月の目覚めの時

永田 詩織

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3. 襲撃

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  町が夕焼け色へ染まっていく。
  それは、昼から夜へと変わる合図であり、境目であると、地上に来て、ロベルトは初めて知った。
  月の国では、そんな予兆など存在しなかったのだから。唯一あるとすれば、“国の灯火“が消える時刻に鳴る、灯火の鐘ぐらい。
  今となっては聞く事の出来ない音色を懐かしく思いながら、ロベルトは立ち止まって、沈み行く夕日を眺め続けていた。
その時、あの灯火の鐘と似た響きが耳に届く。
  ハッとして振り返れば、そこには夕日を反射して輝く、不可思議な細工物が揺れていた。ドーム型をしたそれは、風に煽られるたび、チリンチリンと音を立てる。
  __あれ、こんな音だったっけな。
  思っていたよりも似通っていない音に、ロベルトは首を捻る。美しい細工物も、彼を真似るように、チリン…と音を立てた。
「急に立ち止まって、どうしたの。…何か、面白い物でもあった?」
  先を歩いていた筈のリイナが、いつの間にか彼の隣に立っている。
  ロベルトが手であの細工物を示すと、彼女は微笑ましそうに目を細めた。
「ああ、風鈴ね」
「風…鈴?」
「そう。夏の風物詩の一つなんだけどね、ああやって、店先や玄関に飾っておくの。音色が、とても綺麗でしょう」
  ロベルトはもう一度、風鈴の音に耳を傾けて、しみじみと頷く。
「それから…」
  リイナは手を伸ばして、屋台に並ぶ商品を二つ手に取った。
「それは?」
「これは、御守り。あの風鈴と同じで、硝子細工なのよ」
「へえ…」
  その時、屋台の店員が近付いてきて、リイナに話しかけた。
「おや、お客さん。お目が高いですねえ。そちらは、秘術師が丹精を込めて作った御守りです。旅のお供にどうですかい?」
「…秘術師って?」
  ロベルトは小声でリイナに問いかける。彼女が答えるよりも早く、店員が声をかけてきた。
「お兄さん、秘術師を知らないのかい。さては、田舎者だな?」
  からかうように言われ、ロベルトは困り果てて苦笑いを浮かべる。
  リイナも同じだったのか、彼女は曖昧な笑みを浮かべて、手にした物を買い求めた。それから、再び歩き始めた二人は、早々に店から離れる。
「ごめん、余計な物を買わせちゃったよな…」
「いいのよ、気にしないで。これが、彼らの収入源になると思えば、安いものだわ」
  苦笑を浮かべて御守りを示すリイナに、ロベルトは首を傾げる。
「彼ら?」
「ええ。さっき話に出た、秘術師の事よ。これはね、“月の忘れ人”の別名なの」
  ハッとした表情になるロベルトに、リイナは説明する。
  これは、公にはあまり知られていない事で、一般的には、神秘的な力を持った、不可思議な存在とされている。そして、彼らの作ったものには力が宿り、人々を闇から守る魔除けとなると信じられていて、時折、こうして御守りが売られたりするそうだ。
「…本当にそんな力が宿っているのかは分からないけど、“月の忘れ人”にとって、貴重な収入源には変わりないから」
「そうなんだ…」
  そういう経緯があるものなのかと、感慨深げに御守りを見つめる。
  ならば、これで少しは彼らの役に立ったのだろうか。そう考えていると、リイナがはいと、御守りを手渡してきた。
「何があるか分からないから、旅のお供にどうぞ」
「えっ!?さっき、そんな力が宿っているのか分からないって言っていたよな…」
  思わず受け取ってから、ジトッとリイナを見つめる。彼女は、そうなんだけどねと、困った笑みを浮かべると、それから、優しい目付きになった。
「…それでも、わたしの気持ちはこもるでしょう?貴方に無事でいてほしいと願う、わたしの思いが」
  彼女はそっと御守りに手を当てると、祈るように目を閉じる。
「この先、貴方が笑顔でいられるように…幸せであれるように、わたしは願っている」
「リイナ…俺も」
  ロベルトはリイナの手を取ると、その手の中にある、彼女の御守りに気持ちを込めるように、ぐっと握り締めた。
「リイナが…ジグと仲直り出来る日が来ますように…」
「ロベルト…」
  リイナは驚いて目を見張ると、少しだけいたずらっぽい表情になる。
「その前に、貴方は自分の事でしょう?明日、帰るのよ。覚悟はもう出来ている?」
「う…っ。で、出来ているよ!今からでも、ドンと来いだ!」
「あら、そう。なら、良かった」
  売り言葉に買い言葉の勢いで答えたロベルトに、リイナはそう言う。そのまま歩き出した彼女の後を慌てて追いながら、ふとある事を思い出す。
(__という事で、部屋は四人分予約しておいたわ)
  まさかと、徐々に顔色を変えていくロベルトに、リイナは淡々と告げた。
「彼ら、今この町に来ているから。恐らく、宿にももう着いているんじゃないかしら」
  果たして、その言葉は本当だった。
 あの宿の入り口で、ノルンとヒースはこちらをじっと見つめて、待っていた。


  *   *


「…」
「……」
  沈黙が重い。かといって、どんな風に切り出せば良いのか、ロベルトにはまったく分からなかった。
  今、彼はあてがわれた部屋で、ノルンやヒースと対峙して座っている。彼とノルンは椅子に、ヒースは壁に寄りかかって立ったままで。ここには、リイナの姿はない。彼女は気を利かせたのか、サアラと共に夕食の支度をしている最中だ。
  確かにありがたいが、正直のところ、彼女には傍にいてほしかった。けれど、そんなわがままも言ってはいられない。
  その時、握り締めた拳の中で、何かが光った。開いてみると、そこにあるのは、リイナがくれたあの御守りだ。
  なんだか後押しをされた気がして、ロベルトは思い切って顔をあげる。それは、ノルンやヒースも同じらしかった。
「あの…!」
「その…」
「俺は…」
  一斉に動きを止め、お互いの顔を見比べる。三人共、ポカンとした間抜け面をしていて、リイナがいたならば、きっと笑われてしまうに違いない。
  しばらく置いて、彼らは揃って笑い始めた。明るい笑い声が響き渡り、部屋が一気に賑やかになる。
  ずっと悩んでいた事がバカらしく思えて、ロベルトは涙を拭きながら口を開いた。
「変なの…俺達、三人して切り出すタイミングを伺っていたんだ…」
「…そうだな」
  ヒースが頷くと、ノルンも小さく咳払いをして、気恥ずかしげに同意を示す。
「そう…ですね。ええ、そのようです…バカげた事に」
「あ、バカげたってなんだよー。なんだか、俺達が揃ってバカみたいじゃないか」
「いや、確かにそうだろう…俺達は、本当にバカげた理由で気まずい思いを味わっていたんだからな」
  思わず反論していたロベルトは、ヒースの言葉を聞いて、少しドキリとした。それからやや置いて、彼が“俺達”と表現した事に気付く。
「え…ノルンやヒースも?」
「…ええ、そうです。相手になんと思われるか…どう接すれば良いのか…そればかりを考え、一歩を踏み出す事が出来ずに…。本当に、無為な時間を過ごしたものです」
「…!」
  ノルンの言葉に、ロベルトは目を丸くする。
  それは、彼が考えていた事と同じ事だった。あの件から、皆にどう思われるようになったか。どう思えば良いのか。それが分からず、けれど、知る事が怖くて、ここまで来てしまった。
「だけど…」
  それでも尚、彼の心にはしこりが残っている。
「そもそも、俺があいつをあそこまで案内しなければ、事はここまで大きくならなかったのに…兄様がする事なんて、なかったのに」
「…」
  すると、ノルンとヒースは顔を見合わせた。ヒースが近付いてきて、ロベルトの傍に膝をつく。
「その件なんだが、ロベルト」
「うん」
「確かに、若…リウィ様は怪我を負われた。それにな、お前にはまだ言っていなかったが、奴が“国の灯火”に手を出した事で、一時、結界が解かれてしまったんだ」
「結界…?」
  訳が分からず、ヒースを見返すと、彼は噛み砕いて教えてくれる。
  曰く、“国の灯火”は、外部から__つまり、地上の人間から姿を隠す為の結界の役割も担っていたそうだ。ところが、その力が弱まっていたあの晩、ジグルドによって、一時的とはいえ、結界を破られてしまった。そのせいで、僅かな間、地上に月の国の存在を晒す事となってしまったらしい。
「…しかも、貴方と奴は突如姿を眩ましてしまうし、行方が分かったと思えば、地上にいるし…あの時は、どうなる事と思いましたよ」
「…えっ!じゃあ…ジグルドは生きているって事か!?」
  ハッとしてノルンを見やると、彼は渋い顔になる。
「何故、嬉しそうなのですか。奴は、若君の…リウィ様の仇なのですよ?」
「あ…ごめん」
「だが、お陰でロベルトは掟を破らずに済んだ事になる。そこは、感謝しなければならないだろう」
  俯いたロベルトに、ヒースが助け船を出してくれる。だが、ノルンの渋面は直らなかった。
「そうですが…。不謹慎ですが、私は彼には死んでもらいたかったですよ。であれば、我々がこうして出向く必要もなくなったのですからね」
「ノルン…!」
  そこで、鋭くヒースに名を呼ばれ、彼はしまったという顔になった。
「え…どういう事?意味がよく…」
  ロベルトがそう言いかけた時だった。
「お前は、あいかわらずおめでたいな。つまり、こういう事だ…俺を殺すってな」
  一同が息を呑んだ。
「…外だ!」
  ヒースの言葉を合図に、窓際に駆け寄る。そこに、見知った姿を見つけ、ロベルトは目を見開いた。
「ジグルド…」
  安堵なのか、それとも敵愾心なのか。よく分からない気持ちが胸に沸き上がってきて、彼はどんな顔をして良いか分からなくなる。
  そんな気持ちを見抜いたのか、ジグルドの目が鋭く光った。
「やっぱり、腹が立つ奴だぜ…あんな思いをさせたあいつに、慣れ慣れしくしやがって」
  一瞬、ジグルドが何を言っているのか、分からなかった。だが、彼の視線の先を追っていって、次いで、息を呑む。
「リイナ…!?」
  そこには、ぐったりとした彼女がいた。暗くて分からないが、誰かに抱えられているようだ。
「リイナ!!」
  いくら呼び掛けても、返事はない。どうやら、気を失っているようだ。
  唇を噛んで、部屋を飛び出そうとしたロベルトの肩を、ヒースが掴む。
「止せ!危険だ!」
「だけど…!」
  そんなやりとりを横目で見ながら、ノルンはジグルドに心意を問う。
「単刀直入に尋ねます。貴方の目的はなんです」
「目的?そんなもの、決まっている。月の国を滅ぼすんだ」
「…では、質問を変えましょう。そこにいる方は、サアラさんですよね。何故、“月の忘れ人”である貴女が、彼の味方をしているのですか」
  ノルンの言葉に、ロベルトはハッとした。雲間から月が出て、暗闇の中の人物を照らし出す。
  そこにいたのは。
「サアラ…さん」
「…」
  あの女性だった。けれど、昼間の優しげな笑みも、明るい雰囲気も、今はすっかりなりを潜めている。そこにいるのは、冷たい殺気を放つ一人の刺客のようで、ロベルトは昼間リイナから聞いた話を思い出す。
(__少し前のわたしもそうだったように…“月の忘れ人”には、
そういった考えを持つ人が沢山いる。勿論、中にはそうでない人もいるかもしれないけど…)
  あの時は、まだ信じられない思いがあった。だが、それが今、現実味を持って彼の心を揺さぶる。
「復讐…の、為?」
  知れず、呟きが溢れた。驚いて振り返るノルンやヒースに目もくれず、ロベルトはサアラを見つめる。とても悲しそうな眼差しで。
「貴女は…俺達を恨んでいるんだ。だから、こんな真似を…」
「…」
「でも、だったら、なんでリイナも襲った?彼女は、大切な仲間なんだろう…俺達、“月の民”じゃない」
  サアラが口を開こうとした。その時だ。
「勘違いするなよ」
  低い、強い怒気に満ちた声が響き渡った。ジグルドが凄まじい形相でこちらを睨み付けている。
「こいつは、俺の大切な女だ。本当なら、お前に指一本触れさせるつもりはなかった」
「…!」
「返してもらうぜ」
  ロベルトの反論も聞かず、彼は身を翻す。
「…どこへ行くつもりだ!」
  鋭いヒースの言葉に、ジグルドは少しだけ振り返った。
「見ていろ…。今にも、この地上に強大な勢力を作り上げてやる。そうして、月の国へと攻め込み…お前らを根絶やしにしてみせる」
「なんですって…!?」
  息を呑む三人に嘲笑を送ると、彼はそのまま歩き出す。今度は、決して振り返る事はなかった。
「ロベルト…」
  名を呼ばれ、ロベルトは我に返る。呆然とした面持ちのまま、二人を振り返った。
「これから、どうします?」
  そう尋ねてくるノルンの表情は、とても険しい。
  その時、ロベルトは気付いたら答えていた。
「リイナを…助ける!」


  *   *


(__…ナ)
(__リイナ!!)
  リイナはハッと目を覚ました。誰かが、自分の事を呼んでいた気がする。
  __あれは…ロベルト?
「…っ」
  起き上がろうとした途端、激しい頭痛がリイナを襲う。頭を手で押さえながら、自嘲気味な笑みを洩らした。
「そう…わたし、サアラさんに…」
  すぐに状況を把握出来たリイナは、淡々と呟く。
  それから、顔を上げて、彼女は息をんだ。
  そこは、今まで見た事のない程に豪奢な造りをした個室だった。美しい硝子細工の明かりが部屋の中を優しく照らし、上品な雰囲気を作り出している。家具は滑らかな漆で出来た椅子や机、そして、女性である彼女を気遣ったものか、鏡台まで設置されていた。リイナが寝かされていた寝台は、彼女一人ではあり余る程大きく、驚く程に柔らかな感触に、彼女はただただ戸惑いを覚えるばかりだ。
「どうして…わたし、こんな場所に」
  不意に、扉が開く気配がした。
  無意識にリイナは身構えて、その人物の姿に言葉を失う。
「…よお、リイナ。目が覚めたのか。…久しぶりだな」
「ジグ…!」
  予想もしていなかった人に、リイナは動揺を隠せない。胸の奥に冷たいものが過り、古い記憶が呼び起こされ、彼女は混乱に陥った。
  その時、握り締めた手のひらにひんやりとした感触を感じ、ハッとして手を開く。
  そこには、ロベルトが思いを込めてくれた御守りがあった。彼の真剣な横顔と、あの真っ直ぐな言葉を思い出す。
(__リイナが…また、ジグと仲直り出来る日が来ますように…)
  __ロベルト…。
  温かいものがゆっくりと冷たかったそれを覆い隠し、溶かしてくれる。
  リイナはゆっくりと目を閉じた。そっと両手を胸に当て、彼の思いのこもった御守りを包み込む。
  それから、彼女がもう一度ジグを見返した時、その顔にあったのは柔らかな微笑みだった。
「うん…久しぶり、ジグ。元気だった?」
「…ああ」
  彼女の変化に気付かないふりをしてくれているのか、ジグは先程と至って変わらない様子で頷いた。
「お前は?」
「わたし?ええ、勿論よ。ゼン爺もソウマも、元気でやっている。今、三人で暮らしているの」
「…そうか」
「…あ、でも、最近、新しい弟分が加わったの。ロベルトといって、本当に間抜けで…」
「…リイナ」
  唐突に名を呼ばれ、リイナは我に返った。そして、いつの間にか、ジグが目の前にいる事に気が付く。
  彼と目を合わせた時、何故か背筋がぞくりとした。
「…ジグ?」
  恐る恐る、リイナは彼の名を呼ぶ。すると、ジグは少しだけ顔をしかめて、彼女の前に膝をついた。
「…俺は、ジグじゃない」
「え…?」
「本当の名はジグルド。ロウゼン帝国の皇帝の一人息子で…ロベルトの敵だ」
  ドクンと心臓が脈打つ。何も言えないリイナに、ジグ__ジグルドは告げた。
「俺は、お前を迎えに来た。__一緒に “月の民“に復讐する為に」
  その言葉に、リイナは大きく息を呑んだ。
  __迎えに…?わたしを…どうして?
  困惑してジグルドを見つめると、彼はゆっくりと教えてくれた。
  “月の民”と“月の忘れ人”の本当の決別の意味を。それは、どうして彼らが忘れ人と呼ばれるのか、その訳をも示すものだった。
「え…それじゃあ…。ご先祖様達は、自らの意志でこの地に残ったのではないの…?」
「そうだ。その当時、地上と月の国を繋ぐ道はまだ開いていて、時折、一部の人間は地上へ行き来していたらしい。だが、それが裏目に出てしまった…」
  地上から遠く離れた地にいても、それでも、人々の心からは“月の民”への畏怖が消える事はなかった。特に、為政者はそれに顕著で、中には彼らを殲滅しようとさえ目論む過激な者まで現れるようになった。
  そして、ある日、事件は起こった。
  地上から月の国へ戻ろうとする者達の後を付け、ついに地上の人間は月の国への道を探り当てた。それから、悪夢のような日々は始まった。
  地上の人間は大量の軍隊を送り込み、老若男女構わず、無差別に虐殺を繰り返した。このままでは、“月の民”は全滅してしまう。誰もがそう危惧する程に、彼らは追い詰められた。
「そして…ついに月の国王は、ある決断を下した」
  それは、月の国と地上を繋ぐ道を、完全に封鎖する事。そうすれば、敵は月の国へ立ち入る事は出来ないし、逆に“月の民”が地上へ行く事も出来ない。それは、確かに正しい選択だったかもしれない。
  けれど、地上にはまだ、多くの“月の民”が残されたままだった。にもかかわらず、月の国の人間は、慈悲もなく道を閉ざした__彼らを置き去りにしたまま。
「__っ!」
  声にならない悲鳴をあげるリイナに、ジグルドは詰め寄った。
「分かるだろう、リイナ?お前達は__お前達の先祖は、奴らに見殺しにされたんだ。そして、今も尚、奴らはお前達に手を差し伸べようとしない」
「だって…それは…」
「知らないから、か?そんなもの、理由にならない。いや、知らないからこそ、それは罪なんだ」
  何度も何度もジグルドは言い聞かせるが、リイナは首を縦に振ろうとしない。ジリジリと後退する彼女に苛立ったのか、ジグルドは大きく舌打ちをして、彼女の両腕を掴んだ。
「いい加減に目を覚ませ!お前は奴に毒され過ぎたんだ。そうだろう、リイナ!」
「違う…!」
  悲鳴をあげるように、リイナは叫んだ。
  ぎゅっと目を瞑ると、ロベルトの笑顔が浮かんでくる。涙が次から次へと溢れてきた。
「ジグ…ジグルド。違うの、彼らは…」
「あいつらは、俺達とは違う。お前とも、もう住む世界が違うんだ!」
  強い口調で怒鳴り付けられ、リイナはびくりと肩を揺らす。彼女を睨み付けるジグルドの目は、爛々と輝いて、敵意に満ちていた。
  __怖い。
  考えるよりも先に、リイナはそう感じていた。
  今の彼は、理性も何もかも失っているように見える。そこにあるのは、強い怒り。そして、“月の民”に対する憎しみ。
  きっと、ジグルドは母親を“月の忘れ人”に殺されてしまったから、憎悪で目が曇っているのだとリイナは考えていた。しかし、そこで、矛盾が生じている事に気付く。
「ジグルド様。リイナちゃんが怯えています。それに、彼女を傷付けるのは、本意ではないでしょう」
  その時、第三者の声が響いて、ジグルドを制した。視線だけ動かすと、扉のすぐそばにサアラが立っている。
「サアラ…そうだな。そうだった。つい、頭に血が上っちまって…」
「ジグルド様は、本当にリイナちゃんがお好きなんですね」
  和やかに笑うサアラとジグルドを見比べながら、リイナは呆然と呟く。
「どういう事…?ジグルド、貴方は“月の忘れ人”を憎んでいたのではなかったの…?」
「ああ…まあ、そうだったんだがな」
  ジグルドは気まずそうに頬をかいて、リイナに苦笑いを向けた。きっと彼も、昔その事でリイナを傷付けた事を悩んでいたのだろう。
「最初は、俺も“月の忘れ人”のせいだと信じていたんだ。だが、たまたまサアラ達からあの話を聞いて、そこで、違和感を覚えてな。少し調べてみたんだ」
「何を…?」
  嫌な予感が、リイナの胸を過る。そうであってほしくないと願う彼女を嘲笑うように、ジグルドは容赦ない答えを返した。
「奴らだったんだよ…“月の忘れ人”でも、地上の人間でもなく。“月の民”が、俺の母上を殺したんだ…」
「どう…して」
「それは、分からないわ…けれど、それは間違いなく事実なのよ、リイナちゃん。奴らは、わたし達が知らなかった抜け道を通って、こちら側へとやってきていたの」
  サアラが痛ましげな表情をして、そう言った。その顔に“月の民”に対する強い怒りが混じっているのを見て、リイナは何も言えなくなる。
  リイナには、二人が嘘を言っているようには思えなかった。
  __だけど…。
  それでも、リイナには信じる事が出来なかった。いや、もし事実だったとしても、彼らのように憤慨する事は出来ないだろう。
  __だって、わたしは知っている…ロベルトの事。彼が、とても優しい人だって事を…。
  きっと、彼がこの事を知ったなら、とても悲しげな顔をするだろう。もしかしたら、謝ってくれるのかもしれない。別に、彼が悪いわけではない。それでも、リイナにはそんな気がしていた。
「リイナ…頼む、俺を信じてくれ」
  優しい声音で語りかけられ、リイナは肩を震わせた。それから、ゆっくりと顔をあげて、ジグルドの目を見返す。
「リイナ…俺は、俺達は、あの国の連中に対抗する為に、地上に強大な勢力を築き上げようと考えている」
「…!」
「勿論、“月の忘れ人”に対する待遇も考えるつもりだ。今のような、バカげた差別や冷遇なんかは止めさせる。だが、その為にも…」
「ダメよ!!」
 気が付いたら、リイナはそう叫んでいた。
「そんなの絶対にダメ!そんな事をすれば、戦になるわ!そうすれば、多くの人が亡くなってしまう…関係ない人達まで、犠牲になってしまうわ…」
「リイナ…」
「サアラさんも何か言ってよ!こんなのは、間違っているでしょう!?貴女も、息子さんを戦争で亡くしたって…」
「…」
 何も答えずにこちらをじっと見つめているサアラに、リイナは言葉をなくした。どうしていいか呆然としていると、ジグルドが優しく微笑む。
「リイナは優しいからな…そう言うだろうと思っていた。まあ、時間はたっぷりあるんだ。ゆっくりと考えてくれ」
「ち…違うの、そういうわけじゃ…」
 顔をゆがめるリイナを気の毒そうに見つめると、彼はそっと抱き寄せる。それから、秘密の告白をするように耳元で囁いた。
「そうそう。もう一つ、考えてほしい事があるんだ。俺達の…未来の事」
「…え?」
「俺は近々、“月の忘れ人”であるお前との婚姻を発表したい。それが、多少の両種族の関係の緩和に繋がると信じているし…何より、俺はお前の事を想っているから」
「…!」
 ジグルドはリイナから離れると、もう一度だけ彼女に微笑みかけた。その表情に何を見出したのか、リイナは顔をくしゃくしゃにして、口をつぐむ。
そのまま彼らは、リイナの制止も聞かずに立ち去ってしまった。
 ただ一人、部屋に残されたリイナはその場に崩れ落ちる。嗚咽を堪えてむせび泣く彼女は、遠い地にいる筈の少年の事を思い、御守りを握り締めた。
「ロベル、ト…ロベルト…!」
 幼子のように、何度も彼の名を繰り返す。まるで、見えない彼の姿に縋っているかのようで、今のリイナはとても頼りなく思えた。
  __ロベルト…助けて。
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