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第3章 女豹の掟

4 残映の影

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国境くにざかいの長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった……」
 水島俊誠としまさは、かつて読んだ川端康成の小説の冒頭をボンヤリと口ずさんだ。
(長いトンネルを抜けると、雪景色が広がってたんだろうな? 夜の底が白くなったっていうのは、急に地面が真っ白な雪で覆われていたってことだよな?)
 学生の頃に読んだ小説だから、もう十年近くも昔だった。俊誠は、この小説を姉の麗華から勧められた時のことを思い出した。

「俊誠、あんたもマンガばっかり読んでないで、これでも読みなさい。それほど長くないから、このくらいならあんたにも読めるでしょう?」
「面倒くさいな。今時文庫本なんてダサいよ。スマホにデータを送ってくれたら、暇なときに読んでおくよ」
「何、言ってるの? デジタルの時代だからこそ、アナログの本を読むのが格好いいのよ。あんたは中身が薄いんだから、格好だけでも知的インテリを気取りなさい。マンガしか読まない男なんて、女にもてないわよ」
「男にフラれまくってる姉さんに言われたくないね」

(あの後、大げんかになったんだっけ……。懐かしいな……。もう一度、ケンカしたいな、姉さんと……)
 俊誠の姉、水島麗華は二週間前に帰らぬ人となった。中国系マフィア<蛇咬会じゃこうかい>に拉致され、麻薬を射たれて凌辱された後に射殺されたのだ。
 麗華の葬儀が終わった後で、彼女とともに捕まっていたゆずりは瑞紀が、俊誠に謝罪をしてきた。

「トシ君、ごめんなさい。謝って許されることではないって分かっているけど、本当にごめんなさい。麗華が……お姉さんが亡くなったのは、私のせいなの。麗華は私を助けようとして、一条天翔たかとに撃たれたのよ……」
 黒曜石のような瞳から涙を溢れさせながら、瑞紀が深く頭を下げてきた。俊誠はあまりのことに、すぐには言葉が出なかった。それを無言の抗議とでも受け取ったのか、瑞紀が続けた。

「どんなに謝っても麗華が戻ってこないことは分かっているわ。だから、私はあなたに許してもらおうとは思わない。許されるはずなど、ないに決まっているから……。その代わり、あなたのためならどんなことでもするつもりよ。<ゆずりは探偵事務所>を辞めたいのなら、責任を持って次の就職先しごとを……」
「では、一つだけお願いがあります」
 瑞紀が心から謝罪していることは、俊誠にも十分に伝わっていた。だが、だからこそ瑞紀の気持ちを試したくなった。

「何でも言って……。私にできることなら、何でも……」
「瑞紀さんを一晩抱かせてください」
「え……? それは……」
 予想もしない俊誠の言葉に、瑞紀が言葉を失った。瑞紀の黒瞳が驚きに大きく見開かれていた。

「前にも言いましたが、俺は瑞紀さんが好きです。姉さんを失った隙間を、瑞紀さんで埋めさせてください」
 瑞紀が黒曜石の瞳で真っ直ぐに俊誠を見つめてきた。その黒瞳に秘められた様々な想いを俊誠は読み取った。白銀龍成への愛情、麗華の死に対する後悔、そして、俊誠への後ろめたさ……。

「分かったわ。そんなことでトシ君の心が少しでも安らぐのなら……、私を好きにして構わないわ」
 しばらくの間、俊誠を見つめていた後で、瑞紀がフッと眼を逸らせた。俊誠の目には、瑞紀が心を閉じたように感じた。
(夜の底が白くなった……?)
 不意に川端康成の「雪国」の冒頭部分が頭によぎった。暗い夜の闇を覆い尽くす真っ白な雪景色……。今の瑞紀はまさにそのものだった。様々な感情を覆い隠し、瑞紀が真っ白な雪の人形になったように感じた。

(今なら瑞紀さんを抱くことができる。だが、もし本当に抱いたら、瑞紀さんはどうなってしまうんだろう……?)
 麗華は瑞紀を庇って死んだ。その死を最も悼み、その死に最も責任を感じているのは瑞紀に他ならなかった。その気持ちを利用して瑞紀を抱いたら、彼女の心は壊れてしまうような気がした。自分のせいで死んだ親友の弟から、謝罪の代償として体を要求されたのだ。それほど理不尽な要求に応えなければならないほどの罪を、瑞紀が犯したとは思えなかった。

「すみません、今のは忘れてください。瑞紀さんに甘えました。本当は俺なんかよりも、瑞紀さんの方がずっと辛い思いをしているんですよね。本当にすみませんでした」
「トシ君……」
 俊誠の謝罪を聞いて、瑞紀の黒曜石の瞳から涙が溢れ出した。瑞紀は両手で顔を覆うと、肩を震わせて泣き出した。

「瑞紀さん……。本当にごめんなさい」
「トシ君……! うゎああッ……!」
 震える肩に手が触れた瞬間、瑞紀は俊誠の胸に飛び込んで激しく泣き始めた。俊誠は瑞紀の体を抱き締めながら、麗華に話しかけた。
(姉さん、これでよかったんだよな? 俺もいつか姉さんみたいに、瑞紀さんを大切にする男になるよ……)
『当たり前でしょッ! 瑞紀を抱いたりしたら、あんたを呪いに化けて出てやるわよッ!』
 俊誠は泣きじゃくる瑞紀の黒髪を優しく撫ぜながら、麗華の怒った顔が見えたような気がした。


 <星月夜シュテルネンナハト>の八階にあるブリーフィング・ルームで、瑞紀は龍成たちから姫川玲奈の足どりについての簡単な報告を受けていた。メンバーは龍成の他に、西園寺凛桜りおとアラン=ブライトだった。

「姫川さんの自宅マンション前に、白いマイクロバスが停まっていたという目撃情報は複数得られたわ。しかし、同時刻のNシステムにはそれらしい車両は見当たらなかった。つまり、そのマイクロバスは国道や都道といった幹線道路を走った形跡がないことから、新宿自治区を出ていないと思われるわ」
 Nシステムとは、主に警視庁が管轄する「自動車ナンバー自動読取装置」のことだ。全国の高速道路や主要道路に設置され、犯罪捜査などに使用されている。<星月夜シュテルネンナハト>はこのNシステムを利用する権限を有していた。

「それならば、そのマイクロバスの所有者を確認すれば玲奈さんの居場所が分かるのでは……?」
 凛桜の報告を受けて、瑞紀が訊ねた。普通車と違い、マイクロバスの登録台数はそれほど多くないはずだった。
「いや、そのマイクロバスのナンバー・プレートは偽造されていた。盗難届が出されているトラックのナンバー・プレートが付けられていた」
 瑞紀の疑念などとっくに調べ終えていたアランが、難しい表情で告げた。ナンバーを偽造した車両まで用意していたとなると、周到に計画された犯行であることは疑いの余地もなかった。

「そうなんだ……。でも、Nシステムに引っかからないってことは、玲奈さんは新宿にいる可能性が高いってことよね? どうにかして、そのマイクロバスを絞り込めないかしら?」
「ナンバー・プレートが偽造されていたとすると、足で探し回るしかないな。そういった地道な捜査は警察の方が得意だ。向こうは人数も多いからな」
 瑞紀の質問に、龍成が腕を組みながら告げた。警視である玲奈が誘拐されたことにより、警察はその威信に賭けても大規模な合同捜査本部を立ち上げることは間違いなかった。

「リスト・タブレットはどうなのかな? 警察官のリスト・タブレットって、自衛隊や<星月夜シュテルネンナハト>みたいにGPSによる個別追跡プライベート・サーチはできないの?」
 ハッと思いついたように、凛桜が横に座る龍成に向かって訊いた。
「たぶん可能だと思うが、これだけ計画的に動いている連中がリスト・タブレットを放置しておくとは考えづらいな。真っ先に破壊しているか、水島さんの時のように別の場所に放置して誤誘導ミス・ディレクションしている可能性が高いと思う……」
 以前に水島麗華が誘拐されたとき、彼女のリスト・タブレットが富津にある一条天翔たかとの別荘に置かれていたことを思い出しながら龍成が告げた。

「どっちにしても、|<星月夜おれたち>と警察は犬猿の仲だ。捜査情報を簡単に渡してくれるとは思えない」
 龍成の意見に頷きながら、アランが言った。彼の言うとおり、<星月夜シュテルネンナハト>と警察組織はライバルであり、決して良好な関係とは言えなかった。
「うちのオリさんなら、捜査情報を聞き出せるかも知れないわ。オリさんは西新宿署組織犯罪対策課で玲奈さんの部下だったから……」
 そう告げると、瑞紀はリスト・タブレットを操作して錦織雄作を呼び出した。

『はい、錦織です……』
「オリさん、ゆずりはです。玲奈さんのことで調べて欲しいことがあって……」
 瑞紀がそう告げた途端、錦織はその内容を察したようだった。
『姫川課長誘拐事件の合同捜査本部が、ついさっき立ち上がりましたぜ。最初に課長の誘拐に気づいたのは、彼女の部下で中西って刑事です。奴に連絡したところ、いくつか情報をもらいました』
「さすがね、オリさん。それで……?」
 すでに錦織は調査を始めていた。彼の有能さを頼もしく思いながら、瑞紀が訊ねた。

『昨夜二十二時十五分に、ムサシ運輸の宅急便業者を装った男が姫川課長に薔薇の花束を届けてます。課長の部屋のインターホンの記録は消去されてましたが、マンション側のオートロックの訪問記録とエレベーターの画像が残ってました。その五分後に五人の男が大きなトランクケースを持って、課長宅を訪ねています。恐らくこいつらが部屋を荒らして物取りの犯行に見せかけ、トランクケースに課長を入れて拉致したに違いありませんぜ』
 錦織の話からすると、人を誘拐することに慣れた集団のようだった。瑞紀は<蛇咬会じゃこうかい>を疑った。

「その男たちの特徴は?」
『全員が濃いサングラスを掛けた外国人です。恐らく、シチリアン・マフィアかと……』
「シチリアン・マフィア……?」
 錦織の言葉に、瑞紀は驚愕した。シチリアン・マフィアは<蛇咬会じゃこうかい>、<櫻華会>とともに新宿の闇社会を牛耳る三大組織の一つだったが、その存在が厚いヴェールに包まれていてその規模も人数もはっきりとは分からない集団だった。

「<星月夜シュテルネンナハト>の調査で、玲奈さんを拉致したと思われるマイクロバスは盗難車のナンバー・プレートが付けられていることが分かったわ」
『そのマイクロバスなら、新宿中央公園の駐車場に乗り捨てられてました。バスの中から、姫川課長のリスト・タブレットが見つかったそうです。バッテリーが抜き取られて、データも初期化されていました』
 錦織の報告を聞いて、瑞紀は唇を噛みしめた。予想はしていたが、その手際の良さと周到さは完璧とも言えるものだった。

「他に何か情報は……?」
『今のところ何もありません。捜査本部の捜査員たちが総出でマイクロバスの目撃情報を探しに出ているようですが、夜の十時過ぎなのでどこまで情報を得られるか……』
 日本有数の歓楽街である新宿は、夜の街と言っても過言ではない。特に夜八時から十二時頃は人も多く、交通の量も激しかった。その中で一台のマイクロバスに気を止める者がどれだけいるかは、砂漠に落ちた砂金を探すようなものだった。

「ありがとう、オリさん。何か掴めたら教えて……」
『所長、無茶はしないでくださいよ。シチリアン・マフィアの情報は、西新宿署のマル暴にもほとんどないんだ。下手したら<蛇咬会じゃこうかい>よりも厄介な連中かも知れない。絶対に一人で嗅ぎ回らないでください』
 錦織が真剣な口調で告げてきた。元組織犯罪対策課の刑事だった彼は、シチリアン・マフィアの危険性について誰よりも知っていた。新宿自治区での未解決事件のうち、何割かはシチリアン・マフィアの仕業だと言われているのだ。

「分かったわ。オリさんも気をつけて……」
 そう告げると、瑞紀はリスト・タブレットの通話スイッチをオフにした。
 瑞紀が使っているリスト・タブレットは、<星月夜シュテルネンナハト>の特別捜査官エージェント用に開発された特注品だ。その通話方法は二種類に切り替えられる。
 一つは通常のスマートフォンと同じように、スピーカーから相手の音声が聞こえ、リスト・タブレットのマイクに向かって話す方法だ。そしてもう一つは、左耳たぶに入れた骨伝導スピーカーから本人だけに通話が聞こえ、右奥歯に埋め込んだマイクから小声で話しかける方法だった。
 今の錦織との通話は前者の方法を採っていたため、龍成たちにも通話内容が聞こえていた。

「シチリアン・マフィアか……。厄介な連中だな。奴らは<沈黙オメルタの掟>の集団だ。組織の全貌どころか、ボスの名前さえ分かっていない」
 アランが眉間に縦皺を刻みながら告げた。<星月夜シュテルネンナハト>の情報力を持ってしても、シチリアン・マフィアについての詳細は全くと言っていいほど不明だった。

「龍成、マフィアが姫川警視を誘拐した理由は何だと思う?」
 凛桜が右隣に座る龍成の顔を大きな瞳で見つめながら訪ねた。彼女が当たり前のように龍成を呼び捨てたことに、瑞紀はムッとしながら凛桜を睨んだ。その視線に気づいた凛桜は、龍成の左腕に腕を絡ませるとその豊かな胸を押しつけた。
 瑞紀が頬をヒクつかせながらバーキンに右手を入れようとしたのを見て、アランが慌てて彼女の右手を押さえた。

「おい、凛桜、離れろって……。マフィアが標的ターゲットを拉致する目的は二つある。一つは、身代金などを目的とした営利誘拐だ。そして、もう一つは抹殺のためだ。理由は色々あるだろうが、自分たちの権益にとって邪魔な存在を消すことだ。今回の姫川警視誘拐は、今のところ何の要求も来ていない。ということは、抹殺のための誘拐である可能性が高いと思う」
 凛桜の腕を振りほどきながら、龍成が真面目な表情で告げた。凛桜が不満そうに頬を膨らませるのを見て、瑞紀は内心ほくそ笑んだ。

「龍成、私は玲奈さんと会ったことがあるけど、彼女はそこらの女優なんて霞んでしまうほどの美人よ。仮に抹殺するために誘拐されたとしても、マフィアの連中が玲奈さんに非道いことをする可能性は十分にあるわ。マフィアに誘拐された女がどんな眼に遭うのか、私は良く知っている。だから、玲奈さんを一刻も早く助け出したいのよッ!」
 <蛇咬会じゃこうかい>に拉致されて凄まじい凌辱と暴行を受けた瑞紀の言葉に、龍成たちは黙り込んだ。凛桜でさえもその瞳に同情と怒りを浮かべながら頷いた。

「ミズキ、気持ちは分かるが、現実問題としてヒメカワ警視の居場所が分からない。シチリアン・マフィアは日本の暴力団のように事務所や本部を持たない集団だ。個人個人が市民の中に潜伏し、いざという時に結集するんだ。彼女の居場所を特定するのは容易ではない」
「そんなこと、分かっているわ、アラン。だからと言って、玲奈さんがどんな眼に遭っているのかを考えたら、じっとしてなんていられないわ」
 アランの言うことは正論だった。だが、それをそのまま受け入れることは、あの凄まじい凌辱を経験した瑞紀にはできない相談だった。

「シチリアン・マフィアが姫川警視を狙った理由は何かしら?」
 不意に凛桜が訊ねた。その問いに、アランが答えた。
「だから、彼女を抹殺するために……」
「何故、彼女を殺す必要があるの? 警視は確かにキャリア官僚だけど、警察全体の階級からしてみればトップというわけではないわ。警視総監を始め、警視監、警視長、警視正に続く五番目の地位よ。つまり、奴らは姫川さんが警視だから狙ったんじゃなく、姫川さん個人を狙ったのよ」
 凛桜の言葉に、瑞紀はハッとして叫んだ。

「玲奈さんが過去に携わった事件で、シチリアン・マフィアが絡んでいるものがあるはずってことねッ!」
 瑞紀の言葉に頷くと、凛桜が補足するように告げた。
「もしくは、直接関わっていなくても、被疑者の関係者にシチリアン・マフィアがいた可能性もあるわ。それに怨みを持っていたのか、それともその事件をきっかけに姫川さんを危険視したのかは分からないけど、可能性としては十分に考えられるわ」

「なるほど……。上を通じて、姫川警視が過去に拘わったすべての事件の閲覧を要請してみよう。高城の親父さんなら、警視庁上層部にも顔が利くはずだ」
(高城の親父さん……? 高城の叔父様と個人的な関係があるような呼び方ね?)
 龍成の言葉に、瑞紀は疑問を抱いた。だが、今はそれを追求している時ではなかった。
「冴えてるな、リオ! その線で調査をしてみよう」
 アランの賞賛に、凛桜が嬉しそうな笑顔を見せながら告げた。

「朝から晩までずっと龍成と一緒なんだもん。今では龍成と同じように考えられるようになったわ。あたしと龍成は一心同体だからね」
 そう告げると、凛桜は再び龍成の左腕に抱きついて、大きな胸を押しつけた。
「お、おい、凛桜……」
 目の前に座る瑞紀が右手をバーキンに入れたことに気づき、龍成が慌てて凛桜を押しのけようとした。だが、その力を利用して、凛桜はわざとソファに倒れ込んだ。腕を組まれていた龍成は、必然的に凛桜を押し倒す形で一緒にソファに倒れた。その拍子に、龍成の右手が凛桜の左胸をむんずと掴んだ。

「あんッ……! 龍成、やだッ! こんなところで……! アランと瑞紀ちゃんが見ているわ」
「わ、悪い、凛桜……! わざとじゃ……」
 龍成が慌てて凛桜の胸から右手を離した。
「ミズキッ! 落ち着けッ!」
 頭上でカチッと安全装置を外す音が聞こえ、アランが驚愕して叫んだ。頬をピクピクと痙攣させている瑞紀が、M93RMK2の銃口を龍成に向けて立ち上がっていた。

「きゃッ! あたしの・・・・龍成を撃たないでッ!」
 凛桜が龍成を守るようにガバッと彼に抱きついた。豊かな胸を龍成の胸板に押しつけ、柔らかい頬を龍成の顔にくっつけた。
「龍成……。いつから凛桜さんとそういう関係になったのかしら……?」
 部屋の温度を急激に下げるほど、冷たい声で瑞紀が訊ねた。その声とは対照的に、瑞紀の黒瞳には嫉妬の炎が燃えていた。

「ご、誤解だ、瑞紀……! 凛桜、離れてくれ……!」
「嫌よッ! 死ぬときは一緒よ、龍成ッ!」
 そう叫ぶと、凛桜が両手を龍成の首に廻して、彼の唇を塞いだ。突然、目の前で口づけを交わした二人の姿に、瑞紀は驚愕のあまり立ち尽くした。右手に持ったM93RMK2がブルブルと震えた。

「凛桜、いい加減にしろッ! 瑞紀、誤解だッ!」
 凛桜の体を引き剥がしながら龍成が叫んだ。あまりの成り行きにアランは言葉を失って瑞紀を見上げながら震える声で告げた。
「ミズキ……? 落ち着こう……な?」
 その言葉が聞こえたのか、瑞紀は頷くとM93RMK2を下ろした。そして、口元だけで笑みを浮かべると、龍成に向かって冷たい声で言い放った。

「お幸せに、龍成……。二度と私に近づかないで……」
 そう告げると、瑞紀はくるりと踵を返してブリーフィング・ルームから出て行った。慌てて追いかけようと席を立った龍成の左腕を凛桜が掴んだ。
「行かないで、龍成ッ! お願いッ!」
「離せ、凛桜ッ!」
 龍成が凛桜の腕を振りほどいて、瑞紀の後を追いかけようと足を踏み出した。その瞬間、背後からカチッという音が響き渡った。

「凛桜ッ……!」
 左脇に吊ったホルスターからグロッグ17を引き抜き、凛桜が銃口を右のこめかみに押し当てていた。今の音は撃鉄ハンマーを起こした音だったのだ。
「瑞紀ちゃんを選ぶなら、この場で死ぬわッ! 本気よッ!」
「凛桜……」
 大きな茶色い瞳が龍成を射抜くように見つめていた。その瞳から涙が溢れ、白い頬を伝って流れ落ちた。

「あたし、龍成が好き……。愛しているわ。だから、あなたが瑞紀ちゃんを選ぶのなら、あたしはもう龍成の側にいられない」
「凛桜……俺は……」
 一切の迷いもなく真剣に気持ちをぶつけてくる凛桜に、龍成は困惑した。龍成が瑞紀の後を追えば、凛桜は躊躇いなく銃爪トリガーを引くに違いなかった。凛桜の真っ直ぐな気性からしても、それは間違いないと思われた。

 龍成は助けを求めるようにアランを見た。アランが無言で頷いた。その目は、この場は凛桜を立てろと告げていた。
「分かった、凛桜……。瑞紀は追わない。だが、お前を選ぶかどうかは今すぐには決められない。少し時間をくれないか?」
 しばらくの間、凛桜は龍成の顔を見続けた。そして、何かを決意したように頷くと、龍成に向かって微笑んだ。

「ありがとう、龍成……。今はそれで十分よ。でも、あたしはまだ瑞紀ちゃんと同じスタートラインに立っていないわ」
「どういう意味だ、凛桜……?」
 凛桜はまだ自分のこめかみにグロッグ17の銃口を押しつけていた。龍成にはそれが何らかの要求をするためのように思えた。そして、その考えは正しかった。

「龍成、あたしを抱いて……。瑞紀ちゃんは恐らく何回も龍成に抱かれているわ。それなのに、あたしは一度も抱いてもらっていない。あたしの心と体を龍成のものにしてから、どちらを選ぶか決めて欲しいの。そうじゃないと、あたしが不利だわ」
 龍成は驚いてアランの顔を見た。アランも驚愕の表情を浮かべていた。他人がいる前で抱いて欲しいなどと言う女は、二人とも初めてだったのだ。

「別に誰が聞いていようが関係ないわ。愛する人に抱かれたいと思うことは、ごく自然なことよ。さすがにアランの目の前で抱かれるつもりはないけど、抱かれたいと思う気持ちを聞かれても恥ずかしくも何ともないわ。あたしを抱きたくないのなら、断ってくれても構わない。それは、瑞紀ちゃんを選ぶという意味だから……。もしそうなら、あたしはこの場であなたの前からいなくなるだけよ」
 これほどまでに真っ直ぐな求愛をされたのは、龍成も初めてだった。男としてのプライドをくすぐられると同時に、何故ここまで凛桜に愛されているのかが分からなかった。

「凛桜、お前は綺麗だし魅力的な女だ。だが、俺はお前をそういう眼で見ないようにしてきた。それがお前とペアを組む上で、俺が決めたルールだった。お前はいつから俺にそういう気持ちを抱いてたんだ?」
「龍成、あなたは男よ。そして、あたしは女……。男は頭で物事を考えるの。それに対して、女は子宮で感じる生き物よ。あなたとペアを組む前から、あたしはあなたに夢中だった。あなたと話したい、あなたの側にいたい、あなたに抱かれたい……。あたしはあなたに一目惚れだったのよ」
 あまりにも赤裸々な凛桜の告白に、龍成は驚いて彼女の顔を見つめた。さすがに恥ずかしかったのか、凛桜は顔を赤らめていた。

「アラン、悪いが席を外してくれないか? 少し凛桜と二人で話がしたい」
「その方が良さそうだな。リオ、上手く行ったらシャンパンでお祝いしてやるよ」
 そう告げると、アランは凛桜にウィンクをした。
「ありがとう、アラン。あなたのことも好きよ。抱かれたいとまでは思ってないけどね」
 凛桜が嬉しそうに笑いながら告げた。それを聞いて、アランは「頑張れよ」と言い残してブリーフィング・ルームから出て行った。

「凛桜、そろそろグロッグ17それを下ろさないか? ゆっくりと話ができない」
「その前に、あたしを抱いてくれることを、あなたの最も大切なものに誓って」
「分かった……。お前を抱くことを、涼子の魂に賭けて誓う……」
「涼子……?」
 初めて聞く女の名前に、凛桜は眉を細めた。最も大切なものに賭けて誓えと言ったのに、聞いたこともない女の名前を龍成が告げたからだ。

「涼子は死んだ俺の女房だ。そして、瑞紀の実の姉でもある」
「え……?」
 驚きのあまり、凛桜は言葉を失った。龍成の妻が瑞紀の姉だとは初耳だったのだ。
「もっとも、瑞紀は涼子が自分の姉だとは知らないがな」
「どういうこと……?」
 凛桜がグロッグ17を下ろしながら訊ねた。自分を抱くことを死んだ妻に誓ったのだ。これ以上、龍成を脅迫する必要はなかった。

「瑞紀は生まれてすぐにゆずりは一也……瑞紀の父親に養子に出された。詳しい話は割愛するが、そのことを俺は涼子の父親から直接聞いた」
「涼子さんの父親って……?」
「高城雄斗ゆうと……<星月夜シュテルネンナハト>の統合作戦本部長だ」
 凛桜の茶色い瞳が驚愕に大きく見開かれた。高城が龍成の義理の父親だとは思いもしなかった。

「つまり、それって……」
「高城の親父さんは、瑞紀の実の父親だ。このことは瑞紀本人も知らないから、誰にも言うな……」
「分かったわ……」
 龍成の言葉に、凛桜が真剣な表情で頷いた。そこまでの秘密を自分に話してくれた龍成が、凛桜は愛おしくて堪らなかった。

「凛桜、約束通り俺はお前を抱く。だが、その上でお前を選ぶかどうかは分からない。だから、一つだけお前も約束してくれ。たとえ、俺が瑞紀を選んだとしても、絶対に自分で命を絶たないと……」
「それはできないわ。龍成と瑞紀ちゃんが倖せそうに寄り添っているのを、あたしに祝福しろって言うの? そんなこと耐えられない……」
 凛桜が右手に持ったグロッグ17を再びこめかみに当てようとした。その手を龍成が素早く掴むと、グロッグの銃口を自分の心臓に向けた。

「龍成……!」
「お前が死ぬなら、俺を撃ってから死ね。お前になら、喜んで殺されてやる」
「離して、龍成ッ!」
 凛桜は龍成の左手を振りほどこうとした。だが、龍成の左腕は瑞紀と同じく、成人男性の六倍の筋力を持つ高性能義手だ。凛桜の力ではビクともしなかった。

「俺はお前が好きだ。瑞紀よりも先にお前に出逢っていたら、お前を選んでいたかも知れない」
「龍成……」
 龍成の言葉に、凛桜が動きを止めた。そして、大きな瞳に涙を浮かべながら、龍成の顔を見つめた。

「だが、今の俺には瑞紀がいる。たとえ、お前を抱いたとしても、お前を選ぶことはない。逆にお前を傷つけるだけだと思う……」
「ありがとう、龍成……。それでもいいわ。あたしが傷つくことで、龍成の記憶にあたしが残るのならば、それで構わない。あなたが好きなの。愛しているわ。だから、お願い……。あたしを抱いて……」
 そう告げると、凛桜はグロッグ17から手を離して龍成に抱きついた。自分が選んだ男の誠実な言葉に、凛桜は心から喜びを感じた。

「お前を抱いたら、瑞紀は二度と俺を許さないだろう。あいつはそういう女だ。それでも俺は、瑞紀を愛し続けると思う。それでもいいのか……?」
「構わないわ。いつか、あたしは必ず龍成を振り向かせてみせる。愛してるわ、龍成……」
 凛桜がその魅惑的な唇を龍成の唇に重ねた。龍成が両腕を凛桜の背中に廻し、優しく抱き寄せた。お互いの気持ちを確かめ合うかのように、二人は濃厚に舌を絡め合った。
 茜色に染まった残映が差し込むブリーフィング・ルームの中で、二人の影が重なり合った。
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