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第8章 魔獣襲来
戦闘2-1 ~ウアブ魔術&呪術vs氷霊術士
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「こちら【メメント・モリ】。目標を発見しました」
『【メメント・モリ】目標地点への到着を確認。全部隊の到着を確認してから作戦を開始しますので、それまで目標に見つからないように待機しててください』
「了解です」
楓はセーラー服の胸元につけた通信機ごしにオペレーターに連絡する。
呪われた新開発区では通常の電波はかく乱されてしまうため、連携が必要な作戦に際しては【機関】が特別に調整した通信機が支給される。
通信を終えた楓は、メジェド神と同じ材質で創られた眼鏡を直す。
ゆるく編んだ髪が揺れる。
そして片手でウアス杖をついたまま、廃ビルの陰から目標地点を見やる。
肉眼で見える距離ではないが、楓は魔術で視覚を強化できる。
廃墟の一角に不自然に広がる荒野の中心に、氷霜をまとわせた繭状の結界が見える。
結界の中には、牛の頭部をした白い巨人がうずくまっている。
ベティたちが相対したのと同等の人型の魔獣、ミノタウロスだ。
だがこちらは冷気を操る【氷霊術士】。
そんな氷の結界の周囲には、群れなす泥人間。
手にした野太刀や鉄パイプは霜に覆われている。
彼らはミノタウロスに創られた怪異だから、その下位の異能力【氷霊武器】を持つ。
楓はゴクリとつばを飲みこむ。
そういえば、初めて脂虫を襲撃する前も、こんな風に緊張していた。
今とは真逆な夕暮れ時に、けれど今と同じように紅葉と2人で物陰に潜み、目標に定めた脂虫が通りかかるのを待っていた。
「……ねえ、紅葉ちゃん」
ふと側の紅葉を呼ぶ。
「何だい? 姉さん」
ポニーテールを揺らし、妹はいつもと変わらぬ様子で答える。
「この作戦が終わったら、あの絵を完成させてコンクールに出そうと思うんです」
何故に今、そんなことを言ったのか、自分でもわからない。けれど、
「そっか。ちょっと安心したよ」
紅葉は微笑んだ。
「安心……ですか?」
妹の言葉に首をかしげる。
「ああ。姉さん、この仕事を始めてから殺すことばかり考えてるみたいだったから」
紅葉はそう答え、何かに気づいて取り繕うように言葉を重ねる。
「もちろん、わたしにも奴らを許すつもりはないさ。脂虫は死んで当然の存在だ。けど姉さんが昔みたいに絵を描いてくれて、なんだか嬉しかった」
そう言って笑う。
楓の記憶が確かなら、瑞葉の死の真相を探ろうと最初に言ったのは楓だった。
瑞葉を蘇らせるためにウアブ魔術を、呪筒を修めようと言ったのも楓だ。
それが叶わず、ならば得られた力を使って邪悪な脂虫を根絶やそうと言ったのもだ。
紅葉はずっと、自分の我儘につき合ってきてくれた。
自分の言葉に引きずられるように呪術を修め、それ以外のすべてを捨てた。
本当にやりたかったことは、大好きなバスケだったのに。
だから、自分は妹の人生に責任を持たなければならない。
そう楓は考えていた。
そんな思考を遮るように、胸元の通信機が告げる。
『全部隊の到着を確認。作戦を開始してください』
それはミノタウロスへの攻撃開始の合図だった。
「行くよ、姉さん」
紅葉は凛々しく口元を引き締める。
「……ええ。油断しないで」
「わかってる!」
楓の言葉を背中で聞きつつ、紅葉はコンクリート壁を飛び越えて走り出した。
「行きなさい! そして紅葉ちゃんを補佐するのです!」
楓の指示で、4柱のメジェド神が姿をあらわし、走る。
今回の作戦のために用意できたメジェドは4柱のみ。予備はない。
一方、紅葉も走りながらコプト語の祈りの言葉を唱える。
奉ずる神はネイト神。
ウアブ呪術は太陽系の各惑星に宿る魔神の力を借り、エレメントを操る。
中でもネイトは月に宿り、水術と身体強化を司る。
そんな魔神の力を借り、紅葉の身体が軋む。
月の魔力を擬似筋肉に変えて身体を強化する【屈強なる身体】の呪術。
そして手をかざし、次なる神に短い祈りを捧げる。
神の名はゲブ。
土星に宿り、大地を統べる。
すると荒れ地から岩石が跳び出し、かざした左の掌に集う。
大地を手足の延長と化す【地の手】。
この術によって岩塊は紅葉の盾となり、銃弾となる。
身体強化と武器作成の付与魔法は紅葉に戦う力を与える。
スポーツで心技を鍛えた紅葉は、その力を余すことなく操ることができる。
そんな御技を会得するために、紅葉は大好きだったバスケを辞めた。
もし楓が別の道を歩んでいたら、妹も自分のやりたいことを続けていただろうか?
迷いを振り切りながら、楓も脳裏にゲブ神をイメージする。
呪文もなく中空に岩塊が出現し、楓を守るように周囲を旋回し始める。
岩石の盾を創りだす【石の盾】の魔術。
魔術の盾に守られながら、楓も廃ビルの陰を出て慎重に進む。
魔術師の常として付与魔法を持たない楓は、露払いを紅葉とメジェドに任せて安全に進む作戦だ。
そこに少しばかり負い目を感じながら、今度は呪文を唱える。
奉ずる神の名はヌン。
ウアブ魔術師は各惑星に魔神を配した偉大な魔術師の末裔だ。
神々のイメージを凝固させて魔力と成し、魔術と成す。
中でも始原の水を象徴するヌン神は、無から真水を生みだす魔術の礎となる。
呪文とともに、かざした杖の先に巨大な水の塊が出現する。
そして迫撃砲のような弧を描いて飛翔し、泥人間の群の中心に落ちる。
即ち【大水球】。
たかが水と侮るなかれ。
強大な質量を持った水塊は、敵の武器に宿った【氷霊武器】に凍らされる隙すら無く十数匹を巻きこみ、押しつぶす。
脂虫に似た薄汚い人型の怪異は、脂虫とは違って溶け落ちて消えた。
紅葉も負けじと、短い呪文を唱える。
強化と同じネイト神の御名に応じ、飛び散った水球の破片が紅葉の右手に集う。
掌で水を操る【水の手】。
紅葉が得意とする術だが、荒れ地に水はないので楓の術を利用したのだ。
ウアブ魔術とウアブ呪術は、協力することでさらなる力を発揮する。
強化された身体能力を総動員し、紅葉は群のまっただ中に踊りこむ。
三度目のネイトの名とともに、右手の水が膨れあがって巨大な刃を形成する。
即ち【水の斬撃】。
巨大な水刃は紅葉が命じるま敵を襲う。
泥人間どもは反撃する暇すらなく両断される。
何匹かは得物の先端に【氷霊武器】で氷の盾を造りだして刃を凌ぐ。
そこにメジェドたちの双眸が輝き、レーザー光線が放たれる。
即ち【力ある光の矢】の魔術。
レーザーは氷盾ごと怪異を貫く。
4柱のメジェドの双眸から放たれた8束のレーザーが、紅葉に殺到する群を、迂回して後方の楓めがけて走る群を、すべからく薙ぎ払って塵へと還す。
そうやって、紅葉と楓とメジェドたちは怪異を蹴散らして進む。
ミノタウロスを守る怪異たちは瞬く間に数を減らす。
2人が多くの代償を支払って得た力は、それほどまでに圧倒的だ。
やがて泥人間は駆逐され、2人は繭状の結界の前にたどり着いた。
「姉さん、このまま結界を破壊するよ!」
「ええ!」
楓は息を切らして答えつつ、紅葉の側に走り寄る。
そして手を繋いで呪文を唱える。
奉ずる神は、大地を統べるゲブ神。
結界を取り巻くように、地面から岩の槍が無数に突き出る。
即ち【地の刃の氾濫】。
数多の石刃で広範囲をめった刺しにする術だ。
2人の術が結界を下側から打ち据える。
その一方で、メジェドはレーザー光線を結界に集中させる。
岩槍に穿たれ、レーザーに炙られ、凍てつく繭に幾つもの孔が開く。
そして構造を維持しきれずに砕け、破片は溶けて消える。
楓たちには、他の部隊のような組織の後ろ盾はない。
なので重火器や装甲車を持ち出すことはできない。
だから主力はウアブ魔術師の楓だ。
メジェドと連携し、紅葉の呪術と協力することで超強力な攻撃魔法を叩きこむ。
そんな圧倒的な魔法火力に晒され、氷の結界はあっけなく破壊された。
中には先ほど確認した通り、人型の魔獣がうずくまっていた。
それは結界が破壊されたことに、楓と紅葉の存在に気づいて立ち上がる。
「くっ、なんて……大きいんだ」
紅葉は怯む。
中学生にしては上背のある紅葉から見ても、それは見上げるほど巨大だ。
否、人間と比べられるような背丈ではない。
ネズミが猫と戦っているようなものだ。
筋肉で歪なほど盛りあがった屈強な肉体は、ラバーに似た白い表皮に覆われている。
そして自身の大能力を誇示するように霜をまとわせている。
太い首の上には、双眸を輝かせた牛の頭。
そんな巨人が握りしめているのは、氷でできた戦斧。
柄は電柱のように太くて長い。
それにあわせて刃も大きく、そして鋭い。
透き通った刃の側面に、紅葉の全身が映せそうなほどだ。
しかも近くにいるだけで、寒い。
それは目前の怪異が【氷霊術士】だからという理由だけではない。
氷の魔獣の巨大さに、強大さに、2人は恐怖していた。
泥人間だって、今まで戦ってきた脂虫と違って死ねば溶けるのは異様だ。
だが巨大な魔獣の威圧感は、そんなものとは比べ物にならない。
マンティコア戦に続いて2度目とはいえ、その畏怖に容易に慣れられたりはしない。
「ミノタウロスの死角から、紅葉ちゃんを援護しなさい!」
一瞬早く我に返った楓の号令に応じ、4柱のメジェドが散開する。
2柱はミノタウロスの左右に回りこむ。
別の2柱は釣鐘状の身体の中に足を仕舞って宙を舞い、レーザー光線を照射する。
メジェドたちは【大いなる生命の衣】で舞奈を変身させるために必要だ。
だから損耗させるわけにはいかない。
だからミノタウロスとの戦闘で矢面に立つのは紅葉だ。
その役目を果たすべく、紅葉は恐怖を振り払って走る。
神の名を叫び、手にした水を再び刃と化す。
水刃を、ミノタウロスの足元めがけて投げる。
そして呪文。
次なる神もネイト。
巨大な水刃は形を変え、巨大な手となってミノタウロスの足を掴む。
水を操り枷と化す【水の拘束】の呪術。
楓が生み出し、紅葉が操る水の手はミノタウロスの強力な冷気にさらされて凍る。
だが足首を縛める水の手が氷の枷に変化しても、効果は同じだ。
楓は拘束を強化するべく呪文を唱える。
紅葉も新たな呪文によって、ミノタウロスの足元の岩を手と化してつかませる。
水と同じように大地を操って枷にする【地の拘束】。
大地からのびた岩の手がミノタウロスの足を地面に縫い止める。
次いで楓の呪文も完成し、ミノタウロスの足元に岩の枷が出現する。
即ち【石の障礙】。
魔術と呪術の3つの枷が、巨大なミノタウロスの足を地面に固定する。
そんなミノタウロスにメジェドたちが地上から、空中からレーザー光線を照射する。
足回りを封じられ、攻撃を浴びせられながら、魔獣は雄叫びをあげる。
めちゃくちゃに戦斧をふりまわす。
だが十分な距離をとったメジェドたちには届かない。
ミノタウロスに対し、楓たちがたてた作戦はマンティコア戦と同じだ。
魔術と呪術で拘束し、メジェドによってミノタウロスの魔力を削り倒す。
メジェドのレーザー光線は魔力を循環させる過程で生まれた余剰魔力を使っているため、威力こそそれなりだが半永久的に照射することができる。
だから楓と紅葉は安全圏まで退避して補助魔法を維持し続ければいい。
そうすれば、メジェドたちがミノタウロスを倒してくれる。だが、
「紅葉ちゃん? 早く奴から距離を取って!」
「わたしも手伝うよ。その方が早いだろ?」
紅葉は楓に笑みを見せる。
呪文を唱え、盾にしていた岩石を【地の刃】の呪術で刃と化す。
そしてミノタウロスの足の後ろに回りこみ、足元に斬りかかる。
楓は苦笑する。
紅葉は根っからのスポーツマンだ。
仲間とともに身体を動かすのが好きなのだ。
だから創られた存在とは言えメジェド神にすべてをまかせ、後方で待機することには抵抗があるのかもしれない。
前回のマンティコアとの戦闘でも、ひょっとして不満を抱えていたのだろうか?
だから今は、妹の些細なアドリブを許そうと思った。
楓は自分の目的のために、妹の人生を捻じ曲げてしまったのだから。
「でも気をつけて。メジェドと違って貴女だけはミノタウロスの射程圏内よ!」
「わかってる! この程度なら、舞奈ちゃんじゃなくても避けられるよ!」
そう言って笑った矢先に、ミノタウロスが動いた。
巨大な戦斧を地上のメジェドめがけて投げる。
予想外の攻撃に、楓はあわてて回避指示を出す。
メジェドは言われるまでもなく跳躍し、巨大な斧を難なく避ける。
楓はほっと胸をなでおろす。だが、
「何!?」
ミノタウロスは身をかがめ、牛の口から白い息を吐き出した。
紅葉は固定された魔獣の脚の後にいる。
だが霜をまとう凍てつく息はミノタウロスの足元に広がる。
そして周囲の地面を凍らせた。
避け損ねた楓の足も、一緒に地面に縫い止められる。
一方、目標を外した戦斧はブーメランのような楕円の軌道を描き、ミノタウロスのいる場所に戻ろうとする。
その軌道が不自然なことに、楓は芸術家のセンスで気づいてしまった。
戦斧は紅葉めがけて自ら軌道をずらしている。
「紅葉ちゃん、逃げて!」
叫ぶ。
だが足元を縫い止められた紅葉は避けられない。
代わりに何かの呪文を唱える。
だがウアブ呪術にあれほどの巨大な刃を防げる術はない。
焦りながらも、楓は呪文もなくイメージだけで魔術を放つ。
奉ずる神はシュウ。
水星に宿り、大気と風の動きを司る神の名だ。
神の名と意思に応じ、紅葉の目前の空気が不意に膨らむ。
即ち【風烈球】。
空気の塊を創りだし、砲弾として放つ魔術だ。
本来は攻撃用だが、術者から離れた場所を射点にして攻撃者に向けて放てば防御にも使える。
大気の砲弾は氷の戦斧にぶち当たって破裂する。
だが勢いを削がれたものの巨大な戦斧は止まらない。
回転しながら紅葉めがけて飛来する。
そして、その胴を薙いだ。
「――紅葉ちゃん!?」
縫い止められた足すら無理矢理に剥され、紅葉の身体が宙を舞う。
紅葉を討った戦斧は不自然な軌道を描いてミノタウロスの手に戻る。
その側に、紅葉の身体がごろりと転がる。
集中の途切れた紅葉の呪術が、ミノタウロスの足元で土塊と化して崩れる。
拘束が緩んだミノタウロスが力をこめると、楓の枷も弾け飛んだ。
自由を取り戻したミノタウロスの足元には、ピクリとも動かない紅葉。
「よくも……よくも紅葉ちゃんを! 妹を!!」
楓は走りながら呪文を唱える。
眼鏡の奥の瞳が憎悪に光る。
弟の死を知ったあの時と同じように。
楓はミノタウロスの目前に踊り出る。
かざした掌の先に巨大な岩塊を創って放つ。
即ち【石の巨槌】。
だが巨岩は巨大なミノタウロスの胸元に当たって砕けるのみ。
ミノタウロスは双眸を楓に向ける。
そして雄叫びをあげる。
楓は岩の盾に命じてミノタウロスの目前を飛び回らせ、顔面に体当たりさせて目くらましにする。
ミノタウロスは斧を無茶苦茶に振り回して岩盾を叩き落そうとする。
だが盾は巨大な斧を軽々と避け、ミノタウロスの注意を引きつける。
激情のあまり、楓はメジェドのコントロールを放棄してしまう。
するとメジェドたちは動かない紅葉めがけて飛んでいった。
後悔する。
作戦に必要なメジェドを死守しようとした楓の判断が裏目に出た。
もしメジェドに紅葉を守らせていたら、妹を失わずに済んだかもしれないのに。
楓が動揺する隙に、業を煮やしたミノタウロスは牛の口を大きく広げる。
息を吸いこむ。
そして雄叫びとともに、白い霜をまとわせた空気を吐き出した。
紅葉を拘束した氷の息だ。
冷気の魔力を帯びた空気が盾を凍らせ、動きを鈍らせる。
霜で動きの鈍った岩盾を、ミノタウロスは斧を振るって叩き割る。
思わず避けようとして、足元をすくわれて尻餅をつく。
凍てつく息は楓の足元をも凍らせていた。
その拍子に手から離れたウアス杖が、不毛の荒れ地を転がる。
得物も逃げる術をも失った楓は、目前に迫ったミノタウロスを見上げる。
ミノタウロスも地上の楓を見下ろしながら、巨大な戦斧を振り上げる。
今日に限って何故、昔のことばかりが脳裏に浮かんだのか、わかった気がした。
楓が両親との確執を深める側で、誰にも看取られずに瑞葉は逝った。
楓は両親の薄情さへの反発から瑞葉の死の真相を追い求めた。
紅葉は部活を辞め、楓の計画につき合ってくれた。
そして2人は仕事人になって、今回の作戦に志願した。
もし、楓が両親に言われるまま瑞樹の死を受け入れていたら、結果は変わっていただろうか?
目前に、魔獣が巨大な斧を振り上げる。
不思議と恐怖はなかった。
それより様々な後悔が脳裏を巡る。マンティコアを攻略する今回の作戦が術者の喪失によって失敗するであろうこと。学校のこと。知人のこと。
だが何より、紅葉に申し訳ないと思った。
夢を捨てさせられたまま、こんな結末を迎えた紅葉が不憫だと思った。
それなのに楓は不意に、最後に何か美しいものを見たいと願ってしまう。
どうしてだか、かつて明日香が見せてくれた光の雨が脳裏をよぎる。
自分を打ち倒した、あの美しい光の奔流を。
そんな自分がたまらなく身勝手な人間に思えた。
自分たちの両親のように。
そう思って口元を乾いた笑みの形に歪め――
――次の瞬間、目前を横殴りの雨が吹き抜けた。
『【メメント・モリ】目標地点への到着を確認。全部隊の到着を確認してから作戦を開始しますので、それまで目標に見つからないように待機しててください』
「了解です」
楓はセーラー服の胸元につけた通信機ごしにオペレーターに連絡する。
呪われた新開発区では通常の電波はかく乱されてしまうため、連携が必要な作戦に際しては【機関】が特別に調整した通信機が支給される。
通信を終えた楓は、メジェド神と同じ材質で創られた眼鏡を直す。
ゆるく編んだ髪が揺れる。
そして片手でウアス杖をついたまま、廃ビルの陰から目標地点を見やる。
肉眼で見える距離ではないが、楓は魔術で視覚を強化できる。
廃墟の一角に不自然に広がる荒野の中心に、氷霜をまとわせた繭状の結界が見える。
結界の中には、牛の頭部をした白い巨人がうずくまっている。
ベティたちが相対したのと同等の人型の魔獣、ミノタウロスだ。
だがこちらは冷気を操る【氷霊術士】。
そんな氷の結界の周囲には、群れなす泥人間。
手にした野太刀や鉄パイプは霜に覆われている。
彼らはミノタウロスに創られた怪異だから、その下位の異能力【氷霊武器】を持つ。
楓はゴクリとつばを飲みこむ。
そういえば、初めて脂虫を襲撃する前も、こんな風に緊張していた。
今とは真逆な夕暮れ時に、けれど今と同じように紅葉と2人で物陰に潜み、目標に定めた脂虫が通りかかるのを待っていた。
「……ねえ、紅葉ちゃん」
ふと側の紅葉を呼ぶ。
「何だい? 姉さん」
ポニーテールを揺らし、妹はいつもと変わらぬ様子で答える。
「この作戦が終わったら、あの絵を完成させてコンクールに出そうと思うんです」
何故に今、そんなことを言ったのか、自分でもわからない。けれど、
「そっか。ちょっと安心したよ」
紅葉は微笑んだ。
「安心……ですか?」
妹の言葉に首をかしげる。
「ああ。姉さん、この仕事を始めてから殺すことばかり考えてるみたいだったから」
紅葉はそう答え、何かに気づいて取り繕うように言葉を重ねる。
「もちろん、わたしにも奴らを許すつもりはないさ。脂虫は死んで当然の存在だ。けど姉さんが昔みたいに絵を描いてくれて、なんだか嬉しかった」
そう言って笑う。
楓の記憶が確かなら、瑞葉の死の真相を探ろうと最初に言ったのは楓だった。
瑞葉を蘇らせるためにウアブ魔術を、呪筒を修めようと言ったのも楓だ。
それが叶わず、ならば得られた力を使って邪悪な脂虫を根絶やそうと言ったのもだ。
紅葉はずっと、自分の我儘につき合ってきてくれた。
自分の言葉に引きずられるように呪術を修め、それ以外のすべてを捨てた。
本当にやりたかったことは、大好きなバスケだったのに。
だから、自分は妹の人生に責任を持たなければならない。
そう楓は考えていた。
そんな思考を遮るように、胸元の通信機が告げる。
『全部隊の到着を確認。作戦を開始してください』
それはミノタウロスへの攻撃開始の合図だった。
「行くよ、姉さん」
紅葉は凛々しく口元を引き締める。
「……ええ。油断しないで」
「わかってる!」
楓の言葉を背中で聞きつつ、紅葉はコンクリート壁を飛び越えて走り出した。
「行きなさい! そして紅葉ちゃんを補佐するのです!」
楓の指示で、4柱のメジェド神が姿をあらわし、走る。
今回の作戦のために用意できたメジェドは4柱のみ。予備はない。
一方、紅葉も走りながらコプト語の祈りの言葉を唱える。
奉ずる神はネイト神。
ウアブ呪術は太陽系の各惑星に宿る魔神の力を借り、エレメントを操る。
中でもネイトは月に宿り、水術と身体強化を司る。
そんな魔神の力を借り、紅葉の身体が軋む。
月の魔力を擬似筋肉に変えて身体を強化する【屈強なる身体】の呪術。
そして手をかざし、次なる神に短い祈りを捧げる。
神の名はゲブ。
土星に宿り、大地を統べる。
すると荒れ地から岩石が跳び出し、かざした左の掌に集う。
大地を手足の延長と化す【地の手】。
この術によって岩塊は紅葉の盾となり、銃弾となる。
身体強化と武器作成の付与魔法は紅葉に戦う力を与える。
スポーツで心技を鍛えた紅葉は、その力を余すことなく操ることができる。
そんな御技を会得するために、紅葉は大好きだったバスケを辞めた。
もし楓が別の道を歩んでいたら、妹も自分のやりたいことを続けていただろうか?
迷いを振り切りながら、楓も脳裏にゲブ神をイメージする。
呪文もなく中空に岩塊が出現し、楓を守るように周囲を旋回し始める。
岩石の盾を創りだす【石の盾】の魔術。
魔術の盾に守られながら、楓も廃ビルの陰を出て慎重に進む。
魔術師の常として付与魔法を持たない楓は、露払いを紅葉とメジェドに任せて安全に進む作戦だ。
そこに少しばかり負い目を感じながら、今度は呪文を唱える。
奉ずる神の名はヌン。
ウアブ魔術師は各惑星に魔神を配した偉大な魔術師の末裔だ。
神々のイメージを凝固させて魔力と成し、魔術と成す。
中でも始原の水を象徴するヌン神は、無から真水を生みだす魔術の礎となる。
呪文とともに、かざした杖の先に巨大な水の塊が出現する。
そして迫撃砲のような弧を描いて飛翔し、泥人間の群の中心に落ちる。
即ち【大水球】。
たかが水と侮るなかれ。
強大な質量を持った水塊は、敵の武器に宿った【氷霊武器】に凍らされる隙すら無く十数匹を巻きこみ、押しつぶす。
脂虫に似た薄汚い人型の怪異は、脂虫とは違って溶け落ちて消えた。
紅葉も負けじと、短い呪文を唱える。
強化と同じネイト神の御名に応じ、飛び散った水球の破片が紅葉の右手に集う。
掌で水を操る【水の手】。
紅葉が得意とする術だが、荒れ地に水はないので楓の術を利用したのだ。
ウアブ魔術とウアブ呪術は、協力することでさらなる力を発揮する。
強化された身体能力を総動員し、紅葉は群のまっただ中に踊りこむ。
三度目のネイトの名とともに、右手の水が膨れあがって巨大な刃を形成する。
即ち【水の斬撃】。
巨大な水刃は紅葉が命じるま敵を襲う。
泥人間どもは反撃する暇すらなく両断される。
何匹かは得物の先端に【氷霊武器】で氷の盾を造りだして刃を凌ぐ。
そこにメジェドたちの双眸が輝き、レーザー光線が放たれる。
即ち【力ある光の矢】の魔術。
レーザーは氷盾ごと怪異を貫く。
4柱のメジェドの双眸から放たれた8束のレーザーが、紅葉に殺到する群を、迂回して後方の楓めがけて走る群を、すべからく薙ぎ払って塵へと還す。
そうやって、紅葉と楓とメジェドたちは怪異を蹴散らして進む。
ミノタウロスを守る怪異たちは瞬く間に数を減らす。
2人が多くの代償を支払って得た力は、それほどまでに圧倒的だ。
やがて泥人間は駆逐され、2人は繭状の結界の前にたどり着いた。
「姉さん、このまま結界を破壊するよ!」
「ええ!」
楓は息を切らして答えつつ、紅葉の側に走り寄る。
そして手を繋いで呪文を唱える。
奉ずる神は、大地を統べるゲブ神。
結界を取り巻くように、地面から岩の槍が無数に突き出る。
即ち【地の刃の氾濫】。
数多の石刃で広範囲をめった刺しにする術だ。
2人の術が結界を下側から打ち据える。
その一方で、メジェドはレーザー光線を結界に集中させる。
岩槍に穿たれ、レーザーに炙られ、凍てつく繭に幾つもの孔が開く。
そして構造を維持しきれずに砕け、破片は溶けて消える。
楓たちには、他の部隊のような組織の後ろ盾はない。
なので重火器や装甲車を持ち出すことはできない。
だから主力はウアブ魔術師の楓だ。
メジェドと連携し、紅葉の呪術と協力することで超強力な攻撃魔法を叩きこむ。
そんな圧倒的な魔法火力に晒され、氷の結界はあっけなく破壊された。
中には先ほど確認した通り、人型の魔獣がうずくまっていた。
それは結界が破壊されたことに、楓と紅葉の存在に気づいて立ち上がる。
「くっ、なんて……大きいんだ」
紅葉は怯む。
中学生にしては上背のある紅葉から見ても、それは見上げるほど巨大だ。
否、人間と比べられるような背丈ではない。
ネズミが猫と戦っているようなものだ。
筋肉で歪なほど盛りあがった屈強な肉体は、ラバーに似た白い表皮に覆われている。
そして自身の大能力を誇示するように霜をまとわせている。
太い首の上には、双眸を輝かせた牛の頭。
そんな巨人が握りしめているのは、氷でできた戦斧。
柄は電柱のように太くて長い。
それにあわせて刃も大きく、そして鋭い。
透き通った刃の側面に、紅葉の全身が映せそうなほどだ。
しかも近くにいるだけで、寒い。
それは目前の怪異が【氷霊術士】だからという理由だけではない。
氷の魔獣の巨大さに、強大さに、2人は恐怖していた。
泥人間だって、今まで戦ってきた脂虫と違って死ねば溶けるのは異様だ。
だが巨大な魔獣の威圧感は、そんなものとは比べ物にならない。
マンティコア戦に続いて2度目とはいえ、その畏怖に容易に慣れられたりはしない。
「ミノタウロスの死角から、紅葉ちゃんを援護しなさい!」
一瞬早く我に返った楓の号令に応じ、4柱のメジェドが散開する。
2柱はミノタウロスの左右に回りこむ。
別の2柱は釣鐘状の身体の中に足を仕舞って宙を舞い、レーザー光線を照射する。
メジェドたちは【大いなる生命の衣】で舞奈を変身させるために必要だ。
だから損耗させるわけにはいかない。
だからミノタウロスとの戦闘で矢面に立つのは紅葉だ。
その役目を果たすべく、紅葉は恐怖を振り払って走る。
神の名を叫び、手にした水を再び刃と化す。
水刃を、ミノタウロスの足元めがけて投げる。
そして呪文。
次なる神もネイト。
巨大な水刃は形を変え、巨大な手となってミノタウロスの足を掴む。
水を操り枷と化す【水の拘束】の呪術。
楓が生み出し、紅葉が操る水の手はミノタウロスの強力な冷気にさらされて凍る。
だが足首を縛める水の手が氷の枷に変化しても、効果は同じだ。
楓は拘束を強化するべく呪文を唱える。
紅葉も新たな呪文によって、ミノタウロスの足元の岩を手と化してつかませる。
水と同じように大地を操って枷にする【地の拘束】。
大地からのびた岩の手がミノタウロスの足を地面に縫い止める。
次いで楓の呪文も完成し、ミノタウロスの足元に岩の枷が出現する。
即ち【石の障礙】。
魔術と呪術の3つの枷が、巨大なミノタウロスの足を地面に固定する。
そんなミノタウロスにメジェドたちが地上から、空中からレーザー光線を照射する。
足回りを封じられ、攻撃を浴びせられながら、魔獣は雄叫びをあげる。
めちゃくちゃに戦斧をふりまわす。
だが十分な距離をとったメジェドたちには届かない。
ミノタウロスに対し、楓たちがたてた作戦はマンティコア戦と同じだ。
魔術と呪術で拘束し、メジェドによってミノタウロスの魔力を削り倒す。
メジェドのレーザー光線は魔力を循環させる過程で生まれた余剰魔力を使っているため、威力こそそれなりだが半永久的に照射することができる。
だから楓と紅葉は安全圏まで退避して補助魔法を維持し続ければいい。
そうすれば、メジェドたちがミノタウロスを倒してくれる。だが、
「紅葉ちゃん? 早く奴から距離を取って!」
「わたしも手伝うよ。その方が早いだろ?」
紅葉は楓に笑みを見せる。
呪文を唱え、盾にしていた岩石を【地の刃】の呪術で刃と化す。
そしてミノタウロスの足の後ろに回りこみ、足元に斬りかかる。
楓は苦笑する。
紅葉は根っからのスポーツマンだ。
仲間とともに身体を動かすのが好きなのだ。
だから創られた存在とは言えメジェド神にすべてをまかせ、後方で待機することには抵抗があるのかもしれない。
前回のマンティコアとの戦闘でも、ひょっとして不満を抱えていたのだろうか?
だから今は、妹の些細なアドリブを許そうと思った。
楓は自分の目的のために、妹の人生を捻じ曲げてしまったのだから。
「でも気をつけて。メジェドと違って貴女だけはミノタウロスの射程圏内よ!」
「わかってる! この程度なら、舞奈ちゃんじゃなくても避けられるよ!」
そう言って笑った矢先に、ミノタウロスが動いた。
巨大な戦斧を地上のメジェドめがけて投げる。
予想外の攻撃に、楓はあわてて回避指示を出す。
メジェドは言われるまでもなく跳躍し、巨大な斧を難なく避ける。
楓はほっと胸をなでおろす。だが、
「何!?」
ミノタウロスは身をかがめ、牛の口から白い息を吐き出した。
紅葉は固定された魔獣の脚の後にいる。
だが霜をまとう凍てつく息はミノタウロスの足元に広がる。
そして周囲の地面を凍らせた。
避け損ねた楓の足も、一緒に地面に縫い止められる。
一方、目標を外した戦斧はブーメランのような楕円の軌道を描き、ミノタウロスのいる場所に戻ろうとする。
その軌道が不自然なことに、楓は芸術家のセンスで気づいてしまった。
戦斧は紅葉めがけて自ら軌道をずらしている。
「紅葉ちゃん、逃げて!」
叫ぶ。
だが足元を縫い止められた紅葉は避けられない。
代わりに何かの呪文を唱える。
だがウアブ呪術にあれほどの巨大な刃を防げる術はない。
焦りながらも、楓は呪文もなくイメージだけで魔術を放つ。
奉ずる神はシュウ。
水星に宿り、大気と風の動きを司る神の名だ。
神の名と意思に応じ、紅葉の目前の空気が不意に膨らむ。
即ち【風烈球】。
空気の塊を創りだし、砲弾として放つ魔術だ。
本来は攻撃用だが、術者から離れた場所を射点にして攻撃者に向けて放てば防御にも使える。
大気の砲弾は氷の戦斧にぶち当たって破裂する。
だが勢いを削がれたものの巨大な戦斧は止まらない。
回転しながら紅葉めがけて飛来する。
そして、その胴を薙いだ。
「――紅葉ちゃん!?」
縫い止められた足すら無理矢理に剥され、紅葉の身体が宙を舞う。
紅葉を討った戦斧は不自然な軌道を描いてミノタウロスの手に戻る。
その側に、紅葉の身体がごろりと転がる。
集中の途切れた紅葉の呪術が、ミノタウロスの足元で土塊と化して崩れる。
拘束が緩んだミノタウロスが力をこめると、楓の枷も弾け飛んだ。
自由を取り戻したミノタウロスの足元には、ピクリとも動かない紅葉。
「よくも……よくも紅葉ちゃんを! 妹を!!」
楓は走りながら呪文を唱える。
眼鏡の奥の瞳が憎悪に光る。
弟の死を知ったあの時と同じように。
楓はミノタウロスの目前に踊り出る。
かざした掌の先に巨大な岩塊を創って放つ。
即ち【石の巨槌】。
だが巨岩は巨大なミノタウロスの胸元に当たって砕けるのみ。
ミノタウロスは双眸を楓に向ける。
そして雄叫びをあげる。
楓は岩の盾に命じてミノタウロスの目前を飛び回らせ、顔面に体当たりさせて目くらましにする。
ミノタウロスは斧を無茶苦茶に振り回して岩盾を叩き落そうとする。
だが盾は巨大な斧を軽々と避け、ミノタウロスの注意を引きつける。
激情のあまり、楓はメジェドのコントロールを放棄してしまう。
するとメジェドたちは動かない紅葉めがけて飛んでいった。
後悔する。
作戦に必要なメジェドを死守しようとした楓の判断が裏目に出た。
もしメジェドに紅葉を守らせていたら、妹を失わずに済んだかもしれないのに。
楓が動揺する隙に、業を煮やしたミノタウロスは牛の口を大きく広げる。
息を吸いこむ。
そして雄叫びとともに、白い霜をまとわせた空気を吐き出した。
紅葉を拘束した氷の息だ。
冷気の魔力を帯びた空気が盾を凍らせ、動きを鈍らせる。
霜で動きの鈍った岩盾を、ミノタウロスは斧を振るって叩き割る。
思わず避けようとして、足元をすくわれて尻餅をつく。
凍てつく息は楓の足元をも凍らせていた。
その拍子に手から離れたウアス杖が、不毛の荒れ地を転がる。
得物も逃げる術をも失った楓は、目前に迫ったミノタウロスを見上げる。
ミノタウロスも地上の楓を見下ろしながら、巨大な戦斧を振り上げる。
今日に限って何故、昔のことばかりが脳裏に浮かんだのか、わかった気がした。
楓が両親との確執を深める側で、誰にも看取られずに瑞葉は逝った。
楓は両親の薄情さへの反発から瑞葉の死の真相を追い求めた。
紅葉は部活を辞め、楓の計画につき合ってくれた。
そして2人は仕事人になって、今回の作戦に志願した。
もし、楓が両親に言われるまま瑞樹の死を受け入れていたら、結果は変わっていただろうか?
目前に、魔獣が巨大な斧を振り上げる。
不思議と恐怖はなかった。
それより様々な後悔が脳裏を巡る。マンティコアを攻略する今回の作戦が術者の喪失によって失敗するであろうこと。学校のこと。知人のこと。
だが何より、紅葉に申し訳ないと思った。
夢を捨てさせられたまま、こんな結末を迎えた紅葉が不憫だと思った。
それなのに楓は不意に、最後に何か美しいものを見たいと願ってしまう。
どうしてだか、かつて明日香が見せてくれた光の雨が脳裏をよぎる。
自分を打ち倒した、あの美しい光の奔流を。
そんな自分がたまらなく身勝手な人間に思えた。
自分たちの両親のように。
そう思って口元を乾いた笑みの形に歪め――
――次の瞬間、目前を横殴りの雨が吹き抜けた。
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