月の目覚めの時

永田 詩織

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2. 涙のわけ

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「もうすぐ町に着くわ。あと少しだけ頑張って」
「うん…」
  リイナにそう声をかけられ、ロベルトは余裕なく頷いた。
あれから森を出て、彼らはずっと歩き続けている。
  日はまだ一番高いところにある。つまり、移動し始めてからさほど経っていないという事だ。
  にもかかわらず、あっという間に息があがってしまったロベルトは、自分が情けなく感じられた。先を行くリイナは、涼しい顔をして歩いているというのに。
「暑いから、仕方ないわよ。そのせいで体力が削られちゃうんだもの。わたしはあちこち歩き慣れているからいいけど、貴方は違うでしょう?あまり無理しないで」
  リイナはそう言って、ロベルトを慰めた。
  それから、短く口笛を吹いて、風の精霊を呼び、辺りに涼しい風を吹かせる。
「はい、お水。脱水を起こすといけないから、きちんと飲みなさいね」
「ありがとう…」
  お礼を言って受け取りながら、ロベルトは内心、息を吐いた。
  __リイナ、本当に魔術の上達が早いな…いや、飲み込みがいいのか…。
  今、彼女がやってみせたのは、ロベルト達が常に使う魔術とは異なる。いわゆる略式というもので、簡単な音を操る事で精霊と意志疎通を図る、といった魔術だ。
  ややこしい言葉を覚えるよりも、そういった簡単な技を教えた方が良いかと思ったロベルトだったが、よくよく考えれば、こちらの方が難しかったかもしれない。しかし、それでも上手くいったのは、リイナが音に関して並みより長けているのと魔術に対する真剣さがあったからだ。
  __本当に、リイナは凄い。まだ障りだけしか教えてないのに、彼女は自分流に応用してしまっている。さすが、無自覚に魔術を操ってみせただけあるな…。
  その時、リイナはこちらを振り向いて、手招きした。その顔に嬉しそうな笑みが浮かんでいるのを見てとって、ロベルトは表情を一変させる。疲れも忘れ、一直線に駆けていく。
  それから、辺りを一望できる丘に立ち、彼は歓声をあげた。
「凄い…っ!なんだこれ…!!」
  見渡す限り、青、青、青。空もあの海と同じ真っ青で、彼にはどこが境界線なのかさっぱりだった。ザザアッと音がして下を見ると、白い砂浜に波が押し寄せては引いていく様子がうかがえた。太陽に照らされた海の水はキラキラと輝いて、まるで宝石のよう。
  その輝きに負けないぐらい瞳を輝かせて、ロベルトはリイナに呼びかける。
「凄い…凄いよ、リイナ!君も来て見てみなよ!」
「貴方、さっきから凄いしか言っていないわね。…まあ、気持ちは分かるけれど」
  呆れ顔をしつつも、そう付け加えるリイナに、ロベルトは満面の笑顔になる。
「だろう!何というか、上手く表現出来なくて…この広い海を見ていたら、圧倒されて…とにかく、凄いとしか言いようがないんだ!」
「ふふ…確かに。ねえ、そろそろ町の方に下りましょうか。早いうちに宿をとって、それから…あの砂浜に行きましょうよ」
「ああ、そうだな!」
  ロベルトは意気揚々と頷いた。
  この時、彼は本当に浮かれていた。だから、リイナの顔が一瞬曇った事に、彼は全く気付かなかった。
「あ…そうだわ」
  唐突にリイナはそう言い、鞄を漁り出した。
「はい、これ」
  彼女に手渡された物を見て、ロベルトは首を傾げる。
「帽子…と、眼鏡?なんでこんな物を…」
「念のため…よ。何があるか分からないから」
  淡々と呟くリイナの横顔は、普段とは違う陰があった。
  どう答えればいいかとロベルトが悩んでいると、リイナはいつもの調子を取り戻し、眼鏡を手に取った。彼女がそれを掛けた姿を見て、大人びた印象を受け、ロベルトはドキリとする。
「よーく見て。この眼鏡を掛けると、目の色が青みがかって見えるでしょう?」
「え…あ、本当だ」
  確かに、瞳全体が青いレンズに覆われ、本来の色が分からなくなっている。空のような色を放つ瞳を細め、リイナは微笑んだ。
「これはね…ゼン爺が、わたしの為を思って作ってくれた特注品なの。貴方の国では違ったと思うけど、地上ではいるのよ…こういう目の色をした人」
「へえ…」
  ロベルトはまじまじと眼鏡を見つめる。それから、自分も同じように掛けてみて、意外に視界が鮮やかな事に驚いた。
「帽子もしっかりと被ってね。貴方の髪、キラキラして目立つから…」
「う、うん…」
「よし、これでいいわ。じゃあ、行きましょう」
  リイナは満足そうに頷くと、ロベルトに手を差し出した。
「え…」
「あの町は、人通りが凄く多いの。貴方が迷子になったら、困るし…それとも、子供っぽくて嫌かしら?」
「い、いや、別に!そういうわけじゃないけど!」
  頬を赤らめながら、ロベルトは彼女の手を取った。
  __リイナは、こういう事を平気でするよな…。恋人みたいだとか、思ったりしないのかな…。
  ちらりとリイナの方を伺うが、彼女はいつもと変わらぬ様子で彼の手を引いている。
  __俺だけ、かなあ…。
  残念な気持ちで一杯になって、ロベルトは思わずため息を洩らしていた。


  それから、町の入り口までやってきたロベルトは、そこから続く大通りの賑わい様に目を丸くした。
「安いよー、安いよー!本日限りの限定品、秘術師が作った御守りはいかがー!」
「はい、毎度あり!おまけしときましたよ!」
  通りに響く商人達の掛け声。行き交う人々の話し声や、笑い声。その全てに、ロベルトは既視感を覚えた。
  __ああ…そうだ。月の国でも、街の人達はあんな風に日々を過ごしている。
  遠くなりつつある記憶に思いを馳せ、ぼんやりと町の人達を眺める。
  __俺は…。
「何しているの。宿屋はこっちよ」
  クイッと手を引かれ、ロベルトは我に返った。
「あ…ごめん。今、行くよ」
  リイナに手を引かれたまま、ロベルトは歩き出す。大通りから少し外れた脇道に入ると、彼らはそのまま真っ直ぐ歩き続けた。それから、海が見える通りに出て、リイナは歩みを止める。
「ここよ」
  彼女は扉を開くと、ロベルトを中に誘った。それから、顔をあげて、奥に声をかける。
「サアラさん、お久しぶりです。わたしです、リイナです!」
  すると、奥から翡翠色の瞳をした女性が出てきて、彼女は嬉しそうな笑みを浮かべ、リイナを迎えいれた。
「あらあらあら…!リイナちゃんじゃないの!本当に久しぶりね」
「はい、その節は、とてもお世話になりました」
  リイナは笑顔で深々とお辞儀をする。
「まあ、いいのよ。そんな事は。…ところで、そちらのお客様は?」
  女性はちらりとロベルトの方を伺う。
「あ…っ、俺は…」
「彼はわたしの弟分のロベルト。行く宛もなくさまよっていたところをたまたま見つけたの」
  慌てて自己紹介をしようとしたロベルトを遮って、リイナは代わりに説明する。
「そうなの…じゃあ、もしかして…」
「ええ…。彼はわたし達と同じ、“月の忘れ人”です」
  __…え?
  戸惑ってリイナの方を見るが、彼女はサアラと話を続けたままだ。
  その時、脳裏に歌が響いてきて、何かが流れ込む気配がした。
『お願い、今はなんでもない振りをして。後できちんと説明するから』
  それはリイナの声だった。
  咄嗟に頷こうとして、それはしてはならないのだと思い留まる。代わりに、彼は思いを精霊の化身に乗せて彼女に届けた。
『ああ、わかった』
『ええ。それじゃあ…』
  リイナは此方に向き直ると、ニッコリと微笑む。
「という事で、部屋は四人分予約しておいたわ」
「…え、四人分も!?どうしてだよ!?」
「それは…帰ってきてからの、お楽しみよ」
  それから、彼女は有無言わさずにロベルトの腕を掴み、引きずって宿を後にしようとする。
「リイナちゃん!」
  唐突に声をかけられ、リイナは振り向いた。
「サアラさん、何かしら?」
「あ…」
「サアラさん?」
  リイナが呼び掛けると、サアラは慌てて手を振って、困ったような笑みを浮かべた。
「ごめんなさいね、やっぱり何でもないわ。引き留めて悪かったわね」
「…?いえ、大丈夫です」
  それではと言って、二人は店から退出した。


「……」
  一人残されたサアラは、険しい顔付きのまま、じっと扉を見つめている。それから、受話器を手にとって、ダイヤルを回し始めた。
「…もしもし、…様でしょうか?」
〈ああ、サアラか。どうした?〉
「たった今、例の少年らしき者を確認しました。ですが…」
〈どうしたんだ、お前にしては歯切れが悪いな〉
「申し訳ありません…。実は…リイナちゃんが__あの子が一緒にいるのです、例の少年と」
〈…っ!!〉
  絶句した受話器の先の人物に、サアラは慌てて弁明をする。
「あ、あの子は、何も知りません。あの少年の手助けをしているのも、単なる親切心からだと…」
〈…分かっている〉
  その人物は、絞り出すように言った。
〈分かっている…あいつがどんな奴で、何に苦しんでいたか、ちゃんと分かっている〉
「殿下…」
〈…今晩〉
  低い声音に、サアラはスッと表情を消した。その後に続く言葉に受諾の意を示すと、静かに受話器を置いた。
  今、彼女が見つめる先には__無邪気に笑う二人の少年少女の姿があった。


  *   *


  リイナに引きずられるようにして宿を出たロベルトは、不機嫌に顔をしかめながら、彼女に問いかけた。
「リイナ!どういう事だ、さっきの?」
「さっきの…とは、宿の件?それとも、貴方の素性を誤魔化した事?」
「宿の件も気になっているけど…それよりも、後者だ。どうして、俺の事を“月の忘れ人”だと言ったんだよ?」
  すると、リイナは一瞬、言葉を詰まらせて、目を逸らした。それから、深くため息をつくと、ロベルトに手招きをする。
「その…ひとまず、砂浜に出ましょう。きちんと話すから」
「ここじゃまずいのか?」
「…ええ。それに、どう説明すればいいか考えたくて…」
  リイナは困ったような笑みを浮かべて、そう言う。
  そうして歩き出してから、すっかり彼女は黙り込んでしまったので、本当に悩んでいるのだとロベルトは理解した。ただ、それほどに彼女を悩ませる理由とはなんなのか。それが分からず、ロベルトは少しだけ話を聞く事が怖くなってきた。
  沈黙の中で、波音がする。寄せては離れ、また、寄せては離れていく。まるで、人の心のようだと、ロベルトはぼんやりと考える。自分に寄せては離れていく、周りの人達の思いのようだと。
  不意に、リイナが何かを振り切るようによしと呟いて、立ち上がった。真っ直ぐにロベルトを見つめ、彼女は口を開く。
「その…本当のところを言うと、わたしも嫌いだったの。…貴方の__“月の民”の事が」
「え…」
  少しだけ胸に痛みを覚え、ロベルトは呆然とリイナを見つめる。彼女は決して目を逸らす事なく、続けた。
「…本当はね、これが逆恨みだって事くらい、わたしだって分かっていたの」
  危険を犯してまで地上に残った、リイナの先祖達。何故、そういう道を選んでしまったのかは分からない。けれど、それには何か大切な理由があったに違いないと、彼女は信じている。
だから、分かっている。そう呟いたリイナの声は震えていた。
「でも…ね。わたし…ダメだったの。この瞳を見られて、拒絶されたり、怖がられたりすると…どうしてもダメだったのよ…気付けば、遠くにいる貴方達や、ご先祖様の事…いつも恨んでいた」
  __どうして、“月の民”である貴方達は、同胞のわたしのご先祖様達を連れていってはくれなかったの。
  __どうして、この地に残ってしまったの、ご先祖様…こんな辛くて苦しいだけの世界に!
「そう、何度も、何度も、思ってしまっていた…それが、ご先祖様達の気持ちを踏みにじる行為なんだって…分かっていた筈なのに」
「…」
  ロベルトは、そっとリイナの手に触れた。リイナは少しだけ目を見開くと、フッと目元を和らげる。
「だけどね…わたしは今、変わりかけているの。…他ならぬ、貴方のお陰で」
  ニコッと微笑みかけられて、ロベルトはようやく意味を理解した。
「え、ええっ、俺!?どうして俺が…」
「そうね…確かに、貴方は初めて出会った時から、別の事ばかりに気をとられていて、それどころではなかったわよね」
  リイナは海の遥か遠くを見つめながら、淡々と呟く。
  今、彼女が見ているのは、ロベルトとリイナが出会った、あの明朝の場景なのかもしれない。
  リイナは懐かしそうに目を細めて、それから、息を吐いた。
「本当に…貴方はわたしの想像していた人と全く違っていたわ」
「それ…あの時も言われたよな」
  遠い目になりかけたロベルトを、リイナの声が現実へ引き戻す。 
「ええ…言ったわ。けれど、だからこそ、わたしは救われた」
「救われ、た…?」
  困惑してリイナを見やると、彼女は、呆れたような、けれど、すっきりしたような、嬉しそうな笑顔を浮かべている。
「変な話よね。想像とはまったく違う貴方が出てきたお陰で、余計な先入観も、辛かった時の気持ちも、何もかも取っ払った状態でわたしは貴方と接する事が出来た。だからこそわたしは、貴方達“月の民”の事を理解する事が出来たのよ」
  それはつまり、彼らは皆、同じ感情や心を持ち合わせる、一人の人間なのだという事。
「わたし達は、皆同じ。地上の人も、月の国の人も、皆同じ人間なんだって、そう理解する事が出来たのよ」
「…!」
  その言葉は、強くロベルトの心を打った。
  誰もが同じで、互いを認め合う。そんな世界はあり得ないかもしれない。けれど、こうして、リイナに認められ、ロベルトが同じように認める事は出来る。それだけで、ロベルトには幸せな事だった。
不意に、リイナが少しだけ暗い顔をして、ぽつりと呟いた。
「でもね…わたしがそう思い直す事が出来ても、他の人達は違うの」
「え…っ」
「少し前のわたしもそうだったように…“月の忘れ人”には、そういった考えを持つ人が沢山いる。勿論、中にはそうでない人もいるかもしれないけど…」
「…」
  ロベルトは、先程のサアラという女性を思い出す。とても優しそうで、温かみのある人だった。あんな人でも、“月の民”に憎しみを抱き、疎んでいるのだろうか。
  そう思うと、胸が苦しくなって、ロベルトは胸元で手を握り締めた。
「嫌な話…だったわね。ごめんなさい」
  唐突にそう言われ、ロベルトは慌てて顔をあげた。
「どうして、リイナが謝るんだよ」
「だって…わたしも嫌だったから。誰かに疎まれているとか、恨まれているとか…そういう話をされるの」
「リイナ…」
  リイナは黙ったまま、砂浜をゆっくりと歩く。彼女の後ろには、砂を踏みしめた跡が残っていて、道が続いているようだった。そこに波が押し寄せ、跡形もなく消し去ってしまう。
  それを見ていたリイナは小さな声で呟く。
「あの時の痛みも、こうやって消せたら良いのに…」
「え…」
  リイナはロベルトを振り返ると、泣き笑いに似た笑顔を浮かべた。
「あのね…わたし、ずっとここに来たかったの。だけど、怖くて、来る事が出来なかった…」
「ここが…?」
「ええ。ここは、わたしと貴方の先祖が袂を別った地。そして…」
  リイナは震える声のまま、こう続けた。
「大好きだった人に…わたしが拒絶され、否定された場所よ」
  その時、一筋の涙が彼女の頬を伝った。


  *   *


  ザアァッと波が押し寄せてくる。
  足に冷たい感触を感じながら、ロベルトは言葉をなくしてリイナを見つめていた。
  リイナは少しだけ顔を俯かせて、じっと立ち尽くしている。今、彼女がどんな顔をしているのか、ロベルトには分からない。もしかしたら、泣いているのかもしれない。
  こういう時、ロベルトにはどうして良いか分からなくて、懸命に頭を巡らして、けれど、何も思い付く事が出来なかった。
  不意に、リイナは顔をあげた。涙に濡れた瞳を細め、申し訳なさそうに笑みを浮かべる。
「ごめんなさい…。大丈夫かと思ったのだけれど…やっぱり、まだ少し辛かったみたい」
「いや…その…」
  ロベルトは視線をさまよわせて、言い淀む。それから、おずおずリイナと目を合わせ、問いかけた。
「…大丈夫か?」
「…ええ」
  リイナは安心させるように頷くと、深く息を吐いた。
「…うん、これで、また一歩前に進める」
「一歩、前に…?」
「そう。わたしの迷い込んだ洞窟の中での、一歩をね」
  そう言って、彼女は一歩を踏み出した。まるで、自分の中でそれを証明するかのように。
「迷い込んだって…リイナもなのか?」
  先日、比喩してみせたロベルトの洞窟。それを、今は“わたしの”と彼女は言った。
「そうよ。人は誰しも、自分の洞窟を持っているの。貴方も、それにわたしも」
  リイナはそう言って微笑んだ。その笑みは、まるで強がっているかのようで、ロベルトは思わず手を伸ばしかける。
けれど、リイナが言葉を続けたので、彼はそのまま手を下した。
「それで…相談なんだけど」
「なんだ…?」
「その…もう一歩前に進むために、協力してほしいの。…つまり、わたしの昔話を聞いてほしいっていう事なのだけど」
「いいよ」
 それが彼女の為になるならば、と思い、ロベルトは快く頷き返した。
  すると、リイナはホッとしたような表情を浮かべる。
「ありがとう…」
 それから、彼女は風に消されそうなぐらい小さな声でお礼を言った。
 海の遥か遠くを見つめ、しばし考え込む。波が三度寄せた時、ようやく彼女は口を開いた。
「何から話そうかと思ったのだけれど…そうね。貴方は昔のわたしを知らないから、その頃の事から…」
  記憶をり寄せるように、ゆっくりとした口調で話し始める。
「わたしは昔、この町に暮らしていた事があるの。その頃は、この町も他と同じように、“月の忘れ人”に対する風当たりが強くて…。あの頃のわたしにとって…この翡翠の瞳は、忌むべきものの象徴でしかなかったわ。いつしか、わたしは盲目と偽り、目を閉ざして生活する事により、人々からの悪夢から目を背けるようになったの」
  “月の忘れ人”である証の翡翠の瞳を隠してしまえば、彼女も普通の人間と変わらない。そう己に言い聞かせ続けた。けれど、それはまやかしでしかなくて、そのたびに、彼女は虚無感を覚えたという。本当の自分がどんな人間なのかさえ、分からなくなってしまいそうな毎日だった。
「けれど、そんなある日。ソウマが家に遊びに来たの。黒髪に、吸い込まれそうなくらい綺麗な漆黒の瞳をした、男の子を連れて」
  彼の名は、ジグ。そう告げた時のリイナの表情は愛しげで、それでいて、どこか悲しげなものだった。
  切なげな表情のまま、彼女は続ける。
「初めて会った時の彼は…酷く何かに追い詰められているかのようだった。息苦しくてたまらなくて…今にも呼吸が止まってしまいそうな彼を__精霊を通して視て、わたしは強く不安を感じたわ」
 その時のリイナには、何が彼をそこまで追いつめているのか、まったく分からなかった。けれど、それでも放っておく事が出来なくて、彼女はソウマと協力して、様々な事を試みたという。
  嫌がられても、鬱陶しがられても。ただ、彼の笑顔が見たい。それだけの為に。
「…そうして、とうとう彼は観念したのかしら。それとも、本当に心を開いてくれたのか…ある日ね、ジグは笑ってくれたのよ」
 とてもとても、幸せだったと話すリイナの横顔が本当に嬉しそうで、ロベルトも嬉しくなった。けれど、その喜びはすぐに消え去って、暗い表情になる。声を落とした彼女は、悲しそうに呟いた。
「でも…あんな事になるなら、わたし達、友達になんてならなければ良かったのかもしれない」
「え…」
「彼ね、母親を殺されていたの…わたしの同胞__つまり、“月の忘れ人”に」
 冷たい風が、二人の間を吹き抜ける。それが、リイナに対する悪意の象徴のように思えて、咄嗟にロベルトはリイナの隣に立った。
  驚いてこちらを振り返る彼女を見て、ロベルトは己の行動に気付き、頬を赤らめる。
「…えっと、風よけ。リイナ、寒いだろう」
  そう誤魔化すと、リイナはおかしそうに微笑みながら、ありがとうと言った。いつの間にか、彼女の雰囲気も少しだけ柔らかいものとなっていた。
「もう…なんだか、気が抜けるわ。せっかく、大事な話をしていたのに」
「ジグと友達にならなければ良かったって思ってしまうような話が?俺は、そんな事はないと思うけどな」
「…え?」
「出会わなければ良かったなんていう出会いなんて、ないと思うよ。きっと、何かそこに意味がある。俺は、そう信じているよ」
 短い人生だけれども、己のそれを振り返りながら、ロベルトはそう言う。
  思い浮かぶのは、必ずしも良い記憶だけではない。取り巻きの貴族達、嫌いな同級生や教師。皆、会いたくはないけれども、そこから何かしら学んだ事もある。
  不意に、ロベルトはジグルドの事を思い出した。兄の仇であり、国を揺るがした最大の敵でもある彼。そして、もしかすると、ロベルトが手にかけてしまったかもしれない人。
  __彼の事も、いつかそんな風に思う日が来るのかな…。
「…もし」
 ロベルトはハッと我に返る。   リイナは俯いたまま、押し殺すような声音で言う。
「もし、わたしという存在で、彼を余計に傷付けたとしても…?」
「…」
「わたしの目を…この瞳を見た瞬間、裏切り者って叫ばれても…?」
「リイナ…」
 しゃがみ込んだリイナは、嗚咽を堪えながらロベルトを見上げた。
「それでもわたし達、出会っても良かったの…?」
「…」
 ロベルトはリイナの前に膝をつくと、ぎこちない仕草で彼女の頭を撫でた。
「じゃあ、君が彼と過ごした時間は、なんだったんだ?」
「…でも」
「…なあ、リイナ。もし、俺がリイナと同じように盲目を偽って、髪も染めていたら。もし、後になって、俺が“月の民”って分かったら、出会わなければ良かったって思うか?」
 リイナはしばらく沈黙した後、首を横に振った。
「その時は、裏切られたって思うかもしれないけど…あ…!」
「な?そういう事なんだよ、きっと」
 この時になって初めて、自分は彼女と似ていると気付いた。彼女も、こんな事で悩んだりするのだと、思い至った。
 いつもは、自分がリイナに元気付けられてばかりだ。だから、今度はと、ロベルトは精いっぱいの笑みを作る。
「大丈夫だよ、リイナ」
「…!」
 リイナは目をこれ以上ないくらいに見開いた。それから、目を涙に濡らしながら、彼女も笑みを返す。
「うん…!」
  それは、空を覆わっていた雲の隙間から顔を出した、お日様のような笑顔だった。
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