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第五章 4
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「誰……ですか?」
そう問いながら、気づいていた。これはアルトの声だ。しかし、今のアルトの喉から漏れたものではない。声の印象も、ずっと幼い。まるで子供のようだ。
――もうたくさんだ。会いたい。話したい。
――会いたくなどない。二度と開いてはいけない。
二色の声は、同じ響きだったが、込められた感情が違う。そして声が鳴る度に、目の前にある繭の塊が激しく揺れた。
――開けて!
シイカは、おずおずとアルトの胸元に手を伸ばした。
繭は、ある程度ならシイカも扱える。本来ならばアルトと張り合うには到底及ばなかったが、そのアルトはまるで無抵抗だった。
シイカの指先に痛みが走り、触れた繭が少しずつ緩んでいく。塊に見えたそれは、いくつもの結び目の集合体だった。ひとつひとつ結紮を解く度に内側に閉じ込
められた意志が脈動となって力強く解放されていく。
ほどかれたがっている。この繭はそれを望んでいる。指の感触から、シイカはそれを感じ取った。しかし同じくらい、解放を厭う意志もある。
人間の心は、白黒どちらかに必ず傾く天秤ではない。正反対のことを、同じ強さで願うことが、矛盾なくあり得る。
「あの頃の」
されるがままだったアルトの口が開いた。
「あの頃の、三人。……君の中のキリと、僕らの記憶」
「……はい」
「そんなことをしても、無駄なんだ」
「何が……ですか?」
「もうとっくに、なくなってしまったものなのだから」
アルトの顔つきが変わっている。表情が戻ってきていた。それも、張りついたような冷笑や、余裕のある面持ちではない。まるで、これからひどく叱られる――子供のような。
シイカは、自分の死角で、アルトに何かが起きていると察した。正面に立つアルトを避けるようにして体をよじり、その向こうにいるクツナを見る。
「クツナさん!?」
「危ない真似を、するなよ」
クツナの手から、一本の糸が伸びていた。先端はアルトの繭につながっている。
シイカには見えていた。アルトがナイフを腿に突き立てられたクツナに覆いかぶさった時、クツナもまた瞬時に防御を放棄して、全神経を傾けてアルトの繭から一本の糸をより出した。
その分、右足の機能を奪われることに無抵抗になってしまったが。クツナは何かをしようとしている。
そう気づいて、一度はシイカが制止した。アルトと話すために。
クツナが握った糸が何を司るものなのかは、シイカには分からない。しかしシイカを守るため、クツナはその糸を引き、アルトの繭の――どこかを引きちぎり、壊した。
「ぐう……」
アルトがうめく。
その顔が、みるみるうちに苦悶の表情に変わった。
そして、たった今シイカがひもといていたアルトの繭が、ひとりでにばらばらとほどけていく。
「ぐあああああッ!」
「クツナさん!? これ、何ですか!? 私が触れていた結び目の塊は……」
クツナは足のナイフを抜き、繭使いでケガと出血を軽減させ、足の麻痺も治したところだった。よろよろと歩いてアルトに近づいていく。
「元々、多少気位が高くても、傍若無人な真似ができる奴じゃなかった。キリや僕の親、自分の両親を手にかけられる性格じゃないんだ。なぜそれができたのか……恐らく、僕以外の人間への愛着、思い入れ、そういったつながりを繭使いで遮断したんだろう。それだけのものを切断しようとすると、かなり大がかりな術式になるし副作用も激しくなるから、繭を縛ることで遮断する――結紮によるものだろうとは踏んでいた」
「あぐっ、ぐうううう」
アルトが両手で顔を覆った。泣いている。慟哭が響き、灰色の髪が上下に揺れる。
「縛るといっても、二度とほどくつもりもなかっただろうな。ただ、それを開けることが唯一、僕の勝機だった。少々手荒に、閉じている門扉を壊すような技を使った。さっきの糸が最後の鍵だ。開ければ……決壊する」
「唯一の、勝機……ですか。これが、勝ち……」
クツナは微苦笑して嘆息する。
「廃人になられちゃ困る。ましてや、死なれでもしたら。それが、僕の一番の大敗だ」
「どう……なるんですか。アルトさんは」
「普通なら味わうはずだった自責の念が、吹き荒れてるはずだ。性根は理性的な奴だからな。それに加え、繭があんな状態じゃ、正気すら保てるか怪しい」
「そんな。それって」
「受け止めるべきものなんだ。今でもこいつが繭使いとして生きているのなら、なおさら」
「でも」
「僕も迷った。でも、こいつもそれを望んでいた。繭使いは、繭を操られる側が忌避していることをやらせようとすると凄まじい反発がある。それに対して、本心では望んでいることなら、比較的容易に術を進行できる。アルトが心底、人とつながることを拒んでいたのなら……僕は、結紮を解くことはできなかっただろうな。それに、君にも聞こ
えていたんじゃないのか。アルトが、本当はどうしてほしいのか。それがなければ、少なくとももっと僕の術式は長引いていた」
アルトは、地面に突っ伏していた。
団地の路面はアスファルトだったため、太陽熱に炙られて高温になっているはずだ。しかし、膝や腕を地面につけて、苦痛のそぶりも見せない。
泣き声は、獣のような嗚咽に変わっていた。そして、シイカは気づく。アルトが身じろぎをしている。その体が揺れ動くたびに、ぼろ布のようだった繭がさらに綻びていく。
「クツナさん、これ」
「自傷行為だ。自分で自分の繭を壊している」
「それって……」
「放っておけば、生命機構が維持できなくなって、死ぬ」
「クツナさん!」
クツナが、アルトの背中を見下ろす形で膝立ちになった。
「だから、ここから治す。応急処置を終えたところで、うちへ運ぶ。とりあえず気絶させるか」
全くの無抵抗で、アルトはクツナの繭使いを受け、意識を失ってその場に突っ伏した。
「鳴島、タクシーを呼んでくれ。父にはあまり見られたくないからな、今なら出かけてると思うが。くそ、この足のケガ隠せるかね」
クツナが空を仰いで、先ほどよりも遥かに深く嘆息した。
タクシー会社へ連絡を終えたシイカは、地面に腰を下ろしているクツナの横にしゃがみ込む。
「クツナさんが、アルトさんを治してあげないって言ったらどうしようかと思ってました」
「そうなるかもしれなかったけどな。鳴島は、繭使いってどうしてこの世にあると思う?」
唐突に聞かれ、シイカが少しのけぞる。
「どうして、って……繭使いの人たちが、受け継いでいるから……ですか?」
「そうだ。僕はこの能力は、人がより己らしく生きるためにあると考えてる。理不尽なことの方が多い世の中で、少しでも枷を外して暮らしていくために、絶やされずに続いてきた。アルトがしたことを許せるわけじゃないし、裁かれずに済むものでもない。でもそれも、全ては、生くべきように生きてこそ、だろ」
シイカはアルトを見た。うつ伏せになったその体は、ひどく痩せて見える。何を思い、何に苦しんで生きてきたのか。クツナには、それを聞く必要があるのだろう。
「それって、助けたいから助ける、ということですよね」
「分かってるじゃないか。せっかく、本音と建前がうまく融合したんだ。あまりつつかないでくれ。僕にだって、割り切った上での葛藤がないわけじゃない」
クツナが苦笑して頭をかいた。
タクシーのエンジン音が、二人の耳に入ってきた。
御格子家に着くと、シイカとクツナは二人で片方ずつ肩を貸す形で、アルトを施術台に運んだ。
「改めて見ると、ひどいな、この繭は」
「はい……」
シイカもまじまじとアルトの繭を見て、よく観察すればするほど異常な状態だということが分かった。構造はいびつで、ところどころに破れ目があり、変色して、腐敗しているように見える箇所すらある。とても繭使いの達者の繭には見えない。自分がこうなっていたらと考えると、ぞっとする程だった。
「治せる、んですか……?」
「なかなか厳しい質問をするようになったなあ、君」
「す、すみません」
「面倒かけて済まないが、手伝ってくれ」
「もちろんです。……あの、クツナさん」
「なんだ?」
クツナは全力をふるうため手早く和装に着替えたが、シイカは気が急いて、普通の洋服姿でいる。横たえたアルトを左右から挟む形で、二人は立つ。
「アルトさんの繭、……ちゃんと治すには、量が足りないですよね。けっこうちぎれてしまってますし、だめになってしまってる部分も」
「確かにな」
「クツナさん、自分の繭を移植しようと思ってますよね」
二人が顔を見合わせた。
「お見通しだな。拒絶反応が出ないことを祈るよ」
「そう言うと思ってました。でも、もっといい方法があると思うんです」
「ほお。聞かせてくれ」
「私の繭を移植してください」
「そう言うと思った。却下だ」
そう問いながら、気づいていた。これはアルトの声だ。しかし、今のアルトの喉から漏れたものではない。声の印象も、ずっと幼い。まるで子供のようだ。
――もうたくさんだ。会いたい。話したい。
――会いたくなどない。二度と開いてはいけない。
二色の声は、同じ響きだったが、込められた感情が違う。そして声が鳴る度に、目の前にある繭の塊が激しく揺れた。
――開けて!
シイカは、おずおずとアルトの胸元に手を伸ばした。
繭は、ある程度ならシイカも扱える。本来ならばアルトと張り合うには到底及ばなかったが、そのアルトはまるで無抵抗だった。
シイカの指先に痛みが走り、触れた繭が少しずつ緩んでいく。塊に見えたそれは、いくつもの結び目の集合体だった。ひとつひとつ結紮を解く度に内側に閉じ込
められた意志が脈動となって力強く解放されていく。
ほどかれたがっている。この繭はそれを望んでいる。指の感触から、シイカはそれを感じ取った。しかし同じくらい、解放を厭う意志もある。
人間の心は、白黒どちらかに必ず傾く天秤ではない。正反対のことを、同じ強さで願うことが、矛盾なくあり得る。
「あの頃の」
されるがままだったアルトの口が開いた。
「あの頃の、三人。……君の中のキリと、僕らの記憶」
「……はい」
「そんなことをしても、無駄なんだ」
「何が……ですか?」
「もうとっくに、なくなってしまったものなのだから」
アルトの顔つきが変わっている。表情が戻ってきていた。それも、張りついたような冷笑や、余裕のある面持ちではない。まるで、これからひどく叱られる――子供のような。
シイカは、自分の死角で、アルトに何かが起きていると察した。正面に立つアルトを避けるようにして体をよじり、その向こうにいるクツナを見る。
「クツナさん!?」
「危ない真似を、するなよ」
クツナの手から、一本の糸が伸びていた。先端はアルトの繭につながっている。
シイカには見えていた。アルトがナイフを腿に突き立てられたクツナに覆いかぶさった時、クツナもまた瞬時に防御を放棄して、全神経を傾けてアルトの繭から一本の糸をより出した。
その分、右足の機能を奪われることに無抵抗になってしまったが。クツナは何かをしようとしている。
そう気づいて、一度はシイカが制止した。アルトと話すために。
クツナが握った糸が何を司るものなのかは、シイカには分からない。しかしシイカを守るため、クツナはその糸を引き、アルトの繭の――どこかを引きちぎり、壊した。
「ぐう……」
アルトがうめく。
その顔が、みるみるうちに苦悶の表情に変わった。
そして、たった今シイカがひもといていたアルトの繭が、ひとりでにばらばらとほどけていく。
「ぐあああああッ!」
「クツナさん!? これ、何ですか!? 私が触れていた結び目の塊は……」
クツナは足のナイフを抜き、繭使いでケガと出血を軽減させ、足の麻痺も治したところだった。よろよろと歩いてアルトに近づいていく。
「元々、多少気位が高くても、傍若無人な真似ができる奴じゃなかった。キリや僕の親、自分の両親を手にかけられる性格じゃないんだ。なぜそれができたのか……恐らく、僕以外の人間への愛着、思い入れ、そういったつながりを繭使いで遮断したんだろう。それだけのものを切断しようとすると、かなり大がかりな術式になるし副作用も激しくなるから、繭を縛ることで遮断する――結紮によるものだろうとは踏んでいた」
「あぐっ、ぐうううう」
アルトが両手で顔を覆った。泣いている。慟哭が響き、灰色の髪が上下に揺れる。
「縛るといっても、二度とほどくつもりもなかっただろうな。ただ、それを開けることが唯一、僕の勝機だった。少々手荒に、閉じている門扉を壊すような技を使った。さっきの糸が最後の鍵だ。開ければ……決壊する」
「唯一の、勝機……ですか。これが、勝ち……」
クツナは微苦笑して嘆息する。
「廃人になられちゃ困る。ましてや、死なれでもしたら。それが、僕の一番の大敗だ」
「どう……なるんですか。アルトさんは」
「普通なら味わうはずだった自責の念が、吹き荒れてるはずだ。性根は理性的な奴だからな。それに加え、繭があんな状態じゃ、正気すら保てるか怪しい」
「そんな。それって」
「受け止めるべきものなんだ。今でもこいつが繭使いとして生きているのなら、なおさら」
「でも」
「僕も迷った。でも、こいつもそれを望んでいた。繭使いは、繭を操られる側が忌避していることをやらせようとすると凄まじい反発がある。それに対して、本心では望んでいることなら、比較的容易に術を進行できる。アルトが心底、人とつながることを拒んでいたのなら……僕は、結紮を解くことはできなかっただろうな。それに、君にも聞こ
えていたんじゃないのか。アルトが、本当はどうしてほしいのか。それがなければ、少なくとももっと僕の術式は長引いていた」
アルトは、地面に突っ伏していた。
団地の路面はアスファルトだったため、太陽熱に炙られて高温になっているはずだ。しかし、膝や腕を地面につけて、苦痛のそぶりも見せない。
泣き声は、獣のような嗚咽に変わっていた。そして、シイカは気づく。アルトが身じろぎをしている。その体が揺れ動くたびに、ぼろ布のようだった繭がさらに綻びていく。
「クツナさん、これ」
「自傷行為だ。自分で自分の繭を壊している」
「それって……」
「放っておけば、生命機構が維持できなくなって、死ぬ」
「クツナさん!」
クツナが、アルトの背中を見下ろす形で膝立ちになった。
「だから、ここから治す。応急処置を終えたところで、うちへ運ぶ。とりあえず気絶させるか」
全くの無抵抗で、アルトはクツナの繭使いを受け、意識を失ってその場に突っ伏した。
「鳴島、タクシーを呼んでくれ。父にはあまり見られたくないからな、今なら出かけてると思うが。くそ、この足のケガ隠せるかね」
クツナが空を仰いで、先ほどよりも遥かに深く嘆息した。
タクシー会社へ連絡を終えたシイカは、地面に腰を下ろしているクツナの横にしゃがみ込む。
「クツナさんが、アルトさんを治してあげないって言ったらどうしようかと思ってました」
「そうなるかもしれなかったけどな。鳴島は、繭使いってどうしてこの世にあると思う?」
唐突に聞かれ、シイカが少しのけぞる。
「どうして、って……繭使いの人たちが、受け継いでいるから……ですか?」
「そうだ。僕はこの能力は、人がより己らしく生きるためにあると考えてる。理不尽なことの方が多い世の中で、少しでも枷を外して暮らしていくために、絶やされずに続いてきた。アルトがしたことを許せるわけじゃないし、裁かれずに済むものでもない。でもそれも、全ては、生くべきように生きてこそ、だろ」
シイカはアルトを見た。うつ伏せになったその体は、ひどく痩せて見える。何を思い、何に苦しんで生きてきたのか。クツナには、それを聞く必要があるのだろう。
「それって、助けたいから助ける、ということですよね」
「分かってるじゃないか。せっかく、本音と建前がうまく融合したんだ。あまりつつかないでくれ。僕にだって、割り切った上での葛藤がないわけじゃない」
クツナが苦笑して頭をかいた。
タクシーのエンジン音が、二人の耳に入ってきた。
御格子家に着くと、シイカとクツナは二人で片方ずつ肩を貸す形で、アルトを施術台に運んだ。
「改めて見ると、ひどいな、この繭は」
「はい……」
シイカもまじまじとアルトの繭を見て、よく観察すればするほど異常な状態だということが分かった。構造はいびつで、ところどころに破れ目があり、変色して、腐敗しているように見える箇所すらある。とても繭使いの達者の繭には見えない。自分がこうなっていたらと考えると、ぞっとする程だった。
「治せる、んですか……?」
「なかなか厳しい質問をするようになったなあ、君」
「す、すみません」
「面倒かけて済まないが、手伝ってくれ」
「もちろんです。……あの、クツナさん」
「なんだ?」
クツナは全力をふるうため手早く和装に着替えたが、シイカは気が急いて、普通の洋服姿でいる。横たえたアルトを左右から挟む形で、二人は立つ。
「アルトさんの繭、……ちゃんと治すには、量が足りないですよね。けっこうちぎれてしまってますし、だめになってしまってる部分も」
「確かにな」
「クツナさん、自分の繭を移植しようと思ってますよね」
二人が顔を見合わせた。
「お見通しだな。拒絶反応が出ないことを祈るよ」
「そう言うと思ってました。でも、もっといい方法があると思うんです」
「ほお。聞かせてくれ」
「私の繭を移植してください」
「そう言うと思った。却下だ」
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