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五章 女炎帝
21、陳燕の謝罪
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「わたくしの叔父は謹慎になったわ」
陳燕に話しかけられて、翠鈴はふり返った。
「叔父は大理寺卿に昇進して、杷京の風紀を正すのだと躍起になっていた。でも、やりすぎたのね」
まだ陳燕の両頬は腫れが残っている。
陳燕の琅玕の腕輪を盗んだ宮女は、罰として足首の腱を切られた。
姪にですら暴力を振るう人間は、他人にはさらにひどいことをする。
今回はたまたま皇后の懐妊の内祝いがあったおかげで、陳天分は処罰できたが。もし風紀を正すという大義名分がまかり通ったなら。女性たちを投獄するだけでは済まなかったはずだ。
「叔父は、長く大理寺少卿に留まっていたから。今回の昇進は、うちの一族がとても喜んでいたのよ。でもね」
陳燕は息をついた。倦怠感が滲んでいる。
「叔父はお祝いを述べられることはあっても、自分からは『おめでとう』って言わないの。決してね。誰かが出世しても、身内が結婚しても、子が生まれても。いつも『まぁ、いつまでも上手くいくと思わないことだ』って皮肉を言うだけなのよ」
「それは……あなたもつらかったわね」
庇うつもりはなかったのだが。翠鈴は、陳燕も叔父に嫌な思いをさせられたのだろうと想像できた。
まるで「そうなのよ!」とでも言いたそうに、陳燕が一歩を踏みだす。
だが、親しくもない宮女に話すことでもないと判断したようで。すぐに足をひっこめる。もう底の高い花盆沓は履いていない。
「女炎帝さまなら、聞いてくださるかしら」
ぽつりと陳燕は呟いた。
声が細い。おそらく陳燕には、心を打ち明けられる人が後宮にはいないのだろう。
陳燕は強いわけではない。弱みを見せないように、常に虚勢を張っているだけだ。
「あなたの叔父さんは、謹慎が解けたら元の大理寺卿に戻るんでしょう?」
翠鈴の問いに、陳燕は首を振った。
「無理だと思うわ。わたくしはその場にいなかったから、捕まっていた女官から話を聞いたのだけど。陛下の書状を持った人がいらっしゃったそうよ。陛下は叔父のことを怒っていらしたから」
陛下の書状を届けたのは、光柳しかいない。
牢獄に囚われていた女官や宮女は、光柳の顔を見ているはずなのに。彼女たちは解放された後も、秘密を共有するかのように、光柳の名を出さない。
まるで彼を守るかのように。
「叔父は、わたくしのことを陳家の恥さらしだと罵ったけれど。大理寺の頂点に立った途端に、降格されるんですもの。陳家の恥が上書きされたわね」
ふふ、と陳燕は乾いた笑いをこぼした。
翠鈴は圍巾を口もとまで引きあげた。その様子を、陳燕が一瞥する。
「その圍巾の素材が何かご存じ?」
「山羊の毛というくらいしか知らないわ」
「でしょうね。あんたはただの宮女ですもの。価値なんて分からないわよね」
いつもの憎まれ口を叩いているのに。やはり嫌味に力がない。
「それは高山に住む山羊の毛を織ったものよ。貴族や豪商しか持てない、とても高価で滅多に手に入らない品なの」
「そうなの?」
「呆れたわ。知らなかったの? 普段使いにするような品じゃないわ」
思っていたよりも貴重な品だ。翠鈴は、光柳にもう一度返すべきかと悩んだ。
「でも、贈り物なら知らなくてもしょうがないわね。もしかして女炎帝さまがくださったのかしら」
ん? 翠鈴は首を傾げた。
「罵倒しないの?」
「……しないわよ」
「盗んだって疑わないの?」
翠鈴の言葉に、陳燕は恥じ入るようにうつむいた。胸の前で両手を握りしめて、回廊の床を見つめている。
陳燕がためらうその間に、遠くから鶏の声がした。鶏に呼応するように、未央宮の木にとまっていた雀が鳴きはじめる。
庭の木々や草には霜が降りている。昇る朝日に照らされて、葉についた霜がきらきらと光を宿す。
「以前、麟美さまの詩を盗んだなんて、言いがかりをつけたことを謝るわ。ごめんなさい」
今にも消え入りそうなほどに、小さな声で陳燕は告げた。
世の中には、謝ると死んでしまう人間がいると翠鈴は思っていた。陳燕もその類だと。
でも、違った。
「また女炎帝さまにお会いしにいくわ。こんなわたくしの悩みを聞いてくださったのだから。お礼を伝えたいの」
陳燕は未央宮を出ていった。
誇り高い彼女のことだ。今朝の行動は、勇気が必要だったに違いない。
女炎帝が翠鈴であると、陳燕は気づいているのかいないのか。それは些末なことのように思えた。
陳燕に話しかけられて、翠鈴はふり返った。
「叔父は大理寺卿に昇進して、杷京の風紀を正すのだと躍起になっていた。でも、やりすぎたのね」
まだ陳燕の両頬は腫れが残っている。
陳燕の琅玕の腕輪を盗んだ宮女は、罰として足首の腱を切られた。
姪にですら暴力を振るう人間は、他人にはさらにひどいことをする。
今回はたまたま皇后の懐妊の内祝いがあったおかげで、陳天分は処罰できたが。もし風紀を正すという大義名分がまかり通ったなら。女性たちを投獄するだけでは済まなかったはずだ。
「叔父は、長く大理寺少卿に留まっていたから。今回の昇進は、うちの一族がとても喜んでいたのよ。でもね」
陳燕は息をついた。倦怠感が滲んでいる。
「叔父はお祝いを述べられることはあっても、自分からは『おめでとう』って言わないの。決してね。誰かが出世しても、身内が結婚しても、子が生まれても。いつも『まぁ、いつまでも上手くいくと思わないことだ』って皮肉を言うだけなのよ」
「それは……あなたもつらかったわね」
庇うつもりはなかったのだが。翠鈴は、陳燕も叔父に嫌な思いをさせられたのだろうと想像できた。
まるで「そうなのよ!」とでも言いたそうに、陳燕が一歩を踏みだす。
だが、親しくもない宮女に話すことでもないと判断したようで。すぐに足をひっこめる。もう底の高い花盆沓は履いていない。
「女炎帝さまなら、聞いてくださるかしら」
ぽつりと陳燕は呟いた。
声が細い。おそらく陳燕には、心を打ち明けられる人が後宮にはいないのだろう。
陳燕は強いわけではない。弱みを見せないように、常に虚勢を張っているだけだ。
「あなたの叔父さんは、謹慎が解けたら元の大理寺卿に戻るんでしょう?」
翠鈴の問いに、陳燕は首を振った。
「無理だと思うわ。わたくしはその場にいなかったから、捕まっていた女官から話を聞いたのだけど。陛下の書状を持った人がいらっしゃったそうよ。陛下は叔父のことを怒っていらしたから」
陛下の書状を届けたのは、光柳しかいない。
牢獄に囚われていた女官や宮女は、光柳の顔を見ているはずなのに。彼女たちは解放された後も、秘密を共有するかのように、光柳の名を出さない。
まるで彼を守るかのように。
「叔父は、わたくしのことを陳家の恥さらしだと罵ったけれど。大理寺の頂点に立った途端に、降格されるんですもの。陳家の恥が上書きされたわね」
ふふ、と陳燕は乾いた笑いをこぼした。
翠鈴は圍巾を口もとまで引きあげた。その様子を、陳燕が一瞥する。
「その圍巾の素材が何かご存じ?」
「山羊の毛というくらいしか知らないわ」
「でしょうね。あんたはただの宮女ですもの。価値なんて分からないわよね」
いつもの憎まれ口を叩いているのに。やはり嫌味に力がない。
「それは高山に住む山羊の毛を織ったものよ。貴族や豪商しか持てない、とても高価で滅多に手に入らない品なの」
「そうなの?」
「呆れたわ。知らなかったの? 普段使いにするような品じゃないわ」
思っていたよりも貴重な品だ。翠鈴は、光柳にもう一度返すべきかと悩んだ。
「でも、贈り物なら知らなくてもしょうがないわね。もしかして女炎帝さまがくださったのかしら」
ん? 翠鈴は首を傾げた。
「罵倒しないの?」
「……しないわよ」
「盗んだって疑わないの?」
翠鈴の言葉に、陳燕は恥じ入るようにうつむいた。胸の前で両手を握りしめて、回廊の床を見つめている。
陳燕がためらうその間に、遠くから鶏の声がした。鶏に呼応するように、未央宮の木にとまっていた雀が鳴きはじめる。
庭の木々や草には霜が降りている。昇る朝日に照らされて、葉についた霜がきらきらと光を宿す。
「以前、麟美さまの詩を盗んだなんて、言いがかりをつけたことを謝るわ。ごめんなさい」
今にも消え入りそうなほどに、小さな声で陳燕は告げた。
世の中には、謝ると死んでしまう人間がいると翠鈴は思っていた。陳燕もその類だと。
でも、違った。
「また女炎帝さまにお会いしにいくわ。こんなわたくしの悩みを聞いてくださったのだから。お礼を伝えたいの」
陳燕は未央宮を出ていった。
誇り高い彼女のことだ。今朝の行動は、勇気が必要だったに違いない。
女炎帝が翠鈴であると、陳燕は気づいているのかいないのか。それは些末なことのように思えた。
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