不器用な人の生き方

紅羽 もみじ

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7話 請願

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 翠が明里の研究室を訪れた後の数週間、明里は晴海の様子を普段より注視するようになった。夏季休暇が明けた直後は気づかなかったが、確かに晴海の様子が少しおかしいということを、明里も気づくことができた。
 本人は話しかければ、微かな笑顔を向けて応対するが、顔色や話す様子からも、体調が思わしくないのでは、と感じさせる違和感が滲み出ていた。

(とは言え、あれから晴海さん自身が相談に来てないのよね。スマートフォンにも連絡はこないし…。)

 晴海の様子から感じとる違和感と共に、相談に訪れる回数の減少や、連絡頻度の減少も明里の気にかかる異変の一つだった。講義を終えた明里は、1人研究室で、通知を鳴らさないスマートフォンを眺め、深いため息をつく。

『まぁ、これ以上詮索する気はないけどな。あんまり深入りしなさんなよ。俺らの仕事は、人生相談に乗ることも含まれちゃいるが、適度な距離を取るってのも必要だ。』

 いつかの頃に、佐々木が残した忠告が頭をよぎる。確かに、本人が相談に来ない以上、こちらから深入りすることはないのかもしれない。適度な距離を保つ必要性も、明里自身わかっている。
 しかし、同時に晴海から自傷行為のことを聞き、逃げ道になれるように、と連絡先を教えた。家族のことも聞いた。翠から晴海の異変を聞き、明里自身もそれに気づいた。この状況で、静観するということは、明里にはできなかった。

(……一度、晴海さんを呼んで、聞いてみよう。本人が話さなければそれまでだけど、何もせずにこのまま黙って見ているだけなんて、できない。)

 明里はスマートフォンを手に取り、晴海にショートメッセージを送る。時間のある時に研究室に来て欲しいという内容のものだが、強制力を感じさせないよう、あくまで自然なメッセージとなるよう、細心の注意を払って文面を考え、送信する。

 晴海から返信がきたのは、それから数十分後だった。来週の水曜日に研究室を訪れるという、約束を取り付けることができた。

(後は、晴海さんが話してくれるかどうか、ね…)

 そして迎えた水曜日。明里は翠や晴海が受講している講義のため、教室に入ると翠達が話し込んでいるところを見かけた。明里はすぐに異変に気付いた。晴海がいない。

「おはよう、みんな。」
「あ、先生、おはようございますー」
「今日は、晴海さんは一緒じゃないの?」
「それが……」

 翠はスマートフォンを眺めながら、眉を顰めた。

「LINEはしたんですけど、体調悪いから休むって連絡が。」

 明里は一歩遅かったか、と内心焦りを感じた。しかし、明里はその連絡を受け取っていない。大学に行く予定だったが、体調不良で明里の約束を守れなかったことへの罪悪感からメッセージを送りづらいのか、それともその連絡ができないほどの深刻な事態が起こったのか。
 明里は、今ここで考えを巡らせても答えは出ない、と頭を切り替え、教授本来の顔に戻す。

「そう…、今日やる講義のことは、またみんなでフォローしてやってくれる?」
「もちろんです!ノートもばっちり取りますから!」

 翠はいつもの調子で明里の依頼に応じ、周りの学生もそれに呼応するように口々に話し始める。

「俺、いつも講義でボイスレコーダー使ってるんで、その音声コピーして渡しますよ!」
「え、あんたボイスレコーダーなんて使ってたの、ズルくない?」
「先輩が言ってたんだよ、板書写すのに夢中になって、講義で聞き逃したらいつでも聞けるようにって。」
「あ、私もそれサークルの先輩から聞いたかも。講義でうとうとしても大丈夫なようにって。」
「それ目的で録音ってどうなん。」

 笑いながら、楽しそうに話す学生をよそに、明里は講義の準備を始めた。時間が近づくにつれて、次々と入室する学生たちとも会話を交わし、明里は一先ず目の前の講義に集中するようにした。

 講義も午後になり、明里は研究室に戻り、研究作業をしながら晴海の来訪を待っていた。来る可能性は限りなく低いかもしれないが、万が一来た時には応じてやりたいという思いからだった。

 研究室の時計は、夕方4時を回ろうとしていた。スマートフォンの通知は無く、研究室をノックする音は2、3度程鳴ったが、別の学生や事務員からの届け物が来ただけだった。
 今日はもう難しいか…と諦めかけていた時、研究室のドアを叩く音がした。

「どうぞ。」

 入室を促すと、現れたのは待ち侘びていた晴海の姿だった。思わず椅子から立ち上がり、晴海を迎え入れる。

「よかった、晴海さん。翠さんから体調不良で欠席って聞いて、心配してたの。」
「……すみません、先生。連絡も、せずに…」
「気にしなくていいよ、ほら、入って入って。」

 晴海は明里に叱られると思っていたのか、怯えた表情をしていたが、少し緩んだような安心感が見受けられた。しかし、それを差し引いたとしても、調子に異常をきたしているようであることは見て明らかであった。

「ここまで、良く来られたね。体調は大丈夫なの?」
「……はい、少し、良くなりました。」
「飲み物は飲める?ミネラルウォーターもあるし、スポーツドリンクもあるけど…」
「大丈夫です、自分のが…」

 晴海は自分が今口に含むことができる飲み物を持参したようで、カバンからペットボトルを見せた。

「そう、ならいいけど…、まぁまずは座って。」

 晴海を近くの椅子に座らせ、明里は晴海のすぐ隣に椅子を動かし、距離を詰めた。改めて顔色を見ると、睡眠が取れていないのか、目の下には隈ができており、頬には若干の土気色が見えていた。

「……ここに来てくれたってことは、私が呼び出したからよね。ごめんね、予定を合わせ直せばよかったね。」
「いえ…私も、話したいことが、あったので…」
「そう、ならいいんだけど…」

 ここから、その様子はどうしたのか、と探りを入れたいと思ったところだが、どう切り出したものか、と明里は困惑した。体の不調の理由がどこにあるのか、と考えた時、家庭環境だろうかとそれなりの当ては考えていたが、もしその予想が当たっているとしたら、よほど追い詰められているに違いない。下手な掘り返し方をして、晴海を逆に追い詰めることにならないかと思案したが、一先ず体調面のことから聞くことにした。

「……実は、体調が悪くて休むってことは、翠さんから聞いてたの。あまり、寝られてないの?」
「……はい、寝ようと思っても、寝られないんです。」
「ご飯も、あまり食べてない?」
「…はい、食欲が湧かなくて…」

 弱々しく答える晴海。明里は、改めて事態の深刻さを認識した。このままでは、学校生活はおろか、日常生活を送ることすら難しい状況になる。
 その原因はどこにあるのか、何とか聞き出す方法を思案していた明里に、晴海が話を切り出す。

「……こうなったのは、全部私が原因なんです。」

 そう話す晴海に、明里は息を呑んだ。家族の干渉で体調を崩したのであれば、『私が原因』とは言わない。明里は何も言えず、ただ、晴海の言葉を待った。

「……もう、これ以上、切ったら家族にバレそうだし、切り傷を増やしたく、なくて。でも、切ってないかとか、翠ちゃんたちは本当にいい子達なのか、って聞かれると、辛くて…」

 晴海は、絞り出すような声で、自身の胸の内を少しずつ明かす。

「…傷を増やさずに、できることってないかなって思ったら、過剰摂取オーバードーズのことを、知って。」

 明里は、背筋に氷が通ったような寒気を感じた。何も言うことができず、ただ晴海の言葉を聞き続ける。

「これなら、傷も増えないし、いいかもと……、でも、だんだんお腹の調子が悪くなってきて、吐き気が、してきて。今日の午前中は、ずっと、布団から動けなくて。」

 それでも、講義を休んでしまったことから、明里に知られることは時間の問題だと考え、話に来たのだと、晴海は話を締めた。
 明里は、心身ともに衰弱している学生を目の前に、言葉をかけようとする前に、涙が流れていた。

 明里の中で、晴海の自傷行為をやめさせることは、最優先事項であるとともに、重要事項でもあった。しかし、原因が原因である以上、明里にできることは晴海が少しでも気持ちが楽になるような環境を与え、晴海自身が止めようと思えるようになるまで、見守ろうと誓った。誰かに強制されて止められるものではない、と明里自身が知っていたからこその行動だった。
 晴海が悩み抜き、考えた末の行動であることは、明里にも痛いほどわかる。だが、このままでは晴海の命に関わると思うと、明里は溢れる涙を抑えられず、晴海の手を握り、訴えかけるように語りかけた。

「……晴海さん、晴海さんが考えて考えて、過剰摂取オーバードーズなら、ってやったことだってことは、わかるよ。けど、けどね、」

 明里は、必死で言葉を紡ぐ。

「これは、晴海さんの命の……危険に関わることよ。もちろん、切ることも同じかもしれないけど…、過剰摂取オーバードーズだけは、やらないで。晴海さんには、もっと、自分のことを、大切にしてほしいの…。」

 その言葉を最後に、明里は何も言えなくなった。学生の前で、ましてや晴海の前でこのような姿を見せてはいけない、そう思いつつも、晴海の手を握ったまま、さめざめと涙を流した。
 涙ながらに訴える明里を見て、晴海は申し訳なさそうな表情を浮かべ、また、その瞳には明里と同じように涙が浮かんでいた。
 明里は自身を立て直そうと、ハンカチで涙を拭い、深く呼吸をして整える。

「……ごめんね、取り乱して。」
「……いえ、私の方こそ、申し訳ないです。先生に、心配かけてしまって…」
「気にしないで。…体調は、今どんな感じなの?」
「……ご飯は、少しだけは食べてます。でも、基本的に飲み物しか摂れなくて…」
「病院には?」
「……行きました。過剰摂取オーバードーズのことは、言いませんでしたけど…」

 晴海の思いからすれば、家族に知られたくないのだから、内科の医師といえど、自分の行動が引き起こしたものだとは言えなかったのだろう。

「病院では、薬をもらってるの?」
「……はい、一応。」
「そう…。家は、大丈夫?」
「…具合が、悪いだけだと言ってあるので。あまり、詮索はしてきません。」

 不幸中の幸い、と言うべき状況なのかもわからなかったが、少なくとも今回の体調の異変で家族から過度な干渉を受けているわけではなさそうだった。晴海の容体は決していいものではないが、メンタル面で何か影響が出るようなことは起こっていない。明里は、この状況に安心していいものか否か、複雑な心境にあった。

「…今までは、晴海さんに対して、これはやめてね、あれはだめだよ、って言うのは、なるべく控えるようにしてたの。でも、これだけは言わせて。過剰摂取オーバードーズだけは、だめ。確かに、見た目では傷も増えないし、隠しやすくなるかもしれないけど、さっきも言ったように、最悪の場合命の危険があるでしょう。それに、それで体を崩して救急車で運ばれる、ってことになれば、家族に過剰摂取オーバードーズをしてたってことを話さなきゃいけなくなる。その後のことは、晴海さんも望む状況じゃないでしょう?」

 諭すように話す明里に、晴海は涙目で頷く。

「なら、もうやらない方がいい。何か辛いことがあったら、小さなことでも構わないから、連絡して。お願いだから。」
「……はい、すみませんでした…。」

 晴海は、まだ少し青白い顔をしていたが、大丈夫です、と言い張り、そのまま研究室を去っていった。

 明里は、しばらく放心状態で、研究室に1人取り残されていた。自傷行為と言えば、真っ先に思い浮かぶのはリストカットであるが、市販薬などの過剰摂取オーバードーズもある。そのことを、明里自身知らないわけではなかったが、晴海の口からその行為に及んだことがあるなどと聞かなかったことから、自然とその可能性が明里の想定から消えていた。
 明里は、晴海の行動を読みきれていなかったこと、異変に気づけなかった自分の観察の浅さに、頭を抱えこんで再び涙した。
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