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第三章 嫌われた王子様と呪われた乞食

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 あの目玉が偽物だと、天帝は言った。だが、偽物とは?
 あんなに大きなものにそうかわりが見つかるだろうか。

「死に神はおそらく気が付いていない。担がれたのだと、知らないのだ。大神は何を考えているのか。何のために暦を壊して、はなおとめを呼び寄せたのか、これでは分からない。たが、はなおとめ。死に神は、この世界のためにあの目玉を討ち取る気でいる」
「さっきもその話になったわよね? けれど、あれは見ているだけで、こちらにはやってこないのでしょう? ヴァニタスというものがいくら手に負えないからって、あちらには手が届くとは限らないでしょう?」
「そうだ。限らない。だが、勝機を見出しているのだろう。地の底から浮上したのは、もう抑えきれないと思ったのもあるだろうが、実際死に神に勝てる見込みが出来たからだろう」
「……それは、偽物だから?」
「そうだ。血をぼたぼたと落としている。弱っていると、思ったのだろう」
「血?」

 何故か、胸騒ぎがした。

「そうだ。目玉から、血が落ちる。死に神は呪いを操る」
「……術神だった、のよね?」
「そうだ。大神は剣を用いて腐ったヴァニタスとその眷族達を殺して回った。術神も同じだ。呪術を持ってヴァニタス達を掃討した。あの目玉の血さえあれば、死に神であれば呪い殺せる」
「それが、勝算……」

 カリオストロとトーマのやり取りを思い出す。カリオストロはトーマに呪詛返しの応用がどうのと言っていた。
 呪術のことはよく知らないが、清族の使う不可思議な術と同じなのだろう。魔力を使い、敵を打ち倒す。血を媒介にすれば致命傷を与えられるのかもしれない。

「だが、問題はあれが偽物であることだ」
「意味がないということ? 本物ではないから?」
「そうだ」
「……倒しても、意味がない?」
「異世界の民ではないものを殺したところで状況は何一つ好転しない」
「……ではあれは何なの?」

 当然の疑問だろう。異世界の民になりかわり、誰が得をするというのだろう。そもそも、あれを天帝が隠していたのではないか。誰もが知る話ではないはずだ。

「何かと問われれば人間だと答えるしかない。個体名は知らないが、今から会いに行く」
「……あそこまで?」

 空を見上げる。太陽と同じだ。見えるけれど、決して届きそうにはない。
 とても会いに行けるとは思えない。そもそも、死に神だって、届かないのではなかったか。

「いや。遠くはない。この乗り物ーー車とやらで行ける場所だ」

 嘶きのようにエンジンが鳴る。車は馬よりも早く走った。
 窓の外の景色が置いていかれる。木も人も建物も、水飛沫のなかに消えた。

 ずっと、走り続けた。
 途中で見覚えがある建物が見えた。フォード王立学校だ。三つの校舎とハルと初めて会った花園が見えた。
 フォード王立学校に入った瞬間、天に浮かんでいた瞳が消えた。この学校には結界がしてある。外がどんなに阿鼻叫喚なありさまでも天国のように安穏としていた。
 車の行き先は東棟の先にある貴族用の森のようだった。舗装されていない道を行くせいで、車の揺れが激しくなる。
 森に入ってから、視界が暗くなった。だからだろうか、否応なしに森にハルとカンドに連れてこられたときのことを思い出す。あのとき、イルも、サラザーヌ公爵令嬢もいた。……サラザーヌ公爵も。
 地面のなかに潜り込んだことを思い出す。月を見た。海のなかのようだった。海月やサメ、鯨が私達の前を通り過ぎていった。
 イルがやってきて、ギスランもそのあと来た。
 そのとき、ギスランが言っていた。
 学校の建っている場所は河だったと。そして、海でもあった。

「人の血が、聖域を穢す。正確には、人に混じった神の血が……」
「誰から、その話を?」
「ギスランに、聞いたことがあるの。雨とは天帝の涙。涙とは、血のようなもの。地面はそれを受けて、徐々に狂っていくって」
「ギスラン様に」

 ヴィクターは感心したように頷いた。
 どうやら、天帝の気持ちが落ち着いたらしい。普通に私と話しても機嫌を損なわないようだ。
 というか、車の運転にそれどころではないのかもしれない。さっきから、とんでもない速度で走っている。
 途中で、何かにぶつかった。人ではないと信じたい。

「地面を観るための観測所があるという話も聞いたことがあるわ。清族のための地下二十五階建ての建物」
「あります。元々は地下世界の観測のために用意されたものです。いつの間にか、地下に住まう神の観測に――あるいはその居住区の観測に変わったのですが」
「観測しているだけ?」
「ええ。仕事とはそういうものですよ。記録と観察、日々の繰り返し」

 不思議な職業もあるものだな。

「……ねえ、どこに向かっているの。この先、森が広がるだけでしょう?」

 鳥の鳴き声が車の唸り声にかき消される。
 恐ろしい生物がやってきたと思って、森に住む動物達は逃げてしまうのだ。
 虫の鳴き声が遠くから聞こえるが、それもすぐに車の吐き出す音に押し潰される。

「はなおとめ、獣を狩るための森というのは建前なのですよ」
「どういう意味?」
「ギスラン様から聞いてはいない? この場所は、神との関係が深い場所なのです。男神が死んだのは、この森の奥とされているのですから」
「男神が?」

 そんな話、一回も聞いたことがない。少なくとも、聖書には書かれていなかったはずだ。書かれていたとしたら、ここはイーストン領以上の聖地として認定されているはずだ。

「そして、はなおとめが死んだのも、ここなのです。だから、我が君の雨が降り注ぐ。雨は涙だと先ほど、はなおとめはおっしゃいましたが、その通り。地が狂うのも無理からぬ話です」
「はなおとめ」

 私のことではないよな? 少なくとも、私はここで死んだ覚えがない。こいつら、紛らわしい。

「不思議そうな顔をされる」
「私は死んでいないもの」
「そうですね」

 訳知り顔で笑われると苛つく。
 なんだってはなおとめと呼ばれるのか、全く納得していないのに、こいつらは当たり前のように私をはなおとめと呼ぶ。そして、知りもしないことをさも私の身に降りかかったことのように語る。
 カリオストロや人形師は私に誰かをだぶらせていた。
 そのくせ、私をはなおとめと呼んでさも私がその人物であるように振舞った。こいつらも同じだ。誰とも知らない人物と勝手に私を重ねている。

「説明する気はないの」
「どう説明したらよいものか……。僕にもよく分からないのです。はなおとめははなおとめであるということだけ」
「天帝様は私に説明して下さらないの。神様なのだから、最も詳しい説明ができるでしょう」
「我が君はわかるとだけ言っていらっしゃいます」
「わかるって何を」
「はなおとめがはなおとめであることが」
「意味が分からないわ」

 教える気なんてさらさらないことだけはわかった。
 いや、そもそも、ヴィクターも本当に分かっているのか?
 ただ、はなおとめと天帝が呼んでいるから、という単純な理由で私をはなおとめと呼んでいるのでは。

「……はなおとめは他とは違うのです」
「違うってなにが? 頭に花が生えることが? 天帝にはなおとめと呼ばれることが?」
「カルディア」

 リストが宥めるように名前を呼ぶ。

「うんざりだわ」

 ヴィクターの顔を見ていると苛立ちでどうにかなりそうだった。
 正面を向くともじゃもじゃとした髪があった。
 ハルの髪だ。ごくりと唾を飲み込む。車内に死臭がする。ハンドルを掴む指先が膨れているように見えた。
 ハルの顔がふいに振り返った。何かを伝えるように、ヴィクターを見つめる。

「我が君……」
「天帝様が私に助言下さるって?」
「……助言ではなく、諫言です。はなおとめ」

 勿体ぶった言い方だった。

「はなおとめは天帝様や僕が言葉足らずだと罵られる。だが、天帝様がはなおとめと呼ぶのはただ貴女がはなおとめと呼ばれていたからに過ぎません」
「誰が私をそう呼んでいたと?」
「人々が、そう呼んでいたと」
「人々、ねえ」

 ヴィクターは唸り、煩悶するように口を開く。

「人と言うのは神代の時代の人のことを指すそうです。つまり、神と交わる前の人のこと。その者たちが貴女をはなおとめと呼んでいたそうです」
「だから何? そんなことを言われて私はどんな反応をすれば正解なの。わあすごい、私は神代に生きていたのねとでも言えと?」
「――人は個体名を持たなかった」

 埒があかないと思ったのか、ヴィクターは天帝の言葉を借りて私を諭そうとした。

「羊飼いや村長と彼らは呼び合っていた。名前はなく、あるのは役割だけ。はなおとめも、役割だ。花を売ると聞いた。はなおとめがそう言った」
「花を売るならば花売りのはずでしょう?」
「それは、……言いたくない」
「何よ、それ」
「人は巡る者だ。神には階級の差などない。だが人はある。神と交わり、変化を繰り返してもなお、逃れられぬ戒めがある」
「わ、分からない。どういう意味? 突然、なぜ階級の話をし始めるの」

 ヴィクターは絶対に私には理解できないと言い捨てて、続けた。

「男神の身体から五つの出来損ないが生まれた。彼らは女神の体を味見し、地上へと這い出た。三つと二つに分かれて、争いに勝った方が主力となった。その三つのなかでもまた争い合い、二つも、内部で争った」

 ミミズクが前に言っていた話だ。女神は諍い合う人々を見て瞠目した。愚かな生き物だ。序列をつけなければ、いつまでも争い合う。だから、順番をつけた。すると、人々はそれに倣い王を据えて繁栄した。
 ……あれ? と疑問が朧な形を作る。
 なんだか、奇妙な違和感があった。
 神と人が交わる前って、つまり人が女神の心を食べる前ということ?
 女神を食べた出来損ないと女神を慰めた出来損ない達。慰めた側は唇を塞ぎもした。
 卑しいものは身分が低く、唇を塞いだものが王になった。
 ちらりとハルを見遣る。
 唇が青白くなっている。
 血の気のひいた肌に粒のような汗が落ちる。いや、涙? 
 目玉からこぼれた汁のような何かだった。
 ヴィクターと名前を呼ぶ。
 けれど、ヴィクターは話に夢中だった。私の言葉も聴こえていないみたいだ。

「人間と呼ばれたそれらは元々いた人を犯し、辱め甚振った。なぜならば彼らは非力で愚かで醜悪だったからだ。同じことを、何度生まれ直しても繰り返すおぞましさと言ったら救いようもなかったからだ」
「……なに、を」
「神が人を導くと彼らは信じていた。だがその幻想を壊されたとき、抗うことはなかった。ただ、死んで生まれてを繰り返した。死と生を繰り返すことだけが存在意義だったからだ」

 頭の中に疑問符が浮かぶ。
 ヴィクターの言う通り、全く理解できなかった。人間が二種類いるのか? 
 いやでも、そうだとしても意味が分からない。生と死を繰り返す? それが存在意義?

「――おい!」

 鋭い声に意識が引き戻される。
 体が跳ねて、視界がぐちゃぐちゃに揺れた。激しい衝撃に体が縮こまる。
 目を開けると、リストに覆い被さられていた。
 彼は車内から這い出ると私をゆっくりと引っ張り外に逃してくれた。
 木と葉っぱと土が混じった森の臭いがする。
 車が横転してしまったらしい。
 ヴィクターの服の袖を引っ張る。彼は出てきた瞬間、運転手席にいたハルを助け出そうとした。リストも手伝い、外へと出そうとしたが彼の体を見て悲鳴のような声をあげる。

「こいつ、死んでいる」
「違います」
「違うだと? 腹から内臓がこぼれているんだぞ。よくも馬鹿なことが言えたものだ」
「話している場合ではないんです。天帝様!」

 何度かの瞬きのあと、ハルが目を開き起き上がる。リストは戦いて何歩か後ろに下がる。
 忙しなく、ハルの瞳がぎょろぎょろと辺りを見渡す。違和感に気がついてヴィクターも私もあたりへと視線を配った。
 さきほどまでしていなかった動物の鳴き声がする。

 ――そもそも、車はどうして横転した?
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