌先輩とは、きっとまた仲良くなりますから」
シイカが強がって笑う。アルトの、保護と解放を同時に願っていた繭が思い出された。
同じ強さで、相反する両方を願う気持ちが、矛盾なく存在する。人が世の中を生きづらいと思う時は、その狭間にとらわれた時かもしれない、とシイカは思った。
「……分かった。鳴島、こっちへ来てくれ。台の上、アルトの隣に座ってくれ。楽にして……と言いたいところだが、できる限り繭使いも手伝ってほしい。」
「はい。……私、ここで働いた記憶もなくすかもしれないんですね。そうしたら、繭使いのことも忘れてしまいますか?」
「必要な繭の量から考えると、その可能性は高い」
シイカは施術台の上に腰かけた。クツナの左手側で、すぐに手伝える位置に。
「それなら、クツナさんのことも?」
「完全に忘れる可能性はゼロじゃない。少なくとも、今ほど親しい感覚ではなくなるだろうな。共有した思い出が大部分なくなるわけだから」
「私、こんなこと言ったら、クツナさんに笑われるかもしれませんけど」
「何だよ」
「クツナさんの記憶をなくしても、クツナさんのことは忘れないような気がするんです」
二人の目が合った。何度かそんなことはあったが、この時は、今までのどれよりも、互いを近くに感じた。
「変な日本語だな」
「国語、あんまり得意じゃありません」
「……キリの時とは違って、今の君の人格が、そう大きく変わったりはしないと思う。そういう風に繭使いをやる。君がここで働いてから、自分が少し変わったと思うなら、僕というきっかけはあったにせよ、その変化は君自身が獲得したものだ。それを損ねるようなことはしない」
「クツナさんが、ずっとどこかおかしかった私の繭を、治してくれたんです。だから、忘れません。自信ありますよ」
「やっぱり、会った頃からは少し変わったな。もしかしたら、より君らしくなったのかもしれないが」
クツナが口元で笑い、シイカは目元でも笑った。
「じゃあ、始めるか」
「はい。アルトさんを、助けてあげてください」
「承知したよ」
二人が緩やかに両手を上げていく。
「クツナさん」
「ん。どうした?」
「ありがとうございます」
「何だよ、急に」
「ちゃんと言わないとと思って」
「何の礼だ?」
「全部です。初めて会った時も、今年再会した時も、私のことを守ってくれて。クツナさんたちがいなかったら、私……」
いくつもの記憶があふれ、錯綜し、シイカの胸中を舞った。これがもうすぐ失われてしまうなどとは、信じられなかった。
いや、きっと忘れない。
ずっと、全てのことに自信がなかった。自分を信じるなど、世迷言だった。しかし、信じる人と共に歩いた道程なら、そのさなかに見つけ出した思いなら、信じられる。今はそう思えた。
「きっと僕たちは、何があろうと必ず出会ったし、仲良くもなったさ」
「今年、このおうちで会った時は、昔助けた子が私だって気づいてたんですよね」
「驚いたよ、忘れもしない繭だったからな。幸せに暮らしていそうなら、そっとしておこうと思った。でもどうやら、そうでもないように見えたからな」
「私が、繭使いを、少しですけど、できたのって……」
「移植されたキリの繭の影響だろうな。一族でもない人間に、到底できるものじゃない」
「才能があるとか言ってたくせに……」
「うむ。すまん。あの時は、ごまかした」
もう、とシイカが苦笑する。
「あの時、どうして私がクツナさんの家を覗き込んだりしたのか、やっと分かりました」
「悪くない再会だっただろ。君は今でもいい奴だったしな」
シイカは自分の胸の辺りに視線を落とした。我が身を包む繭の淡い光を、じっと見つめる。
「昔キリさんに移植してもらった繭、私のと同化しているっていう部分は、記憶の繭とは別ですよね。これも……使いますよね」
「使ってもいいか? ……その場合、君からキリの繭は失われる。今となっては君の生命機構に大きな影響を持ってはいないが……」
「私はもう、繭使いはできなくなるんですね」
シイカの中にあるキリの繭をアルトに移植すれば、シイカはそれを失う。繭を扱うどころか、見ることさえできなくなる。
これまでが、本来ならばありえないことだったのだ。繭使いではない自分が、繭を見て、触れ、繭使いを手伝うなどというのは。それはシイカも分かっている――が。
「寂しいです。すごく。でも、使ってください。それはたぶん、正しいことだと思います」
「今生の別れみたいに言うなよ。僕のことは忘れないんだろ?」
「クツナさん。私、楽しかったです。ここで働くの。誰かを助けたり、苦しさから開放したり、皆、少しずつですけど、それまでより」
本当は怖い。これほどに充実していた時間を奪われて、自分が自分でいられるのか。シイカは、記憶と能力を奪われた先の未来にこそ恐怖した。
「そうだ。君が、僕と一緒に助け続けた。それまでより、ずっと生きやすくなったよ、皆。礼を言うのは僕の方だ。ありがとう。君がいてくれてよかった」
泣いてはいけない。繭使いというのは、泣きながらやるようなものではない。特に、これから始まる施術は。
滴を拭わず、しゃくりあげもせず、シイカはただ、涙が落ちるに任せた。
クツナの手が、アルトの体の上で奔り始める。
この日、二人の最後の繭使いは、そうして始まり……
そして、やがて、その術式を終えた。
シイカは両拳を握り、ほとんど施術台に乗り出す。
「どうしてですか。繭使いをするクツナさん本人より、私の繭を使った方が」
「これはもともと、僕たちの問題だ。君を巻き込んで済まないとさえ思ってる」
「とっくに、私の問題でもあります」
「鳴島、さっきも似たようなことを言ったが、僕たちのことに関して君が責任を負うべきことなんてひとつもない。君の繭を使う場合、君の四肢や臓器にダメージを与えないで済み、少しでもアルトに拒絶反応が起きづらい部分となると、ほとんどは記憶の繭を供出してもらうことになる。キリの時と同じだな、あれは本人のものだが。さてこれらを踏まえた場合、アルトに使えるのは、君の中にある僕やキリとの思い出、それに昨夜アルトが君に与えたキリの記憶の繭が大部分だ。しかし、かき集めても充分な量じゃないだろう。少しでもアルトに近しい記憶ということで、君が持つ僕との記憶も使って、それでも足りなければ、更に別の記憶もつぎ込むことになる。そんなことはさせられない」
「クツナさんの繭を使うよりずっといいじゃないですか! それこそ、二人の思い出が」
「いい悪いというより、未成年の女子を――君を犠牲にすることに強い嫌悪感がある。これでも成人なんでな、僕もアルトも。さっきも言ったが、そもそもキリの繭と君のそれは癒着してしまっていて、きれいに引きはがすのは難しい。その周囲から大きく切り取ってしまうことになるんだ。君への影響が大き過ぎる」
「そんなこと」
「さあ、始めるぞ。いつも通り、アシストを頼む。僕も初めての術式だからな、自分の繭を移植しながらというのは」
しかし、シイカはうつむいたままだった。
「鳴島」
「私と、クツナさんと」
「うん?」
「二人で、繭を出し合えば……どうですか」
「募金かい」
再び半眼になるクツナに、シイカは怯まずに言う。
「最初に、私の繭を使ってください。それで足りなければ、クツナさんのを」
「簡単に言うけどな、僕も頭をよぎりはした考えだが、凄く難しそうなんだぞ、それ」
「クツナさんならできるかも、ですよ」
「ご信頼ありがたいよ。本音を言えば、助かりもする。施術者本人である僕の繭を使うというのは、繭使いの精度を著しく落とすだろうしな。……でも、君は本当にいいのか?
記憶をなくすというのは、あれでかなりな」
「分かってます、経験者ですし。でも私の、皆さんとの思い出
は、元々クツナさんたちにもらったものですから、それをお返しするだけです」
「君がこれまで関わってきた客たちのことも、ほとんど忘れてしまうぞ。尾幌エツとの出会いだって、もしかしたら」
「いいんです。尾幌先輩とは、きっとまた仲良くなりますから」
シイカが強がって笑う。アルトの、保護と解放を同時に願っていた繭が思い出された。
同じ強さで、相反する両方を願う気持ちが、矛盾なく存在する。人が世の中を生きづらいと思う時は、その狭間にとらわれた時かもしれない、とシイカは思った。
「……分かった。鳴島、こっちへ来てくれ。台の上、アルトの隣に座ってくれ。楽にして……と言いたいところだが、できる限り繭使いも手伝ってほしい。」
「はい。……私、ここで働いた記憶もなくすかもしれないんですね。そうしたら、繭使いのことも忘れてしまいますか?」
「必要な繭の量から考えると、その可能性は高い」
シイカは施術台の上に腰かけた。クツナの左手側で、すぐに手伝える位置に。
「それなら、クツナさんのことも?」
「完全に忘れる可能性はゼロじゃない。少なくとも、今ほど親しい感覚ではなくなるだろうな。共有した思い出が大部分なくなるわけだから」
「私、こんなこと言ったら、クツナさんに笑われるかもしれませんけど」
「何だよ」
「クツナさんの記憶をなくしても、クツナさんのことは忘れないような気がするんです」
二人の目が合った。何度かそんなことはあったが、この時は、今までのどれよりも、互いを近くに感じた。
「変な日本語だな」
「国語、あんまり得意じゃありません」
「……キリの時とは違って、今の君の人格が、そう大きく変わったりはしないと思う。そういう風に繭使いをやる。君がここで働いてから、自分が少し変わったと思うなら、僕というきっかけはあったにせよ、その変化は君自身が獲得したものだ。それを損ねるようなことはしない」
「クツナさんが、ずっとどこかおかしかった私の繭を、治してくれたんです。だから、忘れません。自信ありますよ」
「やっぱり、会った頃からは少し変わったな。もしかしたら、より君らしくなったのかもしれないが」
クツナが口元で笑い、シイカは目元でも笑った。
「じゃあ、始めるか」
「はい。アルトさんを、助けてあげてください」
「承知したよ」
二人が緩やかに両手を上げていく。
「クツナさん」
「ん。どうした?」
「ありがとうございます」
「何だよ、急に」
「ちゃんと言わないとと思って」
「何の礼だ?」
「全部です。初めて会った時も、今年再会した時も、私のことを守ってくれて。クツナさんたちがいなかったら、私……」
いくつもの記憶があふれ、錯綜し、シイカの胸中を舞った。これがもうすぐ失われてしまうなどとは、信じられなかった。
いや、きっと忘れない。
ずっと、全てのことに自信がなかった。自分を信じるなど、世迷言だった。しかし、信じる人と共に歩いた道程なら、そのさなかに見つけ出した思いなら、信じられる。今はそう思えた。
「きっと僕たちは、何があろうと必ず出会ったし、仲良くもなったさ」
「今年、このおうちで会った時は、昔助けた子が私だって気づいてたんですよね」
「驚いたよ、忘れもしない繭だったからな。幸せに暮らしていそうなら、そっとしておこうと思った。でもどうやら、そうでもないように見えたからな」
「私が、繭使いを、少しですけど、できたのって……」
「移植されたキリの繭の影響だろうな。一族でもない人間に、到底できるものじゃない」
「才能があるとか言ってたくせに……」
「うむ。すまん。あの時は、ごまかした」
もう、とシイカが苦笑する。
「あの時、どうして私がクツナさんの家を覗き込んだりしたのか、やっと分かりました」
「悪くない再会だっただろ。君は今でもいい奴だったしな」
シイカは自分の胸の辺りに視線を落とした。我が身を包む繭の淡い光を、じっと見つめる。
「昔キリさんに移植してもらった繭、私のと同化しているっていう部分は、記憶の繭とは別ですよね。これも……使いますよね」
「使ってもいいか? ……その場合、君からキリの繭は失われる。今となっては君の生命機構に大きな影響を持ってはいないが……」
「私はもう、繭使いはできなくなるんですね」
シイカの中にあるキリの繭をアルトに移植すれば、シイカはそれを失う。繭を扱うどころか、見ることさえできなくなる。
これまでが、本来ならばありえないことだったのだ。繭使いではない自分が、繭を見て、触れ、繭使いを手伝うなどというのは。それはシイカも分かっている――が。
「寂しいです。すごく。でも、使ってください。それはたぶん、正しいことだと思います」
「今生の別れみたいに言うなよ。僕のことは忘れないんだろ?」
「クツナさん。私、楽しかったです。ここで働くの。誰かを助けたり、苦しさから開放したり、皆、少しずつですけど、それまでより」
本当は怖い。これほどに充実していた時間を奪われて、自分が自分でいられるのか。シイカは、記憶と能力を奪われた先の未来にこそ恐怖した。
「そうだ。君が、僕と一緒に助け続けた。それまでより、ずっと生きやすくなったよ、皆。礼を言うのは僕の方だ。ありがとう。君がいてくれてよかった」
泣いてはいけない。繭使いというのは、泣きながらやるようなものではない。特に、これから始まる施術は。
滴を拭わず、しゃくりあげもせず、シイカはただ、涙が落ちるに任せた。
クツナの手が、アルトの体の上で奔り始める。
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